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天啓の魔法少女……の蹉跌 [4]



  
  
(あれ? ちょっと待って。さっき、なにした?)
 違和感が時間を引き延ばして、記憶の映像を引きずり出す。
 さっき、火狼は……
(樽を壊そうとした。反応したんだ。なんで)
 他の(やばそうなビジュアルにするべく工夫を凝らした)幻には一切反撃しなかったのに。
 火狼が壊したもの。
 記憶の中に金属音が鳴る。髪飾りだ。
 シューカはさっき、鎧を。金具が爆破されていた。
 文明を燃やすという伝説の魔獣。
 文明とはなんだ?
 人間の作ったものを……
 人が作った構成を……
「まさか」
 トウルは枝を放り投げるように腕を一振りして、火狼の鼻先に小さな幻を表示した。片手で持てるくらいの安雑誌だ。
 火狼は一声吠えて、雑誌を入念に焼却した。大量の燐光が舞い、熱に揺れる大気に溶ける。
 次は大きめの犬小屋を頭上から落下させてみる。
 魔獣は獰猛な声と動きで、からっぽの犬小屋に五回は斬撃を加えた。真っ白な光の中で板きれが炭化して消える。
 あまりにも過剰、にも思える反応。
「……まさか、まさかだ!」
 トウルは両手を前に掲げた。思い付きを形にする、根拠の無さを支えるように。
 次は大きな荷車を三個、空中にぴたりと固定させて見せる。
 火狼ははっきりと咆哮した。瞬時飛び上がって、開いたあぎとから白い熱線を幾重にも放つ。スポーク、車軸受けを焼き切り、荷車三台を瞬時に木屑に変える。
 トウルはさらに、魔獣の体一つ分上に丸太小屋を出現させた。
 火狼はもはや重力も白い炎でねじ伏せだしているのか、空中でさらに一度跳ね、小屋を破壊するべく前足で掴みかかりにいく。攻撃の一つごとに舞い散る白い火の粉は量を増し、大気全体がぼんやりと発光するようだ。
 その次は木造二階建ての酒場を。さらに上空に館を。さらに……
「どうなってるんだ……?」
 上空で暴れ回る火狼を見上げて、呆然とシューカが呟く。痛そうに背中を丸めているが、どうにか歩ける程度の負傷で済んだようだ。
「あれは人工物だけ破壊しようとしてるみたい」
 それが幻でも、という一言が漏れそうなのを慌てて飲み込む。
「たぶん……正確には、人が作った構造を。あなたの鎧や兜も、つなぎ目を爆破されたんじゃないかな。わたしの髪飾りも鎖を狙われてた」
「爆発がでかくて、人間も痛い目見てたってことか」
「うん。そういうことね」
 トウルが展開する幻は、徐々に規模を増していた——もともと、都市と破壊の「再現」はこれまでの商売で繰り返し、慣れていたことだ。
「どうする気なんだ?」
 シューカの口調になにか含みがあった。こちらの表情を見たのだとなんとなく察する。
 トウルは犬歯をむき出しにして上空を睨み付けていた。
 幻術の行使には明確な代償はない。だが、集中力と共に何かが削られている錯覚はつねに伴う。
 ちょっとした区画ひとつ分を上空に再現したとき、鼻に違和感を感じて手の甲でぬぐう。血で濡れていた。
 理由もなく笑いが漏れてしまう。
 物騒だな、と自分の頭の中を見つめて自覚する。
「燃やしてもらうの。街ひとつ分……!」
 絶え間ない構築と、炎による破壊の攻防は百秒は続き、とうとうトウルが空中に描いた幻影は、城と城下町のひとかたまりにまで肥大化した。
「ぜんぶ壊せっ!」
 るおおおおおうううううぅぅぅ!
