The another adventure of FRONTIERPUB 46
Destiny 2
どちゃり
聞いたこともないような水っぽい音と共に何かが路地に転がる。
惨劇はそれで終わりだったらしい。
耳を塞ぐことすら忘れてアクワイはその音を聞きつづけ、心の中で恐怖と戦っていた。
――人生とは忍耐である。
常日頃から自分に言い聞かせ、それに従ってきた――あるいは従わざるを得なかった彼だが、それでもこれは異常事態だった。
事の発端は裏路地での諍いである。アクワイからは見えないが、曲がり角のむこうで社会のおちこぼれ共が坊主――この国では神父と言うらしい――に突っか
かったのである。
初めのうち、坊主の説法を聞きながら、馬鹿なヤツもいたものだと思いきや、次の瞬間坊主が大勢の若者を相手に一方的な殺戮を行ったのである。
位置的に見えないため、あくまで音のみの推測だが、誰も逃げ切ることは出来ず――そして、たった今、それは終わりを告げたのだ。
しかし――相手は動かない。
ぴちゃり
今すぐにでもこの場から逃げたかった。
だが、それは出来ない。
ぬちゃり
今少しでも動けば相手に自分が居ることを悟られてしまう。
だが、相手は――恐らく――血を滴らせながら、動かない。
何かを探しているのだろうか。
――何でもいい、早く消え去ってくれ。――
「……いない」
その呪詛は深くアクワイの心のそこに染み入り、彼の恐怖を増大させる。
「……どこだ。どこにいる」
どうでもいいことだった。捜し物なら他でしてくれればいい。
何故寝床の近くで殺人が行われるのか。
快楽殺人をするなら他にもっといいものがあるだろうに。
「……聞いていたのだろう? ……この醜い歌声を」
その言葉にアクワイは全身の毛が一瞬で逆立っていくのを確かに感じた。
――気付かれている。
「なかなかの手練れだ。私にも僅かしか分からない。だが、いるのだろう?」
相手は探るように声をかけてくる。
一瞬、彼は逃走を考えた。
だが、その脳裏に瞬時に背後から一撃で殺される光景が脳裏に浮かぶ。
今からでは遅い。現在の判断材料から導き出される結果は最悪だ。
では、いつ逃げれば良かったのか。
惨劇が始まった時点だろうか。だとすれば相手は自分の位置に気付き、襲ってきただろう。
結果論だが、あの時逃げなかったのは正解だ。
相手は殺しを楽しんでいる。
――重要なのはタイミングだ。
彼は自らの感覚を極限にまで高め、その時を待つ。
逃げるにしても、戦うにしても、一歩でも選択を間違えば、自分は死んでしまう。
ぴちゃり
脳裏には肩を撃ち抜かれる自分の姿。
――まだだ。
ぬちゃり
脳裏には真正面から目玉をえぐり取られる自分の姿。
――まだだ。
予想される自らの最悪の未来に耐えながら彼はその時を待つ。
どうしようもない相手というものはこの世に存在する。
――だが、すくなくとも。
脳裏に浮かぶ少女の姿。
いや、それはホントに少女か。
長い金髪を風にたなびかせ、彼女は自分に背を向けている。
自分はただ跪き、彼女の後ろに控えていた。
そして、彼女は振り向く。
それは――。
きぃぃ
曲がり角のボロ臭い木扉が軋んだ音を立てて、揺れる。
かちりと、と足音が止まる。恐らく、こちらの曲がり角を見ている。
彼が足を踏み出した瞬間、相手は走り出す。陽動にゴミ箱をけり出すも、一瞬で相手はそれを飛び越え、自分の首を掴み――潰す。
――まだだ。
想定される最悪の未来。
しかし、彼は諦めない。
――ちくしょう――
彼は心の中で強く舌打ちをする。
誰だったのか。
今の脳裏に浮かんだ女性は誰だったのか。
彼が仕えるべき本当の主は――。
「アクワイ」
ふと、名前が呼ばれた。
「――――!」
突然のことに彼は恐る恐る背後を振り返る。
「此処にいたのかい? 相変わらず不衛生な限りだね」
そう言って彼の主は苦笑する。
それと共に曲がり角の向こう、そこでにやり、と笑う気配を感じた。
――見付かった。
絶望的な確信と共に彼は廃棄されたゴミの山――最近寝るのにいい角度を見つけたのだ――から立ち上がる。
「逃げて下さい!」
「……どうしたんだい?」
彼の主は不審げな顔で首を傾げている。
「……臆することはない。人には戦う牙がある。……誰にでもだ」
相手は一歩一歩、ゆっくりとした歩調でこちらに近づいてくる。
曲がり角の向こうからゆっくりと。ゆっくりと。
まるで地獄のそこから這い上がってくるように。
実際、この曲がり角の向こうには無限の闇が広がっている。
光の届かない、この街の闇。そこでは誰が死のうとも知られることもなければ、気付かれることもない。
その無限の闇からゆっくりとその悪魔が近づいてくる。
「ちくしょう!」
彼は近くに立てかけてあった木材を蹴り倒す。それはゆっくり――だが、確実に倒れ、曲がり角に砂煙を巻き起こす。
――稼ぐ時間は少しでいい!
