The another adventure of FRONTIERPUB 30(Scene 1)
彼はただ一人、盤面に向かい、チェスをうつ。
いや、一人ではない。その前には一人の男が視えている。
「しかし、君も上手くなった物だ。初めて会った時にはルールすら知らなかったのだからな」
相手の言葉に彼は苦笑する。
「『英国紳士がチェスを知らぬとは言わせぬ』ですか。初めて会った時は驚きましたよ」
彼は静かに、囁くように言った。そして、相手のコマを動かす。そして、再び盤面を凝視する。すると、相手が話しかけてくる。
「君ほどの冒険家を私は知らない。君は、私が知りうる限り最高の冒険家だ」
その言葉に彼は恭しく礼をする。
「ありがたき幸せです。王よ」
そのかしこまった態度に相手――王は苦笑し、肩をすくめる。
「よせ、お前には娘をやった。我が誇り高き娘をな」
「かに光栄なことは後にも先にも、それが最後でしたよ。彼女のおかげでもう、冒険できなくなりました。帰るべき場所が出来てしまいましたからね」
そう言って彼は自分の駒を進めた。
「お、そう来たか」
王は彼の打った手に黙り込み、何も言わなくなった。ただじっと盤面を睨んでいる。
そして、ふと顔を上げると王は何か懐かしむような目で聞いてきた。
「今、幸せかね?」
その言葉に彼はゆっくりと頷いた。
「ええ、幸せです」
その言葉に満足したのか、王の姿はニッコリと笑うと共にかき消えた。
後にはただ盤面を前にして座る老人――ネルソン=オールドマンだけが残される。
彼が年老いて手に入れた物は沢山ある。それは平穏であり、無情の愛だ。
愛すべき妻を得、息子、そして孫までも手に入れた彼にはもう、望むものはない。熱き冒険は若き日に数多くこなしてきた。その最大の勲章たる妻も、自分ももはや冒険を求めない。
ただ、静かに終わりを待っているのだ。
しかし、人は過去から逃れることは出来ない。
今でも色々な情報が望まなくても転がり込んでくるし、それをアテにして数多くの冒険者達がネルソンの元に訪れている。彼はそんな若き後輩達が好きであり、また冒険の成果を聞くのも好きであった。
たとえ、引退した今であっても自分は冒険王であり、英雄であることに代わりはないのだ。たとえ、それがどんなに仮初めであるとしたとしても。
今また消えようとしている彼にはただ一つ気がかりなことがある。愛すべき隣人サリーの保護者たるウェッソン=ブラウニングのことだ。
人は過去より逃れることが出来ない。
だが、あの若者はそれを知っていてなお、過去を否定しようとする節がある。何よりも行うべきは『あるがままに真実を受け止め、前へ進むこと』である。果たして、彼には全てを受け入れる時が来るのだろうか?
分からない。ただ、今まさに消えゆこうとしている自分としては、あの若者が――ウェッソン=ブラウニングにその時が来ることを望むのみだ。
「願わくば……あの青年に幸あらんことを」
ネルソンはそう言うと、ゆっくりと地に崩れ落ちた。チェスが床にばらまかれていくのを感じる。自らの血が赤く床を染めていくのが分かる。
気が付けば、ネルソンの前には一人の男が立っていた。暗がりの中、一人細く笑んでいる。
「まずは一人……」
男はそう言って扉の方を見る。そこには一人の老女が居た。それは愛すべきネルソンの妻だ。
それに気付いた瞬間、ネルソンは手を伸ばし、体を震わせながら何かを呟こうとした。
だが、それは無情にも一発の銃声にかき消されることとなった。
そして、かつて無い殺戮劇が今、幕を開けようとしていた。
「テムズ!」
その知らせがフロンティア・パブに届いたのは深夜だった。
「今何時だと思ってるの? それとも何? ヘレナがまた帰ってきたの?」
テムズは久しぶりに熟睡していたところをたたき起こされ、不機嫌になりながら親友の訪問に文句を言う。
「ね? ね? オールドマンさんとは知り合いだったわよね?」
口早にアリサが訊ねてくる。
「オールドマン? ああ、時々サリーが遊びに行ってたチェス好きの老人の名前ね。それがどうしたの?」
「あ、あああ、あの、あのあの……」
アリサは酷く慌てながら何かを言おうとし、そして口籠もる。