 火狼の咆哮は遠く、雷雲の鳴動にも似た衝撃波を伴った。白い火線が城郭に開いた窓のひとつひとつを貫き、石組みを下から順に砕き、屋根を葺いた青い瓦を一つずつはぎ取っていく。破壊のたびに火狼の身体から火の欠片がこぼれ落ち、霧散する。
 白い火でできた霧雨のようだった。まばゆい逆光の中、巨大な城塞が輪郭をほどき、塵になっていく。
「すげえ……」
 シューカが呟く。
 人智を越えた光景だった。トウルも、ここまでは幻で描けない、と思う。
 おお……おお……おお……お……
 咆哮が森区の隅々にまで、かすかな残響を届かせたときには。
 幻影の街はすべて灰となり、炎の魔獣はその役目を遂げて、完全に消滅していた。
 
 森区管理人の弓士、サムラは、若くして弓士隊の筆頭に数えられる使い手だった。その矢は森を守り、人の営みを繋ぎ、外敵を退け、街区への隷属を拒む森区管理人の誇りを体現すると言われた。
 そして今彼女は、たちの悪い魔獣にぶっ倒されて少し気を失っていた。
「うーん」
 目を開ける。昼寝は四六時中しているサムラだったが、今の寝起きは最悪だ。本当はあと二時間は寝たい。
 最後に弓を持つ左手を狙われた気がするのだが、どういうわけか今一番あごが痛かった(あごからぶっ倒れていたのだろう)。
 あれだけ景気よく燃えさかっていた周囲の炎は嘘みたいに消えていて、今は気味が悪いほど静かだ。魔獣のうなり声どころか、虫の声も鳥の声もなにも聞こえない。ここまで焼き払われてしまうと、生き物が戻るのにどれくらいかかるのか……。
 魔獣と相対したときに決まって最後に残るのは倦怠感だ。残された傷痕とひっくり返された畑を見て、回復にどれだけ掛かるのか頭を抱え、ため息をつき、愚痴り、重苦しい足取りで次の仕事を見つけるのだ。
 そういうのに足を取られる人生にはすまい、とサムラは決めていたので、焼け跡を見るのはやめて、もう少しなんかまともなものはないかと、あごをさすりつつ周りをきょろきょろ見回す。
 二十歩先の距離に、街の衛士と黒マント姿の女の子……無敵なんとか魔法使いだったか……がいた。
「おーい……」
 と呼びかけた途端、女の子はうつぶせにぶっ倒れた。
 ふわりとした黒髪をなびかせ、星が流れるような軌跡で少女が昏倒する光景にサムラは言葉を失った。いや、「痛そうっ」とだけ言ってしまう。それはあごをぶつける角度だった。
「うわ!」これは衛士の声。彼は慌てて女の子の半身を抱えて、「なんだ急に! 大丈夫か?」
 そこまで言ってこちらに気付いたらしい。サムラは片手をぴらぴら振って挨拶しながら、二人のところに駆け寄った。一言断って、女の子の胸元に耳をくっつけて様子を看る。
 脈も普通、寝息も普通。自分にはまるで想像できない仕事だが、魔法使いは魔法使いなりに疲れるのだろう。サムラはそう判断して、「うらやましいですねえ」一言コメントした。
「わたしも寝ようかな……」心底から素直に呟いたのに、
「職場があらかた焼けちまったのに、寝れるか?」衛士はつまらないことを言い返してきた。倦怠感に足を取られるタイプだ。ヘイシティボーイ、と内心サムラは野次って、
「死ななかったしカボチャも守れたから、後はもう寝てもいいんですよう」
「そうもいかないだろ。報告しないと。お互い」
「わたしもですかあ?」なんて面倒な……。
「俺とトゥーリオウルがカボチャの爆破犯じゃないってことを、森区側に証言してくれないと困る」
 衛士は器用に少女の身体を持ち上げ、おんぶの形に支える。ぎぎり、と鎧からいびつな音が洩れた。彼も火傷と煤、へこんだ鎧に包まれてずたぼろだ。人一人抱えてよく立てると思う。
 自分が倒されて気を失っている間に、なにがあって、どう決着したのだろう。
 聞きたいこともたくさんあったが、サムラは一つだけ言っておくことにした。
「あのー衛士さん」
「なに?」
「死ななくてよかったです」
「うん」
 衛士は長い間を置いた。鳥一匹鳴いていないおかげで、彼が聞こえないようにため息をついていたのに気付いた。
「無敵も大変らしかったしな。死ななくてよかったよ」
 遠くからざわめきが聞こえ始めた。他区域の管理人が遅すぎる応援に来たらしい。焦土は彼らに任せればあっという間に元通りだ、と楽観して、サムラは死なずにすんだ自身をどこで休ませるか考え始める。

 一時間は気絶していたのだと思う。
