The another adventure of FRONTIERPUB 46
Destiny 1

Contributor/哲学さん

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 気怠げな春の朝。
 閑散とした店内でテムズは一人、何をするでもなくぼーっと座っていた。
 胡乱げな目で扉を見つめ、夢現(ゆめうつつ)の間(はざま)にて彼女は静かに想像の世界へと滑り込んで行く。
 何か……例えばそう、何か素敵な出会いが起こる予感がする。
 今し方この店を通り過ぎようとしている豪華な馬車。
 例えばその馬車が店の前で止まり、素敵な王子様が現れて自分を迎えに来るかも知れない。
 だが、次の瞬間そんな子供じみた幻想を思いつく自分に飽き飽きし、テムズはため息をつく。
 いつの間にかそんな夢を鼻で笑う大人になってしまった。それを悲しく思えど、もはや夢ばかり見る子供に戻る気にもなれない。
 いつだって自分が望むのはそんな幻想ではなく、今の様な何でもない平穏なのだ。
 と、そんな心の嘆息に飽き飽きしていたその時、店の前でその豪華な馬車が止まった。
 思わずごくりとテムズは唾を飲み込む。
 固唾を呑んでテムズが見守る中、ギターケースを片手に見たこともない正装で降りてくる一人の青年の姿があった。
 それはまるで夢の中に出てくる王子様での様でもあり――そして、それは物語の中に出てくる



運命

− First day : この空の下に −



 ――素敵な出会いとはどんな出会いのこと言うのだろうか?
 それは概ね、後で振り返る時に、微笑むことが出来れば正解と言ったところだろう。
 けれど、彼との出会いはどちらかと言えば微笑みよりも苦笑が起こる。
 唐突で、余りにも早い展開。
 彼はいつも風のように現れては、彼女の奥へと入り込み、気が付けば居なくなっている。
 ただそれの繰り返しが続いていただけだ。
 彼は何処か非日常的で、退屈な毎日を突如華やかに彩らせてくれる妖精のようだった。
 少なくとも、うざったらしい荒くれ者達や、かわいげのないウサギ達よりはよっぽど幻想的ではあった。
「気に入ってくれたかな?」
 彼は優しく問いかけてくる。
 今店内にはテムズと彼――アリストの二人だけがおり、二人の間には優美なワルツの調べが流れている。
「ええ、さっきの騒々しい曲よりはよっぽど。こういう穏やかな方がいいわね」
 そう言ってテムズは微笑んだ。
 ちらりと店の端に目をやれば、ラッパの出来損ないが黒い円盤を回転させながら、聞いたこともない優しい調べを奏でている。
 それはレコードと呼ばれるものであり、音楽を記録し、好きな時に演奏できるものらしい。
 父が昔道楽で買った再生機(プレイヤー)はずっと昔から店にあったのだが、その使い方は教えられることもないまま、父は他界し、店の隅でそれはほこりを被っていた。
 そして、そのラッパの出来損ないは今――彼の手によって美しい音色を奏でている。
 ――まるで魔法の様に。
 彼は二枚のレコードを持参し、今はその二曲目を聞いている。
「『皇帝円舞曲』――J・シュトラウスが作曲したものをArnold Schoenberg(アーノルド・シェーンベルク)が編曲し……」
 彼は謳うように語ってくれる。
 この曲は編曲者としての個性がないと言う批判。編曲者はウィーン生まれであり、先日アリスト自身も縁あって貴族の友人の招聘を受け、ウィーンに行っていたこと。
 ウィーンは様々な音楽家がおり、大変興味深く、また、山に囲まれていてとても自然が豊かであったこと。
 等々、彼の口から次々とその経緯が語られていく。
 それはいつもの彼とは違い、どこか頼もしい雰囲気を醸し出していた。
「……まあ、結局新ウィーン学派の連中とはそりが合わなかったんだけどね。
 ……聞いてる?」
 問いかけられて一瞬詰まる。
「あ、ええ……その、ごめんなさい。私そう言うことには詳しくないから」
 慌ててその場を取り繕う。しかし、それは嘘であった。彼の話が分からないのは確かだが、何よりも彼に見とれていたのが本当の所だ。
 なんにせよ、今日の彼は違った。
 ウィーンで友人に購入して貰った高価な衣裳や整えられた髪、立ち振る舞い、それらは絵本の中から出てきた王子様そのものだ。
 白馬にこそ乗っていないものの、彼こそが――もしかしたら――テムズの王子様なのかもしれない。
――またアリサに馬鹿にされるわね――
 悲しいことに染みついた現実感が見事に自身の幻想を打ち砕く。幻想に浸りきれない自分をテムズは激しく悔やんだ。
 ふと、気が付けばアリストは彼女に向かって手を差し伸べていた。
 意図が掴めず、彼女は戸惑う。
「一曲お願いできますか、フロイライン(お嬢さん)?」
 その一言に彼女は彼の意図をくみ取った。
 ワルツを踊ろう、と言うのである。
 しかし、彼女は街娘でしかなく、彼のような――おちぶれているが――貴族ではない。
 嬉しさよりも戸惑いが。
 誇らしさよりも気恥ずかしさが。
 余りにも場違いで、不釣り合いな自分に彼と共に踊る資格などどこにあろうか。
 だが気が付けば、彼女の手は優しく引かれていた。
「……あ」
 踏鞴を踏むように――あまりにも不格好に――彼女は彼の体へと引き寄せられる。指と指が絡み合い、彼の優しい腕が腰に回される。
「ちょっと、……アリスト!」
「難しいことはないよ、簡単なステップだけさ。君は真似をすればいい」
 戸惑う彼女を無視し、彼は優しく微笑む。仕方なく、彼女は彼にあわせて、彼の腰に腕を回した。
「僕が足を引く、そしたら、君はその足を追う。また、僕は足を引く。それをまた、君が追う……ただそれだけのことさ」
 そう言って彼の体はふわりと後ろへ引き下がった。下を見れば彼の右足が後ろ――彼女から見れば前へと移動している。
 彼女の腰は彼によって抱かれているため、必然的に彼女は彼に引き寄せられる。
 彼女は慌ててそれを追った。
 見ていると彼の足はただ引くだけではない、横へ動いたり、こちらへと近づいて来たり。
 彼女は必死で彼の足を追いかけた。
「顔を上げてご覧」
 動きに慣れた頃、ふと、彼が言う。
 気が付けば驚くほど二人の顔は近づいていた。
「そのまま」
 その距離に戸惑う彼女に、彼は優しく囁く。
 それに従い、彼女はダンスを続ける。いつのまにか、何も考えずとも、自然に体は動いていた。
 ぎこちないながらも、まるでダンスを踊っているような気がした。
 曲が終わり、キィィィィと言う甲高い音が聞こえてくる。針がレコードからはみ出たらしい。
 だが、二人には関係なかった。二人の顔はゆっくりと近づき――。
ガタンッ
 突然の事態に彼女はびくりっ、と肩を振るわせる。思わず体ごと彼から離れてしまう。
「あ、……その、ごめんなさい」
 ――最悪だ。
 これではまるで自分が拒絶したようである。
「いや……いいんだよ」
 だが、彼は気を悪くすることもなく、笑って許してくれた。
「……と、僕もそろそろ出かけないと」
「もう行くの?」
 彼は先程来たばかりだ。出ていくのには早過ぎる。
「用事があってね。倫敦(ロンドン)には後数日いるから。また後でね」
 そう言って彼は倒れたギターケース――もしかしたら自分達にやきもちを焼いていたのかも知れない――を掴み、颯爽と出ていった。
「あ、レコード!」
「あげるって言ったろ?」
 店の外からそんな声だけが聞こえてきて――彼女が外に出た時にはもう、彼の姿は路地に消えていた。
 いつもの様に、彼の登場は唐突であり、別れもまた突然であった。

