――ゆっくりと崩れ落ちる。
彼はただ茫然とその眺めを見つめるしかなかった。
自分が守るはずだったのに。
――その顔はとても美しく、とても恐ろしいほどに穏やかだった。
彼はただ予想だにしない幕切れに――何も考えることが出来ない。
分からない。
何にもかもが分からない。
一体何処で何を間違ったのか。
――わずかに唇が動く。だが、それは余りにもかすかで、その末期の言葉すら聞くことが出来なかった。
彼女は真っ先に駆け寄る。
何故こうなったのか。
何故あの人が。
自分のもっとも大事な家族が。
震える手で彼女に触れる。
それはまだ暖かく――だからこそ、より一層――自分の心が掻き乱されるのを彼女は自覚した。
ウェッソンが――。
サリーが――。
アリストが――。
誰もが何も言えぬこの状況で、ただ彼女だけがその名を叫ぶことが出来た。
「テムズ!!!」
誰よりも大切な親友の体を揺さぶり、ヘレナは叫ぶ。
だが、とくとくと血は流れていき、彼女の周囲にはただなま暖かい紅の海を広げて行くのみ。
滅多に流したことのない涙が――自分にこれだけの涙があったのかと驚くほどの涙が――ただ流れる。
かつてない慟哭と共に、長髪を振り乱し、ひたすらに親友の名を叫ぶ。
何度も。
何度も――。
黒衣の女性が叫ぶのをまるで他人事のようにウェッソンは眺めていた。
絶望の全てを込めた叫びすら、彼女の慟哭にかき消され、一瞬にしてウェッソンの心は沈静された。
残されたのは、ただ漠然とした後悔と、不安と、哀しみと。
号泣するテムズの親友を見ていると、ウェッソンはこんなにも自分が薄情だったのかと酷く思い知らされる。
そんな彼の隣でサリーは涙を浮かべ、痛いくらいに自分の腕を掴んでいる。
そして、周囲では悲鳴。
あらゆる人々が自分達を残し、次々と通りから逃げようとし、野次馬とぶつかり合い、暴動を起こす。
だが、そんな騒ぎすらも遠くの出来事にしか思えない。
今はただ――。
笑い声。
「――ははは」
渋いバリトンの声が珍しく高い音をあげて、ウェッソンの耳を苛立たせる。
「――あっはははは、はつはっはっ、はははははははははははははは、うぇはははははははははははははははははははは」
断続的で、でもどこか継続的で、悔しいぐらいに歓喜に満ちている。それがなによりも――耳障りだ。
「見たか。
見たか。
見たか。見たか見たか見たか見たか見たか見たか見たか見たか見たか見たか見たか見たか!!!!!!!!」
――とてもうるさい声。
その声の主は大きな手を広げ、体のそこから浮かび上がる歓喜を世界へと放たんという言うばかりに体を広げる。
「これぞ奇跡!
これぞ――終幕!」
――本当にうるさい声。
「誰もが目に焼き付けただろう!
誰もが否定できまい!」
――――――。
「お前の居場所はなくなった! もはやお前に帰るべき場所はない!」
銃声が響く。
体が動く。
今の自分なら――こんな馬鹿を始末することくらい問題じゃない。
「それでこそお前だ! ついてくるがいい! 懐かしきあの場所へ、血の薫る戦場へとお前を引きずり帰してあげよう!」
弾丸を補充し、ウェブリーを手に神父を追いかける。
「ウェッソン!」
直ぐさまサリーが後についてこようとする。
「――来るな!」
弾かれる様に彼女の足が止まるのを感じる。それは恐怖の為だろうか。
今、自分はどんな声を出しただろうか。
今、自分はどんな顔をしているだろうか。
「――すぐ戻る」
再び彼は速度を上げる。それでも、彼女はついてくるが、到底追いつけないだろう。
――それがいい。
彼女はついてこなくてよいのだ。
そう、こんな場所へなど――こんな馬鹿なことなどに関わっていいはずがない。
だからこそ――。
死神達が去った後、そこには必死で彼女の名前を呼ぶその親友と、一人の詩人が残される。
分からない。
何もかも分からない。
何故こんな事になったのか。
どうしてこんなことになったのか。
ただ茫然と、赤い海に浮かぶ彼女の亡骸を前にして詩人は――。
.....Why?(何故)
その言葉に黒い美女は凄まじい形相で詩人を睨む。
You!(あなたよ)
そのたった一言に彼は気圧される。
Me? (僕が?)
突然の展開についていけず、ただ詩人は怯えたように繰り返す。
Because YOU were defend by THAMES!(あなたがテムズに守られたから!)