僅かな時間が勝敗を分ける。
地を蹴り、アクワイは銃を引き抜いた。それを合図に、さすがの主も駆け出す。
響き渡る銃声は二つ。
一拍遅れて相手は砂煙からその姿を現した。
それはこの国ではよく見る黒い、神父服。長髪に隠れてその表情は伺えないが、凍り付くような殺気と共に相手はこちらに近づいてくる。
――遅い。
アクワイは計算外の相手の行動に舌打ちをする。常人と比べて速いものの、予測した時間よりも相手の走りは遅い。
銃弾を落ち込まれた鉄パイプがきぃぃっと左右から倒れてくるが、案の定、その下に相手は来ない。
――わざとタイミングをズラされたか。
理解すると共に相手は目の前に来ていた。
「祈るがいい、自らの不運を」
厳かな声と共に血塗れの手が伸びてくる。絶対の間合い。
しかし、それこそがアクワイの狙い。
「……不運ぐらい慣れている」
死を前にした人間には似つかわしいふてぶてしい笑み。
そして、黒い影が空から舞い降りる。
ギィィィン
ガシャァァァン
金属独特の重低音とガラスの破砕音が鳴り響き、再び砂煙が当たりに漂う。
それに対し、アクワイは二丁の銃をしまい、その場から駆けていった。
銃声は二回。だが、実際に放たれたのは四発の銃弾だったのだ。
二つの銃を全く同じタイミングで操作。そして、壊れかけていた鉄製階段の接続部分を打ち砕き、レンガからはがし、落としたのだ。その余波を受けて近くの
ガラスもひっかかり、そこら中に飛び散っている。
彼の射撃技術は一流のガンマンからすれば低い。しかし、徹底した両利きによる、差のない修練より、完璧な同時攻撃を可能にしたのだ。現在から未来を導き
出す彼は手段の強弱よりも手数の多さを選んだのである。
もっとも――。
「やったじゃないか」
先行していた主が立ち止まって賞賛の声を上げる。
「……早くこの場から立ち去りましょう」
その言葉に主は首を傾げる。
「仕留めたんじゃないのかい?」
「……足止めしかしてませんよ」
彼の言葉に再び二人は走り出す。
――もっとも、手数が増えたとて、それは一定水準以上の格上相手には通じない。彼に出来ることは自分の生存率を増やすことのみだ。
だが、それでいいのだ。彼は殺し屋ではない。
彼は――。
「なんだったんだい?」
「さぁ? 厄介ごとに巻き込まれたようです」
「君も難儀だね」
苦笑する主の言葉を受け――アクワイはいつものことです、と心の中で付け加えた。
――彼は、主を守るためにいるのだから。
「取り敢えず、向こうも必要以上に俺達を追ってこないでしょう。それより、何か用事でも?」
その言葉に彼の主はニヤリと笑う。
「ああ。ちょっと厄介ごとを頼もうと思ってね」
――人生とは忍耐である。
彼は自分にそう言い聞かせ、それでも恐る恐る訊ねた。
「で、その用件とは何ですか?」
……闇の中を歩いている。
「どうすればいいか分からなくなった?」
濃厚なアルコール臭と共に大声が上がる。
よれよれのシャツに明らかに手入れのされていない無精ひげ。
何処にでも居る落第者。
ウェッソンは自分がそんなアル中達と何も変わらないことをなんとなく再確認していた。
――けれど。