「…………」
 テムズはなんとも言えず路地を見つめる。今度はせめて酒の一杯でもおごってあげよう。そんなことを思いながら彼女はまた店の中へ――。
「……いい気なものだな」
「ひゃっ!」
 唐突に現れた声に悲鳴を上げる。
「……なななななな」
 テムズはかつてないほど心臓が高鳴るのを感じつつ、背後を振り向いた。
 そこには眼鏡をした黒ウサギが難しそうな顔をしてなにやら呟いている。
「……彼女ともあろうものが私に会わなければ大丈夫とでも思っているのだろうか。逃れられぬ運命と知っておろうに」
 だが、彼女はそんな哀愁漂う黒ウサギの言葉など聞いてなかった。
「い、い、いつからいたの?」
「……? 安心したまえ。覗き見をする趣味はないよマジカル☆ガール!」
 そう言って黒ウサギ――フォートルはウインクをする。
「そう? ならいいけど」
 そう言ってテムズは脱力し、店の奥へと戻っていく。
「しかし、マジカル☆ガール……あの男のコトは諦めろ」
「……な?」
 突然の言葉にテムズは眉をひそめる。気が付けば黒ウサギはいつになく真剣な表情で彼女を見つめている。
「後に残るのは悲しさだけだぞ」
「な、なにを偉そうに言ってんの?」
 その真剣な眼差しに思わずテムズは後ずさる。彼の言葉には年長者の重みが込められている。
「まず、甲斐性がない。この不景気の世の中、あんな男と付き合ってもいい結末があるわけではない。もっとこう、ルックスではなく、安定した収入と人脈を持つ現実的な……」

