And others 28(Side B)
男はこの国の人間では無かった。英語は母国語同然の流暢なものだし、黒いコートに灰色のスーツを着用するなど洋装であったが、顔立ちは明らかに東洋人のそれであり、携行している武器も東洋でしか作られぬ特殊な武器――『刀』と呼ばれる業物だった。すらりと伸びた黒髪は束ねられていない。眼鏡を着用しているが、それには度が入っていない。そしてその瞳は、東洋人らしからぬ真紅である。首には黒い十字架(クルス)がぶら下がっていた。 「流石に、郷里とは訳が違うな。この街は」 口に紙巻煙草をくわえ、火をつける。正直に言って葉巻やパイプで喫う煙草に比べると格段に不味いのだが、生来の面倒臭がり屋であるこの男は葉巻の保存やパイプの定期的な整備などを嫌う為、こんな仕儀になっている。 「ま、仮にも世界の中心だ。情報の一つや二つは集められるだろうさ」 煙をぷかりと吐き、周りを見渡す。雑然とした町並みである。彼は一度此処を訪れた事があるが、昔と違って多少東洋人の姿が目立つ為、奇異の視線を受ける事は少なくなった。もっとも、選民思想に凝り固まった英国紳士殿などは軽蔑の視線を向けてくれるのだが、そんなものになど興味は無い。 ふと、二人組の船乗りの後ろ姿が眼に入った。瞠目した。西洋人と東洋人と言う組み合わせであるが、特に人種間にありがちな偏見などとは無縁で、ひどく親しげである。それだけならば、別に瞠目する事では無い。しかし……。 「……あいつは……」 思わず声に出してしまう。その東洋人の青年の横顔を、見忘れる筈が無い。それは、この男が長年消息を追い続けていた人物。そして、嘗ての自分の――。 その男はひどく不機嫌そうに煙草を喫っていた。煙管から輪の様な煙が浮き上がる。その真正面には六十とも七十とも見える老人が座っている。その笑みは穏やかに見えて何処か酷薄に見えた。いずれも尋常で無い実力の持ち主であり、その気配は希薄である。暗殺者特有の気配の消し方が、骨身にまで染み付いている。 「……で? 一体何の用だ、じじい。折角向こうで休暇と洒落込もうと思ってたのに無理矢理引っ立てて来やがって。下らない話だったら俺は帰るぞ」 「久し振りに帰って来ての第一声がそれかね。相変わらず血の気の多い男だ」 男の詰問にも、老人は何等動揺する素振りも見せない。それが尚更男の癪に障るのだが、それすらも気にしていない様子だった。 「一人、面倒を見て貰えんか」 老人の言葉に、ますます男の眼が鋭くなった。 「ふざけんな。どうせあんたが拾って来たんだろうが。拾って来るんなら最後まで自分で責任を持ちやがれ。野良犬を拾って来るのとは訳が違うんだぞ」 「昔と一緒にせんで貰おうか、神無月。今の儂は此処の頭領だ。一人一人の育成にまで携わる余裕は無いのだ。もう決めた事。四の五の言わんで貰いたいものだな」 老人の言葉に、神無月と呼ばれた男は舌打ちして煙草を喫った。勝手な事を抜かしやがって、と言う態度がありありと出ている。 「……それで? そいつの名前は何だ。どうせ本名じゃねえだろうがな」 「朧月と言う。まだ幼いが、素質は充分だ。鍛えれば良い鉄になるだろう」 老人の言葉を聞いて、神無月は不愉快そうに鼻を鳴らす。 (またガキを引っ掛けて来やがったのか。どれだけ人形を増やせば気が済むんだ、このじじいは) 老人は時折人員補給をする事があるが、その悉くが幼い子供であった。その概要は、孤児であったり村八分を受けた家の子供であったり、或いは何処かから拉致して来た子供だったりと様々である。神無月は老人のこの所業を嫌忌していた。自分もこの手法で暗殺者と言う闇稼業に引き擦り込まれた人間の一人なのだから尚更だった。 「何が気に入らんのだね。まだ逢ってもいないと言うのに」 「御老体の慈悲深さに感銘を受けただけの事だよ」 皮肉を言うが、老人は特に堪えた様子も無い。 「朧月の事は万事お主に任す。お前の『部下』として自由に扱え」 神無月の表情が微かに動いた。 「随分なご信頼を受けて光栄至極だが、『部下』とはどう言う訳だ? 師弟関係の間違いじゃないのか。面倒を見るってのはそう言う事だろ」 「師弟関係、だと?」 老人の顔が俄かに歪んだ。その酷薄無残な笑みに、神無月は顔をしかめる。 「お前ともあろう男が随分と生温い事を言うんだね。暗殺者に師弟関係もへったくれもあるものか。儂とお主との関係を思い出してみろ」 「……思い出したくも無いね。碌な思い出が無い」 「無くて結構。暗殺者に限らず闇稼業とはそう言うものだからな。暗殺者に思慕の類の感情など無用だ。良いな、神無月。これは命令だぞ」 「……『お人形さん』を作るんなら他に適任が居るんじゃないのかね」 「それが出来ればお主に命じはせんよ」 表情と真逆の冷たい言葉に、神無月は深々と溜め息をついた。 「……良いだろう。但し、俺の好きにやらせて貰う。あんたの干渉は受けない。それでも良いな」 老人は一瞬瞑目した。しかし、直ぐに穏やかな笑みに戻り、無言で頷く。 「これで決まりだな。……朧月をこれへ」 程無く、少年が姿を現した。多分にあどけなさが残っている。その様を見て神無月は露骨に顔をしかめた。 (……何だってこんな幼い子供を暗殺者に仕立て上げなけりゃならねえんだ) 本来なら、こんな闇稼業に引き擦り込む必要など無い筈の子だ。何が悲しくて子供の時分から人殺しなどさせねばならない……攻撃的な険しい表情とは裏腹に、神無月の心は沈んでいた。 「……朧月よ。この男がお主に暗殺術の基礎を教授する者だ。『神無月』と人は呼ぶな」 (手前が半ば無理矢理引っ立てて勝手に名付けたんじゃねえかよ) 老人の言葉の一つ一つが癪に障る。神無月はその苛立ちを、煙草を喫う事で紛らわした。老人がじろりと自分を見つめるが、知った事では無い。 「お主の事についてはこの男に一任してある。この稼業だ。『師弟』などと言う生易しい関係では無いぞ。お前はこの男を『主』と思え。拒否権は認めていない。そう言う権限をこの男には与えている。良く覚えておくのだな」 神無月は横目で老人の眼を見る。嫌な眼だった。好々爺と言う皮を一枚剥いだら、忽ちに浮かび上がる冷酷な本性。 それがありありと見て取れた。少年もそれを感じ取っているのだろう。蛇に射竦められた蛙の様な感じである。 「基礎訓練と言っても、暗殺者のそれだ。力の足りぬ者は訓練の時点で死ぬ。折角拾ってやったのだ。無様に死んでくれるなよ……?」 老人の醜悪な笑みに、彼はふん、と鼻を鳴らした。月は朧気で、殆ど雲に隠れて見えなかった。 一時の眠りから覚醒した青年が、微かに眼を開いた。微かな影がこちらを見ているのを感じる。どうやらこちらが覚醒している事には気付いていないらしい。男は再び寝息を立てた。但し今度は狸寝入りである。 (甘いなぁ、朧。本当に寝ているのと狸寝入りとの区別ぐらいつけられなけりゃまだまだだぞ) 恐らく少しでも自分に隙が出来るのを一所懸命に窺っているであろう少年の事を思い浮かべ、心の中で神無月は苦笑した。 