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Fortune 4

Contributor/哲学さん

《Fortune 3
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 黄金の風を身に纏い、その男は近づいてくる。
「馬鹿な真似はやめなさい!」
 ヘレナはテムズを抱きかかえたまま、立ち上がる。
「――馬鹿な真似? ああ、確かにそうだろう。君にはそう見えるだろう……僕だって分かっている」
 アリストはまるで叱られた子犬の様に悲しい顔をする。
「けど――」
 次の瞬間、弱気な顔は失せ、確固たる決意が彼の顔に満ちていく。
「それでも、僕は許せないんだ」
「――なら、私もあなたを許すことは出来ない」
 ヘレナの言葉に、アリストは静かに瞼を閉じる。
 それは一瞬だった気もするし、とても長い時間だった気もする。
 ただ、確かなのは――何かがそこで決定的になってしまったと言うことだろう。
「――初めから言ってるはずだよ」
 ふわり、と強い風がヘレナを撫でた。
「君は――僕の敵だ!」
 その言葉と同時にヘレナは背後へと飛び退いた。遅れて黄金の風が横凪ぎに彼女を襲う。
 その時には既に、ヘレナの体は遙かな上空へと押し上げられていた。
 冷たい親友の体を抱え、彼女は漆黒の翼と共に空を駆ける。
「こんな自然の少ない街で私に勝つつもり!」
 言葉とは裏腹に、アリストの身に纏う風を警戒し、逃げるヘレナ。
 そんな彼女を余所に、アリストは右手を空に掲げる。
「――幻想とは心の力。足りないなら、作ればいい」
 黄金の風はいよいよ勢いを増し、それは徐々に周囲へと広がっていく。
「さあ、精霊達よ、人の子らに夢を、美しき最後の幻想を見せたまえ。
 我こそはプリス。
 最後の精霊使い。
 我が与えるその最後の使命を、願いを聞き届けてくれ――」
 黄金の風が倫敦の街を駆けめぐる。
 都市そのものが黄金のように眩く輝く。その光景を遙か上空に逃げたヘレナは見下ろしていた。
「ああ、なんて綺麗」
 ヘレナは悲しげに親友へと呟く。もう、二度とない親友の返事を期待せず、彼女は続ける。
「彼は最後に大きな夢を人に与える。それはとっても綺麗なこと。
 けれど――」
 その言葉を遮るように背後に黒い兎が出現する。
「彼は精霊に終わりを告げる代わりに、夢を見ることが出来る。
 それは危険な夢。
 現実すら嘘にしてしまう恐ろしい夢。
 太古の契約は如何なる願いをも現実のものとしてしまう。だからこそ、我等は止めなければならない」
「――あなたは?」
 相棒によく似た――しかし全く違うそれは胸のリボンをくいいっと整えると軽く頭を下げる。
「これは失礼。私はフォートル。君は覚えていないかも知れないが、君と会うのはこれで4度目だよ、ビューテイ☆マジカール」
「……すれ違っただけに近いけど」
 フォートルの言葉に近くに来た小鳥が冷静に突っ込む。
「オード!」
 ヘレナの肩に止まった鳥を見て、ヘレナが言う。魔力の弱いオードは変身能力しか使えず、空を飛んでるヘレナを追うにはこうするしか無かったのだろう。
「これでも聖王座を任され、僕等の世界ではとても高い位置にいた。あと、僕の兄弟でもあるね」
「……そんなお偉いさんが何の用?」
 権力にどちらかと言えば否定的なのかヘレナは渋面を向ける。
「予定では、彼が使命を果たす前に死んで貰うはずだったのだが……予定が狂ってな。未曾有のマジカル☆ハザードが発生している」
「……なっ」
 黒ウサギの淡々とした言いようにヘレナは絶句する。
「……死んで貰うはずだった?」
「いかにも。それが世界のためだ。だが、それも残念な結果に――」
 沈痛な面もちで語る黒ウサギ。彼の視線の先には光り輝く都市と、今にも消えてしまいそうなほど冷たい親友の体。
 ヘレナは――。
「なにを言ってるの! 何が残念なの! あんたは――」
「――聡明だな、ビューティ☆マジカール。多分君の推測通りだ」
 胸倉を掴まれてもそのウサギは平然としたものだった。
 冷ややかな目でただこちらを見返す。
「でも、おかしいじゃない! なんでこんな回りくどい! どうしてこんな間違いが! 何故彼はこんな事を!」
 自らの思いのたけを――それが何かすら分からず彼女は黒い兎にぶつける。
 そして、ゆっくりと黒ウサギは告げた。
「――命とは大切なものだ」
「分かってるわよそんなこと!」
「それはとても尊く、強く、素晴らしく、存在そのものが奇跡だ。
 故に、命をどうこうすることは魔法では不可能なのだよビューティ☆マジカール」
 激昂する彼女を無視し、淡々と黒ウサギは語る。
「魔法は所詮実態のない幻想。不確かで、不透明で、よく分からない、幻に過ぎない。
 故に、私達の力では実態を持った命を奪うことなど不可能なのだよ。魔法とは所詮夢なのだから。
 私に出来たことは、ただ、彼が限りなく死にやすい状況を作りだすことぐらいしかなかったのだ」
 そう言って黒ウサギは彼女の手を振り払った。
 そして、彼女の抱きかかえる、物言わぬ親友に語りかける。
「ああ、テムズよ。私の力が足りないばかりに――。何故私は気付かなかったのだろう。