 トウルが目を覚ましたのは街区に戻るシューカの背中の上のことで、わたわたと落っこちかけて謝り、市長への報告の席では、自分が結局どう火狼を撃退したのか説明しきれず、やはりわたわたした。
(私一人で完結できてれば、いくらでも収まりよく話せたのに……)
 実在の魔獣と、幻術による撃退は、いずれも無敵魔法少女にはないシナリオだった。死なずにすんだのはこの上ない奇跡だが、社会的地位を揺るがせずに奇跡を語るのは、なんだって難しい。
 自分自身にすら説明できる気がしない。あれはトウルにとっても、成功する見込みなどない本当の奇跡だったのだ。
「だが君はなしおおせた。胸を張ってもいいのではないかね」
 その声に、呆けていた頭を覚醒させる。
「……いたの」
「いたさ。君のおかげで消し炭にならずにすんだのでね」
 怪しい自称幻使い、イシは、戦場の土埃ひとつかぶった様子もなくトウルの横に立っていた。皮肉めいた横目の視線でこちらを眺めている。
 目を見返す義理もなく、トウルは静かな館の空気を数度呼吸した。
 そう、ここは……市長の館だ。
 シューカとは館の入口で別れ、市長と補佐役にしどろもどろな説明をこなし、事後処理に職員が激しく右往左往しているエントランスホールを避けて、人気の無い三階の階段室に腰掛けて、ぼうっとしていたのだ。
 黄色がかった西日が窓から差し込み、高そうな青絨毯を輝かせている。魔獣と命のやり取りをしところで、丸一日が終わってくれるわけではないんだな、と、トウルはぼんやり思った。
「えらく呆けているじゃないか」
「大きい幻術をしたんだもん」側頭部が微熱を持っている感覚があった。口を開くと子供っぽい言葉になってしまう。「こうなっちゃうの」
「疲労するかね?」
 変なことを聞く。嫌味かどうかはわからなかった。
「すごい疲れた。大きな絵を急いで描いた、って感じなの」そこまで答えて、相手の目を見返した。「イシさんもそうでしょう?」
「僕か」意外な顔をするな、とトウルは思った。水を飲むみたいな表情で、皮肉さはその瞬間なりを潜めた。
「慣れすぎると疲れもしなくなるらしい。どうだろうね……それは本当に、絵を描いていると言えるだろうか? 危険なことだと、我ながら感じるよ」
「……」
「熟達とは墓穴を掘るための速度、とでもいうものかね。ははは。君はまあ気を付けたまえ。泥臭く、幻の絵筆を振り回して息を切らせることさ」
「……」
「さて僕は消えよう」
「えっ」
「肉でも食べたまえよトウル君。誰だって、仕事終わりにはそうするものさ」
 そう言い残して、イシは廊下を足早に去っていく。西日の届かないくらがりに黒い痩身が消えた瞬間、「トゥーリオウル!」階段の下から声を掛けられた。
 シューカだ。兜を脱いで、いつもの剣も提げていない軽装だった。
「よかった見つかった。館の人に聞いてもさ、無敵魔道騎士様は中庭で草木の精霊とたわむれていたとか、地下墓地で魔神と契約しに行ったとか、図書室で先代市長の霊から秘儀を授かっていたとか、なんか噂が噂呼んでる状態っていうか……。そういうことじゃないよな?」
 自分のキャラクタを保つためには、否定も肯定もなしに「ふふふどうかしら」とか言っておくべきと思ったけど、トウルは素直に「ここで休んでた」と答えた。
「あなたはどうしたの?」
「任務は続いてるんだけど。とりあえずお前も休めって言われた。それでなんだけど……」
 シューカは一瞬だけこちらの顔をうかがった。何を言いよどんだのか想像もできなかったが。
「腹減ってたらだけど……飯、えーと、食事とか行かないか?」
(えっ)
 反射的に、断る理由を探したが……
 十秒が過ぎても(イシの予言っぽいなんかで動きたくない)という益体もない理由しか見つからなかったので、トウルは「……うん」と、子供みたいに頷いた。

 やたら粉っぽい、薄い煙に霞まされた店だった。
 頭より上の高さに、白い外光を切り取ったスリットが見える。ときおり人の足が往来している様子から、今いるここが半地下だということが実感できる。
 店内は低いざわめきでにぎわい、遠くから間延びした弦楽器の音楽が聞こえてくる。だが音の出所は、煙とわずかなランプの光にまぎれて、まるでわからない。
(場違いなところに来た……)
 十分前に堅い木のベンチに落ち着けたはずの腰を、もぞもぞと何度か整え直しながら、トウルは場違いさを噛みしめていた。
 立ち去るわけにはいかない。
 森区管理人の弓士と、シューカが、料理をオーダーして一心地ついているからだ。