この奇妙な情景は、神無月が少年に対して『一本取ってみろ』などと言い出した事に端を発する。先程から彼は壁に寄り掛かって眠ると言う、人を馬鹿にした様な態勢を取り続けていた。しかしそれでも少年は彼から一本を取る事が出来ない。眠る時であっても、神無月は無意識の備えを万全にしている為、仕掛けるに仕掛けられないのだ。もう何度も仕掛けて痛い目に遭っている。過敏なまでに慎重になっている道理だった。 この数ヶ月、神無月は老人の言う事などまるで無視していた。主従関係の様な態度など全く取らず、完全に師弟関係を結んでしまったのだ。それは老人への意趣返しと言う意味合いもあるが、それ以上に、神無月が少年の事を気に入ったのが一番の理由だった。 何故気に入ったのかは自分でも判然としない。もしかしたら、幼き日の自分と重なったからなのかも知れない。無論性格も違うし今まで歩んで来た経歴も違う。でも、それ以外に考え得る理由は無い。 否。本当はもう一つ、思い当たる節がある。忌まわしき記憶の中に。もう二度と見る事の無い、あの少年の笑顔。もう二度と交わる事の無い、二つの心……。 唇を噛んで、その思念を無理矢理追い出す。何故こんな事を思い出すのだろう。過去に戻る事は出来ないのに。過去を捻じ曲げる事は、出来ないのに。 「……?」 不意に、少年の放つ鋭気が薄れた。正確には、鋭気の中に迷いが生まれていた。神無月は少年に気付かれぬ様、態勢を崩す事無く器用に移動する。 やがて、少年の顔を見られる位置に達した。少年は考えに没頭しているらしく、気付いていない。少年の顔には迷いが浮かんでいた。眼を見開いて注視すると、微かに身体が震えているのがわかる。掌を見つめるその瞳は、明らかに怯えていた。それを見た瞬間、青年は少年の心の動きを察した。知らず、表情が曇る。 (……当然だよな、その考えは) それは嘗て、自分も経験した葛藤だった。人を殺す事への恐怖。逆に殺される事への恐怖。そして、人を殺す事に対して何の抵抗も無くなるであろう未来の自分への恐怖。少年の表情は、この三つの恐怖に支配されていた。 (何だってこんな子供が……) 自分の心の中で悲しみと憤りが急速に増幅されるのを感じる。あの老人の頬桁をぶん殴ってやりたかった。しかし、こんな事態になってしまった以上、生きて行くしか無いのだ。力と覚悟の無い者は死ぬ無残なる世界で。 (神無月よ) 癪に障る冷笑を浮かべる老人の声が頭の中を駆け巡る。 (最早お主と朧月との関係については言うまい。しかし、一体いつまで『任務』を拒むつもりだ? もう実力的にこの程度の任務をこなす事は可能な筈だぞ) (……時期尚早だと思うがな。あいつはまだ――) (知らぬな。覚悟が無いなら決めさせれば良いのだ。既成事実を作れ。そうでもせねば、覚悟など出来るものか。良いな、神無月。そんなに朧月の事を大事に思うのなら、一刻も早く覚悟を決めさせる事だ) 心が沈んだ。この時ばかりは、その心根は別として、老人の言葉の方が正しいのだと認めざるを得ない。覚悟の無い暗殺者が生き残れる筈は無いのだから。あの少年を、無為に死なせたくは無いのだから。そして彼は、静かに眼を閉じた。少年の為に、冷酷な悪魔となる決意を固める。それと同時に跳んだ。 「なーに考え込んでるんだ? 少年」 突然の言葉に、少年は声も出ない様子だった。小刀を咽喉に突きつけている為だ。 「ガキの癖にあれこれ考えてんじゃねえよ。ったく。まだまだ甘いな」 そう言って、青年は小刀を引っ込めた。振り向く少年に、精一杯の笑顔を作る。 「修行が足りん。精進しろよ。実戦ではこうなりゃ『死』あるのみなんだからな」 「……はい」 少年はしっかりと師の顔を見て頷く。その姿が、神無月には痛ましいものと映った。しかし、感情を殺して真剣な表情を作り、いきなり言った。 「お前、人を殺すのが怖いんだろ?」 少年の眼が驚愕に見開かれるのを見て、自分の推測が正しかった事を知る。 「これでも俺は闇稼業の人間だからな。人の心を読み切らなければとてもやって行けないのさ。お前如きの若造の心を見抜くなんて事は、朝飯前って奴だ。俺は別にお前を責めるつもりは無い。当たり前の感情だ。誰が好き好んで人を殺すよ? 俺も、お前と同じ様に最初は人を殺すのが怖くて怖くて仕方が無かった」 神無月は煙管を取り出した。煙が、天上へと昇って行く。 「あのじじいは、『人殺しなど直ぐに慣れる』なんて抜かしやがった。……実際、そうだった。最初に人を殺した時など震えが全然止まってくれなかったってのに、いつの間にかそれも無くなってたからな。それに気付いた時、俺は別の意味で震えたよ。丁度、お前が今恐れている事と同じ意味で、な」 少年の顔に、僅かな安堵の感情が現れるのを青年は感じた。恐らく、師も嘗て自分と同じ思いをしていたのだとわかって、少しだけ安心したのだろうと思う。しかし、師である青年はその小さな感慨を打ち砕く一言を放った。 「……ついて来い」 「え?」 いきなりの言葉に、少年はぽかんと口を開いた。それが少年をより幼く見せる。青年の心がちくりと痛んだ。 「お前の悩みは、言葉で言ったって仕様が無い事だ。俺について来い」 煙管を収め、『立て』と手で指示する。訳もわからぬまま、少年は即座に立ち上がった。この俊敏な動きは、暗殺者に欠かせぬ動きとして徹底的に叩き込んだものだ。 「四の五の言うな。これは『命令』だ。良いな、『朧月』」 いつしか自分の表情が『暗殺者』のそれ、少年の『主』としてのそれに変わっている事を、神無月は自覚していた。そして、こんな時だけその顔を使う自分をこの上無く卑怯だと思った。 この国で最も古く、最も危険な『都』には、今日も闇の帳が降ろされていた。秩序無き闇が、この都に絶えざる緊張と殺戮を生んでいる。暗殺と護衛の仕事が繁盛する一方だ。当然、一般人は誰一人歩いていない。歩いているのはいわくつきの人間だけである。 「……此処だ」 訳もわからず神無月について来た少年は、眼前の宿を見上げた。『榎木屋』と大書された看板が暗がりでも見える。三階の一部屋に僅かに明かりが灯っている。 「さ、行くぞ。くれぐれも俺の傍を離れるなよ。それと」 じろりと、少年を見据えた。少年は身じろぎ一つ出来ない。恐らく真紅の瞳の威圧が、彼を金縛りにしているのだと神無月は思った。 「俺が良いと言うまで一切言葉を発するな。何も訊くな。黙ってろ。良いな」 少年は頷いた。無言で宿屋に入る。入り口に、いかつい顔をした大男が立っている。見知らぬ二人を見て、みるみるその表情が険しくなった。 「何者だ、貴様等。宿に泊まるつもりならば他を――」 その後の言葉を、剣閃が断ち切った。咽喉から鮮血が飛び散り、大男は訳もわからぬ内にけしとぶ。自らの黒装束が忽ち血塗れになったが、そんな事に構ってはいられない。 これを境に、神無月は総ての敵を殺戮する事のみを考える修羅と化した。これから自分が少年にさせる事を考えれば敵は完全に殲滅されねばならないからであり、また少年にこの世界の現実を見せる為でもある。