天啓の魔法少女……の蹉跌 [3]
声はひとつ。トウルがびっくりして上げた叫びの横で、シューカは物音一つ立てていなかった。そのせいでトウルは想像した。人格的に問題がある森区管理人が、突如なにもかも投げ出して、緑色の職場を爆薬で吹き飛ばしたのではないか(シューカはそれを予想していたにちがいない)……
「なんだ、あれ」
シューカは呆然としていただけだった。
一瞬で吹きすぎた熱風に、乱された髪と意識をまとめ直そうともがきながら、トウルは考えた。崩壊の範囲は体育館一個分ほどだろうか。体育館。アカデミーにいたころ、気の迷いのように参加した体育の授業。汗だくで駆けずり回されたランニングの日、あれくらいの範囲の空気を何度も攪拌していたのだった。魔術の技術になにも寄与しない。せめて集中力の土台を作るとかなんとか説明してくれればまだ徒労感はなかったのだろうけど、実は、トウルはその無駄さに救われていた。走ってさえいれば、とりあえず崩れ落ちずに歩けてさえいれば、落第のことを考えずにすんだからだ……
「伏せて!」
声も出せずにトウルは頭ごと地面に引きずり倒された。呆然とした頭で空回りしていた思い出が、砂利にぶつかった衝撃で解ける。
混乱して見上げる。
シューカが左腕を振り払ってトウルを倒したのだ。
なにを、と口を開けてうめこうとしたけれど、その気もシューカの右腕を見て失せた。
抜剣している。
それどころかすでに、剣で何かを捕らえて断ち割っていた。
トウルの頭上を凄まじい勢いでなにかが過ぎ去り、だいぶ後ろの地面に激突して爆ぜた。
樽ほどもありそうなでかいカボチャだった。遅れてトウルは背筋をぞっと震わせる。シューカが剣で防いでくれなかったら、
(首折れてたかも)
「危ないからそのまま!」
トウルに背中を向けたまま、シューカの足がほんの少しだけ左右にぶれる。剣帯の金具が静かに鳴る。こちらに吹き飛んでくる風切り音をかいくぐり、斬撃がいくつかの物体を切り飛ばした。小石。枝。空き缶。カボチャ。板。農耕具。瓦……
すべてこちらに飛んでくる軌跡で、頭に直撃すれば死にかねない。よほど強い爆発だったのか。
トウルは目の前の衛士をまったく見くびっていたことを自覚した。剣もろくに抜いたことのない下っ端だと思っていた。場数を踏んだ手練れだというのは、命拾いして腰を抜かした視界で見ればよくわかる。
早く連続した激突音は十秒ほどで止まった。
「終わったかな。なんだったんだ」
シューカが振り返る。右手の剣はそのままに、さっきトウルを突き飛ばした左腕をそっけなく差し出してくる。
礼を言って立ち上がるくらいの冷静さはどうにか戻っていた。トウルたちの周囲は吹き飛ばされた瓦礫やら土くれやらで小さな山を形成している。晴れた土煙の向こうは爆心地……その原因が、いま見えた。
農場の跡地に、大きな炭色の狼が居座っている。
比較物が周辺から吹き飛ばされているため、その大きさはよく知れないが、足下でひしゃげている農具入れの納屋よりは巨大だ。棘のような鋭い目は炎の色で塗り潰されていて、同じ色の燐光がときおり体表に弾けた。緑の深い森区の中で、それはとても綺麗な光景だったけど、トウルはその鮮やかな色に動揺した。
あれは幻ではない。熱を持つ本物の炎だ。
そんな炎をまとう狼など、一種しかない。
「火狼!」
間違いない。授業で見聞きした知識しかないが。
「そんな前兆、なかったのに……」
「思ってたより森区って森らしく整備されてたんだね。すみかを勘違いしたんだな」
「なに呑気に! 危ないわよ」
「わかるの?」
「見たらわかるでしょ!」
狼自身はひりつく害意を周辺に振りまいている、ように見える。おっかない近所の犬と同じうなり声と、引き絞られた鼻筋。犬も狼もそんなに変わりはないだろう——