ぷちっ

「喋るウサギのどこが現実的よーっ!」
 テムズの怒りに呼応し、光と共に彼女の手元にリボンのついたハルバードが現れる。
「無詠唱起動(ダム・キャスト)だとうっ! すでにそのレベルに達しておったか!」
 感嘆の声を上げるフォートル。また一つテムズはマジカル☆ガールとしてのレベルをあげた瞬間であった。
「人の話を聞きなさいっ!」
 ハルバードは大きく旋回し、フォートルを横殴りに吹き飛ばす。
「見事だマジカル☆ガァァァァァァァル!!」
 一瞬にして黒ウサギの姿は星の彼方へと消えさった。ここにプロゴルファーがいれば400ヤード越えの夢を見たかも知れない。
 ――それはともかく。
「あー、こんな日常いや」
 うらぶれた宿屋の中で彼女は愚痴をこぼす。最近はこんな事も日常だと思えてしまう自分が怖い。
 もしかすると、自分は非日常と日常が逆転しており、アリストは普通の日常の中で生きてるから惹かれるのかもしれない――と、思うものの、出会った時既に乞食だった彼を思いだし、彼女は首を横に振る。結局自分の周りにはマトモな人間はほとんどいないのだろう。
 そんな達観が彼女の中に染み渡り、とぼとぼと彼女は店の椅子に腰掛けた。
「ほんと……誰か王子様でも来て私を浚ってくれないかしら」
 そう呟いた瞬間――奇跡は起こった。

