「本当と嘘を隔てる境界線って、見えるものかしら」
「その手の話で見える境界ってのが今まであったのかなあ」
 マコは反射的に答えた。
 ここは並木道である。二人は最小限の荷物を持ち、あてどなく歩く途中であった。
 この時代、本当の武装をしなければ旅路の障害物(草枝やら世間的ななにやらまで)を払えないものだ。それを体現する職業、すなわち武装女中らしい格好をした金髪の少女がマコだ。その一言一言にはがちゃがちゃと微細な金属の奏でが加わる。真実を語るための背景曲。というわけでもなく、これは剣の鞘鳴りを止める皮帯がちょっとだけくたびれてきたためだ。
(分かってるんだから)マコは内心で念押しした。誰のためか?
「こーゆー分かりやすいくたびれかたって普通ないんですよ。ものごと徐々に見えないところで歪みやら凝りやら溜まってきてある日とつぜん、どかん! と爆発するもんなんです。これって正直ですか? 嘘っぽい態度でしょうか?」
「そうね」マコに対して一拍置きながら頷いてきたのはノノモリという黒髪で猫耳のやはり(やはりというかなんというか)少女で、こちらは武装よりも優先すべき何事かがあるという態度で、冗談のような金ぴかのクラウンを頭上……ぴょこんと立った猫の耳の間に挟んでいる。軽そうな草色のドレスの裾下から、髪の色と同色の細い尻尾がゆらり揺れた。猫のようだが、(パーツだけで人を判断しちゃいけない)と思うマコはこの子のことを王女と呼んで、無理矢理雇われ女中として旅に同行しているのである。
(旅……)一方で考えるノノモリである。
 旅とは、真実と虚偽を交互にかき混ぜていくような行為だ。
 一歩一歩の足取りは紛れもなく現実を捉え、
 遠く葉群れに霞む道先を見る視線は、保証なにひとつない目的と未来を期待している。
「全部が自分への欺瞞かもしれない。欺瞞の上に建つ本当なんて、そもそもが嘘とも言える」
「言えたからって変わりませんよ」
「変わるわ。変わらないものはないから」
「言えたからって変わるのと、言えたからって変わらないとのじゃ、あんまり変わらないです」
「……そうかも」
 ノノモリはサンダルの靴底が石を噛んだ感触に眉根をちょっと寄せて、右足を二回連続で鳴らした。
「おおダンスだ」マコは感心して「そんなに楽しみですか、嘘つくの?」
「え?」
 少女二人は足を止めた。ノノモリの蹴り立てが地面に納まるタイミングで、揃って、ぴたりと。
 ぴたりとした意味は特になかったのだが、意図的なタイミングが空気に乗っかってしまった。
 図らずな気まずさで語尾を濁らせてマコはノノモリに尋ねた。
「嘘つきに行くんですよね、私たち?」
「ええ……うん、今日はそういう日だから」
 ノノモリは頷ききれずに首を変な角度で傾けた。
 実はノノモリ達は並木道を歩いていない。
「みんな、今日だけは本当と嘘の境界線を歩いている」
 海の切れ間に鉛色の雲が一つだけ浮かんでいる。
 星々の生まれいずる斜線だ。
 だが、その視界もすべて。
「嘘が嘘だってばれてるんですよ。そんな嘘になんの意味があるんでしょうか?」マコが呆れ半分に腰を半分回し、剣帯がかちんと鳴る。
「少なくとも真実について回るような意味はない」ノノモリは歩みを再開した。
「マコ、実はね、私、疲れたときにお茶を飲むと毛が金色に逆立って悪魔をサバの目玉から召喚できるようになるのよ」
「…………はい」マコが水筒を開けて差し出してくる。
「ありがとう」ノノモリはにっこり微笑んで一口含んだ。









「嘘の境界が見えるとして、そこに本気の有無はあるだろうか」
 ノノモリは半光沢の床を踏みながら低いトーンで喋る。
「んーと、本気出した嘘ってばれにくいもんじゃないでしょうか。やっぱ嘘が嘘のままになるためには、本気出して頑張んないと」
 そーゆーの私が苦手なタイプの努力ですけど、と付け加えながらマコが答えてくる。
 二人は教堂の裏手をぐるり囲む廊下を歩いていた。午後四時の橙色の日差しが、ごく浅い角度で廊下に目映いハイライトを描く。その形はいびつで、左右の視差がちらちらと形を変えて脳裏に飛び込み、他の何者をも圧倒した印象を絶えず刻んでくる。この光に焦点を合わせることはできない。嘘でもないのに、とノノモリは思う。