焦げた土くれの向こうで一瞬何かが光り、それが細い糸となって狼に突き立った。爆発した畑の跡地から、誰かが弓で応戦している。シューカの言う森区管理人か、と思った瞬間、その人影は膨れあがる炎の風に吹き飛ばされた。「うわあ」みたいな甲高い悲鳴が上がったような気もしたが、熱風にこすられた空気の声かもしれない。
トウルは頭をざわつかせる音をがんばって無視し、何年か前、課題で叩き込まれた知識をひきずりだす。
火狼。
霊獣の一種だ。始原の樹木の幹より、火の元素を受け継いだ系譜の末端にいる。歴史の風化によりその脅威は薄らいだが、人の築き上げてきた家財とはことごとく相性が悪い。生きながら振りまく火の粉は容赦なく人間の文明圏に火を放つ。人為物を燃やす、それだけを動機として、街一つ分の灰の山を作ってから、その中で永遠の眠りに就く。
授業でひととおり学んだし、伝説上の恐ろしい逸話も知っていたし、旅の途中でいくつかの遭遇例も耳にした。ありふれてはいないが、ありえない怪物ということでもない。ただひとつ。危険な怪物の目の前に、幻術ではなく、実際に身をさらすことを、トウルは空想もしていなかった。
「逃げないと……」
トウルがうろたえていると、横で金属音が鳴った。
「任せて」手早く剣を鞘に収めて、シューカが言ってくる。
「管理人たちは俺がなんとかする。君の邪魔にはならないよ」
「へ?」
「一人吹っ飛んでたけど、こっちの畑は二人だったかな。周り三区画分に七人いたはず……まあなんとかなるかな。大声出せば伝わるだろ」
「え? ちょっと」腕を振って声が裏返ってしまったのだが、シューカは真剣な顔で聞いていない。
「仕掛けるのはちょっと待ってて。二人確保したら合図する。そうしたら始めていい」
「おいこら、あの、待って、あー……」
抗議はまぬけな嘆息と共にしぼんでしまった。シューカが畑の跡地に向かって駆けだしてしまったからだ。
どういうことかは、身体の外から締め付けられるみたいな気分でわかっている。気を遣われたのだ。
無敵魔道騎士トゥーリオウルが、絶大な魔力をもって火狼を討ち滅ぼす際に、一般市民の巻き添えを気にせずにすむように。
瞬時の判断は、衛士としてほめられていいかもしれない。トウルにはそれがちっともありがたくなかった。
「どうしろってのよ……」
「どうもできないのかね?」
すぐ後ろから聞こえた声にトウルは仰天した。振り向く。
まったく涼しい顔をして、昨夜の幻使いが立っていた。
「い、イシさん……!」
口が勝手に相手の名前をうめきだす。
覚えようとしていたわけではないのに。忘れたい悪夢に限って、目覚めた後もこびりつくものだ。そんなことを思う。
「いたの? ずっと」
「まあいたといえばいた。君の商売を見守るのが僕の使命だからね」
「気付かなかった。シューカも……」
「君が階段ですさまじくこけていたからね。僕に気付くどころではなかったのではないかな」
「見てたの!?」
「いや君、危うかったね。隠蔽しなければあれこれみっともない箇所が暴露されていただろう」
「なに見てたの!?」
「おっと、それよりだ。むこうを見たまえ」
無視できない話題をむりやり断絶せざるをえなかったのは、ついに火狼が危険な動きを始めたからだ。羽虫を払うように、うなり声を乗せて頭を真横に一振りする。畑の一角に爆炎が上がった。
「っとと——!」遠く悲鳴が上がる。シューカだ。すんでの所で爆発をかわし、管理人らしき人影(煤けた毛布に見えるが、きっとそうだ)を一人抱えている。
「もうあんな所まで!」トウルも悲鳴に近いトーンで呟いた。シューカと火狼は近すぎる上に、二者の間にはなにも遮蔽物がない。火の一瞥を食らっただけで致命的な火傷を負うはず。それでも衛士は恐れに足をすくませるでもなく、もう一人の管理人を探している。
「トウル君。通常術も持ち合わせているのだろう?」