 二人は面識はないらしく、戦いの余韻もあってか、ほとんど言葉はない。ご飯を食べてから話す気だろう、とトウルはなんとなく察した。トウルの方は店の異様な雰囲気で言葉を飲み込んでしまっているだけである。
 香辛料の匂いなのだろう、ということまではわかった。だが覚えがない。トウルの記憶の中に、紐付けられるものがまるでない芳香を放ち、大皿料理がどん、とサーブされた。
「なにこれ」
 大柄な肉に、とろりと濃褐色のソースが掛かっているようだが……
「シラバコガワスのマサですよー」トウルの対面に座った弓士が教えてくれた。
「はい?」
「マサです。シラバコガワスの」愛想よく教えてくれるのだが。
「えっと……」何語なのかもわからないし、もはや最適な食べ方がスプーンなのか手掴みなのかすらもわからない。幻術でごまかしてこっそり下げた方がいいかも、なんてことまで考えが及んだときに、
「だいたいカレーだよ」シューカが助けてくれた。
「たぶんだけど」
「たぶん?」
「森区の料理ってあまり食べたことないんだ。とりあえず適当に分けるよ」
 シューカが切り分けてくれた一切れに恐る恐るスプーンを入れると、予想外に柔らかくほろりと身が崩れた。繊維の間にソースが絡み、滑らかにスプーンの中を満たす。勇気を出して「むぐ」口に放り込む。
(あ、おいしい)
 覚悟していたよりも優しいバランスが取れた味だった。スパイスの尖った辛みを、肉の旨みとソースの丸さがほどよく中和してくれている。
 ここにきてトウルは、自分の胃袋が空腹でひきつれていたことを自覚した。肉料理(マサだったっけ?)に添えられていた細かい豆にも手を伸ばす。こちらはシンプルな薄塩味の煮豆で、ソースの濃厚な味付けにこの上なく調和していた。後味が消える瞬間、知らないハーブの香味が鼻を抜ける。
「おいしい。好きかも」
 あらためて口に出すと、シューカは「よかった。人選ぶんだよなここ」と安堵した様子で、弓士の方は「マサはいいですよねー。緑ばっか見てすさんだ心が肉汁で癒されるんですよねー。シラバコガワスもむくわれます」とにこにこ笑って四切れ目にフォークを刺した。
 三人がかりで料理を一皿分空ける頃には、慣れなかった店内の香気にも多少鼻が適応して、「ふう」と目を閉じてミルク入りのお茶を一口含むくらいの余裕ができていた。
 そうすると疲労で干上がりかけていた思考力もいくらか戻ってきて、トウルは前後の会話を思い出す。
「ここって森区の店なの? ええと……」弓士の方を見て、言葉が詰まる。向こうは愛想のいい瞳をきらりとまたたかせ、「はい?」と首をかしげる。
 名前を知らない。そういえば自己紹介もしていない。
 苦手な局面だ。どうしよう、シューカにこっそり聞くか、名前を呼ばない人付き合いを始めるべきか……。
 そこまでトウルが考えたところで、横のシューカが「あ、そうか」と頷いた。
「この人はトゥーリオウル。昨日から魔獣から街を守ってもらってる」弓士に向けられた紹介の動作をくるりと反転して、シューカはこちらに向き直った。ぽんやりとした森区管理人を手のひらで示して、
「こっちは森区の……ごめん、名前聞いていいか? 俺はシューカ。衛士」
「サムラですー。弓持ちです。よろしくです」
「ええと……ん……」
 トウルは口をもごもごさせた。一気に全員の名前が共有されてしまった。
 店の空気よりずっと慣れない状況だった。普段ならもっと上手く態度をとりつくろえたはずだけど、ついさっきまで一緒に死闘を切り抜けた相手に、意識した言動がなぜか引き出せない。
「よろしく……シューカ、サムラ。えっと、さっきはありがとう……助かった」
 ぼそぼそっとしたお礼だな、と、自覚しすぎるくらい自覚できるトウルだった。少し頬が熱い。顔が真っ赤になっていそうな気がして、トウルはとっさに幻術で顔色を隠蔽した。
「こちらこそですよー。あやうくカボチャ畑が全滅するところでした。あなたのおかげで来年のカボチャパイが芋パイにならずにすんだんです。あなたのおかげですよね?」
「えっと」どうだろう、と反射的に自問してしまう。
「トゥーリオウルの術がなかったら危なかったと思う。すごかったよ、あの……なんて言うのかな、城をぶつけるやつ」
「そんなものぶつけたんですか!?」サムラが両手をぴょこ、と跳ねさせて驚愕した。トウル自身だって信じられない。だから、
「うん。それが一番効いたから」と答えるしかなかった。