「……俺は重い十字架を幾つも背負ってる」
目を瞑れば毎夜の悪夢が蘇る。
浮かび上がってくる数々の死体の山。
山。
山。
そして、佇む刀を持つ影。
「はっ、神様に聞いて見ろ。悪いことしてねェ人間なんていねぇよ。ガハハハハハハハ」
アル中はあっさりとウェッソンの独白をうち消す。
彼にとって、ウェッソンの愚痴など取るに足らぬ若造の悩みなのだろう。
「……ああ、そうだな」
ウェッソンは静かに酒をあおった。
「でも、その過去は消えることなくずっとずっと俺の中から傷を抉っていく」
あくまで淡々とウェッソンは語る。
どんな愚痴を語ろうとも構うまい。
次の日になれば彼は忘れているだろう。
だから、好き勝手に語らせて貰うことにした。
テムズにはもちろん、サリーにも語れない愚痴。
「あたりめぇだ。消える罪なんかねェ。
金を払っても、
地べたに体を付けて謝っても、
殺されても――
罪が消えることなんかネェ。奇跡が起こってもな。ガハハハハハ」
影は言う。
「君は奇跡を信じるだろうか?」
自分は首を振る。だが、構わず影は言う。
「僕は信じる」
「……歩いてきた道が消えないように、目の前の道も消えない。それは分かってるでも……」
ただただウェッソンは言葉を吐く。
「歩いてきた道を辿り、いつも誰かが俺を脅かす。その度に俺は立ち止まる」
「どこも悪いことはねぇじゃねぇか……ガハハハハ」
アル中はそう言って強く肩を叩いた。
「ああ、それ自体悪い事じゃない。罰なら甘んじて俺が受けよう。だが、傷つくのは俺だけじゃない。悪いのは俺なのに、周りは何も悪くないのに」
「生きるって事はそれだけで奇跡だ。生まれることも、今此処まで生きてることも」
影は優しく、言う。少年のような無邪気な笑み。
自分が忘れた笑み。
「だから、僕は殺せない」
「俺は周りを傷つける相手を憎む。悪いのは俺だって分かってる。それでも、俺以外を傷つけようとする奴等が――憎い」
だんだんペースが上がってきた。
周りが分からなくなり、自分でも何を言ってるか怪しくなってくる。もしかしたらテムズに聞かれてるかも知れない。
それでも、ウェッソンは続けた。
「そんな自分も――俺は憎い。
馬鹿な話さ。
憎しみ程馬鹿げたもんなんてないのに」
「それはお前がビビってるだけだ」
辛辣に自分は言う。だが、影は首を振る。
「生きるって言う奇跡を消すためにはそれと同等の奇跡がいる。それがあって初めて人は死ねるんだよ」
「はんっ、お前は憎しみや怒りが間違ってるとでも言うのけぇ?」
アル中は声を張り上げ、ジョッキをテーブルに叩きつける。
「馬鹿言うでねぇ! 怒り、憎しみ、哀しみ、ゼンーブいいことに決まってらぁ!」
無精ひげをこちらにこすりつけながらアル中は言う。沢山のつばが顔にかかるが、もはや気にもならない。
「怒ったり、憎かったりするってのは、それが許せねェからだ!
それを許せないと思うのは、自分がそれだけヤサすぃからだ!
ホントに悪い奴は怒らねェ!
ホントに悪い奴は自分が傷つくことも許してしまう大馬鹿野郎だ!
自分が傷つくのは嫌だ? むかつくだぁ?
他人が傷つくのは嫌だ? つらいだぁ?
