And others 29
もう三日も雨が続いていた。 赤毛の乙女、リディア・スペンサーは、いくつもの荷物を抱え、左足を少し引きずりながらのろのろと歩いていた。 時々立ち止まってため息をつく。足の痛みが少しずつひどくなってくるように感じていた。 買い物なんかしないで、まっすぐ家に帰ればよかった、と彼女は思った。きょうの臨時看護婦の仕事は午前中だけだったので、商店街でゆっくり買い物をしてから帰るつもりだった。しかしこの雨のせいか、子供の頃けがをした左足が痛み出したのだ。買い物を早めに切り上げて家路についたが、荷物を持って歩くのがだんだんきつくなってきた。 彼女は街灯の柱によりかかって、ひと休みすることにした。鉛色の空を恨めしそうに見上げる。アパートまではまだ十分……いや、この足だと十五分くらい歩かなくてはならないかもしれない。なんだか、泣きたくなってくる。 看護学校にいるときも、実習の時も、靴下に隠された足のけがは誰にも気づかれなかった。ふだんはほとんど足を引きずることなどなかったからだ。しかし、あの医師は何回目かで見抜いてしまった。ジェフリー・ハリスン先生……彼はリディアに言ったのだ。その足では、看護婦の仕事はきついだろう。他になにか、座ってできる仕事を探したらどうか、と。 親切で言ってくれたのはよくわかるけれど、リディアは悲しかった。そして、悔しかった。子どものころ心に描いていた将来の夢は突然の事故で消え、そのあと見つけたのが、看護婦になるという目標だった。どんな思いでリディアが毎日努力してきたか、彼はまったくわかっていないのだ。 それでも看護婦になりたいのだと言うと、ハリスン先生は小さくため息をついた。そして、うちでは正規に雇うことはできない、臨時の仕事でよければ、時々声をかけさせてもらう、とリディアに告げた。そして確かに時々呼んでくれてはいるのだけど……。 遠くで銃声が鳴ったような気がした。この街では決して珍しいことではないが、用心にこしたことはない。特に今日は雨が降っているし、足は痛いし、事件に巻き込まれたくはない。早く家に帰ろう、と思ってリディアはまた歩き出した。 痛みをこらえて歩いていると、前方に人影が見えた。小太りの若い男性が、こちらに向かってくる。しかし彼はもう少しでリディアとすれ違うというところで、横道に入って行った。と、次の瞬間、小さな叫び声が聞こえた。リディアはびっくりして、今男が行った方をのぞき込んだ。 そこに見えたのは、血まみれで立っている男と、倒れている小太りの青年。 「きゃ……ひ、人殺し……!」 リディアが叫んで後ずさりすると、 「ちっ、違う! 違うんだ! この男が勝手に倒れて――」 立っている男が、聞き覚えのある声で言った。改めて顔をよく見ると、それは近所に住む刑事だった。たしか名前は…… 「ホワイトさん? どうなさったんですか」 「ホイットニーです、ミス・スペンサー。今、角を曲がってきたこの青年が、俺を見ていきなりひっくり返ったんです」 リディアは倒れている青年に近づき、かがんで様子を見た。まったく動かない。そっと声をかけてみるが、返事はない。 「意識がないみたい……いったいどうしたんでしょう」 「それがどうも……この腕の血を見て気絶したみたいなんです。とにかく、医者につれていかないとなあ」 「この近くにお医者さまがいます。連れていきましょう。でもその前に」 リディアは首に巻いていたスカーフを取り、けがをしている刑事の腕をきつく縛った。 「さっきの銃声は、これだったんですか?」 「あ、ありがとう。いや、この傷はもっと前に、突入したときです。警部が――」 また遠くで銃声がひとつ。 「まだ容疑者を追いかけているんだ……」 運良く辻馬車が通りかかった。御者にも手伝ってもらって青年を馬車に運び込み――なにしろこの青年は普通の人の五割増しくらい体重がありそうだったのだ――医者の家に急ぐ。 まっさきに馬車を降りたリディアは、医師宅のドアを激しく叩いた。 「先生、リディアです!」 ギャラハン・ホイットニー刑事と御者とが苦労して青年を引きずりおろしていると、ドアが開いて、快活そうな老人が現れた。 「おや、ミス・スペンサー。忘れ物かね?」 「急患なんです。お願いします先生」 老医師はリディアのうしろにいる連中を見て、ドアを大きくあけた。 「入りなさい」 医師はまず、気絶している青年を診察した。