「はぁー……すごいなあ……弓とかあほらしくなっちゃいますね。城ぶつけられるならわたしもぶつけたいです」
「俺もなあ。剣が効かなかった……」腕利きの弓士と剣士がそれぞれため息をつきだしたので、トウルは慌てて手を細かく振って「いやいやいやいやいや」と否定した。
「すごいからあなたたち! 火狼なんて、武器で戦うような相手じゃないんだから……ほんとはアカデミーの専門部隊が対処するような怪物だから。そんなのとまともに戦えるとか、すごいんだって。自信持って」
「ほんとですかー?」「そうか?」揃って二人に聞かれたものだから、ぶんぶん首を縦に振って念押しする。
「すごいすごい」
(私と違ってね)
 脳裏に仄暗い囁きが聞こえたのを、トウルはお茶をもう一口飲み込んで無視した。
「まあ、すごいランキングはトゥーリオウルさん一位ってことで、あの場は片付いたわけです……そうそう」サムラが半身振り返って、給仕になにやら声を掛けると、ほどなく積み木のような造形のケーキの一群が運ばれてきた。
(わ)小麦の焼けた香りとクリームのコントラストが直撃して、すこし心が躍ってしまう。
「今日のごはんはうちからのおごりですからね。ここは森区食堂、私たち管理人の憩いスポットなんです。トラトラフ飲みます?」
「ええと……ううん、トラトラフはまた今度で。ありがとう」差し出されたグラスをトウルは曖昧にかわした。デザートの方に狙いを付けて、さりげなくケーキサーバを手に取り、全員にケーキを取り分けはじめる。
「俺もサムラも、あの魔獣について報告して」シューカが会話を引き継いだ(こちらは謎の飲み物を受け取り、慎重なペースで飲んでいる)。「二人ともだいぶ焦がされたし、上司に休めって言われたんだ。で、今こうやって三人で飯食ってるってわけだな」
「うん」それで事情は飲み込めた。ただでケーキをもぐもぐするだけの時間ではなく、情報を交換したいのだ。
 気にはなっていたことを切り出してみる。
「もともと、あの森に魔獣は出るの?」
「あんな大型は出たことないです。外縁で破魔矢を撃ち込んでましたから」
 サムラが言ったその名前には聞き覚えがあった。
「杭結界を張ってたのね。術士じゃないのに、すごい」
「森区のじいちゃんが魔法屋さんにつてがあったとかだそうですー。わたしなんかは言われたとおり飛ばしてただけですけど」
 シューカが小さく片手を上げた。
「ええと、それは……魔獣避けかなんかなのか?」
 トウルはどう説明したものか、とちょっとうつむいて、「うん。だいたいそう」簡単に答えた。
「自然外の獣……つまり魔獣ね、彼らが嫌う術式を杭に仕込んで、地面に打ち付けるの。杭をロープで結ぶみたいに、見えない壁を作って、中には通さない。手間もお金も掛かるけど、すごく強力」
「それをあの狼は突破したわけか」
「そうね。あまり考えられないけど」
 トウルがそう言ったとき、隣でかちゃんとフォークが置かれる音がした。気がつくとサムラが三個目のケーキを食べ終えていて、
「おかしいっちゃおかしいんですよねえ、このごろ……」と呟く。
「森区でなにかあったのか?」シューカが尋ねる。トウルは残り少ないケーキの中から狙いを付け(いちごが唯一乗っている褐色のカップケーキだ)、フォークで直接取ろうとした。
「中で出てくる魔獣がちょっと大きくなってたんですよ」
「ハマカゲスか?」
「いえー。なんだろう、見慣れないやつです。しっぽの多いイノシシっていうか。仕留めるのに五人がかりでした」
 いちごをほおばっていたトウルはその会話を聞くしかできなかったが。
(猪)
 どういうわけか、ひっかかった。放り投げた石が不意に、古い知識にかすった感覚。
「紫色?」無意識に洩れたトウルの呟きに、
「あ、そうそう! 白っぽくて気味悪い紫でした〜。知ってました?」サムラが前のめりにうなずいた。
「文献で見たことがある。名前は忘れたけど……原初の木の、毒を司る魔獣。触手を八本持ってて、いろんなものを切り刻むって」
「俺も聞いたことないな……」シューカが(ケーキを食べ損ねた、という表情をしながら)呟く。
「トゥーリオウルは、相手にしたことあるのか?」
「いいえ。……というか」
「ん?」
 それ以上はシューカに返事ができなかった。記憶が引きずり出され、考え込んでしまったからだ。
 自分が見た文献。
 スクールの幼年棟にある、古ぼけた棚。
(私が見た文献って……?)