ヒヒィィィィィィィィィィィィィィィィィン

 突如馬の嘶きと共に店の壁をぶち抜き、白馬が現れる。そこに乗っているのは――。
王子様っ!!?」
 思わず彼女はその言葉を叫ぶ。そう、彼は完全完璧、どこからみても王子様であった。
 ――と言うか、彼の名前は『王子様』だ。
「はっはっはっ! 久しぶりだね! テムズ!」
 そう叫ぶと共にその『王子様』は馬の背を蹴り、マントをはためかせて尋常じゃない脚力を持って店の二階へと飛び上がる。そして背後にあった扉――確かサリーの部屋のだ――の奥に消えた。
 そして白馬だけが店の外へと走っていく。
 そして彼の後を追うようにどかどかと警官が押し寄せてくる。
「御用だ! 御用だ! 謎の怪盗を追いかけろっ!!!」
「おおーーっ!」
 警官――と言うよりは警官の制服を着ただけの荒くれ者に見えるのだが――達は去っていった白馬を追いかけ、店の外へと消えていった。
 後には馬車一台が通れそうな大穴と、テムズだけが残される。
「…………一体なんなのよ」
 茫然と彼女は呟く。去っていった男達を見つめ……やがてその出てきた入り口を見て――彼女は絶叫した。
「ど、どうするのよこの穴……っ!!!」
 後で警察に請求すればいいのだろうか。いや、それよりも先にまず――。
バターン!
 見上げると急いで着替えたらしいサリーが息を切らせて部屋から出てきた。
「じ・じ・事件ですぅ!」
「遅すぎるわよ迷探偵!!」
 堂々と宣言する『我が家の迷探偵』にテムズは悲鳴を上げる。一家に一人居るととても便利らしいがとんでもない。最近現場にすら来ない探偵になんの価値があろうか。
 事件は現場で起きているのではない、サイフの中で暴れているのだ。
 テーブルと違い、木造建築の壁を修復するのはかなりの出費である。おまけにあの馬鹿ウマと警官共はことごとく床を踏み砕きご丁寧にテーブルを半ダースほど弾き飛ばしている。
 そう、つまりは――。
「今アリストを黒ウサギが諦めて、夜空に羽ばたけ明日の一番星が、白馬に乗った王子様が警官で、大穴が、ズドドーン、でテイヘンダーで、つまりは―――― と・も・か・く・大事件て言うか大・損・害よ!!」
 かつてない大損害を前にして意味不明な言葉を叫ぶテムズ。しかし、その意味を全て理解したのか、珍しく賢そうな顔で我が家の迷探偵は頷いていた。
「全て熟知! ですぅ!」
「へぇー、へぇー、へぇー」
 やる気のない言葉と共に隣の部屋から出てきた我が家のガンマンが頷く。最近怠けきってる彼はもう正午が近いというのに眠そうな顔をして、ふらふらと扉から出てくると……そのまま二階と一階を区別する手すりの上に突っ伏した。
「そこ、覇気が足りない!」
「いいじゃないか。日曜日くらい休ませてくれ」
「――いつも休んでるじゃない」
 なにやら漫才を始めた我が家のろくでなしにテムズはツッコミをいれる。
 しかし、それを無視してサリーは語りだした。
「これはそう、最近巷を騒がせている怪盗『ロンリネス大宇宙』の仕業に違いありません! 一体全体で実は絶対間違いありません!」
「……へぇ」
 テムズは知らないのだが聞き覚えはあるのでもしかしたら有名なのかも知れない。そう言えばこの前もサリーが騒いでいたような……。
「そう、それはまさに恐怖の権化!
 その怪盗は、美貌の持ち主です! 恐怖です!
 磁器人形のような繊細な顔立ちです! きょ、恐怖です!
 流れるような柔らかな金髪! ほ、ホントにホントに恐怖です!
 深い海のごときブルーアイズに貴族のような優雅な物腰です! こ、ここまでくると、も、もう悪夢としか言いようがないですぅ!」
 何故か怪盗の外見を述べながらいちいち恐怖する迷探偵。見ている間に顔面は青ざめていき、声も震えていく。
 と、背後で音も無く彼女の部屋の扉が開く。
「へぇ」
 その聞く者全てが恋に陥る様な魅力的な声にサリーは全身を硬直させた。
 磁器人形のような繊細な顔立ちに流れるような柔らかな金髪、深い海のごときブルーアイズに貴族のような優雅な物腰の『王子様』は微笑みながら、我が家の迷探偵を見つめる。
「と、ともかくこれは『ロンリネス大宇宙』の仕業に違いありません! 善は急げです! ともかく急げです!」
「あの、後ろの……」
「さぁ! ウェッソン! 立つですぅ! 可及的速やかに立つですぅ! そんなんじゃ立派な探偵助手になれないですよ! 早くホシを追うですぅ!」
「…………へぇ」
「だから、サリー、後ろ後ろ」
「ヨダレ垂らしてる場合じゃないですぅ! 目覚めよ、その魂ですぅ! アクセル・モードにフォーメーションですぅ!」
「ねぇ、聞いてる?」
「あーもー ゴゥ!  戦わなければ生き残れませんですぅ!」
 テムズの発言全てを無視し、サリーはウェッソンの首根っこを掴むと音よりも早く――これがアクセル・モードなのだろうか――彼女はロンドンの霧の中へとその姿を消した。
「いやぁ、せっかちな探偵もいたもんだねぇ」
 常軌を逸した俊速探偵を見送りながらその『王子様』は笑う。
「……怪盗『ロンリネス大宇宙』?」
 テムズは大穴とその金髪碧眼の『王子様』を見比べながら呟く。
「さぁ? 僕はき・み・の王子様のはずだよ」
 くすり、と笑いながら優しく彼はテムズの手を握ってくる。
 ……早い。
 いつのまに二階から一階の踊り場まで降りたのだろうか。
 だが、そんなことを考えるよりも早く彼の顔はドンドン彼女に近づいてくる。
パッポー
 正午を告げる鳩時計の音。
 ――助かった。これでなんとかこの場を。
 しかし、彼は止まらない。時間など愛の前には無駄と言うことなのだろうか。
 ゆっくりと彼の唇は近づいてくる。
――と、止まらない!!――
「じゅ、十二時だしそろそろ御飯にしないかしら?」
 即座に背後へ飛び退き、彼女は言う。かなり不自然だが仕方ない。
 ともかく、この変な空気を収めよう。
 そして大穴の被害届けを出そう!
 彼に背を向け、足早にカウンターの方へと歩く。
「……残念」
 肩を竦める『王子様』を視界の端に認めながら、テムズはほっと息をついた。何と恐ろしい。アリスト以上の手練れである。
 と、カウンターの上にだしっぱなしの「レコード入れ」――彼は「ジャケット」の方がおしゃれとか言っていた気もする――を見つける。
 取り敢えず、高価なものだし、しまっておいた方がいいだろう。
 ラッパの化け物から黒い円盤を取りだし、「レコード入れ」にそれをしまう。
「ベートーベン?」
 もう一枚の「レコード入れ」を見て『王子様』は呟く。
「興味あるんですか?」
 しかし、彼は肩を竦めると、一瞬にしてテムズに距離を詰めてきた。
「知らないね。……それより僕は君に興味があるかな」
「あ、えーと……」
 「レコード入れ」を手にしているせいか、一瞬脳裏にアリストの顔が浮かぶ。
「ちょ、ちょっと聞いてみたらどうですか?」
 あたふたと背を向け、必死でレコーダーのネジを回しながら彼女は言う。
 そして、ベートーベンのレコードを入れ、手を離した。
 キュルキュルと黒い円盤が回転し、出来損ないのラッパは歌い出す。
 ――生の哀しみと激しさを伝えるために。