そう思へりゅってのは――」
呂律が回らないのかそこで酒をあおり、舌の回転をなんとか馴染ませようとするアル中。
逆効果ではないかと思ったが、意外にも効果はあったらしい。改めて彼は言う。
「そう思えるのは――
――お前がイイヤツだからだろうが!」
アル中の大声が頭の中に響く。もはやウェッソンは正確に彼の言葉を理解できなく成りつつある。
「俺はコー見えても昔は売人やってたんだよ。馬鹿共をヤク漬けにして――」
「あー、またコイツのバイニンが始まったよ」
別の酔っぱらいが肩を竦める。
このアル中の過去話は有名らしい。
「と・も・か・く――俺はそれが悪いことだってちっとも思わなかったし、女房がイっちまった時も憎いともおもわなかった! それで――」
なおも男の話は続く。
頭がくらくらしてくる。
「死ってのは簡単だ。人は簡単に死ぬ」
何故か必死で自分は否定する。
だが、影は変わらず首を振る。
「違うよ。人を殺すってのはそれだけの奇跡の力が必要だ。僕はその奇跡を持っていない――」
「――でも俺は」
気力を振り絞り、ウェッソンはなんとか反論する。
「そんな割り切れない」
しかし、アル中にとってそれは反論にすら成らなかったらしい。
「ああいいさ、悩め。悩んで悩んで答えを探せ。生きるってのは悩むことだ。頭がおかしくなるまで悩んじまえ。
気付いたら答えなんて出てる。
そしたらまた別の悩みが出てくる。
それでまた悩め」
「――――ずっと、悩むんだな」
「悩みが無くなったら死ね。
それでいいんだよ。
でも、悩んでる奴は死ぬな」
そう言ってアル中はまたジョッキを持ち上げ、一気に飲み干した。
何杯目だろうか。もう結構な数のはずだ。
そして、ウェッソンの前にも大量のジョッキ。
果たしてウェッソンはこれだけ飲んだだろうか。自信がない。
かつて無いほどの量がそこには並んでいるように思える。
「ヒヒヒ、じゃあオメーは死んじまえよ。オメーのちっぽけな頭はナーンもなやんでねぇーでねぇかー?」
また酔っぱらいがアル中に絡む。しかし、アル中は豪快にその意見を笑い飛ばす。
「ばぁか、俺だってツケをどうやって払うかでさっきから悩みっぱなしよ! 返すアテなんてねぇからな! ガハハハハ」
「ヒヒヒヒヒ」
「ガハハハハ」
堰を切ったように笑い合う酔っぱらい共。
だが、横合いから入り込んだ鋭利な一言でそれは一瞬にして鎮火させられた。
「……なんですって?」
「ヒヒ――」
「ガハ――は」
二人はモップを持った紅い悪魔を前にして顔面蒼白になり、互いに抱き合う。
「確かいい儲け話が出来て明日にも全額返せるとか」
「ガハハハそんな子供だましを素直に――」
次の瞬間、目の前でテーブルが裁断されるのを見て、アル中は笑うことを忘れ、ゲップすることも忘れ――。
「しゃぁぁぁきんかえせぇぇぇぇぇぇぇ!!」
『こーろーさーれーるー!』
アル中共はふらつきながらも中国の秘拳さながらの動きで殺人的なモップから逃げ回る。
それを、別のアル中共が馬鹿みたいにはやし立てる。
それはいつもの光景。
いつもと変わらない――。
「だから、僕は死ねない。君を殺せない」
影は悲しそうに言う。
「君は違うのだろう? 君なら――僕を殺せるだろ?」
激しい痛みと共に光を感じた。
眩しい光。だが、瞼は閉じたままだ。
頭が激しく痛む。
自分は――寝ていたのか。
何となく周りをまさぐり、いつものベッドであると確認する。
いつ寝たのか。
自分は夢を見ていたのか。
――夢。二つの夢?
まあ、二つの夢を同時に見ることもあるだろう。
なんにしても――。
数度瞼の上を擦った後、ウェッソンは苦労して目を開いた。
――太陽が高い。
そして、目尻の目垢が気になり、再び指で擦る。
「――っ」
強烈な頭痛。
――二日酔い?
――こんな時に?
「………………こんな時?」
脳裏に浮かぶ老人の言葉。
瞬間、全ての痛みを抑えつけ、ウェッソンは跳ね起きた。
銃を持ち、部屋から飛び出る。
「あら、ウェッソンおはよう」
階下からテムズが声をかけてくる。
「サリーは!?」
「出かけたわよ?」
絶望的な解答。
今この街には彼女を狙う殺人鬼が徘徊している。
――自分が守ってやらねばならないのに!