あちこち調べたり呼吸数を確かめたりしたあと、のんびりした口調で言った。 「まあ、たいしたことはないじゃろう。頭も打っていないようだしな。ほっときゃそのうち目を覚ます」 「ほんとですか。よかった……」 ギャラハンは、ほっとした様子を見せた。 「ミス・スペンサー、寒くないように毛布をかけてやってくれんか。……じゃ、次はおまえさんの番だな」 医師はギャラハンの腕の手当を始めた。リディアは指示に従っててきぱきと動く。その様子を見て刑事が尋ねた。 「彼女は、ここの看護婦さんなんですか?」 「ああ、週に三日ほど、診察のある日に来てもらっている。有能ないい娘じゃよ」 リディアはそれを聞いて少し恥ずかしい気がした。自分は看護婦としてはまだまだなのに、先生の評価は甘い……。ハリスン先生のところのセリーヌさんのようになれれば完璧なんだけど。 「ミス・スペンサー、包帯をくれ。それからお湯を多めに沸かしておいてくれんか。もうすぐお茶の時間になるのでな」 こんな時でも先生はお茶のことを忘れない。よほど好きなのか、それともほかにすることがないのだろうか。 医師はどことなく元気のない――もっともけが人が元気だったらそれはそれで変だが――ギャラハンに向かって言った。 「ああ、落ち込むことはないぞ。腕はもとどおりになる。たぶん、な」 「いえ、そのことじゃなくて……」 ギャラハンはため息をついた。 「追跡の途中だったんですよ。あとで警部になんて言われるか……。しかも一般市民に迷惑かけちゃったなんて。これでも一生懸命やってるんだけどな。やっぱり能力がついていかないのかな」 「若い者が愚痴なんぞいうもんじゃない。ちょっとばかりおおげさに診断書を書いてやるからな、それなら鬼警部でも文句はあるまい」 「はあ……ありがとうございます。あんまり意味がないような気がするけど……」 それでも憂鬱そうなギャラハンだった。 「まあ、あれだな、最近のエリート組上司とやらは、平巡査の苦労をわかっとらんようだしな」 「いえ、レドウェイト警部はそういう人じゃありません」 「ほう、おまえさんはあのレドウェイトの部下かね」 刑事は驚いて顔を上げた。 「警部をご存じなんですか?」 「まあな。やつとはいろいろあってな」 医師はそう言いながらにやりと笑った。 「先生は以前、検察医をなさってたんですって」 とリディア。 「そうだったんですか」 「しかしまあ、あの男の下にいれば苦労も絶えないじゃろう。運が悪いなお前さんも」 「そっ、そんなことないですっ! 警部はすばらしい人ですし、尊敬してます。ただ……」 「ただ?」 「俺は警部のようにはなれないし、なりたいとも思わない。そのへん、もう少しわかってもらえればなあと……」 「ふむ、ならそう言ってやればいい。やつは別に怒りゃせんだろうよ」 医師はそう言いながら包帯を巻きおえ、ギャラハンの腕を軽く叩いた。刑事はちょっと痛そうに顔をしかめた。 「よし、こんなところでいいじゃろ。ミス・スペンサー、お茶にしよう。この若いのにはブランデーを少したらしてやるといい」 「あ、先生……ミス・スペンサーも診てあげてください。なんだか、足が痛そうですよ」 と、ギャラハンが言った。 「いや、彼女の足は……」 「ご心配ありがとうございます。でも気にしないでください、ホイットニーさん。昔けがしたところが少し痛いだけなんです」 「ところで、彼……」 「あの人まだ目を覚ましませんが」 リディアとギャラハンが同時に声を発した。老医師はずずっとお茶をすすり、横目で寝台の患者を見た。小太りの青年はいまだにぴくりとも動かず横たわったままだ。 「ふむ、それでは気付け薬でも飲ませてみるかな」 医師は立ち上がり、酒の小瓶を持って青年のそばまで行った。うなり声とむせかえりの咳が聞こえた。むりやり起こしたみたいだけど、大丈夫かしら、とリディアは思った。 「あ……あれ? ここ、どこですか? あれれ?」 地方訛りのある若い声が聞こえてきた。 「気分はどうかね? 頭は痛くないか?」 「だ、大丈夫です」 ギャラハンも立ち上がって青年の方に歩いていった。 「どうもすみませんでした、驚かせちゃって。血を見て気分が悪くなったんですね」 「あっ、そうだった! ええと、けが、大丈夫ですか?」 青年は起きあがった。そしてギャラハンの腕をちらっと見たが、すぐ目をそらした。 「ご迷惑かけてすみません。じつは血を見るのが苦手なんです。