 君は


 ――――」
 果たして彼の最後の言葉は何だったのか。
 その答えを問う暇もなく、ウサギは顔を上げた。
「命を壊すことが出来ないのと同じように、命を作ることも、直すことも魔法は出来ない。
 だがしかし、長い年月をかけて成長した彼の名前はその禁忌に近づくほどに力を溜めている。
 そして、このマジカル☆ハザードはその力を蓄える総仕上げとなるだろう。人の夢こそ魔法なのだから」
「…………」
 ヘレナは応えない。
「ビューティ☆マジカール。これは彼のためでもある。贖えぬ罪を背負えば、死よりも深き罰が彼を襲うだろう」
「…………それは、分かるわ」
 ぽつり、と洩らす。今はただそれだけ。
 いや。
「真実を歪める事は誰にだって許されることじゃない。夢はいつだって真実の先にある。いつだって私達は――遠い過去を抱いて未来を探してる。だから――」
 何故だろう。
「私は彼を許せない」
 どうしてだろう。
「だから、私は彼を止めるわ」
 何が――悔しいのだろう。
 ヘレナはこぼれ落ちる涙を拭い、自慢の黒髪をかき上げる。
 その時には既に涙の欠片すら居場所をなくし――ただ後に残るのは。



聞こえているだろうか




 見上げればそこには光。
 ああ、ハレルヤ。
 神がいるのかは彼にとってはどうだっていいことだ。
 だが、この光の煌めきを見れば――誰であろうと神をそこに垣間見るだろう。
 広げた両の腕(かいな)はただ星屑の果てに。
 語るべき想いは遙かなる奥底に。
 開かれたる眼は知り得るはずもない彼方へ。



僕の声が




 幾千、幾万もの光が降り注ぐ。
 それは心。
 誰もが持ちうる光の輝き。
 このざわめきは人々を解き放つ。
 存分に味わうがいいだろう、今日限りの白昼夢を。
 最後の白昼夢を。
 そして、少し思い出して欲しい。
 僕達が、夢を抱いていたことを。



色々な夢を見ていた




 青年はただ夢を見る。
 それは遠い昔の夢。
 彼は唯一無二の主と約束をした。
「僕達は共にいられない――」
 少年は主の言葉に酷い絶望を覚えた。
 それが世界が終わった瞬間だった。
「これはさよならの言葉なんだ。――」
 忘れた名前が彼を苛む。
「その代わり、僕の最愛の――。守ってくれ。彼女にこの家は重すぎる」
 本当に遠い記憶。
 あれから幾程の時が、歳月が、心が費やされたことだろう。
「少なくとも、僕は君になら、あの子を任せられる」
 涙が止まらない。
 嗚咽が止まらない。
 ――もう嫌だ。
        これ以上見たくない!――
 僅かに触れた唇が彼に永遠を与える。
「さようなら――」
 彼の名前が。
 気が付けば――。
「おいで。彼はアクワイ。……ただのアクワイだ」
 主に似た、聡明な――だが、主よりも一回り小さな少女が自分を見上げて来る。
 痛い。
 余りにも痛い記憶。
 その全てを振り払うように彼女は言った。
「彼は君のものだよ、サリサタ」
 その夢に、こみ上げてくる悲鳴に、彼女はその美しい細面を僅かに歪めた。