「では、本気の本当と、手抜かれた本当とはそれぞれなにか?」
「頑張ってまともなことやってるのと、んん、だらだらーって生きてること?」
 考えながら言っているのか、マコののんびりしたトーンと足取りはよく似通っていた。
 どこからか聞こえる笛楽器の試奏も、よくよく聞けば武装女中の声音と同じようなものだ。
「放課後って頑張ってるのかそうでないのかよくわかんないけど」
 同じものを聞いていたのか、マコはそんなことを付け加えてきた。
 二人は回廊の脇腹に空いた穴から、円周の内側に潜り込んだ。教堂のせり出し舞台の袖に繋がる小さい入口だ。西日は失せて、途端に薄暗い青色が二人の顔を照らす。
「そういうこと」
「どういうことですか?」
 うわのそらで聞き返しながら、マコはきょろきょろと、なにかを捜している。
「嘘も本当も、放課後のようなもの。必要ではない時間だけど、そこにしかないものがある」
「私達、見つけられるんですか? それ」
 笛の音がごくかすかに、耳の端に残っている。
 今も誰かがどこか、放課後に、笛の練習をしているのだ。
 旅のようなもの。ノノモリは再び、頭の中で比喩を繰り返す。
「嘘も笛も繰り返すなら、瑕疵は見えにくくなっていく。見える、見えないの境界線は非連続なもの。隙間は徐々に見えなくなっていくのではなく、ある閾値より唐突に消え失せる」
「あった」マコは教壇の上に目当てのものを見つけたようだった。赤い布張りの小さな手帳。
「ミスのない嘘も演奏、どちらも本当と呼ばれるものよ」マコが手帳を手に取る様子を見ながらノノモリは言った。
 彼女たちの頭上を照らすのは、天窓に晴れ渡った、夕暮れ前の青すぎる天蓋の光。

 半鐘が何度か鳴った。
 ここは実は学校ではない。
 しかし鐘の音は本当で、時流が正確にノノモリ達を奥へ奥へと流し出していくことの保証である。少なくとも、耳の感覚だけは嘘と本当の次元にはない。聞こえたものは全て、本当に聞こえたものだ。
(幻聴なんていうものは、それこそ幻だ)
 頭の中に直接囁かれた経験もないではないが、それだって、耳で聞いたものではない。
 聞こえたものは、全て本当。
 鐘の音が周辺に反響し、皮膚をわずかにぴりつかせ、綾なして耳朶を打ち続ける。
「この鐘って、何回鳴ればなんなんでしたっけ?」
 あまりにも漠然としすぎていないだろうか、マコは。ノノモリはそう思ったが、一応、マコの言いたいことも分かる。
「日が変わるわ」
「もう、嘘をつかないでもいいってことですよね、王女」
「そうとも言えない」
「なんで?」
「嘘はもう、とっくに、見えにくくなっているから……」自分の口を突いて出たフレーズを聞いて、ノノモリは初めて気付いた。
 時が刻まれたとて、嘘の隙間は広がりはしない。自らの手で嘘を終わりにしない限り。
 終わらせなければ……嘘の境界は見えない。
「マコ」
「なんですか?」
「その手帳……あなたが捜してたその手帳は、なに?」
「歌詞帳です。あのその、嘘ですけど」
 マコはなぜだか、はにかみだした。「世界の黒い炎の罪業とかなんとかを荒々しく書きつづったのです。人に見せるものじゃないです。まあ嘘ですけど。そもそも……」くねくねと身悶えしだした。
 奇妙な動きだったので(見られたいのか、見られたくないのか)ノノモリは見ないであげようと視線をずらす。
 本当さに固定された嘘が見える……。
 そう思わないかぎり、この視界はどこまでも本当だ。
 ここは街を見下ろす鐘楼のバルコニーだ。
 架線に覆われた無限遠の人里。
 一角に烏の群れがびっしりと連なる。
 薄い錫の屋根の隙間からきらきらと見えるのは、太陽の反射光か。どこかに水が溜まっているのだ。
 相変わらず頭上には空色が広がり、光惑の周辺にやや鈍く透明な青を滲ませている。
 雨上がりだろうか。
 雨の境界について考えたことがあったな、とノノモリは思い出す。降った後も残っていた境界。空と地上を隔てつつ、その両者を等しく内包している。嘘と本当はどうか。
 包み、包まれるのか?
