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天啓の魔法少女……の蹉跌 [1]



  大声で叫ぶ。
「術式展開! 虹の八翼!」恥ずかしさはとっくに磨り潰されていた。
 叫んだ少女の背中に、無限色相の煌めきが立ち起こる。それは確かに、八枚の虹にみえた。
 それを広場の全員が目にした。
 目にさせるための、大仰な呪文である。人目がないと意味がないのだ、と彼女は考える。
 怪物との戦いなど、人目のないところでしていられるものか。
 少女に相対する怪物は身の丈十メートルの鰐、と形容できるものだった。体長の半分を占める巨大な顎には、大人の腕ほどもある鋭利な牙がびっしりと並ぶ。その体躯からは想像しがたいほど速く、あぎとは開閉を繰り返す。辺りを圧倒する音量で、凶暴な金属音が鳴る。
 それと比べると、人間の悲鳴なんてかぼそいものだ。
 ここ一時間、怪物に街は蹂躙されていた。
 誰も近づきようのない怪物の威容に、ただ一人相対して、虹を背負った少女は不敵に笑う。
「上出来だわ」
 自身を取り巻く光の翼の出来に、ではない。
 鰐の怪物の醜悪さ、暴虐を凝固したようなその光景に、口角を傾けて微笑んだのだ。
 おそれおののく街の住人たちは、その得体のしれなさにざわめく。
 何者なのか。
 少女は何者なのか。
 知らないのかよ、と誰かが返す。
「無敵魔導騎士だよ!先週ワッタサーク市を救った魔導騎士!俺は見たんだ。あの人が俺達を救ってくれる!」
 壊滅した街の光景を前に、それはあまりにも希望に満ち溢れた叫びだった。
「天啓の魔法少女って言ってるんだけどなあ」
 少女は呟く。衆耳には届かない音量で。
 少女の名前はトウルという。彼女の来歴を語るのはいまここではない。
 怪物が一歩踏み出してきたからだ。
「さあっ、始まるわ!」
 この宣言だって呪文と同じ、すべてその声を聞く人々のため。怪物との戦いには、始まりを告げるぴんとした音が必要なのだ。
 次いで凶暴な金属音。迫ってきた鰐が大口を開き、振り抜くような動きで牙の軌道上にトウルを捉えようとした。
「二翼風鳴りっ」
 号令と共に少女の翼が一対煌めく。軽いステップが細い身体を大きく跳ね上げた。
 群衆が悲鳴交じりにどよめく。
 トウルは真上ではなく、鰐の牙を肩でかすめるように、前方に跳躍したのだ。
 脇腹のそばを高速で流れる鱗の群れを、芝生をなでつけるような片手の一払いでいなし、トウルは怪物の背中を視界に納める。
「四翼来たれ、砂の尖塔っ!」
 二対の翼がばさり、と空気を打つ。光が脈動する。
 空中から霧が湧き出すように白い粒子が現れ、見る間に視界を埋めるほどの巨大な円錐となった。逆向きの角度。切っ先は鰐に向かい、「行けっ」少女が右手を振り抜く速度で打ち出された。
 鰐の大牙が円錐を阻もうと動く。激突と共に、大きな滝が砕けるような轟音。砂の円錐は怪物の口腔で四つに割れ、加速して跳ねた。
 四つの鋭利な槍に。ひるがえって鰐を打ち付ける。暴れた尾に払われて槍は粉砕される。破片は二十四つの矢に変じ、さらに加速する。
 家々の瓦礫を跳ね上げて、怪物の脚が暴れる。噴煙を引いて尾を打ち付ける。牙を振り回す。いくつかの矢を捉えたが、それもまた音速の針に分解され、致命の隙間を狙う。
 軌跡はもはや霞のよう。
 攻防はわずか十秒だった。
 怪物が咆哮を上げた。
 追い切れないほどの速度でほとばしった白砂の鋭角が、鋼の鱗を貫いて突き立ったのだ。
「八翼!」
 間髪入れずにトウルは叫んだ。
(ノート一冊分考えたんだ)
 呪文はここまでで一揃い。
 姿勢制御の翼を解く。虹色の光を背にして、指定の言葉を紡ぐ。
「無数なる色相の礫となれっ!」