 生きる哀しみとはなんだろうか。
 それは概ね、満たされることのない空腹のことだとウェッソンは思う。
 無理矢理店の外に連れ出されたかと思えば、いつの間にかサリーは居なくなっていた。
 あとに残るのは気怠い疲労感と、煩わしい空腹感……そしてどうしようもない無常感と言った所だろうか。
「…………」
 広場のベンチに腰を下ろし、灰色の街を眺める。大したことのない、いつもと同じ街だ。
 大分見慣れた……見慣れてしまった街だ。
 いつまで自分はこの街を見ていられるだろうか。いつまで自分は彼女と居られるだろうか。
 ――ふと、視界の端に二人の男女が飛び込んでくる。
 どちらも見知った顔だった。確かレドウェイト警部と――テムズの友人、アリサだっただろうか。
「だから、父さんは……だから、……なんですよ」
 特に他人のプライベートに突っ込むつもりはないが、それでもアリサの大きな声は嫌でも聞こえてきた。
 ため息をつくと、ウェッソンはパイプを取りだし、火を付ける。
 空腹の胃に煙草が入り込んでくる……そんな気がした。
 しかし、そんなことはあるはずもなく、きりきりと胃の痛みは和らぐことなく彼を襲う。
 しばらくして、溜息と共に彼の隣へレドウェイトが腰を下ろした。
 レドウェイトは人生に疲れたようにため息を吐く。
 煙草を取り出すのを見て、ウェッソンは何も言わず、火を差し出した。
 相手も特に何も言わず、ありがたく火を頂く。案外、自分より先に向こうはこちらに気付いていたのかも知れない。
 そして、ベンチで二つの煙があがりつづけ……やがて二人は同時にため息をついた。
「ハードボイルドも形無しだな」
 ぽつり、とウェッソン。
「彼女は上司の娘だからな。まあ、だからと言って公私混同していい訳はないはずだが」
 話の内容は警部が仕事ばかりで、妻を気遣ってないと言うものだった。同じ女性としてテムズの友人も思うところがあったらしい。
「あ……まあ、取り敢えずこの前うちのが世話になったな。礼を言っとく。それでなんか細君と――」
「そう思うならまともな仕事先か嫁ぎ先を用意してやれ。――探偵なんて素人でしかない」
 二人は視線をあわせることなく、淡々と呟きあう。
 広場のベンチはまるで不幸の掃き溜めのようだった。
 ぽつり、と「あいつとは上手く行ってる、どこが冷めてるってんだ」、と洩らすのが聞こえたが聞かなかったことにする。
「まあ……彼女にも色々ある」
 何があるのかは知らないが、取り敢えず言っておく。保護者失格かもしれないが、彼女には自由でいて貰いたい――と思う。
 その言葉にその中年の警部は恨めしげな視線をパイプの青年に向ける。
「じゃあせいぜい殺人事件には手を出さないでくれ。窃盗犯罪なら俺の管轄外だし文句はいわん」
 その言葉に彼が殺人事件担当だったことをウェッソンは思い出す。
 そして、窃盗を担当する二課は「御用だ!」しか言わない直情馬鹿が多くて仲が悪いとも聞いている。
 ……まあ、組織は大変と言うことだ。
「最近は怪盗とか言う奴等が全然掴まらず、奴等はこっちに八つ当たりまでしてきやがる」
 こちらの心を読んだように警部は愚痴る。
「でも、最近通り魔殺人多いらしいじゃないか。人のことはいえんだろ」
 煙を吐きつつ、ウェッソンはサリーの言っていたことを思い出す。
 「切り裂き人間ベン(サリー命名)」とか言う通り魔が最近横行しているとか。
 無論、こちらも掴まっていない。
「ぐーたらと税金も納めてなさそうなギャンブラーに言われる事じゃないな」
「……それもそうだな」
 そして、二人は同時に息を吐く。
 もわもわと煙は空へと昇っていく。
 聞こえてくるのは鳥の声、人々の足音、穏やかな風の音――。
『…………』
 二人は何も言わず、同時に息を吐いた。
 再び静かに時間が流れる。
 平和。
 絵に描いたような平和。
 何もすることがない。
 灰色の空の下、うだつの上がらない男二人はただ茫然と街を見つめる。
『…………』
 二人は同時に立ち上がった。それぞれ何も言わず、パイプの灰と煙草を処理する。肩を並べて几帳面なことだ。
「じゃ、奥さんによろしくな」
「……独身者(しろうと)が口を出すな」
 二人は苦笑いと共に反対方向へと歩き出した。
 世界は概ね平和であった。