イシが端的に聞いた。
聞かれたくないことを一息で詰められた。
肩をこわばらせて、……ここに至ってなにもごまかすことはできず、トウルは白状した。
「……ない」
「ない?」
「なにもない。一階の礫、二階の氷柱も、四階の波状切断も。すごく勉強したけど実践にはまるで才能がなかった。だから私……」
こめかみが痺れていた。熱い風が絶え間なく吹き付ける、眼前の光景がどこか現実味を失う。幻の薄膜を通したように。
「幻術の才能は買われなかったのかね?」
「誰も買わなかった。風も起こせない詐欺師、とかなんとか噂もされた。値が付かなかった……」
自分の言葉が皮肉なのかなんなのか判らず、トウルは口の端を歪めた。
「幻術がお金に換えられたら、いろんなことが証明できたはずなのに……」
「…………」
軽口もなく、イシが少しだけ黙った。
静寂は望みようもなく、爆音と熱風が木々を叩く。火狼はなにが気に入らないのか、唸りを上げながら首を振り、その勢いで火炎を振りまいている。今のところ人間を狙うそぶりはないが、背の低い草むらが炎に一舐めされて延焼し始めていた。砂と石の荒野であれば問題にもならない種火だが、森林で放置するとどうなるかは——火を見るくらいには明らかだろう。
「トゥーリオウル!」
物思いも愚痴も、一声で終わらせられた。シューカが鎧の端々を焦がしながらこちらに叫んできたのだ。
「管理人ふたり確保した! 全員だ。俺が避難させるから、後は気にしないで。やっちまって!」
「そんなこと言われても!」うろたえて漏れた一言はシューカには届かずにすんだらしい。燃え上がった枝葉が炎の壁になって、駆けだした衛士の背中を覆い隠したからだ。
火狼がのそり、と歩き出した。こちらに目を合わせ、半開きの口から覗いた牙が火花を立てる。シューカの言い残した言葉を真に受けたわけではないだろうに、この瞬間、獣ははじめてトウルを敵視した……気がする。
「わたしにどうしろっていうの……」
(大型獣。知恵も付いてる。人間はだませても動物はどうか。逃げても追い付かれるし殴ってもお返しに焼き殺される。わたしには攻撃手段がない……)
考えなくたって、思いつく。対処法は習っているかぎりすべて思いつきはするのだ。
氷で足止めする。優先的に焼却したくなるという硝石を1トン用意する。炎は低圧領域で遮断する。重力偏差で股関節を砕く。矢に熱起爆を仕込んで二百発撃ち込む……
(わたしには、そういう、攻撃手段がなにもない!)
熱が容赦なく膨らみ、光を帯びて、トウルに向かってほとばしった。灼かれる!
「ひゃあ!」
みっともなく声が出て、本能で身体をよじった。圧力さえ感じさせて炎が頭の横を吹きすぎていく。
焦げた匂いを感じるのと同時、左肩から激痛が伝わった。だがそれで済んだ。幸運だ、とトウルは考えた。
奇跡もなにもなく、必死に避けて、助かった。そこまでを考えて、とうとう恐怖を自覚する。こちらを殺そうという獣を前に、必死の努力なんて何度も通じるはずがない。
(助けを……)その文字が脳裏をよぎったときだった。
「大丈夫かねトウル君」
「イシさん!」すっかり忘れていた。炎で吹き飛んでいたかと思った。斜め後ろにのんびりと立っている黒ずくめにトウルは「助けて!」まくし立ててしまう。
「死ぬ! 死んじゃう! あの衛士もこの狼もわたしのこと勘違いしてるせいで! 化物の相手はわたしじゃないのに……イシさんならなにか」
「僕も通常術は使えないのだ」
耳を疑った。「なんですって?」芝居がかった悲鳴が上がるくらい。
「君と同じ無能者さ。……だが、僕とて人並みの運動はできるよ。ほらジャンプしたまえ、それジャンプだ!」
強引にうながされ真上に飛び跳ねると、地面から炎を溢れさせながら亀裂が何条もの後を引いて走る。熱された空気がぶわりとふくらんで、マントの下の足をひとしきりあぶった。着地する。