 突き立った棘を起点に爆発が起こる。
 無音の黒い球体から、虹色に輝く花弁が開く。一瞬に百も弾ければ、光の重なりは真っ白にしか見えず、風切り音の重なりは耳を圧する爆音となる。
 音と光のすべてが街の一角を塗り潰した。
 観衆は耳を押さえ、しかし目を見開き、その光景を、百の感情を乗せた声を上げながら見据えている。
 トウルにはそれがよく見えた。
 大事なのはそっちだ。
 倒されれば怪物は、もはやなんでもない。
 
 怪物は断末魔だけを残響させて、影形もなく消え去っていた。
 いや、怪物だけではない……そのことに気付いた観衆が、小さくない声でどよめく。
「おい、見ろ、街が……!」
「元に! 元に戻ってる!」
 破壊された鐘楼が。水を吹きだしていた水道弁が。
 へし折れた照明管が。山となった煉瓦の壁が。
 何事もなかったかのように……本当に何事もなかったかのように、猥雑で美しい街並みへと戻っていた。
 広場の中央に立つドレス姿の少女は、長いダンスを一通り終えたような姿勢で、
「ふーっ」
 大きく息を吐き出して背中をちょっと丸めた。こめかみの汗をさりげなく拭う。
(やった。成功)
 ぱらぱらと拍手が聞こえてきた。
 日もまだ高い街の広場で、少女を囲む老若男女の市民達が、あっけにとられたように拍手を始め……それはほどなく、わあっと声を上げて、本当の喝采となった。
「無敵だ!」
「無敵魔導騎士!」
「見たかよ、ひとたまりもなかったぜ!」
「すごくかっこよかった!」「ねー! ちっちゃいのにすごい!」
「もっと良い席で見たかったなぁ」「ばっか見世物じゃないよ。ひやひやしたよ。食べられちゃうんじゃないかって」
「ありがとう無敵魔導騎士! あなたはこのトウェントリ市の英雄だ。よろしければご挨拶を。市長としてあなたには丁重にお礼をせねば」
(天啓の魔法少女なんだけど)
 それにこだわっているのは自分の内心だけだ、ということは自覚していたので、群衆の中から歩み寄ってきた紳士に「こちらこそ」と微笑むことに躊躇はなかった。これも何度も繰り返したことだ。
 怪物退治には金品であれ社会的な位置であれ、なんらかの報酬が出る時代である。
「この私、トゥーリオウルの魔術をもってすれば、あのような大鰐など。ええと、一撃で……一撃の……なんだっけ」
「?」つまずいた語尾を聞きとがめたのか、市長が首をかしげる。
(ええと、なんて言うんだっけ。ノートに書いたはずなんだけど)
 もう、実に自覚しているのだが、人を目の前に口を動かすのは慣れていないトウルである。
「一撃でやっつけちゃってますよ。もうね。一撃です」まくし立てるようになってしまった。
「素晴らしいことです」市長は真剣な声音で頷いた。「イオーネ、我が市の英雄殿を応接室へ」後ろに控えていた従者に声を掛け、市長は再びこちらに笑いかける。「丁重におもてなしさせていただきますとも。お願いしたいこともありますが。まずは熱い茶と菓子を用意させましょう。苺はお好きですかな」
(女子供扱い)とトウルはちょっとひっかかったけれど、お茶とお菓子が好きなことにかけてはそのへんの女子供に引けを取らない自覚はあった。にっこり笑って付いていき、商談をとりまとめるとしよう。

 群衆の誰もが、余韻を受けて動けずにいた。
 市長と少女が後にした街並みは、ほんとうに、怪物が現れる前と寸分違わない生活感に満ちていた。
 こんなに直せるなんて……と誰かが言い、
 まるで何も起こらなかったみたいだな、と誰かが言った。
 だが、怪物がもたらした恐るべき破壊を、その日誰もが目にしていたのは、疑いもなく事実だったのである。

 トウルの想定通り、市長からは継続した警備活動を依頼された。