辛いことも、悲しいことも




 ヘレナは光り輝く街を見下ろす。
 それは怖いくらいに眩しくて、恐ろしいほどに美しい。
「テムズを頼むわよ」
 強い風が吹いていた。当然だ。現在の高度は鳥を空へと羽ばたかせるのに充分な風が吹き荒れている。
「――承知した」
 親友の体を黒ウサギに預け、彼女は息を吸う。
 本当ならばこんな黒ウサギに預けたくはないのだが――。
 ――アリサは今此処にはいない。例えいたとしても、アリサならば息を引き取った親友を前にして戦うことすら出来ないだろう。
 そして、何より高い物理白兵戦能力を持ち、彼を説得できる可能性のある魔法使いは、ヘレナしかいない。
 つまり、今あの孤高の詩人を止められるのは自分しかいないのだ。



でも、これが最後の夢だ




 漂う光を見つめながら、ただ一人、サムライが佇む。
 彼は何も変わっていない。
 あの頃から何も。
 それでも――。
「…………」
 何かにすがり、何かに悩む呆けた群衆をただ一人冷静にサムライは見つめる。
 いや、彼はサムライですらない。
 一介の船乗りだ。
 もはや、夢を見直す必要が彼にはない。
 別れなら告げた。
 果たすべき言葉は、吐いた。
 貰うべき言葉も貰っている。
 だから、彼は分かる。
「夢のない詩人だな、あいつ」
 彼はそれ故にアニキである。
 出会う人々の全てが、彼をアニキであると自覚するだろう。
 そして、今もまた誰かの兄貴分として呟く。
「これは夢じゃない。終わった何かにすがってるだけだ」
 気が付けば光の粒すら見えない。
 それでも確信を持って彼は呟いた。
「生きるって事は、どんなに苦しくても、これからの事を考えてるってことだ。こんなことは――」
 ――辿り着くまでもないこと。子供だって知っている。
 ただ、普段は忘れているだけの話に過ぎない。
 そう、ただ、忘れて――。
 彼は気付く。
「お前は――答えを思い出そうとしているのか?」
 だが、彼の問いに応える者はいない。
 今はただ、――人々は夢の中に。