そのただならぬ様子にテムズはハッとする。相手は老人だ。言ってしまえば、いつ死んでもおかしくはない状態にあるのだ。
「まさか……いや、でもなんでアリサが?」
その言葉にアリサは黙り込み、先ほどとはうって変わって不気味なくらいに落ち着いて言葉を吐く。
「私のお父さんは警察署長なのよ」
その言葉にテムズは静かに血の気が引いていくのを感じた。
ガタン
突如背後で物音がする。
振り返ると金髪の少女がパジャマのまま立っていた。何故か片足がバケツの中に入っていたが、その事には気にせず、彼女は聞いてくる。
「おじいさんはどうなったんですか!?」
その言葉にアリサは重い口を開いた。
「あの人は……」
港にて。
二人の男がため息をついていた。
「今回もダメだったスね」
「全くだ」
巻き毛の男の言葉に、引き締まった筋肉をもつ黒髪の男は力無く答える。
「……せめて大陸棚に沈んでいれば」
「……言うな」
「すいません……アニキ。自分が泳げなかったばっかりに」
「関係ねーよ。テリー。これはオレの過失だ。キャプテン・シュノーケルの海底財宝――まさかあんな深いところに沈んでいたとは」
「誰も手を出せなかったわけっすね」
そして二人は同時にため息をつく。そこへ、一人の老人が近づいてくる。
「君達は倫敦(ロンドン)に行くのかね?」
その言葉にアニキとテリーは顔を上げた。そこには二丁の銃を腰に下げ、カウボーイハットを被った老ガンマンが立っていた。
余りにも場違いなその姿にアニキは眉をひそめる。そんな格好をしているのは新大陸で夢を見る荒くれ者達ぐらいだ。ここ霧の街倫敦において、こんな格好をしている者は何処にも居ない。
「そうスっ! 今宵はこの哀しみを酒で流すしかないッス! で、何か用っスか?」
テリーの言葉に満足げに老人は頷いた。
「伝言を頼みたい」
「伝言?」
オウム返しにテリーは聞く。だが、その横でアニキは静かに緊張を覚えていた。その老人からは血の臭いがした。いや、本当の血の匂いではない。長年に渡って人殺しを続けてきた者だけが持つ、きな臭い殺意や硝煙の匂い、そして死の気配が血の臭いとなって老人の体にまとわりついているのだ。
少なくともこの老人は、いつでも自分達を殺すことが出来る。それを自覚しつつ、アニキは聞いた。警戒と、殺意を込めて。
「へえ? どこの誰に?」
「場所はフロンティア・パブでいいはずだ。一言そこの住人へ伝えて欲しい。儂は新大陸に息子を追いに行かねばならんのでね」
老ガンマンはアニキの覇気を軽く流し、ニヤリと笑いつつ答えた。
「死神ニ訪問者アリ、とな」
「で、容態はどうなんだ?」
ウェッソンは頭を軽く掻きながら答える。対する医師の表情は重いモノだ。
「一命は取り留めている。だが、いつ死んでも不思議ではない」
なじみの医師――ジェフリーはそう言って看護婦にカルテを持ってくるように指示する。すると、看護婦は慌ただしくカルテを抱えて走ってきて、そしてウェッソンとジェフリーの間の床に転げ落ちた。
「……アリス」
床に落ちたカルテを拾いながらジェフリーは言った。
「減点2だ」
そう言ってカルテを縦にしてアリスと呼ばれた看護婦の額を叩いた。
「ぎゃーすいません!!」
アリスはその痛みにやや涙しながら叫ぶ。
「……こんなのがいたんじゃ死なない者も死ぬんじゃないか?」
ウェッソンは顔を引きつらせながら更に強く後頭部を掻いた。
「安心しろ。夫妻には完璧な看護婦を付かせている。彼女が見ている限り、医療的ミスは一切心配ない。ただ……」
ジェフリーは待合室を見る。そこにはいつもよりも包帯を巻く患者が多い。
「あの夫妻以外の安全は余り保証が出来ないのが難点だ」
見てるとアリスは骨折している患者の患部に思いっきり倒れ込んでいた。再び待合室に悲鳴が上がる。
なんとなくそれを聞こえないようにしながらウェッソンはジェフリーの診察結果を聞く。
「急所はなんとか外れているものの、老人の体力だ。昔ならばともかく、今の彼等では、……な。しかし、大したものだな」
カルテから顔を上げ、ジェフリーはため息をつく。
「何が?」
「腐っても鯛と言う奴だ。二人とも急所をはずしつつ、かつ、非常用の呼び出しベルを押している。抜け目が無いというか……さすがかつての冒険王と言ったところだ」