 魔獣の出現は例えるなら雷雲のようで、多重に敷かれた物見櫓の監視によって人里に近付きすぎる前に対処されるのが普通だ。しかし、察知の外から襲撃されることも、まれとは言えある。何らかの原因によって現れた鰐の巨大魔獣、その源を調査し、潰すためには、少なくない時間が掛かるというのが守り手の予測だった。
 トウルにとっても幸いなことに、時間が掛かるというコストを払う懐の余地がこの街にはあったのである。
「あなたほどの遣い手は、国中を探しても見つかるものではない。半年……とまでは言いますまい。しかし二月。二月ほどはこの街に留まり、襲撃から街を守って頂けないか」
「むぐ」
 トウルは低くうめいた。ちょうどケーキを口に含んだタイミングだったのだ。フォークを持ったまま頷こうとして思いとどまり、なるべく上品になるように口元に手を添え、まぶたを陰らすほどの小さなうなずきで諾意を返す。
 不自然ぎりぎり手前の沈黙の後(苺の食感と酸味甘味、スポンジとクリームとの共鳴をひととおり満喫してから飲み込んでいたのだ)、「私でよろしければ」と告げた。
 市長が提示した報酬額は個人にとっては破格なもので、しかもケーキは抜群に美味しかった。
 なので、トウルは上機嫌であった。喜んで拝命します、なんて言葉もサービスで飛び出すくらいであったのだ。
「任せてください。私がいる限り、街にも市民の皆さんにも傷一つ付けさせません。お値段分の働きをしてみせます!」

 日が傾き始めていた。
 怪物の襲撃がもたらした混乱はすでに記憶の隅に追いやられたようで、昨日とまるで変わらないような喧噪が、遠く路地の向こうから聞こえてくる。
 トウルは黒い長衣をゆるりと揺らしながら、建物と建物の間に細く刻まれた裏道を、足取り軽くひとりで歩いていた。
 二月の間、滞在先としてあてがわれた旅籠に向かう途中である。
「お仕事したなあ。もうほんとお仕事だわ。ふんふんふふふー」
 鼻で歌を歌うくらいに、支度金が財布を重くしている。
「怪物が現れてメガパニックで、颯爽とやってきた魔法少女が華麗にデストロイ。街中大喜び。権威がお金をもたらして、それがまた経済回すのね。なんていう仕事かしら。幸せしか生まないわ。るんるららー」
 歌を歌うのに夢中でちょっと足下がもつれるが気にしない。
「これこそ本当の仕事っていうのよ」
 しまいにはむふーと息をつく。
 トウルは、とっても満足であった。
 そのとき。
「見事」
 満足感の隙間に差し挟まれるようなタイミングで、声が掛かった。
「見事なものだなあ」
 まばらな拍手まで混じって。
「見事な欺瞞だ。よくもまあ、大観衆を騙しおおせたものだ。怪物? 虹の翼? よくもまあ。はは」
 ぴし、となにかがひび割れる音がした。
 なんだろう、と思ったら、自分の喉が変な音を立てているだけだった。
 考えるまでもなく。
「見ごたえのある幻だったじゃないか?」
 この一言が、天啓の魔法少女トウルの果てしない蹉跌の始まりであった。

「ななななな」
 としか言えずに、トウルは声の方向に振り返った。
 真後ろに。
 日が落ちかけて、無人のはずの薄暗い路地に、男が一人立っている。
 細身の黒衣。頭に小柄なハット。顔は若いような、そうでもないような。得体のしれない(人のことは言えない)表情に一筋切れ目が走って。笑ったように見えた。その口が言葉を発する。
「欺瞞という言葉を知っているかね?」
「どどどうして」
「君はまだ子供のようだが。子供には区別の難しい話さ。だが」
 かつりと硬質の音。歩いている。こちらに歩いてくる。
(ななななな)
 頭の中まで混乱して、五感の認識がてんでばらばらに情報を伝えてくる。
 状況がわからない。
(わからないわからない。なんで? なんでよ?)