さようなら




「姿なき透の羽根よ――」
 彼女の背には何もない。
「音越え、久遠なる彼方へ私を運べ」
 見据える先には一人の詩人。
「私は――」
 彼女にあるものは――ただ。
「自由にして勇敢なる烏なり」
 瞬間――全ての風が彼女を通り越していく感覚。
 気が付けば詩人の背後。
「――逃げるのはやめたのかい?」
「とっくにね」
 交わす言葉は命を切り裂く刃。
 放たれるはしなやかに伸びた脚。
 疾く速くそれは詩人の背を襲う。
「風よ、乱れよ」
 ヘレナは襲い来る突風を警戒し、軸足に力を込め、脚を振り抜こうとする。
 が、それよりも速く詩人の体はひらひらと木の葉がごとく宙を舞う。
「――くっ」
 思わずヘレナは悪態をつく。自分の意志ではなく、風に流されるだけの相手を追うのはとても難しい。
「透の羽根よ!」
 目を開ければ詩人の眼前。
 右には掲げた自分の拳。
 左には柔らかな相手の掌(てのひら)
「夢は目を閉じて見なさい」
「寝るにはまだ早いさ」
 拳と同時に二人の間で音のない爆発が起こる。ダメージはない。
 ただ、破裂した空気が二人の距離を増やす。
「音超転移(ソニック・ドライブ)とは恐れ入る。そのケンボーはカラテかい?」
 詩人はふわふわと浮かびながら聞く。それはとても不自然な光景だ。
 そして、ヘレナは重力に従い、地面に落ちる。
「旅をすれば護身術ぐらいはね。もっとも――」
 ヘレナは自分の掌に拳を叩きつけ、相手を睨む。
「私は相手をぶちのめす方が得意だけど」
 半身をずらし、こつこつと軽くステップを踏む。
 同時に深い呼吸。
 そして、相手との距離を測る。
「その相手は?」
 集中しなければ。
 相手が常識はずれだろうが、なんだろうが、関係ない。
「気に入らない男とかね」
 ただ、ぶちのめすのみ。
「それは怖い」
 相手はそう言って味けのない笑みを浮かべた。
「――空(くう)の羽根よ」
 叫ぶと共にステップを踏む度に自分の体が高く跳ねるのを自覚する。
 ――体が軽い。
 自覚と共に力強い一歩を踏み出す。
 ただの一歩で彼女の肉体は轟音と共に跳躍する。さっきとは比べものにならないほど遅い。だが、それでも彼に追いつくには充分だろう。
 ――少なくとも、このスピードなら制御できる。
 初歩で八百屋の看板に到達した彼女は反対の脚を突き出し、そのまま看板を蹴り飛ばし、更に上へと跳躍する。
「おっと」
 放たれた拳は再び空を切る。――いや、服の端を掠った。僅かな手応えが自分にはある。目を凝らせば持ち物の一部なのか、金色のコインが地面に落ちていくのを見つける。
 ――いける。
 更に何でも屋の看板を踏み、酒屋の屋根を踏み、空へ逃げる詩人を追う。
 高速で都市の上空を跳躍し続け、彼女は自らが風になるのを感じた。
「まるで、ネズミだね」
 ――詩人の癖に、ロマンのない。
 屋根を蹴った反動をそのままに体を回転させ、渾身の回し蹴りを放つも、やはり相手はふわりとそれを避ける。
 続けざまに肘撃ち、裏拳、掌底、サマーソルトキックと連続攻撃を放つもそれらは全て手応えがない。まるで水を相手にするよう。
 黄金の風に運ばれ、詩人の体はどんどん高くなっていく。
「――翼よ」
 跳躍では追いつかなくなり、ヘレナは翼をはためかせ、空を飛ぶ。
 だが予想通り、翼は風に煽られ彼に触れることなく押し戻される。
「なあ、知ってるかい?」
「何を?!」
 黄金の風と押し合いをしつつ、ヘレナが怒ったように聞く。
「これだけの高さだと空気が薄いんだ。そんな所で運動したら――」
 瞬間――息苦しさが彼女を襲った。
「想像したね?」
 たまらずヘレナは高度を下げる。
「僕達は夢を見ている。だが、夢を見れなくなったら終わりだよ」
 喉をおさえ、息切れ状態のヘレナを尻目に彼は言う。
 そう、魔法とは結局思いこみの極地に過ぎない。
 自分が空を飛べると思っているから飛べる。
 けれど、飛べないと思ってしまえば飛べなくなってしまう。
 空気が薄いことを知らなければ、そんなこともうやむやに出来てしまう。
「それを言ったら、あなただってこんな高く飛べるはずないじゃない」
「僕は体が軽いからね」
 ヘレナの挑発も詩人には効かない。だめだ、相手の方が一枚上手だ。
「――見てごらん、この光を」
 詩人は無造作に腕を下げ、街を指差す。
「闇がなくとも、光は輝ける。不思議なもんだね。不思議なことは世の中にいっぱいある。
 それは、これからも変わらない。
 君はなんで地球が太陽の周りを回ってるか知ってるかい?」
 くるくるとヘレナの周りをまわりつつ、詩人は聞いてくる。
「――知らないわ」
「僕も知らない。
 なんで人は生きてるんだろう?
 なんで人間は飛べないんだろう?
 なんで風は見えないんだろう?
 この風はどこにいくんだろう?
 不思議なことは尽きない。
 ――僕がいなくなってもね」
 詩人の言葉にヘレナははっとする。
「テムズは死んだわ!」
「君がそう思ってるだけだ」
 あくまで彼は首を振る。
「そんなコトしたって彼女は喜ばないわよ!」
「そうだろうね」
 相手は躊躇なく首を縦に振る。
「テムズは――あなたを恨むわよ」
「だろうね。いや、まだ其の方がましかもしれない。僕はもう二度と彼女に会えないだろう。怒られることすら叶わないかも知れない。それどころか、忘れられてしまうかも知れない。
 けど――」
 そこで詩人はうっすらと笑みを浮かべる。だが、ヘレナにはそれが笑みには見えなかった。
 なんとも悲しそうで、辛そうで、どうみても、泣いているようにしか見えない。誰が見てもそれは笑みに見えないだろう。涙もなく、顔の皮が笑みを浮かべていようとその体が表す何かは変わらない。心は嘘をつかない。
「僕は、彼女に生きていて欲しいんだよ。それだけが――僕の願いだ」
 瞬間――太陽のような眩しさが視界を覆う。
「聞いたことがあるかい? 古いおとぎ話を。作り物の羽で空を飛び、太陽に近づきすぎた人間は――」
 ――聞いたことがある。
 そう思った時には既に。
 いつのまにか全ての感覚が失われ、どうしようもない恐怖に襲われる。
 不意に、彼女はえもしれぬ浮遊感を感じた。いや、浮遊ではない。浮遊によく似たこの感覚を彼女は良く知っている。
 ――落ちている。
 そう感じた。
「その程度で僕に勝つつもりだったのかい?
 僕は幻想の住人。
 最後の精霊使い。
 本当の――魔法使い」
 何も見えない。何も聞こえない。ただ、声だけが頭に響く。
「君のような紛い物ごとき――倒そうと思えばいつだって倒せたんだよ」
 底知れぬ恐怖を感じ、ヘレナは悲鳴を上げる。
 体が落ちていく。
 まさに、魔の王。精霊は悪魔となり、その上に立つ王は暗黒の玉座に。
 相手は自分を殺せない。だが、人は高いところから落ちてしまえば死んでしまう。
 死ぬ。
 フェイ・ヘレナは今此処で死んでしまう――。
「…………」
 そして、声が聞こえる。
「そして誰もが今日の昼起きたことを忘れるだろう。
 何事もなかったように全ては続いていくだろう。
 ただの日常が。
 その中に――僕は消えていくとしよう」
「――っ!」
 脳裏に響いたその言葉に思わずヘレナは手を伸ばす。身を襲う恐怖も、絶望も、その全てをかなぐり捨てて手を伸ばす。
「待ちなさい!
 ダメよ!
 認めないわよ!
 こんな結末!
 こんなズル!」
 落下感は止まらない。
「――テムズは!」
 何かが遠ざかるのを彼女は感じる。
 誰かが遠ざかっている。
 それは誰だったか。
 その背に向けて彼女は叫ぶ。
「あなたを――」
「――だからだよ」
 それが最後に聞いた彼の言葉。
 ただその言葉だけが――いつまでも彼女の耳に残ることとなる。



