MABOROSHI INTERFACE
[ < 目次にもどる ] [ 1-1 ] 


天啓の魔法少女……の蹉跌 [2]



  
 酒場は喧噪に満ちた橙色の蒸気に染まり、空間の広さを察しきれなくしている。広いのか狭いのかわからない店内には幾多の立ち飲み席が設けられていて、止まり木のように酔客が飲み食いしては雑談している。止まり木にしがみついて寝ている者もちらほら見られ始める時間だ。
 壁際の席を避ければ、かえって人の目に止まりづらい。トウルは行く先々の店で、自然とそういう席に着くことが多かった。この外見で落ち着いたテーブルに収まってしまっては、ろくでもない声ばかり掛かってしまうだろう。
「飲まないのかね? 田舎にしてはなかなか良い品揃えだ」
 たとえばこのような声である。
「…………」
 返事をしたくなかったので、トウルは目だけしかめっ面になって反対側に立つ男を眺めた。
 イシと名乗った幻術使いの男は、路地裏で手酷い初対面を仕掛けてきたあの直後、脈絡もなくトウルを街酒場に誘った。話をしよう、とだけ告げて。
 わざわざ手の内を知っていると伝えてきた相手である。無視もできず――認めたくないけど、内心いろんな恐れが渦を巻いていたので――言われたとおり、喧噪を掻き分けてこの狭い立ち飲み席に肘を落ち着けたのだ。
 あからさまな無言にもイシはたじろぐ様子がない。
「やあ、あれを見たまえ。鴨の冷製カレーソース掛けなどというメニューがあるぞ! 神に挑もうと言わんばかりだ。君、食べてもかまわないよ」
「……話ってなに」
 上機嫌な声に付き合う気にもなれないし、どのみち食欲も湧いてこない(食欲がなくなるメニュー名だとも確かに思ったが)。トウルは仕方なく、自分から話を切り出した。
 ろくな話にならないのは覚悟できたが、目の前のこの男が何のために自分に近付いてきたのか、肝心なところがどうも見当が付かない。
(居酒屋のメニュー談義がしたいってわけじゃないのは確かだわ)
「話は話さ。君の幻術に興味があってね」
「あの……ちょっと……」トウルは片手を浮かせて制止のポーズを取った。すごくすごく声量を絞って、鋭くささやきかける。「わかってるよね? そういうの……よりによってこういうとこで……言われたくないの」
「ああ」イシは素直にうなずく。腹が立つ素直さ、とトウルは思った。
「じゃあなに。私のことばらして、こらしめたいの?」
「いいや」イシは首を振った。
「そうだな。優しさというのはかいつまみから始まるかもしれない。要点のない話はそれこそ立ち飲み屋の金色のアルコールにとてもよく似合うが、君は酒場の雑談を嗜むのにはいささか若い。いいさ、かいつまもうじゃないか。そこの給仕さん、揚げ芋を一皿。白ソースを付けてだ」
 イシがそう言うと同時に白エプロンの給仕がやってきて、こちらを見ながら「揚げ芋、ここでいい? はいどうぞ」てきぱきした動作で芋の載った皿を置いていく。
「…………」トウルはおとなしく芋に手を伸ばして、次の言葉を待った。
「かいつまむと、僕は先人として君の指導にやってきた。独学でよくもまあ、稼ぎの良い仕事を見つけ出したものだよ。しかしそのやり口はあまり勧められない。というか悪い。遠からず破綻する」
 トウルが黙ったのは、揚げたての芋が熱すぎたからだということだけではない。
 意外だったのだ。
「上前をはねにきたのかと……」
「なんという口の悪さだ、君!」イシは帽子のまま頭を右手でつかみ天を仰いだ。
「親身をギャングの取り立てに誤解するなど、まさしく幻ではないか!」
「や、やめてってば! 静かに!」
 わたわたと手を振って制止するとイシも多少は声を潜めてくれた。
「一般的な意味で使ったのだが」
「なんというか、今、あんまり一般的じゃないわ……」
「ふむ」
 言外に一息を挟んで、目の前の青年はトウルから視線を外した。少し遠くを眺めるように、こちらに横顔を見せる。
 先刻からの得体の知れなさは、ほんのわずか薄れているのをトウルは感じた。
 その表情に悪気は無さそうに見えた。
(私だって、悪気のある人をたくさん見たわけじゃないんだけど)
 次の揚げ芋に手を伸ばそうと思ったが、その手を思いとどまらせて、トウルは少しの間、自分の気持ちの傾きを測った。