――願わくばこれがいつまでも続きますように。――




 程良い香りが彼の鼻孔をそそる。匂いに誘われて喉の奥でゆっくりと唾液が出てくるのを彼は自覚した。
 存分にその香りを味わい、彼はそっとそれを口にする。
 ゆっくりと、その味を隅々まで口の中へと染み渡らせる。
「……見事。流石サマンサ様。よい葉を使っておられる」
 英国紳士たる彼はお茶の時間を忘れない。それと共に、食通でもある。
 その彼を満足させるお茶を出したかの貴婦人は相当の識者である。
 無理もない、かつてはあの国の王族だったのだから。
「ほっほっほっ、アンディ坊やも言うようになったものじゃな」
 対峙する好々爺に笑われ、彼は苦笑する。
 自分も既に相当の年齢だが、相手に比べるとまだまだ子供らしい。
「相変わらず、北の冒険王はご健在の様ですな」
「そんな下らないことを言いにきたのかね。賛辞にもならんよ」
 老人――ネルソンは溜息と共に手元の黒い駒を進めた。
 老人の唯一の趣味――チェスである。
「いやいや、貴方と戦う為に馳せ参じたまでです」
 カチ、と彼の白い駒が動く。
「それは有り難い。最近では挑戦者もいなくなってな」
 彼の防衛ラインを突き破るように黒い騎士が王へと斬り込んでくる。
「……む」
 それに対し、白き王はただ一歩、前に進んだ。
 だが、次の瞬間、白き王を守護していた白き僧侶が一瞬にして黒き騎士に切り捨てられる。
 鉄壁の防御を誇っていた白の王国は内部より崩壊が始まる。
「……チェック」
 黒き騎士から逃れるため、防衛ラインをくずし、白き女王が黒き王を射程に捉える。
 だが、それも王の入城により、手の届かぬ所へと逃げられてしまう。
 黒き王は鉄壁の城の奥へと消え去り、行き場を失くす女王。
 しかしその女王が牽制となり、黒き騎士はうかつに動けなくなる。更に退路を断つため、白い兵士が前進する。
「後継者は出来たのかね?」
 不意に、ネルソン老が聞いてくる。
「孫はいいものじゃよ」
 笑みを浮かべながら、相手は黒い兵を前へと動かす。言葉とは裏腹に白い女王の行き場を封じる鋭い一手だ。
「立派なご子息がいらしたでしょう?」
「うちには馬鹿息子しか居らぬ」
 あっさりと皮肉を流され、彼はため息をつく。仲直りしたと聞いていたが、どうやら本当らしい。よい老後を送って居るようだ。あと、女王は諦めるしかないらしい。
 もう一人の白い兵は黒騎士を討ち取るために前へと進む。
「まあ、甥も可愛いものですよ。死ぬ前の弟によく似てとても賢い」
 彼の見ている前で白い女王は戦列をかき分けて飛んできた黒き僧侶に討ち取られる。神の力とは恐ろしいものだ。慈悲もない。
「おお、あの子に家督を譲るのか。ならば安心じゃな。平和な領地となるじゃろう」
「――どういう意味でしょう?」
 苦笑しつつ、白き騎士が前へと進む。瞬間、あっさりと戻ってきた黒い僧侶に白き騎士は討ち果たされる。
「……あ」
 僧侶は斜め直線上ならどこにでも動ける。
 ――戦略の初歩だ。
「やはり君は実戦派のようだな。頭であれこれ考えるのは向いてない」
「ええ、その様で」
 アンドリュー・J・ペンウッド男爵は苦笑しつつ、投了(リザイン)を宣言する。六十数年のキャリアも目の前の老人の前では霞んでしまう様だ。引き分け(スティルメイト)にすらもって行けない。
「新大陸はどうだったかね?」
「汚い場所ですよ。黄塵の舞う無法者の街。貴方の思い描くようなジャングルはどこにも」
 肩を竦め、出されている紅茶に手をつける。
「だが、地図の空白がある。そこを埋める為に儂等は命を賭けていたのだよ」
 人の地図はどうにも不完全で、そこには未知が待っている。それを埋める為、人は海を越え、誰も知らぬ財宝を求めて荒野を行く。
「まあ、さすがにあの大陸の空白はほとんど無くなりましたが。黄金はどこにもありません」
「宝が必ずあるとは限らない。空白に理想郷があるとは限らない。それを知るのに何年もかかってしまったがね」
 ネルソン翁も笑いながら、紅茶を啜る。
 二人の間には静寂のみが許され――。
カラン・コロン……
 老夫婦が営む骨董屋の扉が開かれ、古ぼけたベルが鳴る。
 そして、ドタドタと慌ただしい足音が店の奥へと近づいてくる。
 居並ぶ骨董品を押しのけ、金髪おさげの、眼鏡をした少女が現れる。
「こんにちは、サリーちゃん」
「こんにちわ、おじいちゃん! また弱い者イジメしてるんですかぁ」
 彼女の言葉に一瞬紅茶を吹きかける。だが、英国紳士たる彼はそこをぐっと堪え、紅茶を飲み干した。
「ほっほっほっ、彼はちっとも弱くない。儂が強いだけじゃ」
「おじいちゃんすごーい!」
 彼女が孫だろうか。いいや、そんなはずがない。孫は男児だったはずだ。むしろこの娘は――。
 彼が見ている間に二人はたわいもない会話を続ける。
 たわいもない、本当にどうでもいい会話。
 そこには国の行く末も、財宝も、ロマンもない。
 ただ、それだけで……大切な会話。
「さて、私はそろそろ失礼させて頂きます」
「そうかね。サミィ! 彼にみやげを!」
 台所にいる老女に翁が呼びかける。
「……! おばあちゃんはサミィ・オールドマンだったんですかぁ! 初めて知ったですぅ!」
「おお、旧い友人と会っていたので……つい、のぅ」
 気恥ずかしいのか紅茶を飲み、言葉を濁す。だが、少女はそれ程聞いてこず、また別の会話を続ける。
 彼女は他人の過去に興味がないのだろうか。
「では、次はあの世あたりでお会いしましょう」
「ほっほっほっ、それはいいかもしれんな」
 笑う男達に対し、少女は顔を曇らせる。
「そう言う言い方はよくないですぅ」
「なあに、先に死ぬのは私の方だよ」
 外套を羽織りながら、アンディは肩を竦める。
「どうしてですかぁ?」
 あまりな言い方にさすがに彼女も聞いてくる。どう考えてもアンディよりネルソン翁の方が高齢だ。
「私は若い頃は軍人だった。国のためとはいえ、数々の人をあやめてきた。生きていていい人間ではないのだよ」
 その言葉に彼女は首を振る。
「そんなことはないですぅ! 誰かの為に戦ったのにそんなことって……」
 内心しめた、と思いながら彼は言葉を続ける。
「軍とはおかしな所でね。命令次第では意味のない殺しや、見せしめ、拷問までやってきた。とても天国にはいけそうにない」
「それでも! おじさんは誰かの為に生きてきたんだし、その失敗をこれから取り返せるはずですぅ!」
 少女は必死にこちらを元気づけようとしている。本当に、こちらが後悔してると思ってるのだろう。純粋なことだ。
「老い先短い私が?」
「価値のない時間はないですぅ! それと同じで、意味のある時間に長さは関係ないですぅ!」
 彼女はそう叫び……じっとこちらを見つめてくる。
 眩しい瞳だ。自分には勿体ない。
 ――あの男は幸せだ。
「はは、柄にもなく感傷的になっていたようだ。すまないことをした」
 サマンサ媼から土産を受け取ると、彼は立てかけていた杖を握り、立ち上がる。
「ありがとう、元気づけられたよ、お嬢さん。……では」
 ネルソン翁との挨拶も終え、彼は店の外へと向かう。
「……おじさん」
「なんだい、お嬢さん?」
「簡単に死んじゃダメですよ」
 その言葉に彼は目を瞬かせる。そんなに自分は死にたがりに見えたのだろうか。
 いいや、むしろ試されたのは自分であり、彼女に自分も知らない本心を吐露してしまったのだろうか。
 ――だとすれば、彼女は想像以上だ。
「ああ、肝に銘じておくよ」
 少女に笑みを向けると、彼は店の外へと足を踏み出した。
カラン、コロン……
 パタン、と背後でドアが締まる。
「……ふむ、私も簡単には死ねんな。……いい娘(こ)だ」
 そして、視線を右へとゆっくり移動させる。
「君もそう思わんかね?」
 こめかみにひやりと冷たい感覚が伝わってくる。
 何年も何年も彼はこの感覚と共に生きてきた。
 だが、それ以上に――感じたことのない殺気が右頬に突き刺さる。