直ぐさまウェッソンは店の外へと駆け出した。
――やけに頭が痛む。
けれど、ただ彼は走るしかなかった。
「ああ、ウェッソンさん。どうしたんです? 息を切らせて」
鉄を打つのをやめ、青年が顔を上げる。
若き鍛冶屋――シック・ブレイムスだ。
が、挨拶もせずウェッソンは鍛冶場を見回し、そしてため息をつく。
――当たり前だ。こんな所に彼女が来るはずがない。
ウェッソンの焦りは限界に達しようとしていた。街中何処を見てもサリーはいないのである。
はやる気持ちと、脳裏を駆け抜ける二日酔いの頭痛。それらがないまぜになってなんとも言えない気持ち悪い感情が彼の中に広がっている。
そんなウェッソンに対し、シックは構わず話しかけてくる。高名な父の技術を引き継いだが、その心までは受け継がなかったらしい。彼には職人気質というか、厳格さというか、どこかそういうものが欠
けている。
「今日は来客が多いなァ。ついさっきも――」
「……来たのかっ!」
弾けるように彼の言葉に反応する。
「ええ。それはもう……その、なんていうか質問責めにあって――」
「で、あいつはどこに!?」
シックに詰め寄るウェッソン。
「えっと確か――」
彼の言葉を聞くとすぐにウェッソンは外へと駆けだしていった。
冷静に考えればそれがサリーのはずなどない。
だが、今のウェッソンにはそんな考えに至る余裕すらなかった。
残されたシックはぽかんと口を開け、それを見送る。
「……変なウェッソンさん」
「ねェ見た? 今金髪のチョーカッコイイ人が走ってったわよ!」
そんな通行人の話を聞き流しながら、ともかくウェッソンは走り抜ける。
が、結局サリーの姿を見つけることは出来ず、気が付けば噴水の前で立ち尽くしていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
乱れる呼吸。やまない頭痛。
――気持ち悪い。
吐き気を感じ、彼は口を押さえ、その場にしゃがみ込む。
が、朝から何も食べてないせいか何も吐けない。
ただ、代わりにキリキリと胃が痛むのを感じた。
――ボロボロだ。
馬鹿みたいな話だ。
――何をしているのか。
自分には――守るものがあるんじゃなかったのか。
やりきれない思いと共に近くのベンチを蹴る。
「――くっそ!」
「モノに当たんのはよくねぇぞ兄ちゃん」
話しかけられ、ウェッソンは振り向く。
そこには工具箱を持った作業服の知らない男。
――誰だろうか。声に聞き覚えが歩きがするが。
「ああ、仕事着だからわかんねぇか。俺だよォレ。酒飲みのエンちゃんだよ」
意味が分からず、首を傾げる。
分からない。
作業着のネームプレートには「エンリケ・フィスコット」とある。だが、そんな名前の知り合いなど知らない。
「っとまあイイや、そこをどいてくれぇや。この公園はアイツのお気に入りだったんでなぁ。なるべく早く直してぇ」
素直に道を空けるとエンリケはベンチの前に行き、しゃがみ込む。よく見ればその手先は雪の中にいるように不規則に震えている。アル中によくある症状だ。
彼は丁寧にベンチの足の部分をなぞる。長年、大通りに置かれていたベンチは老朽化が進み、彼が触っている箇所はボロボロで、事実上ベンチには足が3つしかない様なものだ。
「兄ちゃんや、何を急いでるか知らんが、もっと落ち着けぇや。
急ぐなら落ち着いて急げぇよ」
手先を振るわせながら、彼は工具箱を開け、作業を始める。どうやらベンチの修繕が仕事らしい。
だが、ウェッソンにそんな事は関係ない。
「んな無茶な。落ち着いて――」
「あわてなさんなやぁ。今の兄ちゃんじゃー後ろから襲われたらあの世行きだでぇ」
アル中の一言にウェッソンは背筋が寒くなるのを感じた。早まっていた動悸が急速に冷めていく。
「……おっさん」
「は、怖い顔すんじゃねぇ。それよか後ろで待ってんのは兄ちゃんの連れか?」
ウェッソンは即座に背後へと振り向く。
そこには――。
「…………ヤケにご機嫌斜めだな」
タバコを吹かし、仏頂面で辛気くさい刑事が立っていた。