 半開きだった唇を一度つぐむ。
「あの。イシさん」
「なにかな」
「私のやってること、あまり、うまくない?」
「技術的には非常に洗練されている。私の知る限り、並ぶ術者は十人もいまい」
「でも破綻するって」
「その通り。手段としてはうまくない」
「どうして」
「幻では人を動かせないからさ」
 トウルは「え」と声を漏らして首をかしげる。
「だって、でも……みんなびっくりしたし、喜んだし」
 鮮明に思い出せる……昼間、一連の動きの中で、トウルはずっと群衆を見ていたのだ。怪物の破壊に恐れおののく声。勢いよく逃げ出す人もいれば、アパートの屋上から見物するようなのんきな市民もいた。
 怪物退治が鮮やかに決まると、そのすべてが喝采に湧いたのだ。
 心も足も動かせる。(それが自分の持つ力だ)トウルはそう自覚していた。
「それは反射さ。幻という像があるとする。世界は鏡だ。互い側に映る自動的な反射を、人々は見せるだけだろう。そんな彼らの脳裏に、砂粒一つ分の疑念が起こればどうなる?」
「疑念って」
 そんなものない。トウルは反射するような速度でそう思った。
「完璧なものを見せれば、みんな完璧に反応してくれるし……」
 口を尖らせてぶつぶつ呟くと、目の前の男は口の端を歪ませて「ふむ」少しだけ身を乗り出してきた。
「いいね、とても確かな自信だ。では自身の横に添えて覚えておくといい。疑念の砂粒は、完璧な鏡面に傷を付けるだろう。まあせいぜいほんの爪先程度さ。すぐに忘れてしまう。だが」
「…………」
 なんとなく気圧されてしまう。
 言葉の内容ではなく表情に。
 イシの口の端の歪みが苦笑なのだと、トウルはやっと気付いた。
「一度付いた鏡の傷は決して消えない。いずれ傷に次の砂粒がこびりつくだろう。破綻とは、そういうことさ」
 トウルはいつの間にかぬるくなった揚げ芋をもう一つつまんだ。
 遠回りなことを言われているせいか、なにを反論していいのかわからない。
 芋を食べているうちは何も言わずにすむし、居所の悪い苦笑を見なくても済む。
 そう思っていたら、「さて」イシが立ち上がって帽子を頭に乗せた。
「僕はこのへんで消えよう」
「え?」
 これから説教の本番が始まりやしないかと、トウルの客観的な部分(あまり広い自信がない部分だ)が覚悟していたのに。
 問いかける前に「君の商談を邪魔するつもりはないよ」イシが言葉を続けた。
 もうこちらを見ようとはせず、店の入口に視線を投げている。
「うまくやりたまえ。忠告は……まあ、おいおいさ」
 つられて入口を見る。ちょうどドアが開いたところで、入ってきた人影に見覚えがあった。市長の従者だ。
「トゥーリオウル様、こちらでしたか。明日のことでお話が」
「あ、ええ、ちょっと……」混乱してしまう。イシに同席されるとまずい。
 慌てて振り返ると、イシの姿はなかった。
(本当に帰ってくれた?)
「トゥーリオウル様?」
「あ……はい。はいはい」
 ドレスをぱたぱた払って、トウルはにっこり笑顔を作った。取り繕うことができたかまったくわからないが……。
「お好きでしたら、旅籠に毎日届けさせましょうか」
 従者は揚げ芋を見ていた。
「けっこうです」しまった。なんとなく、揚げ芋は無敵魔道騎士には似合わない。トウルは皿と従者の視線を遮る方向に立ち上がり、にっこり度合いを深めた。
「明日のことって?」取り繕いを重ねれば、なんとか仕事相手としての威厳を保てるかもしれない。
「トゥーリオウル様には明日から市の巡回に出ていただきたく」従者は気にした様子もなく伝えてきた。
「つきまして、警護の者を一人、付けさせていただきます」
(やっかいだな)と思った。イシのような訳知り男は問題外だとしても、人ひとりにぴったり付いてこられては、いろいろやりづらい。
(でも、これはむこうの体面だ。高給の雇い術士を野放しにはしないよね。それに)
 本当に消えたかどうか確証のない、訳知り男よりはずっとましだ。
 そこまで一息で考えて、トウルはにっこりと「ありがとうございます」頷いた。
 自分の表情筋ばかりは、幻術でも補えない。はたしてこの夜は取り繕えただろうか。トウルは内心くたくたになっていたので、それを自己評価することを諦めた。