――瞬間、詩人の頭の中を様々な妄想と思惑と理解が駆けめぐる。
まさか。
そんなまさか。
そこでやっと詩人は気付く。
恐る恐る視線を降ろせば――そこには穏やかな笑顔と共に、恐ろしく生気の感じられないテムズの笑顔。
――もしかして。
気付いてしまえば後は簡単だった。
何もかもが分かってしまう。
何もかもが理解できてしまう。
茫然としていられた方がまだ幸せだった。
彼は一番大切なものを失ったのだ。
「その昔、お釈迦さんに子供が死んだ母親がどうしても、自分の息子を蘇らせて欲しいと懇願した。
すると、お釈迦さんは『街に行き、死人を出したことのない家を探しなさい。あれば、その家からケシの実をもらい、それをその子に飲ませなさい。そうしたら蘇ります』と言った。
そして母親は街に行って必死でそんな家を探したそうだ」
不意に。
何の前触れもなくその言葉が響く。
それは、人の死を語る。
「ある訳ないさ、そんな家。どんな家でも死人は出てる。母親は何百軒まわってもそんな家を見つけることが出来ない」
当然だ、失われた者は二度と戻らない。
だからこそ、命は尊い。
「そんな家を探していくうちに母親は気付くのさ。
人が死ぬのは当たり前。息子が死んで悲しいのは自分だじゃない。誰だってそんな哀しみを乗り越えて生きてるんだ。
って言う風に悟るんだ」
そうだ。こんな哀しみは誰だって経験したことだ。
悲しいのは自分だけじゃない。
不幸なのは自分だけではない。
これは全ての理であり、避けられぬ運命。
「――それでも僕は」
詩人はぎりりと強く拳を握りしめる。
「一番やってはいけないことは……起きてしまったことを無かったことにしてしまうことです!」
力強い、眩いばかりの少女の言葉。
「――ああ、そうだな」
「そこに至るまでに生きてきた人全てに対する冒涜です!」
「分かってる」
「それは……生きてることを否定する事じゃないですかぁ」
「……分かってるんだ」
それでも彼は――。
鬱蒼とした暗黒の世界へとそれは誘う。
正午を過ぎたばかりの今ですらそこには闇があり、得体の知れぬ何かがそこらに存在する。
暗黒街の更に奥。そこには常人の知り得ぬ闇の領域がある。
そこでは何が起ころうと誰も干渉しない。誰も知り得ない。
その闇の中でウェッソンは神父と対峙していた。
「待っていた。この時を待っていた」
相手はやけに上機嫌だ。何が可笑しいのか。
「分かるか死神よっ! ここでお前と私が戦うのは宿命を越えた絆なのだっ!」
神父はただ戯れ言を述べ、挑発をしてくる。
「知ったことか。お前が俺の敵になった――ただそれだけだ」
リボルバーから空薬莢を落とし、改めて新しい銃弾を装填する。
一つ、二つ――。
相手は――襲ってこない。
「そうだ。その目だ。何もかも拒み、切り捨てる腐った殺しの目だ。お前は――私と同じだ」
「黙れ、薬物中毒者(ジャンキー)。俺はお前とは違う」
三つ、四つ――。
相手は――襲ってこない。
「何を馬鹿な! 血塗られた過去から逃げられるとでも思っているのか!」
「過去から逃げるつもりはない」
五つ――。
一つの吐息は十の精霊を震わせる。
一つの言葉は百の精霊をも騒がせる。
「――何をする気?」
突如として巡り始めた精霊の動きを前にヘレナは眉をひそめる。
それに対し、詩人はくすり、と笑い、こう答えた
「ほう、死神が生を説くか! 神の御使いたるこの私に!」
最後の銃弾を装填し、リボルバーを軽く回転させる。
相手は――襲ってこない。
「あなた――何を言ってるの」
ヘレナは訳が分からず、ただ茫然と聞き返す。
いや、それは嘘だ。内心では薄々気付いている。
カチリ、と言う音と共に二つに折れ曲がっていた銃が一つになり、リボルバーの回転が止まる。
ウェッソンは祈るようにその銃身を軽く額に当てた。
「あなたまさか――」
ヘレナは立ち上がり、詩人の前に立ちはだかる。
「自分が何をしようとしているのか分かっているの! それが一体どれだけの罪なのか! どういう事を意味しているのか!」
ヘレナの問いに詩人はゆっくりと目を瞑る。
開いたときには、迷いのない、厳しい表情でこういった。
「俺が――」 「お前の死神だ」 |
「僕は――」 「最後の精霊使いだ」 |
「お前のその命――俺が狩らせて貰う!」 瞬間、二人の戦士は逆方向へと飛ぶ。 「ならば……その命を賭けて存在を 証明して見よっ! 狼よっ!」 そして、二人は――。 |
全ての精霊が彼の言葉に引き寄せられ、 人の住まうこの都へとやってくる。 最後の使命を果たす為にやってくる。 詩人の周りを眩いばかりの光が煌めき、 黄金の風が周囲を舞う。 「さあ、これが最後だ精霊達よ。 僕の最後の願いを聞いておくれ」 |
そして二人の男は動き出す。
最後の結末へと向かって。
自ら望んで、悲しき道へ。
同じ道なれど、向かう先は真逆。
さあ、目を見開け。耳を澄ませ。
全てを感じよ。
知るべき結末は君の前にある。
我が目に映るは死神の咆哮なり | 耳を澄ませばただ歌声が聞こえるのみ |