その為、一切の感情を捨て、無造作に敵を斬った。 そして、標的と顔を合わせるや否や、鳩尾に一撃を食らわせた。声も出せずに標的の意識が消える。最早自分と少年以外に気配は感じられない。 程無く、少年らしき足音が聴こえる。唐突過ぎる展開に呆然とし、足音を消すのを忘れているらしかった。そして駆け込む様にして部屋に入って来る。荒い息をつき、少年は師と男とを見比べていた。 「……朧」 その声に、少年はびくりと震える。自分でも驚く程低く冷たい声だった。 「ここまで来れば、俺がお前に何をさせようとしているかはわかる筈だ」 そう言って青年は懐から小刀を取り出し、放った。 「この男はお前の手で殺せ」 少年の瞳孔がはっきりと大きくなった。小刻みに身体が震え始める。 「いずれはやらなけりゃならん事だ。だったら、今やってしまった方が良い。違うか……さあ、やれ」 青年は冷酷な宣告をし、くるりと背を向けた。誰が人の、それも親しい人間の眼前で醜態を晒したがるだろう。その行為は少年に対するせめてもの配慮であり、謝罪であった。 永遠にも思える時が過ぎた。少年の荒い息の音だけが不規則に刻まれる。その間隔が次第に狭くなり、そして――咆哮が、闇夜を切り裂く。飛び散る血が僅かに自分の足に降り掛かる感触がした。 そして。 「――ッ!!」 反動。少年にとって、余りにも厳しすぎる所業から来る反動。それが来た瞬間、神無月はぐっと拳を握り締め、唇を噛んで激情を堪えた。唇から血が滴るが、そんな事はどうでも良い。 (何だってこんな子が……っ!!) どんな経緯で老人に拾われたかは知らない。だが、それ以前は普通の子供であった筈だ。少なくとも、人殺しをする必要など一生無い筈の子だ。何故、こんな思いを味わわねばならないのだ。この子に、何の罪があると言うのだ。 「……朧」 そうした激情を必死に押し殺して、神無月は少年に言葉を掛ける。 「気持ち悪いだろ。それが人を殺す感触、他人の血の感触だよ」 苦しさと気持ち悪さに必死に抗い、少年は青年の顔を見上げる。蒼白い顔だった。口元には、まだ反動の跡が残っている。総身が汗だくになっているのが見て取れた。 「朧。お前の悩みに対して俺から言える事は殆ど無い。どれだけ打ち解けても、どれだけ親しくなったとしても、俺とお前は他人なんだ。考え方も違う。今まで積んで来た経験の量も質も違う。俺にとっての常識がお前にとっての非常識かも知れないし、その逆だってあるだろう。だから俺が何か言ったとして、それは参考にはなっても本質的な解答には絶対にならない。結局は、自分が手探りで見つけなければならない事なんだ」 既に青年も、冷徹な仮面を被り通せなくなって来ている。総ての生物に死を与える修羅から、眼前の少年を案ずる、一人の青年に戻りつつあった。 「只、一つだけどうしても言っておきたい事はある。――今感じた事だけは、絶対に忘れるな」 自分の瞳に悲しみが彩られているのを自覚しても、青年はそれを止める事が出来ない。 「俺の知り合いに、血に狂っちまった奴が居る。そいつは人殺しに何の感情も抱かぬどころか、快楽まで感じる様になり、任務でも無いのに人を殺す様になった。挙句、『死線』とやらを求めて海の向こうに渡っちまった。生きてるのか死んでるのかもわかりゃしねえ」 煙草の煙が夜空に昇る。 「……お前は、そんな奴になってくれるな」 「……」 「今こうして、人を殺すと言う行為に恐怖と気持ち悪さと嫌悪感を覚えているその感情を忘れるなよ。それさえ忘れなければ、この先どんなに場数を踏んで、どれだけ人間を殺す事になったとしても――少なくとも、血に飢えた殺人鬼にはならずに済む。俺は――」 神無月は再び唇を噛んだ。もう、感情を制御する事が出来ない。 「俺はもう、親しい人間相手に刃を向けるのは真っ平なんだ」 青年の脳裏に、再び忌まわしい記憶が甦る。嘗ての少年――『知り合い』との、訣別と戦い。二度と思い出したくない筈なのに、思い出さずにはいられぬ記憶が。自分でも馬鹿だと思うのだが、どうする事も出来ない。 「……大丈夫、です」 不意の言葉に、思索に沈んでいた青年の眼が瞬いた。少年は蒼白い顔で、笑みを浮かべていたのだ。 「俺は、そんな風にはならないですから。師匠に殺される様な奴には、ならないですから」 ふらりと、立ち上がる。まだ身体は震えているし、気持ち悪さが無くなった訳でも無い。しかし、それでも少年は立ち上がった。恐らくは、師を安心させる為に。 (――馬鹿野郎が) 自分の手で人を殺めた感覚、自分で殺した人間の血を浴びた感覚、どう制御も出来ぬ反動の感覚……そのいずれもが、少年にとっては堪らなく辛かった筈だ。なのに彼は、精一杯の無理をして、師を安心させようとしている。余りにも脆く、余りにも儚く、そして余りにも凛々しい姿が、そこにはあった。青年は初めて、少年を『強い』と思った。 「……ふん、ガキが一丁前の口を利きやがって」 青年は不敵な笑みを浮かべた。奔流の如き感情を少年に見せぬ為に。 「ま、そんな口が利けるんなら、もう大丈夫だな。行くぞ、こんな所長居は無用だ」 「はい」 朧気な月の光は、二人を優しく照らしている。『都』の闇はまだ晴れる事が無い。しかし――それでも月は、『都』を、小さな二人を、優しい光で照らし続けていた。 すらりと伸びた黒髪の先端が地面に垂れている。その主である青年は胡坐をかき、呼び出した主である老人を苛立たしげに待っていた。既に煙管から落とされた灰の量は馬鹿にならない。残った灰を吹き散らし、刻み煙草を補給しようと、煙草入れに手を伸ばそうとする。が、その手がぴたりと止まった。 不意に神無月は煙管を投げ捨て、後方に飛び退いた。その数瞬後、彼が居た場所に数本の飛刀が突き刺さる。それを見て、神無月の苛立ちは頂点に達した。 「随分なご歓迎だな御老体。冗談も程々にして貰えるとありがたいんだが」 その言葉と同時に、老人が姿を現す。相変わらず冷たい微笑を浮かべていた。 「気に入らなかったかね。退屈している様だったから、少し遊んでやろうかと思ったのだが」 「それがわかってるなら、さっさと来れば良いだろうが。呼び出したのはあんただぞ」 刺々しい言葉にも動じた様子は無く、老人は手招きをした。投げ捨てた煙管を拾い上げ、どっかりと老人の正面に座る。刻み煙草を取り出し、雁首の中に入れて火を点す。深みのある味を噛み締めつつ、ぷかりと煙を吐いた。 「それで、今度は一体何の用だ?」 老人は質問に答えない。にやりと歪んだ笑みを浮かべ、奇妙な事を喋り出した。 「『桜』と言う娘の名に聞き覚えはあるかね?」 妙な質問に、彼は只首を横に振る事しか出来ない。 「それでは、朧月が最近、外を出歩く事が多くなった事は知っているのかね?」 「そのぐらいは知っているよ」 あの殺戮劇から数年が経っている。少年は、もう既に大人の男への階段を上りつつある年頃になっていた。年頃にもなれば、外界に用事があっても不思議ではあるまい……神無月はそう思い、知っていても何も言わないで居た。