 夜が深まり、街の明かりは繁華街を除けば波が引くように消え始めていた。
 闇を監視するためには光のただなかではなく、暗がりの縁に目を置かなければならない。
 繁華街からも遠く、街の外れに衛兵詰め所があるのはそんな理由だった。
 班長の机にはもちろん班長と、その部下がいた。
 部下の名前はシューカという。
「お前、見てたよな。無敵魔導騎士」班長が尋ねる。
「無敵魔導騎士」シューカはその単語を口で転がした。
「かっこいいっすね。かっこいいっすよね!」
 無敵、わくわくする単語だ。
「そうか?」
「わくわくっすよ」心の情動が漏れ出でた。
「それなら喜べ。市長からの頼みだ。お前、明朝からそいつの護衛に付け」
 驚いた。市長と話をしに行ったところまでは見ていたので、護衛の話はなんとなくつながるが。
「なんで俺なんすか」
「こんな話にわくわくするような奴だからだよ。わかったらもう上がって寝ておけ。身体も洗っとけよ。やんごとなきご婦人だからな」
「了解っす」
 踵を合わせて受諾の礼を取る。がちん、と剣帯の金具が鳴った。
 休憩室に向かう短い廊下の間、シューカは思い出す。
 圧倒的な破壊の嵐の中で、あれこれひらめかせて宙を駆けていた少女の姿を。
 ものものしい名前と裏腹な、しなやかで速い影。
(きれいだったな)
 衛士として、たいがいの脅威には怯まず踏み込める自負があった。だが自分に、あんな動きで剣を振れるかどうか。
 短い時間だったが、シューカは確かにあの少女の戦いに憧れたのだ。
 自覚するごとにわくわくする。興味があった。間近なら、またなにかが見られるかもしれない。

 ……シューカが期待したそれが、架空であると、彼はまだ知るよしもない。

 翌朝、宿の戸を開けたところにいた衛士の自己紹介は一瞬で、トウルはその印象を覚えずに石畳の上を歩いていた。
 無言のまま朝の街を散歩する。
 街は三層に分かれている、と少年がこぼした声が、トウルが意識したはじめてのシューカの声だった。
「上層地層と森区。ここは地層。ほら、見える? ここから全部見渡せる」
 口を開けばトウルが思っていたより陽気な声音だった。
 うながされて見る。
 街区と街区の隙間を縫う、高台に渡された小振りの橋の上に二人はいて、三階建ての集合住宅の隙間から遠景が覗いた。左に高く、ケーキのように積み重なった白い城郭。高級そうだな、と思う。あれが上層か。昨日招かれた市長邸はたしか、市街地と上層との境界にあったはず。
 遠景の右側はトウル達の立つ橋からはずいぶん低く、くすんだ緑色をした木々の塊に覆われている。シューカが「森区」と呼んだが、街の一角として線引かれた場所には見えない。街の外側と同じ色の、広くて暗いただの森のようだ、と思う。
(鰐はあそこから出せば良かったかな)
 どこからか、鳥が羽を打つ音が聞こえる。
 意外なほど周辺は静かだ。
 高低と色彩のコントラストに富んだ、朝日の中で見るにはなかなか悪くない光景だった。
(悪くないけど……)
「あの、シューカさん」
「さんはいいよ」軽くにこやかに返されたら、そうするしかない。
「ええとシューカ。護衛って聞いたけど。散歩にまで付き合うことないのよ」
「まあ、うん。すごい魔法の使い手に衛士が助けられることなんてないんだけどさ」
 シューカは苦笑して腰の剣帯を軽く叩いた。そのまま表情は曇ることなく「観光案内はしてあげられるだろ?」と続けた。
 職場の命令で自分に着いて来ている。その事情は聞いた。仕事で来る人の気持ちをないがしろにしたいわけでもなかったのだが……
 トウルは今、とても申し訳なくなっていたのだ。
(一日中騙してる気分になる……)
 気分もなにも、騙している。
 無敵魔導騎士の実在を信じるこの街の全員をトウルは騙しているのだが。
 目の前に素直な瞳の少年とかがいたのでは、今改めていたたまれなくなっても無理はないではないか。
「んー。ごめんなさい」
「控えめな人だなぁ。謝ることないよ」シューカは照れくさそうに笑う。
 やりづらい。
「……森に行きたい。案内してもらえるかな」
 自然を見たほうが罪悪感が紛れる気がして、トウルはそう頼んだ。