「熱っつい! もう!」
「怒らないでくれたまえ。なかなかなジャンプだったよトウル君。ヘニャスプラコダヌキの換毛期の舞いにそっくりだ」
イシは口の端だけで笑い、「ちなみに」と顔の横によくわからない動物の図説を表示した(おそらくヘニャスプラコダヌキなのだろう)。
「役立たず!」トウルはおよそ人生で何度も口に出さないだろうフレーズを叫んだ。
「なんか雰囲気でちょっと期待してたのに! 幻術だけでなにができるのよ! 死ぬじゃない!」
「君、ブーメラン理論を知っているかね? 凶器を投げると、投げる前にだいたい自分の指が切れるというやつさ」
「ブーメランがあったらまだよかったのに……ここにはブーメランより役立たない人間しかいない……」
「手持ちの武器でなんとかしたまえよ」イシはそう言い残して、ひらり、と布を翻すように姿を消した。
「幻は武器だ。とびきり切れる諸刃の剣さ」
そう言い残して。
「ちょっと……」
呼び止める声も、灼熱が爆ぜる音でかき消えた。
とめどない爆音にそろそろ耳が麻痺してきたとシューカは感じる。
林一つを駆け抜けた足をようやく緩めて、脇に抱えた一人と、肩で支えたもう一人を下ろす。
「ここまで来れば狙われないと思うけど……延焼すればここも危ないから、君たちでなんとか避難して」
老年の森区管理人がひとり、煙を吸ったのか朦朧としている様子だったが、弓で武装したもう一人の若い管理人は、足を軽く引いている程度だ。二人でゆっくり移動はできるだろう、とシューカは判断した。が。
「あのう衛士さん」管理人の若い方が(今まで肩で支えていた方だ)声を掛けてくる。
「女の子一人残してましたけど、わかってました? どういうことですか?」
わかりやすく怒った声だった。
「焼き殺されちゃいますよ! 私たちならまだ……」
「わかってる。大丈夫だよ。ええと」手をかざして相手の憤りを中和しながら、言葉を探す。
「なんていうかな、無敵なんだ。無敵魔道騎士っていうくらいだし」
「無敵……?」
「街の大鰐の話、聞いてないか?」
「ぜんぜんです。鰐?」
(交代する人数は限られてる。森に篭もってたら、情報が届かないこともあるか)
シューカは話を切り上げて、来た道を振り返った。火の粉が一片、頬の横をかすめた気がした。
「俺は向こうの援護に戻るから」
「応援を呼んできます」弓の管理人の方も、むりやり頭の中で話を切り上げたようだった。「私以外に弓士が五人くらいいたと思います。衛士さん、あのう、くれぐれも」
「畑をこれ以上潰さないように、だよな。わかってる。殺されたくないし」
「森の中で死なないようにって言ってるんですよう!」
それに返事はせずに、シューカは駆けた。
木々の塊のすぐ向こうに、術士の少女と危険極まりない魔獣がいるはず。
ごう! と熱い風が唸りを上げて、頭上の梢が白く燃え上がった。炎の塊となってくる枝葉を、呼吸ひとつの間合いで抜き放った斬撃で吹き飛ばす。切り払われた向こう側に、黒い布地がひらりとなびいた。
無敵魔道騎士トゥーリオウル。
さっきまではどちらかというと、重くて野暮ったい印象をマントに押し込めて歩いていた少女だ。それが今、鎖から解き放たれたように身を曝して宙に舞い上がり、手足をくるりと閃かせて、シューカには理解の及ばない攻撃術を放ち、魔獣に打ち付けている。
攻撃は、目が眩むほど白く輝く刃の形をしていた。
炎を振りまく巨大な狼は、一息に八重は押し寄せる斬撃を迎撃しようとしていた……おそらくは。跳ねて回避し、追撃する刃に爆炎を重ねて砕こうとし、空中のトゥーリオウルに回り込む形で接近を試みる。その横腹に八本目の刃が突き刺さり、白い閃光を伴って爆発する。
目を開けていられず、シューカは左手で顔を覆う。
高い鳴き声が聞こえた。火狼か。
(仕留めた?)