「……何をしに来た?」
 感情のない冷たい声。
「いい声をする。ゾクゾクするよ。平和ボケ? とんでもない! 親友(エアロ)の言うとおり君はまだまだ現役だ」
「何をしに来たと聞いている?」
 相手の瞳は先程の少女とは違い、親しみのわく瞳をしていた。それは、
 ――人殺しの目だ。
「言葉を忘れたのかね……死神?」
 アンディはこめかみを小突かれ、肩を竦める。
「安心したまえ。私はTPOをわきまえている」
 その言葉にやっと相手は銃を降ろす。
「そうだったな。"血塗れ紳士"」
「懐かしい名だ。しかし、君は勘違いしてないかね? 私は殺人狂ではない」
「そんなことはどうでもいい。質問に答えろ」
 "死神"は性急に結論を急ぐ。
「旧友に言われてね。息子の相棒を連れてこいと」
「寝言だな。理由がない」
 きっぱりと死神は断る。だが、そんなものは戯言でしかない。
「理由ならある。君に平和は似合わない」
「――――」
 背後で声が聞こえる。
――『もう遅いし、そろそろ帰りなさい』――
――『はーい』――
 ネルソンとサリーの何気ない会話。
「理由を付け足してやろうか? ――――復讐なんてどうかね?」
 その言葉に死神は瞳の色を変える。
――『おじいちゃん、さようなら〜』――
 ドタドタと乱暴な足音が近づいてくる。
 その元気な足音は分厚い扉の奥からでも余裕で聞くことが出来る。
 後4歩。
 3歩。
 2歩。
 扉の前。
「銃を引いたのは間違いだったな」
 にやりと笑いながらアンディは荷物を落とし、仕込み杖を両手で持つ。中には白刃の刃が――。
「やめ――」
 声にならない悲鳴と共に死神は腕を伸ばし――。
「……何してるんですか? ウェッソン」
 きょとん、とサリーが死神――ウェッソン・ブラウニングを見つめ返す。
 その間に、アンディは杖をつきながら落ちた荷物を拾っている。
「ああ、おじさん。まだ帰ってなかったんですねぇ!」
 サリーはすぐにアンディを手伝い、落ちた荷物を拾う。
「どうも。有り難う、お嬢さん」
「いえいえ、たいしたことないですぅ」
 笑う少女に対し、ウェッソンは何も言えず、どっと疲れた表情をしている。それはまるで死人のようだ。
「……サリー」
「なんですかぁ?」
「先に帰ってくれるか? 俺はペンウッド卿と話がある」
 その言葉に一瞬首を傾げたものの、アンディが頷いたのを見て、手を振りながら元気よく彼女は去っていった。そう言えばあのお嬢さんには名乗っていなかったかもしれない。
「そんな事じゃ彼女を守りきれんよ。精進したまえ、死神」
「……黙れ」
 にやりと笑うアンディに対し、彼は苛立たしげに言い捨てる。
「この街にベンジャミン・シールが来ている。彼は君との対決を臨んでいる」
「ベンだと? 何故そんな危険人物を」
「彼は君と彼女の関係にも非常に興味を示していた。後は自分でなんとかしたまえ」
 そう言うと帽子を直し、アンディは歩き出す。
 ベンジャミン・シール。かつて死神や、悪魔と共に戦場を脅かした殺戮の使徒。
 その勢いは衰えることもなく、アンディが接触を持った時も、歓喜の余りこちらが殺されかけるところだった。
 だが、彼は死神という餌に食い付いた。
 かくて、戦いを欲す狂気は街へと放たれ、死神を求め、彷徨っている。
 止められるものは誰もいない。
 ―― 一人を除いては。
「ちっくしょう……なんで放って置いてくれないんだ。なんでやってくるんだ?」
 夕暮れの街に死神の恨み言が響く。
 それに対し、ただ彼は静かに呟いた。
「さぁ? そういう運命なのかもしれんな」
 ただ静かに闇の帳(とばり)が落ちてくる。
 それは誰にも止めることは出来ない。
 だが、それは永遠ではない。
 夜が来ればまた、朝が来るのだ。