 古い絵本だった。
 それ以外の場所で、その魔獣を知ったことはない。
 フィクションだ。
(どういうこと?)
 混乱をよそに、サムラとシューカの話は実務的に続いていた。
「そいつにも魔獣避けが効かなかった?」
「もともと、小物は通すんですよ。動物と見分けがつかないみたいで。でもあんなでかいのが破魔矢をするっと抜けて、森に入り込んだのは初めてです。じいちゃんも首をだいぶひねってました」
「森区の哨戒網も抜けたんだよな。今日の狼もそうだ……。なんか悪い感じだなあ」
「でもまあ」サムラの声が方向を変えたのに気付いて、トウルは意識を目の前に戻した。森区管理人は、おいしいカップケーキを見るのと同じ楽観的な瞳で、こちらを見ていた。
「こんなすごい術士がいるんですし、大丈夫ですよ。ねっ」
「え」さっき飲み込んだはずのケーキが、のどに詰まったような。そんな声が出た。
「頼りすぎないように、だけどな」シューカが苦笑する。
「う……」
 なんて言えばいいのか。
 魔獣がどんな大物だろうが小物だろうが、本当は、トウルにどうにかできるものではない。
 目の前の、本当に戦える人たちに助けてもらわなければ、あっさりと死んでいたかもしれないのだ。
 まぐれの勝利だったけど、まぐれはきっと、もうない。
(ってこと、言えるわけないし)
「よ……よろしくね」
 このフレーズのなにがよろしくなのか、トウルにはわかったためしがなかったが。
 自分は、わかったためしのない言葉をひねり出すしかないのだ。たぶん、いつだって。

 雑踏の音は、宵闇と金色の蒸気を帯びて、輪郭をぼやかしている。
 そこに石畳を踏む音を刻んで、夜の街を、シューカはひとり歩いていた。
 満腹になったトゥーリオウルを(幸い料理はデザートまで美味しそうに食べていたようだ)宿まで送り、そのついでに詰所まで戻って、予備の剣を拾ってきたのだった。
 剣は、自分の外枠だ。シューカはそう感じる。この街で衛士になる前からも、木剣を持って修練に明け暮れていた。何かを斬り倒したいとか、何かを守りたいだとか、そういうことを考えたことはなかったのだが。剣を持つことそのものが、どこかしっくりきていたのだ。
(いつもの剣ならもっとしっくりきたんだけどな)
 しかたない。大型魔獣を相手取り、半分死にかけるほど戦えば、どんな武器だろうが多少は歪んでしまう。シューカは自分の傷よりも優先して、馴染みの鍛冶屋にメンテナンスを頼んでいた。
 いつもよりもわずかに軽い刀身を鞘に収め、歩を進める。
 特に目的はなく、街の巡回に過ぎない。しかも、もともと今日の残りすべては休憩を命じられていた身だ。仕事熱心だな、と同僚は苦笑していた。
 だけど、衛士らしく街を巡回するのが、シューカにはしっくりきていたのだ。
 剣をぶら下げながら、とりとめのない物思いにふけることが。
(トゥーリオウルは)
 なんだか今日は、あの術士の少女のことをよく考える。
(しっくりきていなかっぽいな)
 眼前で見てもなお信じられないほど、強大な術を放ち、魔獣を消し去った無敵魔道騎士が。
 どうしてか、ずっと、居心地悪そうな目をしていた。
 目も眩む速さで舞うように戦いながらも、一挙手の隙間に、彼女は自信の無さをうかがわせていた。
 あれはなんだったのだろう、と……疑念よりも先に、シューカは不思議に思う。
 弓を射ることに淀みがない、サムラとも違う。
 剣を振る動作に自分を溶かしきった、自分のような人間とも、どこか違う。
 そんな少女が、この街にいる誰よりも、外敵から街を守っているのだ。
 それを思ったのと同時か。右手から、ぎし、と、聞き慣れない軋み音が洩れた。
 ……握り慣れない革のグリップと、指が擦れた音だ。
(俺、なんで剣を握ってる?)