「なんだ……アンタか」
「……ガッカリされても困るのだが」
レドウェイト警部は溜息と共に煙を吐く。
「何の用だ?」
無視するわけにも行かず、ウェッソンは申し訳程度に訊ねる。
レドウェイト警部は何も言わず、無言でタバコを地面に落とす。
それを踏み消しながら、彼は冷ややかに言った。
「………………お前は保護者失格だ」
「だって事件ですよぅ! 探偵が現場にいて当然じゃないですかぁ!」
警察署を出た途端サリーは大声を上げる。
どうやら殺人現場周辺でうろうろしていたのを補導されたらしい。どうやったかイエローテープの封鎖をものともせず一課の若手連中と和気藹々と白チョークで線引きしていたというのだから恐れ入る。
「警察の邪魔したらダメだろう」
頭を押さえながらウェッソンはため息をつく。
「邪魔なんかしてませんよぅ! むしろ『現場のアイドル』とか言ってみんな喜んで手伝わせてくれますぅ!」
「…………レドウェイトが怒る訳だ」
無能な部下を持つ事ほど大変なことはない。彼の苦悩はまだまだ続くことだろう。
そう思うと、サリーに首輪を付けておかないことに罪悪感を感じる。
だが、彼女の脳裏では探偵拳法と警察式無力化術が激しい撃ち合いをしているのか偽シャドーボクシングと共に「レドウェイト警部がいかに探偵をないがしろしているか」を熱く語っている。
本来ならば、それを諫めるべきなのだろうが……。
彼は何も言えず、ポンっと彼女の頭に手を降ろす。
「まあ、でも無事で良かった」
ため息をつくと、サリーは不思議な顔をする。
「……はい?」
きょとん、と見つめられて、慌ててウェッソンは首を振る。
「いや、なんでもないさ」
そんなに変な顔をしていたのだろうか。それとも、いつもより怒らないことが不思議なのか。
「ともかく、最近は物騒なんだ。一人で出歩かないでくれ」
注意と言うよりは、願望。そんな言葉が出る。
「でも、私には一刻も早く事件を解決するという使命が!!」
偉そうに語る迷探偵を前に、ウェッソンは無言で帽子ごと彼女の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「なーに、馬鹿なこと言ってんだ」
顔を逸らし、ウェッソンは道の脇にあるショーウインドウに目をやる。
気が付けばもう夕方だった。警察署で色々と手間取ったせいだろう。
オレンジ色のパステルカラーには自分と、そして愛すべき少女が映っている。
「俺は助手だろう? 置いてくなよ」
ガラスに映った彼女は一瞬目を丸くし――やがて嬉しそうに応えた。
「そうですね! 探偵には助手が付き物です」
「――ま、よろしく頼むよ」
ガラスの向こうにいる自分すら見れなくなり、ウェッソンは歩き出す。それにトコトコとサリーはついてくる。
彼女は嬉しそうにあれやこれやと話しかけてくる。ウェッソンはそれを適当に答えながら帰路についた。
街は夜を前にして慌ただしく動き回っている。
仕事を終えた男達は家族の元へ、女の元へ、酒の元へと向かうべく走り回る。
行き交う人々は皆、幸せそうに笑っている。
誰もが変わらぬ毎日に少しの不満と、大きな安堵を持って暮らしている。
そして自分も――。
「神の子供達よ、父なる神へと祈りたまえ」
不意に、神の使いにしては雄々しい声が響く。
「あ、牧師さんですぅ」
サリーが指差した先には聖書と十字架を持った黒服の神父が説法をしていた。
しかし、その声はどこか高圧的で、神秘性はなく、どこか確信的だ。
「あれは牧師じゃない。司祭(パドレ)だよ」
夕暮れ時という事もあり、誰も立ち止まらず、彼の声は虚しく道に響く。
進行方向と言うこともあり、ウェッソン達はその神父へと近づく。
「パドレ? 牧師と何が違うんですかぁ?」
「あー、パドレっつーか神父(ファザー)なんだが……」
説明に窮し、ウェッソンは頭を掻く。
「私は真に神に仕える者なのだよ、お嬢さん」
神父らしからぬバリトンと共に答えは返ってきた。
いつの間にか大柄の神父が目の前におり、話しかけてきている。