楽観主義を自負しているシューカだったが、それでも、視界を塗り潰した閃光の中で、都合よく魔獣が一撃で倒されるところなど想像できない。
(だけど、昨日はそうだった。あの大鰐を一瞬で消し去ったんだ。トゥーリオウルならきっと、やってる)
剣のグリップを握り締める。
自分の出る幕はないにちがいない。
強力な術士の戦闘に、剣一本でなにか助力できることなどないと、シューカは何度か経験していた。
風も無く光は数秒間持続し、まえぶれなく消えた。
はたして狼は——元いた場所にそのままの姿で、身体を沈めている。
訝しんだ瞬間、狼は後ろ足を跳ねさせた。
シューカは真っ先に後悔して駆けだした。
遅すぎる。
火狼がまさか、あの猛攻に一切の手傷も負わず、トゥーリオウルの喉笛をかみ切るべく反撃に出るなんて、予想するのが遅すぎた。
赤い火を曳いて翻った巨体は、術の余韻に体勢を崩したトゥーリオウルに一秒も掛けずに近接した。
シューカはその軌道の中にすら入れない。足が遅く剣があまりにも短い。
間に合わない。
「やめろ——!」
その声に、トゥーリオウルは初めてこちらに気付いた様子を見せた。無敵の威容を驚きで薄めた表情。灼熱の地面からわずかに浮遊した細い爪先がこちらを向こうとして。
瞳の煌めきがシューカを映した瞬間に、少女の姿は火狼の牙に断ち割かれた。
頭の中がぴん、となにかに塗り潰される。
シューカは激高に任せて剣のグリップを両手で掴む。
五歩
頭を塗り潰したのは数字だ。
駆ける。
あと五歩で、相手を斬る間合いに届く!
「っおおおおおぉっ!」
捨て身の斬撃を仕掛けるシューカの耳に、「ま、待って待って」甲高い幻聴が聞こえた。
「待って止まって! 大丈夫! わたし大丈夫だから——」
「大丈夫なわけあるかぁっ! うおおおおーッ!」
跳躍し、全体重を剣先に乗せて、必殺の一撃を繰り出す。その途端、シューカは爆発に吹き飛ばされた。
平衡感覚が消え、不意に肩鎧と地面が擦れる音が聞こえて、そのまま熱風と一緒に転がされる。
かろうじて持ち上げた視線の先に、火の粉でちらつく火狼の赤い口腔が見える。炎で反撃されていた。気付かれたのか。それはそうだ。叫んだんだから。
「くそう、次はやってやる」
「だから大丈夫だってば! 聞いてよ!」
幻聴に耳を貸す余裕はない。確実に仕留めなければ。気を抜いたら、自分が何を守れなかったか直視することになる。今は無視しなければ……。
「こらぁっ」
叱りつける声音と同時に、眼前に虹色の煌めきが爆発して、シューカは動きを止めさせられてしまう。
「ほらよけて、ジャンプよ、ほらジャンプ!」
言われるままにジャンプすると、足下を緋色の熱線がかすめ去っていった。地面に着地するまでのわずかな間、シューカは虹色の光を見ていた。
八翼に包まれた無敵魔道騎士の姿を。
「トゥーリオウル……」
「動いて動いて! 狙われてる!」
その声で目が醒めた。
いつも通りの踏み込みで、シューカは駆けだした。突進は止めて、敵から距離を置かず周回するように。
その後を追って光が炸裂する。爆炎はもはや、森区畑のほとんどを消し飛ばしたようだった。
そのわずかな焼け残りの中で……
(どうする?)
さっきから自問しっぱなしだ。トウルは肩を強く震わせた。
火狼に狙われているシューカと無敵魔法少女は、今自分がうずくまっているカボチャ畑からは若干の距離があり、トウル自身は火狼に気付かれていない。
……はずだ。
気を抜くとがくがくと震え出しそうな視界の中で観察していると、火狼はどういうわけか、どこまでも目立ち強大な術をぶつけてきたトゥーリオウルよりも、剣一本で走る衛士の方に殺意を向けているように思えた。
(さっきのかみつきで、あれに実体がないって気付かれたのかも……)
そこまでの知恵があの獣にあるか、トウルには確証がなかったが。もしトウルに繰り出せるものが本当にはったりだけだと気付かれたら、もう打つ手はない。負けだ。
(どうする? どうする……?)