――願わくば、彼に平穏な朝が来ますように――





「久しぶり、テムズ」
 夜の訪れと共に漆黒の美女が宿を訪れる。
「あら、おかえりなさい。相変わらず突然ね」
 テムズはそう言いながら、カウンター席に布巾をかけ、美女――ヘレナに促す。
「まあ、私にも色々あってね」
「ふーん、じゃあ誰と飲んでたの?」
 テムズの言葉に一瞬キョトンとするものの、すぐにヘレナは肩を竦める。他の店で飲んだ酒の匂いは取れていなかったようだ。
「さすが酒場の主」
「なんか酒豪なおっさんみたいでいやね」
 言いながら、二人で笑いあう。
「あー、やっぱり此処だったのね!」
 図ったようなタイミングでアリサも店にやってくる。
「街で見かけたから今日は来てると思ったのよ!」
「あーそう言えば、あの大穴見てよ! 後で被害届書くけどおじさんにも話通しておいてね」
 ヘレナの隣に座るアリサ。
「えー、公私混同はよくないわよー」
「っていうか毎回思うけどおじさんの部下にろくな人居ないんじゃない?」
「ひっどーい! テムズこそろくな男と付き合ってないじゃない?」
「……っと、注文が来たから行ってくるね」
 そう言ってテムズは客席の方へ走っていく。後ろで逃げられたか、と聞こえた気がするが気にしない。
 なんとなく、くすりと笑う。
 いつもと変わらない平和。
 いつもと同じ平和。
 いつまでもいつまでも――この平和が続きますように。



 ――笑い合う酒場の裏で。
 彼は空を見上げる。
「……どうすればいい」
 彼は呟く。
「ウェッソンはまだ帰らないんですかぁ?」
「ええ。そう言えば遅いわね」
 店の中で声が響く。
 びくり、と彼は肩を振るわせ――そして宿の方へと歩いていく。
 そこは慣れ親しんだ――彼の家だ。ためらう理由などない。
「すまん。遅くなった」
「おかえりなさい、忙しいんだから手伝ってよね!」
「まったく、どこいってたんですかぁ!」
 サリーが瞳の端を吊り上げる。
「……すまない」
「まあいいから、これ五番テーブルに運んで!」
 ぽぽいっと大皿を投げてくるテムズ。
 それを超人的な動体視力で受け止め、彼はいそいそと五番テーブルへと歩き出す。
 変わらない日々。
 此処にいる理由ならある。
 ここから出ていかない理由もある。
 迷うことはない。
 ――けれど。
「…………お待たせしました」
 無愛想な顔をぶら下げ、ウェッソンは皿を置く。
「元気ないな兄ちゃん」
「……え?」
「いつも来てるんだから分かるっつーの!」
 酔っぱらいのたわいもない言葉。
「ほら飲め。わぁしのおごりだ。」
 大したことではない。
 名前も知らない常連の言葉。
 ただそれだけの言葉。
 その言葉に――ウェッソン・ブラウニングは涙した。




そしてまた日は暮れていく――。

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