しかし、何故老人にこんな質問を受けるのか……苛立ちが再び鎌首をもたげて来る。 「……じじい。俺は謎掛けやら何やらの回りくどい話が嫌いなんだ。さっさと用件を話せ」 「そう慌てるな。もう一つ、質問したい事がある」 老人は皮肉な笑みを浮かべて、言った。 「朧月と儂が先刻名を挙げた娘……桜とが最近、逢瀬を重ねている事は知っているのか」 その内容を聞いて、一瞬神無月の眼が見開かれる。あの少年に女が出来ていたなどとは初耳だった。しかし表情にはその驚きを出さない。 「……そいつは初耳だな。だが、それがどうかしたのか」 「神無月よ」 老人の表情が変わった。表面上は全く変わっていないが、その『眼』が違った。彼の眼は、さながら獲物を射殺す狩人の如きもの。何人たりとも逃がさぬ狡猾な狩人の眼光が、そこにはあった。 「女とはげにも恐ろしきものよ。戦をする物理的な力は無いのに、時として国すらも滅ぼしてしまうのだからな」 呻き声の様な笑い声を上げながら、老人は異様に鋭い眼で神無月を見据える。 「『北方ニ佳人有リ、絶世ニシテ獨立ス。一顧スレバ人ノ城ヲ傾ケ、再顧スレバ人ノ國ヲ傾ク。寧ンゾ傾城ト傾國トヲ知ラザランヤ、佳人ハ再ビ得難シ』大陸での有名な歌だ。この歌自体は、皇帝に自分の妹の美しさを唱った自画自賛の下らぬ歌だが……『一顧傾人城、再顧傾人國』の部分は、ある意味一つの恐ろしい真実を告げていると言える」 「……何が言いたい?」 「神無月よ。女はしばしば男を狂わせ、腑抜けにしてしまう。成熟した男ですらそうなるのだ。まして年若く未熟な少年だったらどうなると思うね?」 「……」 「神無月。朧月に命じてその娘を殺させろ。もし従わぬ場合は……」 老人は、嗤った。爬虫類の如き、冷酷極まる笑みを浮かべた。 「娘諸共朧月を始末しろ」 煙管が粉々に砕ける音がした。右手から血が滴り落ちる。ぽたぽたと、地面が朱色に染まった。 「……随分と、面白い冗談を言うんだな、あんた」 唇こそ皮肉に歪んでいたが、その真紅の瞳は煌々と輝き、凄まじい殺気を放射している。ぱらぱらと、煙管の破片を地面に落とした。右手が自由になる。 「冗談のつもりでは、無いんだがねェ……」 老人はくつくつと嗤う。だがその眼だけは、全く笑っていなかった。獲物を射殺す魔眼は過たず、神無月の真紅の魔眼に向けられている。 二つの魔眼が、交錯した。その殺気の放射は物理的な力にまでなり、がたがたと部屋全体を微かに揺らしている。俄かに外の動物達が唸り声を上げ、近くに居た鳥達は一斉に遠くに飛び去った。朱紅い光と白い光を放つ二匹の魔物に慄いて。 どれだけその時が続いていただろう。不意に音も無く、神無月が立った。老人は動かない。既に二つの魔眼は消えているが、殺気は全く減っていない。 「要するに『説得』すりゃあ良いんだろう?」 「出来れば、の話だがな」 嘲笑う老人に、再び神無月の眼が煌々と光る。 「この件は俺が預かる。俺が、処理をさせて貰う。もし勝手な事をしたら、その時は……」 ぷつりと、鯉口を切った。 「貴様の胴体から首が離れると思え」 そう言い捨て、くるりと踵を返す。老人は何も言わない。月が不気味に輝く夜だった。 「なぁ、朧」 「何ですか?」 神無月の言葉に応える少年の顔は幾らか大人びていて、神無月程では無いが身長も大きく伸びている。数年前と比べてかなり男らしくなっていた。 「……?」 質問に答えずにやにやと笑う師に、怪訝な顔をしながら少年は茶を飲む。しかし――。 「お前、女が出来ただろ?」 悪戯っぽい笑顔を浮かべた青年の言葉に、その全てを吹き出してしまった。むせて咳き込む少年を見て、神無月はおかしそうにくつくつと笑う。 「ゲホッ、ゴホッ……い、いきなり何言ってるんですか!」 「何だよ、別に驚く事でも無いだろう? 俺相手に隠し事なんて出来るかよ、お前が」 「か、隠し事だなんて……俺は、別にそんな……」 「ふ〜ん、そうかい」 自分でもどれだけ意地の悪い笑みを浮かべているかは自覚している。少年は露骨な警戒をしてくれるのだが、それが全く無力だった事は、次の言葉で証明された。 「何なら、昨日その娘と交わした睦言をぜ〜んぶ暗唱してやっても良いんだぜ?」 少年の顔が、一瞬で紅潮した。幾ら暗殺者と言う閉塞した環境に在るとは言え、少年も既に年頃である。『睦言』の意味がわからぬ程子供では無かった。 「な、何言ってるんですか! 俺と桜は、別にそんな事……!」 「何だ、やっぱり居るんじゃねえか」 しまったと言う表情をするが、もう遅い。少年の顔は一層赤くなり、神無月は遂に堪えきれず腹を抱えて笑った。あんまり笑いすぎて、涙まで流している。何とも初々しい反応だった。それだけに、余りにも辛い現実が恨めしかった。 「もう……勘弁して下さいよ!」 「あはははは、悪い悪い……しかし、お前に彼女が出来るとはね。どうだ? その娘とは何処まで行ったんだ? キスぐらいはもうしたんだろ? どうだった? その味」 容赦の無い追撃に、少年の顔は何処までも赤くなる。殆ど返答不可能な問いに、言葉を紡げない。少年のその態度に、青年は再びくつくつと笑う。 「ふふふ、お子様にはちょっと刺激が強すぎる質問だったかな?」 「……本当に怒りますよ」 尚も真っ赤な顔で睨む少年に、神無月は『悪かった』とばかりに小さく手を振る。 「ごめんごめん。ちょっとからかってみたかっただけだよ。本当、悪かった。お前の事を年端も行かぬガキの頃から見ているだけに、ちょっと感慨なんか覚えちゃってな」 漸く笑い収め、青年はふと真剣な眼差しを少年に向けた。それを見て少年はどきりとした様子だ。一瞬で顔の紅潮は無くなった。 「――で、何処まで本気なんだ?」 その言葉に、今までのふざけた雰囲気は一切無い。少年の背筋が心なしか伸びた。 「俺の言っている意味、わかるか? 俺達は暗殺者だ。常民とは訳が違う。一瞬の気の緩みで、全てが終わっちまう稼業なんだ。生半可な気持ちで女に手を出せば、待ってるのは破滅だけだぞ。さりとて本気でその娘を愛していて、妻にしようとしたとしても、今度は妻や、場合によっては育んだ子供の事を思って死ぬ事への恐怖が増大する。その結果却って死んじまった奴を、俺は何人も知ってる。だから暗殺者に限らず、闇稼業の人間は余程の覚悟か事情でも無い限り妻なんか娶らないんだ」 神無月の表情が一層険しくなる。彼は、最悪の場合自分の手で少女を殺す決意を固めて此処に来ていた。よもや老人の言う通り、少女諸共少年を殺すなど出来る訳が無い。もうそんな事をするのは御免だ。まして、少年の手で少女を殺させるなど話にもならぬ。ならば自分が殺した方が良い。自分はどれだけ恨まれても構わない。少年自身の手で少女を殺めさせ、一生の傷をつけさせるよりは遥かにマシであろう。 「お前は、どうなんだ? どんな事があってもその娘を護る覚悟があるか。その娘、或いはその娘との間に出来た子供を遺して死ぬ恐怖を克服出来るのか」 これは、神無月が少年に対して求めた『決断』だった。