 術士に会う機会はまれだ。街に降りかかる厄介事、その矢面に立つ衛士の立場でも、術士の姿を見ることはそこまで多くはない。
 武器と自分の身体で厄介事を払う、シューカには想像もできない、異能の技を使う術士。それは国家の枠を超えた、人手の届かない秘境からやってくるという。おとぎ話の手触りにも似た、ふわふわした噂話だ。だが、数少ない機会がその噂話を裏付けるようだった。術士と言われる人間はどれもとっつきづらい、世間話を受け付けない目をした人々だった。
 シューカはこれまで何度か、居心地の悪い思いをしながら(なにせ、世間話ができないからだ)術士の力を借りて、さまざまな災厄を撃退してきたのだった。
(……それにくらべて)
 横で歩いている術士の少女。そっけなくまっすぐ伸ばした黒髪が、神秘にうねるでもなく、細かい歩幅で跳ねている。
 昨日の戦闘では軽装すぎる装備……まるで踊り子の舞台のような服で飛び回っていた気がするけれど、今は黒くて分厚い外套を着こんでゆさゆさと歩いている。剣士から見ると、あちこちに隙が飛び出しているような動きだ。
 同年代くらいの子供だろうか。
 人付き合いは苦手そうな表情で横顔を固めているけど、そのくらいの表情は、そのへんの猫だってしている。
 シューカは思う。
「なんかとっつきやすいなあ」
 思うどころではなく、声が漏れた。
「え?」振り向いてきた術士の目線はなんというか、素朴な怪訝に彩られている。
「なに?」
「ああいやごめん」咳払いして(ごまかす癖だ)前を向く。女性をじろじろ見過ぎだ、と反省した。役目を果たさないと……。
 二人は街の外縁部、白い壁に挟まれた階段を下っている。崖を斜めに切り取るような急な角度で、壁の上からはみだした木々の枝葉が青空を狭苦しくしている。この先が森区だ。
「ずいぶん……古い階段なのね。んしょ」
 術士は変な掛け声で、崩れかけた階段を避けて降りようとする。急な歩幅の変化に、
「あ、転ぶよ!」シューカが反射的に声を上げるのと、
 少女の踏み下ろした足が砂埃で滑って「わわわわっ」と悲鳴を立てるのは同時だった。肩ごと頭が落ちる。転倒してしまう。間に合わないと分かっていても、反射で腕が前に伸びた。
 その次に……
 奇妙なことが起こった。
 シューカはそう思った。
 三歩先で階段を踏み外し、転びかけた少女が、踏み込んだ片足を起点にぱしんと身体を弾かせ、くるりと宙を舞い、淀みのないスピードでひとつ下の段に降り立ったのだ。「ぎゃん!」と不自然な声が上がったが、少女の口元は涼やかに綺麗な角度で結ばれている。
 連想する。先日見た、無敵魔道騎士の戦い方とおなじ動きだった。舞いのような軌跡に見とれてしまう。
 少女は、きっかり十秒間はそのまま立ち尽くしていた。舞いの余韻を見せつけるようでもあるし、ただ単に、転びかけた過去をむりやり誤魔化すためだったかもしれない。
「ええと」シューカは気を取り直して声を掛けた。「大丈夫?」
 その途端、少女の肩がびくりとするようにちらついた。のろのろと振り返ってくる。
「え、うん、大丈夫。どうってことないわ。当然でしょ、この私なんだから」
 目がちょっと回っているのが心配だったが、転倒していないんだから、本人が言うとおり大丈夫だろう。
「気を付けてね。ここ、森区管理人がしょっちゅう使ってる道だけど……連中、階段の管理までしてくれないからさ」
「ええ、もう、十分理解したわ。痛たた」
「?」
 シューカが違和感を引きずる間もなく、無敵魔道騎士トゥーリオウルは森の方に向き直り、重苦しい速度で階段を降り始めた。シューカも慌てて後を追う。
(綺麗な動きだった。すごいな。でも)
 なんで最初に、自分は奇妙だって思ったんだ?
 綺麗だったのに。
 自問しても分かるはずはない。ただ……
 三歩先で揺れる黒髪がなんとなく、さっきよりもほこりっぽくなっているように見えた。