「冒険王?」
ジェフリーの言葉にウェッソンが首を傾げる。
「かのご老体は昔は名のしれた冒険家だったのだよ。人間、どこで何が役に立つか分からないものだ。時々あの老人が宝の地図を持ってくるのはそうした過去の遺産だよ」
その言葉にウェッソンは思わず後頭部を掻く右手の動きを止める。
「過去……か」
「どうした?」
「いや、なんでもない」
ウェッソンは苦笑する。我ながら神経質なことだ。今更そんな単語に反応するとは大人げない限りだ。
ウェッソンの態度になにか思うところがあったのかジェフリーは話題を変える。
「あの娘(こ)は?」
「サリーは帰したよ。面会謝絶だしな。しかし、あのご老体にそんな過去があるならば犯人を特定できないな。また危ないことに首を突っ込まなければいいが」
ウェッソンはため息をつく。そんな事は無理だからだ。さっきも待合室で叫んでいたからだ。
「絶対絶対犯人を捕まえてみせるですぅ!!」
っと。そこには壮絶なる探偵的決意があったとかどうとか言っていたが、取り敢えず、本気なのは確からしい。いや、いつだって彼女は本気だ。それだけに質が悪い。
「守ってやれよ」
ジェフリーは軽くカルテでウェッソンの背を叩く。
「え?」
虚をつかれてウェッソンは呻く。
「あの娘(こ)の事だよ。保護者なんだろ?」
その言葉にウェッソンは顔を引き締めながら、力強く頷いた。
「ああ、命に代えてもな」
「この事件はまさに人生最大の試練ですぅ! 探偵行くところに殺人あり! 探偵的法則が当てはまってきたですぅ! 取り敢えずここはウェッソンに何気なく決定的な証拠を持ってきて貰ってそこから探偵的インスピレーションで全てのトリックを解決してやるですぅ!!」
サリサタ=ノンテュライトは一人気合いを込めながら歩いていた。辺りには誰もいない。霧が多いためだ。
霧は街を包み、全てを曖昧にする。人も、事件も。ただでさえ人の少ない霧の日に、昨夜の事件のためか更に輪をかけて人が少ない。
そう、いつ殺人鬼が霧の中から現れるともしれないのだ。
しかし、そんな危険性を考慮せず、彼女は一人大声を上げながら霧の街を急ぐ。
「あ、でも全然殺人現場は密室じゃなかったですぅ! ミステリーですぅ! 密室以外の殺人なんて有史以来の大事件ですぅ!」
と、そこで彼女は立ち止まり、ポンっと手を叩いた。
「あ、そう言えば殺人事件じゃないですぅ! っていうかネルソンさんは絶対に奇跡的に助かって犯人を証言してくれるはずですぅ!」
うんうんと自分の完璧な推理に納得しながらサリーは歩き出す。そう、あの老人の仇はきっと自分が果たし、かつ、意識を取り戻した暁には自分の推理を裏付ける証言をしてくれるはずなのだ。
「まずは『まるまるタイムズ』を買いに公園へレッツゴーですぅ!」
そう言って走り出そうとした時、サリーはぽんっと肩を叩かれた。
とっさに肩の上にのった毛むくじゃらな物体を掴み、彼女は叫んだ。
「犯人はあなたですねぇ!」
びびしっと指を突き付け、サリーは背後の人物に叫んだ。
「あ、あ、あ、あ、アニキ! 自分は犯人みたいス! やばいッス! 捕まってしまうっス!」
掴まれた相手――テリーは酷く動揺しながら傍らにいる相棒たるアニキにすがる。
「馬鹿。お前は何か後ろめたいことでもあるのか?」
アニキは苦笑しながら軽くテリーの背を叩く。
「胸を張れ。俺達は誇り高きトレジャーハンターだろうが」
その言葉にテリーは感涙しながらアニキを尊敬の眼差しを向け、叫んだ。
「そうだったっ!! 自分は誇り高きトレジャーハンターっす! 海の男ッス! 犯人なんかじゃないっス!」
「うう――違うですかぁ……すいませんですぅ」
サリーはあっさりと手を離すと直ぐさま謝った。その変わり身の速さに驚きつつも、アニキは当初の目的である伝言を頼む。
「あー、実はフロンティア・パブ相手に伝言を頼まれて居るんだが……」
「伝言……ですかぁ?」
「ああ、なんでも『死神ニ訪問者アリ』とかどうとか……」
と、唐突にアニキは少女を突き飛ばした。
「はうぅ?」
サリーが恐る恐る顔を見上げると、そこには鍛え抜かれた胸の中心から血を吹き出すアニキの姿があった。