負けどころか、シューカもろとも巻き込まれて死んでしまう。あの衛士は逃げ出さずに戦場に戻ってきた。任務の通りに、命まで賭けてトウルを守るつもりだ。
そのわかりやすい覚悟が、さっきからトウルの肩を震わせている。
自分の作った幻のために、無駄に死なせてしまう。
いくらなんでも、そんなのはごめんだ。
「さっきの大丈夫だった? 傷は見えないけど」
シューカが併走している魔法少女に尋ねるのが聞こえた。
トウルは一瞬戸惑って、幻に答えさせる。
「うん、まあ無傷……ほら無敵じゃない私。だいたいの攻撃は効かないの」
「ほんとか!? すごいな」
無敵にもほどがあるだろ、と自分の内心が批判したため、付け加える。
「厳密には、霊次元から来る剪断モーメントを九割軽減する特殊術式で的確に無効化したのね。火狼は実体のある魔獣だけど、その根本は元素の大樹から直接生じた火の欠片で、攻撃のすべては何かを灼きちぎるためにある。無敵には理由があって、その理由を常に用意できる術士が無敵といわれるわけ」
「ほおー」
感心された。無敵魔法少女設定資料集をノート一冊分書いたのは無駄ではなかった。こういうときに説得力がでる。
「あの狼は……無敵じゃないよな? 斬れそうだ」
「それはそう。無力化する方法も、殺す方法もいくつかある……けど」
「けど?」
その先に続く言葉は重かった。だが伝えないわけにもいかない。
「私の攻撃は効かない、みたい」
「そうなのか?」シューカは驚きよりも、念の入れた確認を声音に乗せた。「さっきの、ものすごい術だったんだけどな」
「効かないこともあるの」
こともある、どころではない。人間ならばすくみ上がるような錯覚をいくつ連ねようが、殺気だった獣に通じる幻術なんてなにもなかった。
(さっきはできるだけ派手なのを仕掛けてみたけど、追い払えなかった)
「術士も大変なんだな……複雑だ」
シューカが気の毒そうな声音でつぶやき、視線を転じた。傍らの魔法少女を見たのではなく——とトウルが気付いた途端に、シューカは周回を止めて火狼に突き進んでいた。
「ちょっと、また……!」
トウルは悲鳴を上げる。だがそれは、さっきの無謀な突進ではなかった。爆発の間隙を縫い、敵の視界に留まり続けない軌跡で、素早く肉薄する。振り抜かれた剣の速度はトウルに追えるものではなかった。が——
ずがん! と、斬撃から発したとは思えない音が焦土をびりつかせて、シューカは剣を振り切った姿勢のままこちらへ——トウルが隠れている畑の方へ、背中を向けたまま——飛んできた。着地したシューカは赤熱した刀身を一振りして「死角だったのにな」とぼやく。
速い斬撃に小規模な爆発を合わせて弾いたのだ、と、トウルも察することができた。恐らく火狼自身も意識しない防御反応だ。
「そんなのありかよ」
「似た術の使い手を知ってる。すごく頼りになったけど、敵が使うなんてのは……考えたくなかったわ」シューカの背中側に幻影を立たせ(つまり、カボチャの隙間にうずくまって隠れているトウル自身が目に入らないように)、答えさせる。
「これじゃほんとに、打つ手が」そう言ったシューカが突然真横に飛び退いた。
唐突に開いた視界の奥で、大きく熱波が渦を巻いている。殺気にぎらつく目が見える。攻撃される。
「トゥーリオウル! 避けろ!」
「あら」「えっ」
無意識のまま幻影に言わせた軽やかな反応と。
トウルの、自分の口から漏れ出たまぬけな声が重なって聞こえた。
突然でなにも動けない。
射線に入ったのは本当にただの偶然だ。
突然に、偶然に、トウルは畑ごと熱線で焼き滅ぼされそうになった。
状況はいつも、何かに挟まれて立ち上がれないうちに、とりかえしがつかなくなるんだ……
思い知ることしかできない。
攻撃される。
動けない!