……推理作家をめざしてるのに、お恥ずかしい話ですが」 彼はリディアのほうを見て目を丸くした。 「……なんでテムズさんがここに?」 また間違えられた。リディアはあきらめにも似た気持ちで微笑んだ。 「私、よく間違えられますけど、テムズさんじゃありません。リディアっていうんです」 「へえー……驚いたな、ふたごみたいにそっくりじゃないですか」 青年は感心したような声をあげた。 「彼女とこの刑事が、きみをここに運び込んできたんじゃ。ま、少し休んでいきなさい。濡れた上着が乾くまでな」 「ありがとうございます。すっかりお世話になってしまいました」 青年は、マンフレッドと名乗った。地方の商社に勤めていて、今日は仕事でこちらに出てきているということだった。すぐに顔色もよくなり、彼もまた老医師のお茶会に加わった。ふだんは先生と二人だけでお茶を飲むことが多いので、にぎやかなお茶会はリディアにとっては嬉しかった。 やがてギャラハンが言った。 「彼も元気になったようだから、俺、そろそろ仕事に戻ります。どうもありがとうございました」 「ほれ、診断書だ。レドウェイトによろしくいっといてくれ」 医師は封筒を手渡し、リディアはドアを開けて見送った。 「お大事に、ホイットニーさん」 そのとき、青年が大声をあげた。 「あーっ!」 「どうしたんですか?」 「しまった、僕も行かなきゃ。先輩と待ち合わせしてたの、すっかり忘れてた……どうしよう怒られちゃうよ……」 「おまえさんも診断書が必要かね?」 お茶を飲み干した医師が尋ねた。 降り続く霧雨の中、馬車から降り立ったリディアとマンフレッド。ふたりは、最初に出会った場所に帰ってきたのだった。 「いないみたいですねえ……」 「もう、何時間も過ぎちゃったからなあ。先輩、ひとりで先にフロンティア・パブまで行ったかなあ」 「そうかもしれませんね。こんな雨ですし」 雨雲に覆われた空は暗い色になりかけていた。 「それじゃ、私はこれで失礼します」 買い物の荷物を抱えて、リディアは歩き出した。 「あ、待ってください。送っていきます。荷物持ちますよ」 と、マンフレッドが追いかけてきた。 「え? でもあなた、待ち合わせが――」 「いいんです、どうせ遅くなりついでですから。お世話になったお礼です」 青年はそう言って笑い、荷物を持った。 「そうですか……それではお言葉に甘えさせて頂きます」 足の痛みも限界に近づいていたので、本当にありがたかった。 マンフレッドはリディアの赤い髪をしきりにほめてくれた。なんでも、彼のおじいさんは口癖のように、結婚するなら絶対赤毛の娘だ、と彼に言い聞かせているらしい。だから、いつのまにかマンフレッドも、赤い髪の女性にばかり目がいってしまうようになって困っているという話だった。 「髪の色で人格が決まるはずもないんですけどね。われながらばかばかしいことやっていると思います」 と、彼は言った。 アパートに着いて、入り口に荷物を置いたマンフレッドは、恥ずかしそうにこう言った。 「あ、あのう……大変申し訳ないんですけど、お願いが」 「はい、なんでしょう?」 リディアの心に一瞬、妙な警戒心がわいた。まさか、まさかね。今日出会ったばかりで――。 「ここからフロンティア・パブにはどう行けばいいのか……地図書いてもらえませんか。完全に方向がわからなくなりました」 リディアは思わず吹き出してしまった。なんて、愉快な人なんだろう。 「笑い話ですよね、まったく」 マンフレッドもいっしょに笑っている。 「ご、ごめんなさい。あなたがあんまり……楽しい方なのでつい。寒いから、玄関の中に入って待っていてください。すぐに書きます」 足が痛くなければ、いっしょに歩いてフロンティア・パブまで行って、この人の先輩に事情を話すこともできるのだけど……。リディアはちょっと残念に思いながら、走り書きした地図を渡し、手を振ってマンフレッドを見送った。 やがて部屋が暖かくなり、足の痛みも和らいできた。リディアはほっと安堵のため息をついた。今日はいろいろ大変だったけど、最後はちょっぴりラッキーに終わった気がする。 マンフレッドさん、ちゃんと先輩と会えたかしら。ホイットニーさんは、警部に怒られなかったかしら。先生は、またひとりでお茶を飲んでいるのかしら。 今日出会った人たちのことを考えながら、リディアはひとり静かに夜を迎えるのだった。 霧雨はなおも降り続いていた。 おしまい |