「子供の空想に大人は耳を傾けがちなのだよ。知るとも知らずとも。空想しなかった人間はいない。街を蹂躙する怪物のことを」
 真っ黒な棒にしか見えない細長い脚と、傷のない黒革靴。石畳を叩きかつかつと言う。楽しげでたまらない、抑えた早口で。
「大人に見せてあげたのだろう、幻を。偽物の呪文で偽物の怪物に立ち向かう少女の物語を。まったくよくできていた。自慢してもいいのじゃないかね?」
「なっなにをっ言ってっ」
 もつれる口がようやく言葉になったけど、なにかうまく行きそうなフレーズがひとつも出てこない。
 目の前の男がまるで底のない沼の水面のようだった。それが近い。近付いてくる。
 トウルはすっかり混乱していた。よくわからない。まるでわからないが。
 このまま会話を続けてはいけない。全部が台無しになってしまう。
「賞賛されるべき君の手口を解説してあげようというのだよ。コメンタリィというやつだ。まず君は街に潜入した。野菜売りの格好でもしたのだろう」
「うわわわわわっ」
 会話を続けてはいけないってのに!
 トウルはくるりと男に背を向け、みっともない足取りで走り出した。
「後日君はその場で声を上げ、直後に音を――」
「来たれ赤色、垂直の灼熱!」
 トウルが呪文を叫ぶと、男の目の前に突然滝が現れる。足下からじゅう、と音を立てて煙が上がる。どこともしれぬ虚空から、煮えたぎった油が石畳に向かって大量に注がれたのだ。
「これはこれは」楽しそうな声が煮えた油の滝壺から聞こえる。
「すごく熱くしてるわ! 触ったらひどい火傷なんだから」
 後方にそう叫びながら、(あいつは今、熱を感じてる)トウルは確信した。誰もが鳥肉が揚げられる大鍋の光景を見たことがあるだろう。記憶と同一の音と光が目の前に弾ければ、人は必ず飛び退く。熱を感じたのだ、とそこで気付く。
 男は飛び退く――
 こともなく、男は煮えた油に向かって前に踏み込んだ。
「ちょっ!」
 トウルは驚愕するしかない。
 それこそまるで鳥の素揚げだ。熱した油を注がれた帽子や肌から水蒸気が上がり、油泡を伴い、もはや炸裂する火花のような破裂音が聞こえだす。
 大火傷どころではない。ショックで死んでしまう。
 男は一切の躊躇もなく油の滝を抜けた。
「よくできている。錯覚連動。これは殺されたなあ」白煙の隙間から、にぃ、と笑いが覗く。
「ご覧の通り、幻とは単独ではまるで力のないものだ。ヴィジョンを重ね、軸を二つ三つとぶらし、虚構を錯覚へとすり替えていくのがコツさ。煙も音も不可分の演出装置だ。ただまあできるならば」
 じゅうじゅうと灼ける油を滴らせる顔は、異様なまでに涼しげな笑みのままだ。
「説得力のためには、焼けただれた肌と肉の臭いくらいは再現すべきかもしれないね。まあ趣味によるか。グロいのは僕だってごめんこうむる。ましてや君は少女だ。少女らしい幻というのもあるだろう」
 お喋りを聞く余裕はなかった。
 トウルはもう、一ブロックは距離を空けて男から逃げ出している。ほんの少し前まで、鰐の怪物相手に、虹の翼で飛び回っていた無敵魔法少女が、今は子供みたいな脚をぐるぐる回して走るしかない。
 トウルはそうするしかない。
(なんなの)
 急に鼻の奥が痛んだ。
 急にトウルは泣きそうになった。
(なんなの、もう!)