「くっそ何が足りないんだ!」
 幻影の街の中でただ一人詩人が叫ぶ。
「これだけの奇跡を持って何が足りない! お前達は僕の願いを考えるんじゃなかったのか――」
 物言わぬ女性を抱え、詩人は虚空に向かって叫ぶ。
「人々は今日の日のことを忘れるだろう! 記憶なんて消えてしまうだろう!」
 もはや詩人ですらなくなった青年の叫びに漂う光達は戸惑い、ゆらめく。
「だけど、魂は忘れない。人の心はお前達を忘れない。形を変えてお前達は語り継がれていく! けれど――」
 そこで青年は言葉を詰まらせる。それを言葉にするのが怖いのか。それとも、それを自覚してしまうのが怖いのか。
「――彼女は一人しか居ないんだ」
 先程の叫びとはうってかわって風の音にすら及ばぬ僅かな囁き。
「お願いだ。僕の最後のお願いなんだ」
 跪き、ただ抱きかかえる腕にのみ熱さをのせて、囁く。
「精霊使いでもない、プリスでもない、……ただのアリストとしてお願いする」
 一瞬の静寂。
「彼女を……」
 体が震えるのを自覚する。
 そうだ。
 彼女を。
「……頼む」
「無駄だと言うことが分からないのか」
 ぼんやりと黒い兎が彼の前に現れる。
 何者かは分からない。それでも、敵だと言うことだけははっきりと理解できた。
「…………」
 だが、何も言葉は出ない。
「自分だけの我が儘で世界を崩壊させる気か? 君は世界のためにこの精霊達を惜しんだのでは無かったのかね?」
「…………」
 沈黙。
「返す言葉もないのか。無様だな、エゴイスト」
「……エゴイスト。いいじゃないか、自分のことも考えられない奴に世界がどうにか出来るって言うのか!」
「だが、君は結局最後の一線を越えようとしている」
 あくまでも、冷徹なウサギ。
「弁解はしないさ」
 不意に、光が世界に満ちあふれる。
――ひとつ、聞きたいことがあります。――
「陛下!」
 光のみの世界でただ声のみが響く。
「この様な場所へなど! 早くお帰りなられませ!」
 しばらくの沈黙。
 そして、再び声。
――あなたの夢はなんですか?――
 包み込むような、優しい女性の声。
「――僕の夢?」
 弾かれたように、青年。
――ええ、私達の力とは……未来を作るためにあるのですよ――
「……未来。僕達の、未来」
 ただ光のみの世界で彼は目を閉じ、果てナキ世界へと心を伸ばす。
 そして、青年は……。