それは質の悪い冗談に見えた。アニキはいつもと変わらず油断無い、逞しい顔をしている。しかし、その胸からは赤い血がゆるゆると流れている。
「あ、あ、……」
隣にいるテリーが何かを言おうとして口を動かす。しかし、結局何も言えない。普段は饒舌なその口も今は力無くふよふよと動いている。
まるで魚みたい……とサリーは思った。しかし、気が付けばアニキの顔は青ざめていき……そしてぽつりと呟いた。
「……まさか……オレとしたことが……な」
そしてゆっくりとアニキは後に倒れていく。そして相棒の絶叫が木霊した。
「……え?」
サリーは未だ何が起こったか分からなかった。彼女は何も分からなかった。
ただ、テリーも倒れた時、やっと悲鳴を上げることが出来た。
ウェッソン=ブラウニングはまどろみの中にいた。
昨夜に続き、二人も知り合いが襲われた。
もはやこれは偶然では無かった。
サリーに恨みを抱く者などいまい。テムズは……なんとも言えないが、まあ、恨みを抱いても復讐をしようとする者はいまい。
そして、自分だ。
自分に恨みを持つ者など幾らでもいる。それは過去の遺産……いや、過去の遺物だ。
例えどんなに大目に見たって、数年前までの自分はいい人生を送ったとは言いがたい。
後悔はない。だが、今それに戻る訳には行かない。今の自分は一人ではないからだ。
自分は――彼女と居るべき人間ではないのかもしれない。それは薄々感づいていたことだ。
しかし、それでも彼女には自分が必要であったし……何よりも自分は彼女の笑顔を求めていた。
かつて、ウェッソンは数々の女性と同じ時を過ごした。
ある者は死に、ある者は永遠の決別を、ある者は熱き再会を誓った。
だが、それらのどの女性よりも、サリーは特別だった。
愛を求めあうこともなく、共にいるだけで心を救ってくれる女性はサリーだけだった。
空虚な空白を埋め合おうとしても、彼女以外の女性とは共に墜ちていくばかりだった。
いや、そうではない。それは今まで付き合った女性達に対して失礼な話だ。
正確には幸せを維持できなかった……と言うべきか。
誰とも最初は本気であったと今でも言うことが出来る。そして、幸せだったはずだ。
だが、戦いの日々は直ぐにそれを泥沼へと追い込む。
そして、辿り着くのは破局だ。
今残るは一人の少女のみ。別に、妻に娶ろうと言うわけではない。ただ、共に暮らす。それだけでいいのだ。
しかし、過去はそれを許さない。
今再び自分にその毒牙を剥こうとしている。静かに音を潜め、今もその呼吸を潜め自分を待っている。
扉を叩く音がした。その言葉に彼は飛び上がり、枕元にある銃に手をあてる。だが、しばらく待って返ってきたのは少女の声。
「ウェッソン?」
その言葉に全身の緊張を緩めながら、銃から手を離す。馬鹿馬鹿しい限りだった。
「どうした? サリー」
声が上擦ったのは仕方のないことだった。だが、それでも彼女が扉を開ける頃にはいつもと変わらないやる気のない疲れた顔を見せる。いや、そう出来たはずだと思いたかった。
「あのね……アニキさんが伝言があるって言ってたの」
その言葉にウェッソンは首を傾げる。軽く右手を後頭部にあて、髪を掻く。
何だろうか? 彼等には何度もサリーを助けて貰っている。しかし、今はその事を言うべきでは無いことくらい彼女も分かっているはずだった。
いや、もしかしたら彼等の遺言となるべき言葉だ。何か意味があるのかもしれない。
……どうかしている。まだ二人が死んだとは決まっていないのに。
「……で、その伝言って?」
「あの……」
サリーはそこで口ごもる。いつもハキハキとした口調の彼女には珍しいことだ。
だが、あんなことのあった後だ。無理もない。だが、次の言葉を聞いてウェッソンは凍り付いた。それは……紛れもない過去からの宣戦布告であった。
「死神ニ訪問者アリ……って」
再びウェッソン=ブラウニングはまどろみの中にいる。
それは深い過去との対面だ。
人は眠るときに記憶の整理をしているという。
そして、遙かな過去からゆるゆると忘れていた。いや、忘れた振りをしていた過去が浮かび上がってくる。
それは――セピアの情景だった。
その男は一言で言うと捕らえ所のない男だった。
「人を殺したくない?」