(うう。やっちゃった。ごまかせたかな。痛いし、もう……)
 トウルの内心は情けなさでいっぱいだった。
 本当は思い切り、足を踏み外してこけていたのだ。
 反射的に幻を重ねて、トウルの墜落(と言えそうな勢いだった)地点に合わせて、華麗に宙を舞う無敵魔道騎士の姿を見せていたのだ。
 光景と音は幻で隠蔽できていた……と思う。自分の口から漏れた悲鳴が押し殺せていたかは、痛くってまるで自信がないが、押し殺せていたと思い込んでおく。
 シューカの視線をマントでさえぎり、こっそり裾をまくって痛む足下を確認する。捻挫は回避できたと信じたいけど、膝はちょっとすりむいていた。この擦り傷ひとつも情けない。
 だが、痛みと情けなさを噛みしめても、体面を保つべき理由がトウルにはある。
 無敵魔道騎士はぶざまにこけるような役職ではないからだ。
 誰が階段でこけるような人間に、大金をはたいて街の防衛を依頼するだろうか?
 マントの下の中身が、運動神経に不備があるどんくさい子供だろうが、雇用主に気持ちよく金庫を開けさせるために、守らねばならないポーズがある。
(やりとげなきゃいけない。人をだますんだから)
 だますならせめて、役目が終わるその後も、人々には無敵魔道騎士の幻を信じてもらったほうがいい。この稼業を始めていろいろなことを考えたが、トウルはそう思うに至っている。
 覚悟を持ってしても、こけた痛みは去ってくれなかったが。
 だんだんと角度を高くしてきた日差しが、階段の終わりを照らしている。
「森区に入るよ」シューカが教えてくれた。
 
 日差しに炙られた喧噪がずっと遠くに聞こえるようだった。森区、と呼ばれたこの一角は、実際にその中を歩くと整備された林と踏み固められた土の道で構成された回廊のようで、崖ひとつで高く隔てられた街区の外周を徒歩で巡れるようになっている。街区の反対側、緑の深まる方角に目をやっても、緑は暗く落ち込むこともなく、正午近くの木漏れ日をきらきらと振りまいている。陽気な小鳥の声と風で静かにこすれる枝葉の音だけが聞こえた。
 緊張が抜けきれずにいた肺の中から、自然に呼気が抜けていく。
 気晴らしの散歩にはちょうどいい雰囲気である。
 足の痛みが少しだけ鈍くなった頃に、トウルはさっきの会話を思い出していた。階段がどうのこうの……そうだ。
「森区の管理人って?」
「俺もあんまり会うことはないけど。管轄がぜんぜん違うから」
 シューカはそう前置きしてから続けた。
「ここには大きな農場があるんだ。あとは材木の切り出し場。そういう……要って言うのかな。そいつらを管理して、獣から守ってるのが管理人。常駐しているのは50人、街と行き来してるのが一日で5人」
「農場ってあれ?」
 斜め前方、大きな木の幹の向こうに明るい緑の平面が見えた。なだらかな下り坂にいくつもの段が刻まれていて、その中に何かの植物の葉が一様に繁茂している。
「そう、あれが農場。……もしかしてだけどさ、あそこも回ってみる?」
 素直さを崩さなかったシューカの顔が少しこわばった。こちらが気にしたのに気付いたのだろう。シューカは手袋の甲で頬を拭う動作をしてから「あいつらさ、人を見る目がきついんだよね……」とぼやいた。
「森の管理人が?」
「ああ」
 トウルは首をかしげた。どうでもいいことだったけれど、少し腑に落ちなかったのだ。
「緑色を見てれば人格者になるものだと思ってたんだけど」
「うん、まあ、葉っぱの緑が綺麗だったら、あいつらもまともな人格なんだろうけど」シューカは遠く、畑の葉っぱを観察した。それこそ緑の美しさを審美するように。
「黒ずんでる葉っぱが一枚でもあると、俺達みたいな街の人間を、病気をもたらした外の悪魔って目で見てくるんだよね。あれきつかったな。あ、そうだ、そういやちょっと弓で撃たれたかも。悪魔を見る目で済んだらいいのかな、まだ。目じゃ死なないし」
「ええと、ごめんなさい」
 物騒な方向に肥大化しそうな話題の匂いをかぎ取って、トウルは早々に謝った。なにに詫びたかトウルも分かっていなかったけど、話はちゃんとそこで終わった。
 終わらざるを得なかった。
 シューカが見ていた方角にある畑が、一帯まるごと爆散したからだ。
「…………は!?」


[ 目次にもどる ] [ 辺境紳士社交場Toppage ]