「神に仕える、ね」
ウェッソンは自分の中で温度が下がるのを感じた。
「ご不満でも?」
挑戦的なウェッソンの言葉に対し、あくまでも相手は冷静だ。
「別に。でも、悪いがここらの住民は英吉利(イギリス)国教会の信者だ。羅馬(ローマ)にでも帰った方がいいぞ、伊太利亜野郎(イタリアーノ)」
我知らず、目つきが悪くなり、目の前の神の使いとやらを睨んでしまう。
「ウェッソン、神父様が嫌いなの?」
「いんや、別に」
心配そうにサリーが言ってくるが、今はそれどころではない。
「妹さんかい? 可愛いお嬢さんだ。君には勿体ないくらいにね」
神父は矛先を変え、サリーを見つめる。
「えへへ、そんなことないですよぅ」
「……あんたには関係ない」
ぶっきらぼうにウェッソンは言葉を返す。その様子に相手は肩を竦めた。
「いつまでここにいるつもりだね。君にはもっと別の居るべき場所があるだろう?」
一瞬、それまで形だけとは言え柔和な笑みをしていたはずの顔が鋭い殺人鬼の目になる。
――こいつも、大陸に行けと言うのだろうか。
「――神父(パドレ)・シール。悪いが俺は二日酔いで気分が悪いんだ。帰らせてくれないか」
なるたけ穏便に事を進めようとウェッソンは尽力する。
「しかし、私も神の使いとして君は放って置けないよ。ウェッソン・ブラウニングくん」
「…………」
「…………」
互いに何も言わず、静かに睨み合う。サリーは展開についていけず、オロオロと二人を見比べている。
「人には逆らえぬ運命というものがある。人は神に逆らえない。抗う事に意味などない。ただ神を信じることにのみ救いはある」
狂信者はさも正論の如く言葉を発す。
その言葉に何も思いつけず……ふと、夢の話を思い出す。
「――お前は奇跡が起こせるか?」
相手は虚をつかれ、言葉を失う。が、すぐに相手は言葉を続けてきた。
「奇跡は神のもの。人が信じれば父なる神は我等に救いの手を差し伸べてくれる」
ウェッソンは思わず鼻で笑う。
「何がおかしい?」
「そうやって神に逃げてるうちは、お前に出来ることなどないさ」
ほんの僅かな優越感。
「その割には今日の君は慌てていた。私が本気ならば――」
「人間の生死はそれだけで奇跡だ。お前は、“死神”には勝てないさ」
ガラガラと馬車が通り過ぎていく。
もう、大分暗くなってきた。
「なれば、次は衆人環視の中、君に奇跡を見せてあげよう」
そう言って神父は軽やかに十字を切った。
「汝に救いのあらん事を――Amen」
そして、神父は去っていく。
後に残されたのは――。
「ええっと……」
サリーは訳も分からず、去っていった相手と自分を交互に見比べている。
「なあに、気にすることはないさ」
そう言いながら、ウェッソンは近くの壁に背中から倒れ込む。
「……ウェッソン!?」
サリーは慌てて支えようとするが、それを手で制し、そのままその場に座り込む。
「ちょっと疲れただけだ。今日は走ったから、な。少し休ませてくれ」
「だめですよぅ、早く帰らないと」
「いや、少しでいいんだ……」
そう言って彼女はため息をつく。
「仕方ない助手ですねぇ」
サリーは腰に手をあててため息をついた。何となく、テムズに似てきた気もする。
――しかし、何という様だろう。
対峙するだけでこの威圧感(プレッシャー)。
相手の姿が消えた途端に、緊張の糸が切れ、立つことすら出来なくなった。
そして今は、忘れていた二日酔いの頭痛がぶり返している。
こんな事で本当に守ることが出来るのか。
自分はただ強がっているだけではないのか。
「……ウェッソン?」
顔を上げれば、サリーが心配そうに覗き込んで来ていた。
「そろそろ帰ろ」
――彼女に心配をかけてはいけない。
出来る限りの笑顔を作り、彼は立ち上がった。
「……そうだな」
そして、二人は暗路を行く。
薄明かりを頼りに、二人は自分達の進むべき道を歩いていった。
少なくとも今ならば。どんな深い闇さえも――二人なら怖くはなかった。
《Chapter menu