 どこまで拡大しても隔てられる不連続なのか?
 架線を見ながら思う。
「角度を変えれば、積層したぱりぱりのパンだって、断続する点線に見える……」
「なに考えてんのかと思ったらパンですか」マコが呆れて(珍しい)言ってくる。
 彼女の歌詞帳(嘘だそうだが)はぎっちりと紐で縛られて、エプロンのポケットに放り込まれたところだった。
「嘘が嘘でも、悪気がないなら、私そんな嫌じゃないですけど」ノノモリの尻尾の毛並みをマコのスカートの裾がふわりと撫でる。乾いた優しい感触。二人は同じ景色を見下ろす位置に並んだ。
「出る出るって言われたパンが嘘パンだったら、いくら私でも怒りますよー」
「そうね。けっきょくは悪気か」
「なに笑ってるんですか?」
 ちょっと可笑しくなったからだ。
「簡単ね。本当も嘘も、悪気の有り無しははっきりしてる」
「無意識で悪気発揮しまくりな人もいますよ」
「悪意も善意も、受ける側が観測するものだから」
 目の端に映る光が広がっていく。
 太陽の角度が変わったのか。
 左右の視差と時間の視差が絶え間なく角度を変えて、無限の環境を網膜に投射していく。
 見えにくい嘘も、意図しない本当も、ない交ぜにしながら……




「……………………」
 眩しさに耐えかねて、ノノモリは薄くまぶたを緩めた。
(本当のベッドの上で)
 ノノモリは横になっている。
 シーツがずれないように固く丸まった体勢。この姿勢を取らせたのは本当に自分だろうか、と思う。
 ここ何日かの連泊で、わずかに見慣れた、旅籠の一室だ。一つ開いた硝子窓から、低い角度で飛び込んできた朝日に、部屋中のなにもかもが、滲む白黄色と濃灰色に区分けされている。不連続なコントラストで。
 鳥の声が聞こえる。
(これは本当だ)
 眠気に緩んだ自分の頭が、もう一つの声で、自動的に囁き続けているのを聞く。
 この囁きをかき消さないと。
 マコを待たせてしまう。
 起きなければ……。
 息を一つ漏らす。
「んん…………」
 五秒経って、ようやくノノモリは目が醒めた。
 夢で、何を考えていたのか……。
 枕元の眼鏡を取り、鼻頭に乗せて(実のところ、あってもなくても視界は変わらない眼鏡だ)、ノノモリは腰を半分回し、シーツの山から剥がれ落ちるようにベッドから立ち上がった。
 頭の上にティアラの重さと、肩と腰回りに少しだけ締め付ける感触を覚える。
 不定の呪いに冒されたノノモリは、目覚めるたびに違う服を着ている。
 毛糸編みのツーピースと粉塵避けの革ケープ。裾元から頼りなげに細く脚が伸びて、微細なレース文様の革靴に収まっている。視界の両脇に伸びる髪から、嗅いだことのない花の香りがした。一瞬前まで横になって寝ていた、その形跡がなにひとつない格好だ。
 それもこれも、なんだか嘘っぽい、とノノモリは目覚めるたびに思う。
 ひとときも定まらない、慣れない自分を、一年中演じ続けているようだ。
(一年……)









 一年が過ぎれば、かつて吐いた嘘に再び出会って、それを本当への足がかりにできるだろうか。
 それとも、いっそ、嘘っぽい服はここで全部捨ててしまって、自分で服を買いに行くべきだろうか。