「——ふっ!」
知らない声がして火狼の胸元に黒い枝が突き立った。矢だ——そう思うと同時に炎が閃光になり、トウルは辺り一帯ごと吹き飛ばされた。
しばらく地面を転がって……気絶もできなかったのでしかたなく、衣服に火が付いていないか確かめて……「ううう」とうめきながら身を起こす。
小部屋ひとつくらいしか残っていなかったカボチャ畑はソファひとつくらいに面積を狭めていたが、なんとか生き残っていた。矢に狙いを逸らされなかったらトウルとカボチャは炎の直撃で灰になっていただろう。
巨体に対してその矢はとげの一本にしか見えなかったが、火狼にも無視できない一撃ではあったらしい。一声唸りを上げて射手を探す。
それは思ったより近く、地面のくぼみに身をかがめて弓を構えていた。焦げたぼろきれに身を包んでいて男か女かも判らない。
「やらせませんよう!」その丸っこい声で、どうやら女だと知れたが。
(誰?)と思う。
「ちょっと、おい、一人で戻ってくるなよ! 足怪我してただろ!?」シューカは顔見知りのようで、狼狽した声を上げた。
「戻りますよう! カボチャのピンチなんです」
「隣の芋畑は無事だったろ! みんなしばらく芋だけでいいよべつに」
「来年の種まで燃やされちゃったらそカボチャはおしまいなんです! 街の人、畑のことほんとわかってくれないんですからぁ」
——森区管理人。シューカとの会話、そして魔獣が現れた直後のことから、彼女の事情はなんとなく知れた。
シューカに避難させられた後、こちらも自分の判断で戻ってきたのだ。強大な魔獣から畑を守るために。
言い争いは火狼の攻撃でうやむやにされたらしく、二人はいよいよ戦闘の覚悟を決めたらしい。炎のさなか、動きが変わる。
「トゥーリオウル! 下がってて」
剣を片手に疾駆するシューカの声はまっすぐこちらに向けられていた。先刻のショックで、無敵魔法少女の幻影はほどけ消えてしまっていて、この場にはみっともなく土にまみれた自分の姿しかない。身を隠す場所もなく、もうトゥーリオウルを表示する隙はなかった。
「で、でも……」
「俺達が仕留める」
「仕留められちゃうかもですけどー」
突然現れた弓士はゆるい口調とは裏腹に手練れだった。不安定な足場と間断のない熱線の中、右手に複数の矢を掴み、左手の携帯弓で連射する。ときおり爆発で迎撃されたが、数本は突き立った。傷痕から真っ白い火の粉が上がる。
加勢のおかげで、シューカの動きに攻撃の色が増して見えた。斬撃のほとんどはやはり炎の防壁に弾かれ、兜のふちまで焦がされたが、矢に重なるタイミングでついに刃が届いた。斜めに一度、さかさまに二度。吹き上がるのは血ではなく、やはり白い火炎。
トウルはずっと止めていた息を、少し漏らした。
(なんとかなる……?)
武器による攻撃は、その難易度さえ越えられれば十分に通用する。トウルもそれは授業で習っていた。攻撃を加え続ければ、あの火狼はいずれ倒れるだろう。
(だけど……)
あの怪物について、トウルが知っている知識は、他にも少しあった。
(白い炎って……伝説だと……)
——ろうるるるるるるるるるる!
今までで一番大きく、火狼は咆哮を上げた。身体が爆発の速度で膨らむ。
「なんだ!?」
本能的にシューカは飛び退いた。敵の様子がおかしい。
(膨らんだ?)錯覚だった。傷から生じた白い燐光が、火狼の輪郭を一回り外側になぞったのだ。咆哮は地鳴りのような唸りに変わり、魔獣はゆっくりとこちらに踏み出す——その瞬間、白い炎が目の中で爆ぜた。
「っぐあ!」
激痛で反り返り倒れかかる。兜が落ちる音が聞こえた。
直撃したのか右目が開けられない。潰された?