茨の道と承知の上で少女と添い遂げる覚悟を決めるのか、それとも、少女と離別するのかと言う事を。この場合の離別とは即ち少女の死を意味するのだが、無論神無月は一言もそれを言わない。少年の本心が聞けなければ意味が無いからだ。 「……正直、護りきれる自信は無いです」 長い沈黙の末の言葉に澱みは無い。少年の表情は毅然としたものだった。 「でも、出来るだけの事はしたいと思ってる。俺は弱いし、未熟だから、護りきるとか、幸せにするとか、そう言う事は断言出来ないけど……それでも、出来る事は精一杯するつもりです」 無言。二人の男は、尚も睨む様に互いを見据えている。どれだけ時間が経っただろう。先に睨むのを止めたのは神無月の方だった。ふう、と息をついて煙管を取り出す。これは老人との対峙で壊した物の代替品である。 「……ま、お前にしちゃ上出来な答えだ」 煙が輪の形になってふわりと宙を舞う。 (……そう、それで良いんだ。俺はその意志を聞きたかったんだ) それは茨の道である。老人がよもやこんな事を許す筈は無い。下手をすれば刺客が送られるかも知れない。それは何も少年に限らず、少女や自分自身に対してでもだ。だが、後悔はすまい。神無月はそう腹を括った。 「今言った事、絶対忘れるなよ。力の限り嬢ちゃんを守ってやれ。それが男の責務だ。わかるな」 「……勿論です」 「よっし!!」 いきなりバンと肩を思い切り叩いた。その衝撃に、思わず少年は咳き込んでしまう。 「じゃあ今日は祝いの宴をやらなくっちゃな。その娘も、連れて来いよ。お前の彼女の顔を見てみたい」 そう言って、青年はにっと笑い掛ける。やっと、本来の笑みに戻った。少年も自然と笑顔になる。今までの張り詰めた空気が、まるで嘘の様だった。 そして、『都』の中でも桜の名所とされる所での少女との邂逅。彼女と初めて対面した神無月は、 「何だ、お前には勿体無い良い女じゃないか。どうだ? 俺に乗り換えないか」 などと本気で言って、少年をひどく慌てさせたものだ。二人の大人気ない争いに、少女は思わず笑ってしまった。桜の花が風で舞い散る中での笑顔は、その名に相応しいぞくりとする程の美しさだった。 (もし、本当に神や仏が居るならば――) 二人の笑顔を見ながら、青年は思う。 (この二人の幸せを、どうか破壊してくれるな。それ以外は何も望まない) 神無月は、生まれて初めて何かに祈った。弟とも思う少年と、その想い人の幸せを願って、本気で祈った。もうこれ以上、悪夢など起こって欲しくは無かったから。 しかし、その願いは無残に砕かれる。 障子を蹴破る音が、部屋に響いた。奥に座る老人は、ぴくりとも動かずその影を見据えている。朱紅い光から発せられる殺気は、並みの人間なら押し倒されてしまう程凄まじい代物だった。 「珍しい事もあるものだね。お主が自分から足を運ぶなどと――」 「……朧に何をした、貴様」 真紅の魔眼を持つ男――神無月は、今にも老人を斬り殺さんとするばかりに問い質した。しかし、老人は顔色も変えずに嗤っている。 「何の事だかわからぬが」 「とぼけるなよ、使ったんだろ、『術』を……! 答えろ! あいつに何を仕込みやがった!!」 これ程までに神無月が怒りを露にするのには、理由がある。少年の様子が異常としか言い様の無いものだったのだ。蒼白の顔色、異常なまでに血走った眼で、師である神無月の言葉にも応じず、まるで何かに憑かれた様にふらふらと去って行ったのだ。尋常では無い。そして、少年をこんな状態に出来る人間は、一人しか思い浮かばなかった。だからこそ彼は老人の下に殴り込んで来たのである。 老人の顔が歪んだ。低く耳障りな笑い声を上げる。愉快で仕方が無いと言った表情だ。 「そんな事、聞かなくてもわかっている事じゃないのかね? くくく……」 爬虫類の冷たい眼と声だった。悪魔と言う言葉が、これ程似合う男も居まい。 「お主が悪いのだよ? 神無月。お主が大人しく儂の命令を遂行していれば、儂も『術』など使う事は無かったのだ。久し振りに使った為に身体がくたびれてならぬ」 「嘘をつけよ……貴様がたかが一小僧の『暗示』如きでくたびれる筈が無いだろう。嘗て『破戒僧』と呼ばれ、全盛期には百人を一度に金縛りにした伝説の暗殺者である貴様が」 神無月の言葉に、老人はにやりと嗤うだけだ。 「勝手な事をするなと言った筈だぞ。何故よりにもよって……!」 「その誓約は、『お主が確かに任務を全うする』条件の下での事だ。お主は任務を放棄した。否、最初から朧月も娘も殺す気など無かった。だったら、儂が介入するのに何の制約もあろう筈が無い。違うかね?」 「屁理屈をこねるな、外道が……! 貴様は、一体何人の心を壊せば気が済むんだ!!」 返事は耳障りな哄笑だった。既にその眼は魔眼と化し、老人は一匹の魔物となっている。 「ならば、此処で儂を殺すか、『真紅の狼』よ。最も、貴様にそれが出来ればの話だがな……」 ゆらりと、老人が立ち上がった。もうかなりの年齢だと言うのに、それをまるで感じさせぬ精悍さがあった。呼吸法が奇妙なものに変わる。それと同時に、皮と骨だらけの肉体がみるみる壮年のそれにまで若返るのが見えた。修験の法術を極めた、老人にしか出来ぬ術法である。 しかし、神無月は老人の挑発に応じず、くるりと踵を返した。殺気は消えていない。 「何処に行くつもりだね、神無月」 「言わずとも知れているだろう」 「もう、手遅れじゃないのかねェ……」 ぎろり。 神無月の魔眼が、過たず老人を射抜く。 「舐めるなよ。あいつは俺がこの手で育てた弟子だ。あいつの事は俺が一番良く知っている。貴様如きの暗示に屈する様な弱い奴では無い。その程度で、あの二人を引き裂けるものか。俺があいつの所に行くのは、貴様が掛けた『保険』を叩き潰す為だ」 そう吐き捨て、再び踵を返す。老人は何も言わない。それきり、神無月は瞬時にその場から消えた。朧気な月が、朱紅く光っている気がした。 それは旋風の様な疾走だった。獣道と言う獣道を、殆ど姿も見せずに疾走している。影すらも、この闇の中では見えない。それでも万一、この影を見る事が出来た者が居るならば、天狗か魔物の類と信じただろう。それ程恐ろしい速度で、その影は疾走していた。息一つ乱れてはいない。微かに残された痕跡と、己の勘を信じ、その影は二人の男女の下に辿り着かんと疾駆する。 足を止めた。朽ち果てた山小屋の中に、二つの気配を感じる。空を見上げると、天気雨が降っていた。神無月は気配を消し、聞き耳を立てる。 既に、少年から禍々しい『術』の波動は感じられない。二人の会話は、何処にでも居る普通の恋人同士のそれであり、そこに殺意などあろう筈も無い。神無月は僅かに笑みを漏らした。 (若いって良いなぁ) 微かに聞こえる二人のやり取りを聞いて、身体がむず痒くなる感覚を覚える。自分も齢を取って若者の心がわからぬ『おっさん』になってしまったのだろうか。危うく、声を出して笑ってしまいそうになった。 やがて雨が上がり、二人は周りを窺いながら外に出る。二人はしっかりと手を繋ぎ、獣道を歩いて山小屋から遠ざかって行った。