そこで雨のことを思い出した。
上着の穴という穴から蒸気が吹き上がっていたような気さえするのに。
もう熱という熱が消えた。
死体のように、私は視線だけそいつに向けるしかない。
「ほうれんそうはあたしの野菜だよ」
「そんなこと、知ってるわよ……」
「じゃあなんで」
「なんでって」
「あたしの野菜で、殺したの?」
「そんなこと」
知るもんか。
「いいや」
「?」
「シリアはわかってる」
「なにを」
「シリアはね」
「やめてよ」
かぶりを振るしかない。
尖った砂利が耳を削るのを聞きながら、
「もう、やめてよ」
知らず、
「シリアは――」
……わたしはいつの間にか泣いていたんだ。
「あたしのこともそういうものだって、片付けたかったんだよ」
「やめてよぉッ!」
嗚咽の波が遅れて、
一気に吐き出すのに抗うため、
半身を無理矢理砂利から引き剥がす。
でも、もう……
「ちがう」
「違わない。大根だけは、『シリアの冒険』だけは汚したくなかったシリア」
「ちがう……」
「シリアはあたしも殺したかったんだ」
「ちが……」
限界だ。
もう……なにも喋れない。
涙も雨粒も判らないほどに、どうしようもないものが溢れては真下に零れる。
わたしは……

ここにきて、リーズの声が、とても優しい響きを帯びていた。

「ねえシリア。フェアにできる方法を教えるよ。
やめにすりゃいいんだよ、全部」
「…………」
「今まで作ったものも、作りかけも、全部捨てちゃえばいい」
「…………」
「そうすれば、綺麗になったサイトで、新しいことをはじめられる」
「…………そんなのが……、許されるわけない。怒られるわ」
「あっはははははは!」
こんなに心から楽しそうに笑うのか。
「なにをいまさらだよ? っはは! あははっ!」
そうだ。なにをいまさら、
「そう、シリアはそれをしちゃったよ!」
そうだ。殺したのは……
「違う。違う。まだ、してない……」
「そうだねぇ。まだ残ってる。はは」
「え?」
「あたしたち、二人だよ」
「え……」
「あたしたち二人が殺されれば、全部だよ!」

さあ、と、明るく叫んでリーズは大根をわたしの手元に放り投げてきた。
空いた手を懐に潜り込ませて、そこから取り出した緑色のもの。
ほうれんそうだ。

「さあ、やろうよ、シリア!」
「な、なにを……」
「あたしを殺してよ! ははは!」
「何を言ってるの!?」
「あたしはシリアを殺すよ!」
「馬鹿なこと言わないでよ!」
「ばかかな? あはは。うくく、うくっくっ」

うずくまりながらくぐもった息を漏らすリーズの右手には、
まるで同化したように間断なく蠢く緑色の魔物が見える。
その瞳も緑色に染まった。

「うくく、馬鹿か。どうかなぁ、くふっ、くけっけけっ」
「リーズ」

わたしも……どうなのか。
握り慣れたものを、握り慣れたように手にして、立ち上がっているわたし。

「あんたは……狂ってるわよ」
「くけけ。どうかな。元からかもね? でもさ、シリア」

わたしは、どうなのだ。

「狂っていた方が、世の中楽しいよ? きっとそうだよ?
きゃは! はははっ!」
「……ごめんなさい」

狂っているのは、きっとわたしなんだ。
狂わせてしまった。
なにもかもを……。

「ごめんね、リーズ」
「いいってことよ」

もう、何も聞こえなくなった。
けたたましく笑いながら、ぞんざいに歩み寄ってくるリーズも。
痰のように絡みついた、嗚咽の残り滓も。
嵐も。暗い森も。このサイトも。悲鳴も。雨も。涙も。
何も聞こえなくなった。

そうよね。
あんたの言うとおり。
終わらせたほうが、いいんだ。

音のない闇の中を切り裂いて、リーズのほうれんそうが
私の胸に殺到しようとしている。


もう、わたしは大根を構えていた。