「衛士さん!」
弓士の声。弦が擦れる甲高い音。
「この……うわっ! きゃあっ」
それが白い閃光で塗り潰された。左目でかろうじて見えた——燐光でできた細長い刃が鎌のように振り抜かれていた。弓士は射た矢ごと切り裂かれている。
「下がれ! 危ない」
叫びながらシューカはなんとか立ち上がり、駆け出そうとする、その肩鎧をいきなり切り落とされて、地面に転がされてしまう。
ぞっとするほど速い。その上容赦がなくなった。
「くそっ、なんだ? 手負いの獣ってもんじゃないぞ」
「火狼が、街を灰燼に帰すときは……」
唐突に少女の声が聞こえた。
「古代から受け継いだ白い炎そのものとなり、人工物すべてを断ち割るという……」
ぼそぼそとした低音で、誰の声か判りづらかったが。
「トゥーリオウル! どこだ? 危ないぞ、逃げろ!」
もはや石も砂もすべて燃え上がっているような戦場で、少女の姿はなかなか見つからない。
「近年ではそんな固体、見られなかったはず。歴史に神話が薄まって、強い魔獣もただの獣になっていくって。白い火狼なんてマイナーな文献の中にしかなかった。……でも私がたまたま知っちゃってた……」
それは完全に、うわごとを呟く声音だ。シューカの心がざわりとする。
「トゥーリオウルっ」
——いた。
さっき言っていた無敵の術が破られたのか、彼女もまた無傷ではない。土埃と焦げにまみれた黒ローブの姿をゆらめかせ、シューカと火狼の中間に突っ立っている。横顔だけ覗いたその表情は、今までの勇気に満ちた魔道騎士とは違っていて。
「これはほっとくと本当に、文明を燃やしちゃう。知ったからには……もう……逃げるとか無理じゃない」
ローブの背中を貫いて、青白い翼が広がる。
彼女はなんだかとても、泣きそうだった。
打つ手を見失っているうちに、シューカももう一人の増援も倒されてしまった。
もう自分しかいない。震えながらも、自分の足を直立させているのは勇気なのか、諦めなのか、わからない。生死の瀬戸際にあって、トウルは自分の心がわからなかった。
敵を見る。元々の狼の姿は純白の炎に半ばのまれ、崩れかけていた。現世に獣の姿を借りて実体化した原初の炎が、その外枠を損ない、伝説にその悪名を刻んだ凶暴さを洩らし始めている。ことここに至っては、戦う相手は魔獣ではなく、世界の仕組みそのものになりつつある。街の衛士はもちろん、トウルごときが対処できるものではない。本当ならアカデミーの抑止機関を召喚しなければならない代物だ。
だがいまここには、自分しかいないのだ。
「……に……二翼……っ」
自分の口で呟く偽の呪文はあまりにたどたどしく、トウルは途中で止めた。だが幻術は力の限り展開する。
魔獣の周辺に灰色の亀裂が走り、そこから同じ色の颶風が現れる。灰色の中身は高速無数の氷片。一秒も留まれば皮膚を裂き血管まで凍てつかせる凶悪な吹雪の術だ。
それが本物の術ならば。
吹雪の中から白い鎌首が走り、反応できないトウルの側頭部で弾けた。
「つっっ!」
激痛によろめく。得体の知れない刺激臭と共に、ちりんと金属音。髪飾りをひとつ焼き飛ばされた。
うめいて吹雪を消す。目くらましにもならない。蠢く白い炎は何も意に介さず、次の牙を剝こうとしている。
(他に、他にないの?)
なにか敵に通用するような幻が。狼が尻尾を巻いて逃げ出すような、そんな苦手なものが……。
馬鹿のひとつ覚えだ。トウルはそのフレーズを思い出しながら、次々と幻を出現させる。
雷、地割れ、氷柱。
火狼はなにも反応しない。
猛獣の群れ、煮えたぎる油、硫酸。
火狼は冷静に首を振り、突進してきたシューカだけを炎で吹き飛ばす。腕が落とされたように見えたが、手甲の金具を破壊されたのを錯覚しただけだった。
巨大な海竜、鉤爪の魔神、耳をつんざく軋み音。
敵はまったく動かない。
火狼を取り巻く白い炎は百条にも枝分かれし、いよいよ森区ごとトウル達を焼き切り刻もうとしていた、
次に、巨大な樽から無数の鉄球を——
落とす前に、樽は白い刃で切り刻まれ、爆発してかき消えた。
「だ、駄目……」
へたりこむ。地面に接触したお尻が熱い。
さっきまで、心地よい木漏れ日に包まれて緑を見ていたはずなのに。
なんで今、何もかも焼き焦げた土の上に座り込んで、人生の最果てを見据える羽目になったのだ。
涙は乾ききってしまったのか、なにも出てこない。
なにもできなかった。
自分を取り繕うために逃げ出して、ごまかす術を重ねながらここまで来たけど。
結局、なにも変えられなかった。
いろいろやったけど、本当になにかできたのはシューカの剣と弓士の矢だけだった。
脅威を感じたから、火狼は反撃して、こうなった。
私の幻になにができたの?
幻なんかで、怪物を動かすなんて、最初から無理だったんだ……
動かす……
…………?
あれ?