それを見送って、神無月もすっと立ち上がる。不意に良く通る声で言った。 「俺が言えた事でも無いんだが、恋人同士の逢瀬を覗き見するのは良い趣味とは言えないぜ、団体さん」 その言葉と同時に、周りの林から一斉に黒装束の男達が姿を現す。様々な得物を構え、決死の眼で神無月を睨み据えていた。神無月は悠然と周りを見渡す。 「ほう、五十人かい。思っていたよりも多かったな。たかが二人の子供を殺すのに五十人とは大袈裟な話だ」 「違うな、裏切り者」 頭分らしい男が言葉を発する。 「我等は頭領より、貴様を粛清する為に送り込まれた者だ。あの二人の始末はそのついでに過ぎぬ」 「そうかい。そいつは可哀想にな」 神無月は煙草入れから煙管を取り出し、刻み煙草をぱらぱらと入れて火を点ける。ぷかりと煙を吐いた。 「そんな可哀想なお人形さん達に、一つ良い事を教えてやる。知ってるか? 人の恋路を邪魔する奴と言うのは」 灰を吹き散らし、煙管を放った。途端、その表情が魔物のそれに変わる。 「地獄に堕ちると相場が決まってるんだよ……」 朱紅い魔眼に、刺客達が一瞬怯む。煙管が、乾いた音を立てて地面に落ちた。 闇夜に、鮮血が舞った。 最後の一人が、どさりと倒れる。それを一顧だにせず、朱紅い魔物は踵を返した。ゆっくりと、元来た道へと歩いて行く。馬鹿でかい瓢の蓋を開き、頭から酒を被った。髪の毛や顔についた血が洗い流される。無論、衣服についた血まではどう仕様も無いが。 「恨むなら、お前達を人形に仕立て上げたあのじじいを恨めよ」 酒を刀に注ぎながら呟く様に言う。彼等もまた、ある意味では被害者と言えなくも無い。自分と同じ様に、元は常民の子だったのが何らかの理由で彼によって連れて来られ、暗殺者にさせられた者も居るのだから。 「……さて。時間を取られてしまったな。あいつらの行方でも追うと――」 不意に彼の表情がさっと変わった。それは、直感から来たもの。あの二人が、危機的な状況にあると言う警鐘。彼は直ちに旋風の追跡を開始した。そして、海の見渡せる断崖に近付く。 血臭を、嗅いだ。 (遅かったか……!!) はっきりと断崖が見渡せる所に差し掛かり、青年はその光景を目の当たりにした。完全な不意討ちだったのか、少年は武器すらその手に握っていなかった。胸から血を流しながら、海の方へと落ちて行く。そして少女は、その場にゆっくりと崩れ落ちた。その全身を、血に染めて。 ぷつりと、神無月の中で何かが切れた。音も無く跳躍する。忽ち、黒装束の男の背後を取った。男はそれに全く気付かない。 「……終わったな。首領に報告――」 「何が、終わったって?」 その言葉に驚愕し、男が振り向いた時には――既にその朱紅い刃が、男の身体を逆袈裟に斬り上げていた。殆ど即死である。青年はそれに眼もくれない。直ちに少女に駆け寄り、胸に耳を当てた。 恐ろしく美しい微笑みを浮かべた少女からはもう、生命の鼓動は聞こえない。即死だった。 「……っ!!」 地面を、砕いた。拳から血が吹き出るが、痛みなど全く感じない。男は直ちに立ち上がり、崖を垂直に駆け下り始めた。少年を、救う為に。少年の落下速度を遥かに凌駕する素早さで、殆ど跳ぶ様に走る青年は、もう少年の意識が消えている事に気付いた。下は海と絶壁である。落ちれば確実に少年の生命は潰える。そうで無くても処置が遅れれば結果は同じである。青年は速度を上げ、少年を捕まえられる射程距離に近付く。 跳んだ。その人間離れした跳躍によって少年をしっかりと抱き止める。そして少年を庇いながら海水の及ばぬ地面に激突した。危うい所だった。後少し行動するのが遅かったら、少年の生命は無い所だった。青年が跳躍したのは、それが可能な地面ぎりぎりの所だったのである。 激痛を堪え、急いで少年の状態を確かめる。不幸中の幸いと言うべきか、胸の傷以外の外傷は無い。そして……まだ、その生命の鼓動は残っていた。 出来る限りの処置を施した。青年もこの時ばかりは、暗殺者と言う職能に感謝する。単独行動が多い仕事柄、自力で手傷の処置一つ出来ぬのでは暗殺者として役に立たない。だから神無月もまた、医療技術の面では一般人よりも遥かに優れた技を持っていた。無論本職には及ばないが、それでもその技術が、辛うじて少年の生命を拾った。 (……畜生……っ!) 再び、地面を砕く。 (神も仏も居ねえのか……何で、何で……!) ぽつり。久しく忘れていた感情が、瞳より零れ落ちた。 「何でこんな子供が、一生の重荷なんか背負わなきゃならねぇんだよ……っ!!」 溢れ出る想いが止まらなかった。何故だ。この子に、あの少女に何の罪がある。普通に幸せになる権利すら、無いと言うのか。悔しかった。肝心な所で役に立てない己の無力さが、恨めしかった。何が師匠だ。弟子の幸せ一つ護れない奴に、師と名乗る資格が何処にある……。 それきり、神無月は少年の前から姿を消した。自分が傍に居ると却って少年を危機に晒すからと言う理由だったが、それ以上に、少年の傍に居る資格が無いと、思いつめた結果での事だった。そして、それから何年も経って――。 |
(生きてたんだな、朧) もう何年も消息を追っていた少年……否、もう立派な男と言うべきか。その姿を見て、神無月は忽ちあの悪夢の日を思い浮かべる。しかし隣の西洋人……恐らくは弟分の様な存在であろう若者と接する彼の表情は非常に晴れやかで、生き生きとしたものだった。 (こりゃ、俺の方が未練がましいのかも知れないなぁ) 負けた、と神無月は感じた。少なくとも神無月は、『護れた筈の幸せ』への未練をまだ捨て切れてはいない。しかし青年の方は、それを吹っ切る事が出来ている様に見えた。矢張り、あいつは強い――その事が再確認出来て、何処か誇らしい気持ちになった。 (でも、実際の強さはどうなのかな?) 神無月はにやりと笑みを浮かべる。悪戯心が湧いて来た。彼がまだ自分の下に居た頃『都』の中で、本気で気配を消して『見つけ出してみろ』と無茶を言った時、彼は遂に師を見つけ出す事が出来なかった事がある。それどころか気配すら感じ取れなかったと少年は言っていた。その実力差が何処まで埋まったか、試してみたくなった。 二人が誰かの家に入るのを見届け、神無月は念入りに帽子を深く被り、気配を消して二人が出て来るのを待った。その顔は、何処か子供っぽかった。 そして、黄昏。手掛かりが得られなかったのか、二人はがっくりと項垂れながらその家から出て来た。しかし、それも直ぐに消え、二人は気合を入れた様子で元気になる。足取りも軽く、歩み始める。その方向を見て、神無月も動いた。無論、気配は完全に消している。 そして、二人はすれ違う。途端、痺れる様な感覚を覚えた。 (気付かれたな) 後方でも、青年の反応はわかる。明らかに動揺していた。これでも神無月は変装には自信があり、嘗て『都』で同じ様な事をやった時、ニアミスだったにも関わらず少年の方は全く気付かなかった実績がある。だから今度もそれを試してみたのだが、流石にそんなに甘くは無かった様だ。