 今日は調子がよかったのに……。
 気がついたら得体の知れない男がいきなり因縁を付けてきて、自分を追い回している。
 なにも悪いことしてないのに、それなのに、なにを言われなければならないのだ。
 理不尽に涙が出そうだ。
 石畳を蹴る靴音が調子を崩したのにトウルは気付いた。
 脚がもつれて転びそうになり、反射的に伸ばした右手のひらで落ちた肩を支え、半回転するように必死に前に出る。脱げかけた黒革の靴を、踏み込む動きでなんとか足にとどめる。
 さっきまで夕焼けを映してきらきらしていた石畳は、すっかり青黒い陰に染まっている。
「ううううっ」
 泣きたい理由は……。
 ほんとは言われなくてもわかっているのだ。
 欺瞞を取り払われてしまったら、自分でそれを直視しないといけない。
(嫌だ。そんなのはごめんだ)
「前を見たまえよ」男の無感情の声。
「え?」
 顔を上げた先に、巨大な鰐の頭。がぱん、と俊敏に開いたあぎとが先端だけ、遠い太陽の欠片を跳ね返して煌めく。トウルの頭上をわずかに越えて。
「えっえっ」
 どこから現れたのか。前傾姿勢で駆けるトウルの身体を待ち構える体勢で、鰐の怪物が大口を開けていた。
 何度も空想した。街を蹂躙する恐ろしい怪物の鰐の姿。
 トウルに危害を加えられるはずもない。
 だけど、今目の前に開いた、口の内側なんて。肉を効率よくすり潰せそうな、歯が五重に連なっている凶悪な形なんて。
(私、こんなの知らない)
 ざらり、とドレスが怪物の歯に擦れる音を聞いて、その感触にトウルは動転した。
 遅すぎた。
「わ! …………あ…………っ!」
 息を引きつらせた音は悲鳴にもならずに、眼前に歯の群れが迫る速度は避けようもなく、トウルの上半身は鰐に食いちぎられた。

 …………暗い。
 目の前を鰐の口腔が塞いでいて、何も見えない。
 血の臭いもない、とトウルは思った。
 痛みもない。頭を食いちぎられたんだから当然。感じるはずがない。
 ケーキがおいしかったな、と、無関係な思い出が弾けた。もう食べれないのは正直とても惜しい。頭さえ食べられてなければ。
 そう考えているのは自分のどの部分だろう?
 頭がないのに……
(あれ?)
 トウルはまばたきした。視界は変わらず真っ暗だが。
 まぶたを閉じる感触。ひるんで縮み上がっていた肩の筋肉がわずかに震える。死んでいない。
 頭は鰐にかみ切られていても、普通にくっついている。
 何もなかったみたいに。
(まさか、この鰐……)
 ひざの力を抜く。
 閉じられた鰐の顎からはみ出していたトウルの下半分が、ぺたんと石畳に座り込んだ。
 上半分もくっついていた。鰐の頭部を手品のように通り抜けて、顔から髪の先まで傷一つない。
 本当にない?
 腕を上げて、手でぺたぺたと顔を撫でてみる。口が中途半端に開いていることを除いて、問題はない。冗談みたいに手が震えているのがわかる。膝もついでに震えているのは、お尻から伝わる石畳の冷たさだけではない。
 自分でもよくわかることに、トウルは呆然としていた。
 頭上には口を閉じたまま、石像のように動かない鰐の顎。手を伸ばしてみるとまるで手応えなくすり抜ける。
「幻……」
「まったく、なんてリアクションだ。仕掛けられるのは初めてかね?」
 すっかり追い付かれていたのか、すぐ真後ろから男の声。のろのろと振り返ると、灰褐色の前髪の奥から呆れた色を混ぜた瞳が覗いた。
「仕掛けられるって……」
「幻を見せられる側に立つということさ」
「あんたがやったのこれ」
 呆然と半開きになっている自分の口から無理矢理ひねり出すと、素の所から言葉が出てくるのをトウルは自覚した。半ば観念した。こうなっては何も取り繕えない。
「僕がやった。ものひどくマイナーな技だが、幻術の遣い手は君だけではないのだよ、トウル君」
 身体の震えがすこし収まってきた。代わりにわずかずつ理解が染みこんでくる。偽名ではないほうで自分を呼んだこの男。
「私のこと知ってたの?」
「大人は多少物知りさ」
「あんた、誰なの」
 微風が路地裏を揺らし、薄く届いてきた歓楽街の声音が、狭そうに詰め込まれた鰐の幻をほどいて消滅させる。幻の余韻を砂粒大の火花に変えて、男の姿は逆光に照らされた。
 それこそ幻の影法師みたいに。
 トウルの瞳を見据えて、男は「僕はイシ」そう名乗った。
「またの名を、隙間から来た幻術の宗主という」
 それってまたの名っていうのか、と、何も心当たりのないトウルは内心呟いた。


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