カランカラン
 安っぽいベルが鳴る。
 マズいウイスキーを煽りながら目線を戸口にやると、目的の人物がそこにいた。
「やあ、師匠。来てくれたんですね」
 ヘラヘラと笑みを浮かべ、アリストはグラスを掲げる。
 戸口に立っていたウェッソンは、アリストを見つけると片手を上げてすぐ彼の隣にやってきた。
「遅れてすまなかったな」
 顔は笑っているが、その動作はどこか重い。何か。とても辛いことでもあったのだろう。
 もしくは――悪い夢でも見たのだろう。
 きっとそうに違いない。
「ははは、なんか暗いですね。好きなものを頼んで下さい。金なら一応あります」
「――そうか、じゃあ」
 そう言ってウェッソンは氷割を一つ頼む。
 無口なバーテンは機械の如く無駄のない動作で注文の品を作り、カコッと言う小さな音と共にグラスを差し出した。後は何も言わず、しずかにグラスを磨いている。
 ウェッソンはそれに軽く口を付け、溜息と共にグラスを置いた。中の酒はほとんど減ってない。
 そうとう悪い夢にあったのだろう。
 だが、その内容は聞くまい。不干渉であるのもまた優しさである。
「――話ってのは何だ」
 相手は単刀直入に聞いてくる。
「………………」
 問われ、アリストは懐をまさぐった。と、目的のモノのがない。
 アリストは驚き、急いで荷物を調べるが、目的のもの――たった一枚きりのコインはどこにもなかった。
「どうした?」
「い、いえ――」
 そう言って、自分を落ち着けるためにグラスを一杯あおる。
 静かな音楽が二人の間に流れる。
 蓄音機の音ではない。
 ステージで安月給のピアニストが弾いている生の音色だ。
 プロのアリストからすればそれは欠陥だらけの交響曲だ。
 だがそれでも――人が弾く曲というものはいいものだ。
 思えばクラシックはなんて自由の利かないものだろうか。
 額面通りに弾かなければ直ぐさま不協和音になってしまう。
 微かな異音は曲の全てを狂わせ、それだけでその演奏の価値を落としてしまう。
 完璧を求めるのがクラシックという音楽の全てだ。
 それでも、欠陥だらけであろうと、完全な機械演奏よりも、人の演奏は心地よい。
 音に命が宿る。
 ちらりと、ウェッソンを盗み見れば、じっとグラスを見つめていた。だが、僅かに体全体がリズムを刻んでいる。どうやら、演奏に聴き惚れているらしい。
 自分の人生もなんとも、欠陥だらけだったが――傍らで曲に聴き惚れるガンマンを見ると、自分のへたくそな演奏も意味があったのだろう、と思うことが出来た。
 さて、ピアノ演奏もそろそろ終わる。
 自分も演奏を終わらせるとしよう。もう演目も思いつかない。
「ねぇ――」
 グラスを傾けさせ、彼は問う。
「なんだ?」
 何気ない返事。
 彼は我知らず息を呑んだ。
「死神って知ってますか?」
 そこで丁度、演奏は終わりを告げる。
 見つめ合う二人を尻目に、演奏に対するささやかな拍手がバーに満ちた。
「――なんだそりゃ。なんかのおとぎ話(フォークロア)か?」
 孤高のガンマンは呆れた顔をして肩を竦める。
 そして、ぐいっとグラスを仰いだ。今度は中身も減っている。
「……は」
 思わず声が漏れる。
「……ははは」
 ――我ながら乾いた笑みだ。
 詩人はそう思いながら言葉を繋いだ。
「そうですよ。昔話を語るのが吟遊詩人の役目ですからね。
 死神。人は放っておいても勝手に死んでしまうし、人間が人間を殺してしまう。
 じゃあなんで、死ぬために神様がいるのか。
 考えれば不思議ですよね。
 だから、今度の曲の題材にしようかと思いましてね」
 気が付けばベラベラと自分の口は陽気に嘘をまくし立てる。
 いつから自分はこんなに嘘つきになったのだろうか。
 だが、相手は意外にも乗ってきた。