急速に、神無月の歩く速度が速くなった。 (さぁ、今度は鬼ごっこだぞ朧。俺に追いつけるか) うきうきと、心が湧き立つ。まるで子供同士の遊びだった。最も、青年の方にそんな意識は無いだろうが、神無月にとってはそうだった。昔と違って地の利は向こうにあるだろうが、そんな事は知った事では無い。捕まえられるものならやってみろ。そう心で嘯いていた。 満月が煌々と光る夜だった。船が来る時間はとうに過ぎており、港は一種不気味なまでの静寂に包まれている。音があるとすれば、波が波止場を打つ音だけである。いつか、無力感に苛まれながら聞いたあの波よりも大人しいものではあったが。 「不思議なもんだよな、人間ってのは。探している時には手掛かりすらも得られないってのに、探してもいない時にはあっさり見つかるんだから。全く、馬鹿げた話だよ」 くるりと、青年の方を向いた。その肌はすっかり日に灼け、海の男としての風格が漂っている。もう彼が、少年では無くて立派な一人の『男』になったのだと、神無月は再認識させられた。嬉しい中に、何処か寂しさがある。 「暫く見ねえ間に随分変わったなあ、朧」 「……師匠」 青年の言葉に、神無月は嘗てと変わらぬ笑みを浮かべた。 「しかし、俺も腕が鈍ったかね。本気で気配を殺していたのに、まさか見つかるなんてさ。それとも、お前の方が成長したのかな」 そう言って彼は大袈裟に肩を竦めた。それが彼流の喜びの表現だ。しかし、青年に笑顔は無かった。唇を噛んで俯き、拳を震わせていた。その理由を、師は直ぐに察する。 「師匠……俺……」 「知ってるよ」 神無月は眼を閉じていた。自分に彼を非難するどんな資格があるだろう。彼は老人の暗示をも打ち破り、少女と生きる道を選んだ。自分と結んだ約束は護ったのだ。それが例え悲劇に終わったとしても、少年を責める筋合いなどある訳が無い。 「お前は、彼女を幸せにしようと本気で思ってたんだろ? 彼女の事を護ろうと本気で覚悟を決めてたんだろ? だったらもう、俺から言う事は何も無いさ。ましてお前を責めるつもりなんてこれっぽっちも無い」 むしろ、良くぞ強く生きてくれた、と言いたい程だった。少女を喪う衝撃で、彼がどうなってしまうのか神無月にもわからなかったのだから。下手をすれば心が壊れてしまったのではと思っていた彼にとって、青年のこの成長は非常に喜ばしいものだった。少しでも、罪悪感が薄れる気がした。 「ま、彼女の事を吹っ切ってなかったらぶん殴ってる所だが、その心配も無いみたいだ。一緒に居た奴と話をしている時の顔は、凄く生き生きしていたからな……なあ、そろそろ出て来いよ。居るんだろ、そこに」 結構前から気配を消して様子を窺っていた人物に向けて、声を発する。現れたのは果たして、青年の連れだった。青年が血相を変えて自分を追ったせいだろう。その表情は厳しく、あからさまに自分の事を警戒していた。その構えに隙は見当たらない。気配の消し方も見事だ。かなりの手利きだ、と神無月は思った。 「大丈夫。何にもしやしねえよ。こいつとは昔馴染みなんだ。俺にとっては弟みたいなもんさ」 神無月はそう言って微笑みを浮かべた。自分でも驚く程穏やかな笑みだった。矢張り、重ねた月日を誤魔化す事は出来ないらしい。そしてその表情を見て金髪の青年も何かを感じ取ったのか、警戒を解く。 「……疑って、悪かったっス」 金髪の青年の真摯な謝罪に、神無月はぶんぶんと手を振った。気にはしていない。むしろ当然の反応だろう。見も知らぬ人間の下に血相を変えて向かう仲間を見れば、その相手に対して警戒心を抱くのは無理からぬ事だ。だから、もう神無月は金髪の青年が自分を疑っていた事を綺麗に忘れた。『忘れる』事は一つの立派な才能であり技術である。 「お前、名前は何て言うんだ?」 「テリーっス」 「そうか。俺は……」 「カンナヅキさんっスよね? アニキから聞いたっス」 「アニキィ?」 その言葉を聞いて、神無月は忽ちおかしそうにくつくつと笑い始める。青年の過去を知る自分からすれば、全く意外な呼び名だった。確かに心の強い少年ではあったが、まさか『アニキ』などと呼ばれるとは……昔とのギャップに、神無月はまたしても悪戯心をくすぐられる。 「こいつは傑作だ。あのガキだったお前が、『アニキ』とか呼ばれる様になるなんてよ。はははは……」 「あ、あれから何年経ってると思ってるんですか。いつまでもガキ扱いしないで下さいよ!」 「へえ、そんな事言っちゃって良いのかなぁ? このテリーって奴に、色々とお前の恥ずかしい話をしてやっても……」 「ちょ、ちょっと! 何勝手な事言ってるんですか!」 「何だよ。別に良いじゃねえか。なぁ、お前だってこいつの過去の話とか色々聞いてみたいだろ? そうそう、こいつが昔付き合ってた桜ちゃんとの事とか……」 「だぁーっ! もうっ! 本当、勘弁して下さいよ!!」 テリーとか言う青年は、少しの間この光景をぽかんと見つめていた。恐らく彼は、こんな『アニキ』の姿を初めて見たのだろう。しかしその困惑も直ぐに無くなった様子で、遂には吹き出した。 「お、おいテリー! 手前、笑ってんじゃねえ!」 「ほうら、こいつもお前についての話を聞きたいってよ。そうだな、やっぱり最初はあの嬢ちゃんとの馴れ初め……」 「だ・か・ら! 止めて下さいってそれは! 師匠が話をすると、話が無茶苦茶大袈裟になっちまうじゃないですか!!」 「その方が面白いじゃねえか。それで良いだろ」 「良くないですよ!!」 自分でも馬鹿らしいと思うのだが、それが堪らなく楽しかった。またこうして、青年をからかう日が来るとは思ってもみなかったから。こうして、また馬鹿みたいに笑う日が来るなんて、考える事も出来なかったから。しかし、それにしても……。 (相変わらず、からかい甲斐のある奴だなぁ) と言う思いが、神無月を支配する。テリーが間に入ってこの醜い争いを一旦止めはしたが、青年の過去を語ってからかいたいと言う気持ちは、全く衰えていなかった。 「へえ。船乗り兼トレジャーハンターね。そいつはまた随分風変わりな仕事だな」 むしゃむしゃと出された品を食べながら、神無月は二人の話に耳を傾ける。船乗りだと言うのは姿を見れば一目瞭然だが、宝捜しの類までやっているとは想像もつかない。暗殺者からトレジャーハンターとは何とも凄まじい転身振りだ。 「そうっスね。でも楽しいっスよ。外れとかも多いっスけど。やっぱり苦労して宝を手に入れた時なんかが、一番嬉しいっスね。今探してる奴はかなりてこずりそうっスけど。ああ、カンナヅキさんも世界中を旅して来たんスよね? 知らないっスか? 『キャプテン・スパーッツァ』の財宝についての情報」 「キャプテン・スパーッツァ? ああ、どっかで聞いた事あるな。でも、そいつ実在するのかしねえのかわからねえんじゃなかったっけか?」 神無月も世界中を旅して来た男だ。その名については聞き及んでいる。これも青年の行方を調べる過程での副産物である。恐らくそのスパーッツァとか言う海賊に関する知識の量ならこの二人よりも上であろう。 