「パンが焼けましたよーっ!」
 踊るようなスピードで部屋にマコが飛び込んできて、ノノモリは内心仰天した。表情に出なかったが、ニットスカートの後ろ半分が大きく空気をはらんだので、尻尾がぴんと真上に立ったのだろう。
「ノックもしない従者ってどうかしら……」
「どんだけ急激に起こしても、王女ってぴかぴかの服着てるじゃないですか」
 渋面でふわついた腰を押さえていると、武装女中は鞘の金属音を引きつけて(こんな朝からマコはいつも通りに武装していた)両手にしっかり掴んだトレイを突きだして「そんなことより」乗っかっている大皿を自慢げに見せてきた。
「どーですか! ご主人が自慢げに焼いたご自慢パンと塩豚! 料金内にしちゃすこぶるおいしそうですよ!」
 目の前では、二つに割られた丸パンから微細な湯気が昇っている。朝日の直射でそれが見えた。パンの横にはきらきらと赤く、半透明に輝く、甘く煮られたベリーがたっぷり盛りつけられている。
「自慢ジャムも付けてもらいましたけど、これって日の出前から水の汲み出し手伝ったご褒美によるものなので、私が六割貰ってもいいですよね。……駄目? うん、朝ご飯にしましょうっ」
 香ばしさにノノモリのお腹が、くう、と鳴いた。我ながら、とても正直だ。
「うん」とりあえず頷いておけ。内心に従ってノノモリはそうした。
 客室の隅に傾いて並んでいた椅子を寝台の横に並べて、トレイを寝台の枕元に据えて(この部屋にテーブルはなかった)、二人で朝食を食べ始める。本当に幸いなことに、この宿の朝食には上等な発酵茶が付いていた。
 パンをゆっくりと食べてカップをひとつ傾けてから、ノノモリは何となく、夢を思い出す。
「本当と嘘の境目って、なんだと思う?」
「ふもー?」パンをほお張りながらマコは一瞬声を発し、慌てて飲み込んでからもう一度、鼻から声を漏らした。
「んー? ……」彼女もカップに手を伸ばす。
 光るものと陰に落ちたもの、コントラストの強いものだけに占められていた室内に、少しずつ中間の階調が増えていた。
 少しずつ太陽は天頂に向かって引き上げられているようだった。
 ——かちり。
 余分な間を置かない、手早い速度でお茶を一口含み、マコがカップを置いた音だ。
 職業柄か、この武装女中は、意識しないで動くとこういうテンポで生活する。
「パンは本当、心にひとつ……って歌詞になったら、嘘のことかもだけど」
「そういうの、書いてたの?」反射的に聞き返すと、ぶ厚い記憶をめくっていたような茫洋としたマコの瞳は
「あ」大きく何回も瞬きした。
 ぎりり、と、糸仕掛けの人形じみた眼球の動きで、横に座るこちらの表情を見てくる。
 耳が真っ赤、とノノモリは観察した。太陽を透過した色ではない。
「ま……まあ嘘ですけど」
(下手な嘘でも)
 悪気がなければ、微笑むくらいはしても許されるだろう。
 ノノモリはそう思って、パンをもう一口かじった。
 悪魔を召喚できるというのも、実は嘘だった。





(初稿 2013.4.2.13:47)







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