 シューカは顔を上げる。通りの先、路地裏の暗がりに向けて犬が吠えている。巡回中に何度か出くわした、顔見知りの野良犬だ。なにか、とても気にくわないものを見たように、ふかふかした白毛を震わせて激しく吠え立てている……
「どうした?」
 犬はこちらを一瞥して、先を譲るように一歩下がった。首を撫でてやり、先に進む。希釈されたアルコールの臭気が微かに漂う酒場の裏口と、三階建てのアパートメントに挟まれた闇色の路地。むろんシューカが知っている道だ。二十歩も進めば、壁に突き当たってしまう、ありふれた街の隙間だ。
 物音を立てないように進む。無意識の警戒をシューカは信じた。行き止まりはすぐそこ。そこには……
 木屑と生ごみの欠片が散らばっていた。
 靴先で軽く蹴りとばす。なんの変哲も無い……しかし、断面が新しい木の破片。元々はごみ入れの木箱だったのだろう。
 酔っぱらいが喧嘩で壊したのかな、と、妥当な想像をするシューカは、あたりをぐるり見回し……動きを止めた。
 空間は、両手を広げれば周囲の壁に触れるくらい手狭だ。昼間でも日が差さない路地裏を、今照らしているのは僅かな星明かりだけで、わざわざ凝視しなければ、表面の様子は判らない。
「なんだこれ」
 壁すべてに、蛇がのたくったような黒い跡が刻まれている。
 シューカは、今度は意識して剣のグリップを握り、鍔を少しだけ鞘から浮かせる。呼吸の刻みを細かく、半身を引く迎撃の態勢。
「…………」
 それを長い間続けた。
 だが……この夜に関しては、それ以上のことは何も起こらなかった。

 ランプの明かりを落とせば、一人きりの部屋を照らす光源は、鎧戸の隙間からこぼれる月明かりしか残らない。
 黒く重苦しいマントとローブはずいぶん前に壁に引っかけたままだ。油断を縫い合わせたような身軽な部屋着一枚で、トウルは宿の寝台に横になり、目を閉じる。
 寝台は綺麗にしてあり、ぱりっとしたシーツの感触も、ふとんの柔らかさも、街がトウルにしてくれる待遇の厚さを象徴するようだった。
 今朝のまどろみの中なら、その十割をほわんとしながら甘受できていただろう。
 だけど今は。
(なにもできなかったんだ。私)
 ちくちくと心を苛む清潔な感触に頭を埋めながら、素直に独白する。
 ふとんの中ならちょっとは素直になれる自覚はあるのだ。
 ふとんの良いところだが、それゆえに役に立たない部分である。起きているときに素直になれたら、どんなにいいか……。
 今日、命のやり取りをしながら見た光景が、まぶたの中にランダムに再生される。鮮明な記憶の光景は、自分が自身に見せる幻の映像なのかどうか、ずっと昔から判らなくなっていた。
 猛り狂う炎の中にぎらつく殺意のある獣の目と。
 騙されていることに気付かないまま剣を振るった衛士の姿と。
 炙られればたちまち消えてしまう、空虚な魔法少女。
(明日からどうしよう)
 本当に魔獣が出没するならば、自分はそこに向かわなければならない。そういう仕事でここにいる。仕事を放り投げて逃げ出すことは、幻術を使えば難しくないけど……
 それも嫌だ——自分の心のどこかがそう言う。
 自分は結局、アカデミーから逃げ出してきたのだ。もう一回逃げてしまっては、追っ手が掛かるリスクがある……だけではない。
 たぶん自分はどこにもいれなくなる。
 ぎゅっと、自分の身体を抱きしめる。誰もそうしてくれないから、仕方なしにだ。情けないほど細い、子供みたいな腕。なにもできない。だけど、逃げることもできない。
 まるでふとんみたいだ、とトウルはぼんやりと考える。体温を含んでぬるく、どこか心地良いけど、自分を縛って抜け出せなくさせる、思考と身体のループ。
 でも、縛られてもなお。
(なにもできないのは……やだな……)
 素直な思考は夜に溶けて、長いため息を一つ残し、トウルは眠りに沈んだ。


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