「いや、色々と調査した結果、取り敢えず実在したってのは確からしいっス。アニキがそう言ってました」 テリーの言葉に、神無月はにやりと笑った。これは使える。そう言う表情だ。青年はその顔を見て嫌な予感がしたのか、額に汗が浮き出ていた。 「確実とは言い切れねえが知ってる事はあるぜ」 「本当っスか!?」 思いもかけぬ情報に、テリーは思わず大声を出して喜ぶ。しかし、青年は複雑な表情をしていた。師が何を言い出すつもりか、薄々察しているのだ。 「ああ。但し、情報と引き換えにお前の恥ずかしい話を一つ語らせて貰うけどな」 「う゛……」 案の定、神無月が言い出したのは無茶苦茶な交換条件だった。がっくりと肩を落とす青年を見て、満足そうに笑う。 「……他の条件じゃ……」 「だ〜め」 挙句の果てに舌まで出した。情報が無い以上、青年も結局はこの条件を飲むしか無いのだ。それを良く知っているからこその態度だった。青年はうんざりした様に酒を一息に飲んだ。さっさと酔っ払ってこの場から逃げ出したい。そんな意志が感じられた。 (残念ながらそうは行かないんだよなぁ、朧。夜はまだ長いんだぜ。どんな顔をするんだか、見ものだな) 結局、青年の努力は殆ど無駄に終わり、神無月の好き勝手な振る舞いに、青年は右往左往させられる羽目になった。昔の事を思い出し、神無月は大いに笑った。心底、楽しい宴だった。あの、咲き誇る桜の樹の下での宴と同じ様に。 払暁。神無月は静かに倉庫を出る。朝焼けできらきらと輝く海の景色が、恐ろしく美しかった。その海に向かって、静かに手を合わせる。最期の瞬間まで、悲しい程に美しかった、青年の妻に対して。 どれだけ手を合わせていただろう。後ろから青年らしき気配が近付くのがわかる。神無月はくるりと振り向き、笑みを浮かべた。 「よう、朧。二日酔いか? 全く、図体はでかくなっても酒に弱いのは相変わらずだな」 青年は頭を抱えている。自分の言葉に呆れているらしかった。恐らく、二日酔いにさせた自分に対する呪詛の念もあるのだろうと感じ、くすりと笑ってしまう。 「でも……昔よりずっと生き生きしてるし、力強くもなった。お前も、一人前の男になったんだな」 それは、神無月にとって嬉しい事であり、また寂しい事でもあった。嫌でも年月が経ってしまったのだと言う思いがしてしまうから。もう二度と、過去には戻れぬと再認識させられるから。 「俺の眼の黒い内……って、俺の眼の色は真紅だったな。まぁ良いや。ともかく、俺が元気な内にお前の子供でも見てみたいものなんだがな。そいつはまだ無理なのかねぇ」 (……本当は) 笑顔の下で、神無月の心は複雑だった。 (本当は、こいつとあの娘との子供を、見たかった) もしも二人があの悲劇の日を迎えず夫婦になり、現在に至っていたならどうだっただろうと、どうしても考えてしまう。あの娘はきっと、良い奥さんになっていただろう。良い母親になっていただろう。きっと何年経っても、その美しさは変わらないどころか、年齢に応じてますます磨きが掛かっていたに違いない。 不器用な少年はきっと、子供が出来た時右往左往して、あんまり慌てすぎて妻に笑われていただろう。生まれた子供の世話に手間取り泣かれて慌てる姿が浮かぶ。そして、多分あの娘の尻に敷かれていたに違いない。 どれもこれも、何処にでもあるべき幸せな家庭の図。しかしそれは最早、永遠に叶う事の無い幻想に過ぎなかった。それぐらいは百も承知している。なのにどうしても、その未練が尽きなかった。自分の事でも無いのに、何とも奇妙な話である。 (馬鹿な奴だ、俺は) 「……師匠は」 憂いを含んだ声で、我に帰った。青年は複雑な表情をしている。恐らく、『眼の黒い内』などと言う言葉を言ってしまったのが彼の不安を煽ったのだと咄嗟に思った。だが、こればかりはどうにもならない。これは、本心からの言葉なのだから。 「師匠は今、何をしてるんですか? もう、暗殺稼業からは……」 「足を洗った、と言いたい所だが……」 ふっと、神無月の瞳が曇った。此処に来た理由を思い出したからだ。 「まだ決着をつけなきゃならん事が幾つか残っててね。この街に来たのも、その『決着』をつける上で情報収集の役に立つだろうと思ったからなのさ。……ま、そこでお前に逢うとは思いもしなかったけどな」 「……全て終わったら、どうするつもりなんですか?」 青年の問いに、神無月は暫し考え込む。やがて、 「お前の言うトレジャーハンターになるってのも悪くないかも知れねえな。いっそ、お前達とどっかの物語みたいに桃の花ならぬ桜の花を肴に義兄弟の契りを結ぶのも乙かも知れねえ」 と冗談っぽく笑った。 「ま、事が全部終わってから考えてみるさ」 そう言って煙草を吹かしながら、神無月はゆっくりと歩み出す。 「じゃな。テリーって奴には宜しく言っといてくれや。縁あらば、また逢おう」 青年の返事も待たず、神無月は軽く手を振り上げながら去る。 (……ま、しかし) 神無月の表情は少し晴れない。 (今更俺が出張ってあいつの為に何かする訳にも、行かないだろうけどな) 青年はもう、昔とは違う。自分が居なくても自立して生きて行けるし、実際今までそうして来たのだ。今更自分が出張るのは良くない。もう子供では無いのだから。そうはわかっていても、矢張り未練はある。 (これが複雑な親心って奴なのかね) 祖国の結婚の風習から考えても、自分と嘗ての少年とは親子と言う程の齢の差がある訳では無いが、気持ちとしては少年の兄であり、そしてある意味親であったのかも知れなかった。それを今更ながらに思い知る。成長を嬉しく思う心と、自分の手から離れて行く寂しさ。まるで娘を嫁に出す様な心境だった。思わずくすりと笑ってしまう。 (ほんと、馬鹿な奴だな俺は) ふと、神無月は遠目に二人組の男達を見た。弟子だった青年が弟分の頭をぐりぐりとやっている。多分弟分が不用意に昨日の話をしてしまったのだろう。そんなに恥ずかしがる事か、と神無月はおかしかった。 (あいつは、『今』を生きてるんだな) 未だにそれが出来ぬ己を嘲りつつ、嘗ての師は満足だった。自分には勿体無い誇らしい弟子だ。心底からそう思えて嬉しかった。彼は過去を乗り越え、今を生きている。 (俺もさっさと過去から訣別しなきゃ、だな) くるりと向きを変え、神無月は新しい煙草を取り出し、火を点ける。 「じゃなけりゃ師匠面してあいつの前に立つ資格なんかねえよな、嬢ちゃん」 十字架を掴んで、一瞬男は過去の映像を思い浮かべる。しかし、直ぐに大きく息をついて手からそれを離した。そして今度は、ゆっくりと歩き出す。人通りが乏しく道が開けているせいか、本来昨日止まる筈だった宿への道のりが、ひどく遠く思えるが、そんな事は知った事では無い。 歩み続ける限り、人は前に、進む事が出来る。それが例えどんなに遠く険しい道であろうとも。歩みさえ止めなければ、どんな所にだって行く事は出来るのだ。どれだけ時間が掛かったとしても。どれだけ、傷つき果てたとしても。 おしまい |