酒場で素っ頓狂な叫び声が上がる。それに一拍遅れて下卑な笑い声が広がる。
「ガハハ。お前はここがどこか分かってるのか? 最前線だぞ? 大戦のな! 世界中が人を殺すためにドンパチやってんだぞ」
男はこめかみの辺りで人差し指を軽く回転させて舌を出す。
「お前の脳味噌はママンの牛乳で腐ってんじゃねーのか? さっさとホームに帰って子守唄でも聞いてな」
再び酒場に笑い声が上がる。
だが、その声に対峙する男は悠然と構え、静かに首を横に振る。
「殺さずして殺す。これが活殺の極意なり」
妙に時代がかった喋り方をしてその男は言った。だが、次の瞬間にはうって変わって無邪気な子供のように話す。
「人を殺すのなんて銃を使えば誰でも簡単に出来る。それこそ子供にだってね。だが、僕ならば、殺さずして相手を無効化させる事など造作ないんだよ」
そう言って自信ありげに男は腰にぶら下げた奇妙な黒い棒を軽く左手で持ち上げた。
「はっ! とんだ夢物語だ! そんなことが簡単に出来たらこんな戦争なんて起こんねーんだよ!」
酒場の中からまた声が挙がる。そして、その声と共に全くだ、と同意の笑いが起こる。
今や男は酒場中の敵であった。
いや、一人――酒場の片隅で酒を飲むウェッソンだけは違った。彼は馬鹿げた酔っぱらい共の喧嘩に付き合うこともなく、適当に酒をあおっていた。
「マスター……酒だ」
ここにいる誰よりも若いはずなのに、ウェッソンの顔は酒場の誰よりも老けていた。だが、ウェッソンはもはやこの地域では知らぬ者のいない最高のガンマンであった。
しかし、彼はそんな最高の栄誉に浸ることなく、ただ酒と女の日々を送るのみだ。男達の喧噪も、戦争の結果も、大陸の惨状も、もはや彼には関係がなかった。
……男が彼に話しかけるまでは。
「君はそう思わないかい?」
突然の話にウェッソンは首を傾げる。途端に酒場が静まり返った。そして痛いほどの畏怖と好奇心の目がウェッソンの体に集中する。
「君はこの街一番の『凄腕』なんだろ?」
ウェッソンは夢でも見ているかの様な半眼のまま、肩をすくめる。
「どうだか。オレよりも凄い奴は何処にだっているさ。そこの奴なんか全身に刺青彫ってて、俺以上の『凄腕』だぜ」
気のないウェッソンの返事に酒場はまた下品な笑いに湧く。
「君も、殺すことしか出来ないのかい?」
男は哀しそうな目でウェッソンを見つめてくる。
「男は殺すしかできんよ。命を産んだり、はぐくむのは女の役目だ」
そう言ってウェッソンは再び酒をあおる。
一人取り残された形となった男は茫然と立ちつくす。
と、その男に一人の兵士が近寄る。
「さ、ガキはさっさとけぇりな。命は惜しいだろ?」
どうやらそれは最初に男に話しかけた兵士のようだった。
「残念。命が惜しいのは君の方だろう。だが、真っ先に戦場で君が散るのが現実さ」
その言葉に兵士はかっとなり銃を抜く。
「何だテメェ! ヤんのか!」
男はかなり酔っているようだった。普通ならば例え酒の席でも銃を抜くことは許されないのだ。
しかし、男は涼しげな顔をして黒い棒を左手で持ち、半身を逸らしつつ、兵士に言う。
「それは決闘の合図とみなしていいんだね?」
「じょ・−・とー・だぁ!」
兵士が叫んだ瞬間、それは起こった。一瞬にして兵士の銃を持った手が地面に落ち、男はいつの間にか手にした片刃の剣を持っていたのだった。
男は静かに懐から取り出した紙で刃の血を拭くと、何事もなかったように黒い棒の中へ刃を押し込めた。軽くキンっと音がする。
それが混乱の合図だった。
「ギィィィやぁぁぁ!!」
兵士の手首から血が吹きだし、床に血溜まりを作る。
「お、お前」
さすがのウェッソンも驚きの声を上げる。
「騒ぐな。もう、戦うことは出来ないだろうが、然るべき処置をすれば死ぬことはあるまい」
その言葉に兵士は必死で止血しながら酒場の外へ走っていく。
それを笑顔で見送ると男はウェッソンの隣りに何事もなかったかの様に座る。そして注文した。
「ミルクを一つ。暖かいのをね」
そこでようやく彼は男を凝視しているウェッソンに気付く。すると、男はにこやかに右手を差し出し、言った。
「僕は 風雅=カトマンズ=スミス 。よろしく」
その笑顔は天使の様な悪魔であった。
つづく