「可哀相だったんだろ。苦しんでる奴が」

 そう言ってまたぐいっとグラスを仰いだ。
「成る程、それは新説ですね」
 そうして――二人の夜は更けていった。







ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ





 雨が降っていていた。
 そう言えば予報ではどしゃ降りと言っていた気もする。
 今まで一緒に酒を飲んでいた人物はもういない。
 やまない雨を前にして彼はため息をついた。
「さて、僕はどこに帰ろう」
 近くの安宿でも借りるか。
 そう思いながら雨の中へ入っていく。
 怖がることはない。
 雨が降るのは自然のこと。
 それに濡れるのもまた自然なこと。
 さすがに体が冷えるのは少々辛いが。
 何はともあれ、いつもと変わらぬ調子で彼は歩く。
 彼はいつも自然と共に生きてきた。
 と、視界に橋が見える。あの下で眠るのもいいかも知れない。
 そう思い彼は橋へ向かって歩き出す。


ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ


 不意に、何かが争う音が聞こえた。


 銃声が数度。


「…………あれ?」
 気が付けば、自分の胸から赤い水が飛び出していた。


ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ


 思わず、片膝をつき、胸を押さえる。
「み、水よ、流れを止めよ、、ぼ、、、く、、、の、、」


ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ


 流れは止まらない。気が付けば喉の奥からも熱い何かが通り抜け、口を通り、顎を伝う。
 降り注ぐ水の勢いは余りにも激しい。
 彼の言葉を聞き届けるものはなにもなく、ただただ、自然の法則に従って下の方へと流れていった。
 天空から降る水も。
 赤い、命の水も。
 大いなる自然の前に人の力など無に等しい。


ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ


 やがて、姿勢を維持することも出来ず、彼はその場に倒れた。
 そして、土手の傾斜をコロコロと転がり、やがてばしゃん、と小さな音を立てて川の中に消えていった。


ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ


 橋の上をゴロツキが走っていく。
 だが、後からついてきた警察にすぐに取り押さえられ、連行される。
「さてと、これで一件落着か」
 レドウェイト警部はつい、いつもの癖で懐から箱を取りだし、タバコを口にくわえる。
「あれ、奥さんから禁煙させられてませんでしたっけ?」
 部下がにやにやしながら聞いてくる。
「……関係ない。こんな雨の中じゃ吸えるはずがない」
 そう言って警部はやけくそ気味にタバコを握りつぶした。
 人間は自然を克服したなどと学者達は言うが、何だかんだと言っても、自然には敵わないものだ。


ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ


「……ん? 今何か川に落ちなかったか?」
 警部は橋の上からライトを下に照らす。
 だが、暗闇の中、どしゃ降りのせいもあって視界が悪く、何も見えない。
「さぁ? なんかの看板じゃないですか?」
 雨で増量したテムズ川は轟音を立てて様々なものを押し流している。
 風の強さも勢いを増し、様々なものが川に落ちている。今更何か落ちたところで不思議ではない。
「まあいい、今日は徹夜だぞ」
「うへぇ」
 そう言って警部と部下たちは川から引き上げて言った。
 後に残るのは――。


ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ





 冷たい川に流されながら、彼の意識は薄れていく。


僕は……



 脳裏に浮かぶのは一人の女性。


どこからきて



 一つの言葉。


どこへいくのだろう









 雨はやまない。
 川は止まらない。
 それらはますます勢いを増し、夜の中、轟音を響かせていた。









結末は静かに。

願わくば僅かな幸せを。



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