And others 19

Contributor/哲学さん
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 彼は悩んでいた。
 手紙を書くことは余りない。
 今日ばかりは手紙を、と思い立ったはいいが普段書かないせいもあって思った以上に手間取る。
 幾つかの失敗作をくず箱に捨て、彼は席を立つ。
 窓から漏れるささやかな光が乱反射し、部屋を舞う塵を浮かび上がらせる。
 彼は不意に目を閉じる。
 肩に当たる暖かい光。
 足の裏に広がる安っぽい空洞。
 そして、僅か数歩先には今にも崩れそうな扉。
 心が鋭くなるとともに感覚は次第に鮮明に広がっていく。
 そして、待つ。
 次に来る、その瞬間を。
 温かな陽の光がゆっくりと移動していく。
 やがて、ノックの音がする。
コンコンコン
 軽い音。
 ――余りにも軽い、引き金。
 瞬間、扉は開け放たれ――その時には既に彼も踏み込んでいた。
 抜き放たれた刃が部屋に漂う塵や空気、その全てを断つ。
 だが、刃は最後まで振られない。
 刃が扉の向こうへと到達するよりも早く、彼の額には冷たい金属の感触が広がり――そして。
「俺の勝ちだ、悪魔」
 優しい目をした死神が哀しげに笑う。
 そこで、彼は目を開いた。
 扉は閉まったままだ。
 刀も鞘に収まったままだ。
 自分は踏み出していない。
 ただ、陽の光はやや赤みを帯びて部屋を照らしている。
 時間だけが変わる。
「でも、僕が負けることは変わらない」
 そこだけが、彼の致命的な事実だった。
 そして、再びノックの音。
「スミスさん? いないんですか?」
 相変わらず軽い、どこか調子っ外れな母国語(イングリッシュ)
「ああ、ちょっと待って下さい。すぐ用事を済ませるので」
 そう言って正しい発音で返事を返す。
 窓の外では馬車が走り、赤い砂が飛び交う。
 もうあの灰色の空には戻れない。
 ――帰るつもりもない。
 けれど、相棒は未だにあの空の下にいる。
 はどうしているだろうか。
 ――幸せなのだろうか。
 そこで頭を振り、考えるのを止める。
 今考えるべき事ではない。
 ペンを取り、質の悪い――だが、簡単には朽ちることのない――紙にインクを走らせる。




いつか、その時には――心に刃を




「アニキ! そろそろ陸(おか)が見えたっス!」
「ああ、海鳥達の声も聞こえる。上陸準備だ」
 テリーの声と共にせわしなく船員達が動き始める。
「しかしまぁ、やっぱ遠いな。新大陸ってのは」
 母国を立って幾日が過ぎただろうか。
 船員達のほとんどがその顔に無精ひげを伸ばし、よれよれの服をいつも以上に汚くしている。
「それはそれは。無理を言ってすまなかったね」
 船室から如何にも英国紳士と言った風情の初老の男性がステッキを片手に出てくる。
「いえ、金さえ頂ければモンクは言いませんよ、ペンウッド卿」
 アンドリュー・J・ペンウッド卿。それが今回、彼等を雇った貴族だ。
 英国は貧富の差が激しい場所だ。それ故に未だに階級社会が根強く残っており、庶民が成り上がることはまず無い。
 だからこそ、人々は夢を求めて海へ立つ。
 新たなる栄光を求めて。
 いつかある、どこかにある黄金と言う名の希望を求めて。
 約束の地、新大陸へ。
「あれが新大陸かね。成る程、ドボルザークが新世界を思い浮かべたのも頷ける」
 いかにも好々爺といった感じだが、正直アニキは彼を好くことが出来なかった。
 感じるのは違和感だ。
 柔らかな物腰のどこかに、常人にはない鋭さを感じる。
 いや、もっと単純な答えがある。
 要するに彼からは血の臭いがするのだ。
 むろん、本当に血の臭いがするわけではない。
 だが、彼の言動、立ち振る舞い、彼の周囲に漂う空気、その全てに修羅場をくぐり抜けた物だけが持つ鋭さを持ち合わせている。
――読みが正しければ、引退なんざとんでもねえ。こいつは現役だ――
 首にちりちりとした緊迫感を感じながらアニキはその場を離れ、自分の持ち場に行く。
 上陸前の喜びに満ちた騒がしさが船内を包んみ込んでいる。
 だが、彼だけはその賑やかさに浸ることが出来なかった。



「これで全部か」
 積み荷を運び終え、アニキは汗を拭う。
「オツカレさまっス! 他のみんなはもう酒場に上がったッスよ」
 テリーの言葉を聞きながらアニキは汗を拭う。
「ペンウッド卿は?」
「早々に出ていったッスよ。積み荷の点検もしないって信頼されてるッスね」
「…………まあ、そうだな」
 釈然としないものを感じつつ、彼はテリーを伴って街へと歩き出した。
 大陸とは違う、新大陸独特の活気溢れた荒野の町並みにテリーは興奮しているようだった。
 それを受けてアニキも新大陸独特の風土を楽しんでいた。
 以前では考えられないことだった。
 いつも船番を引受け、酒場で騒ぐことなく船室で寝ている所だった。
 こんな風に街を出歩くようになったのも、テリーのおかげだと言える。
 色々なことが変わった。
 思えば遠くまで来たものだ。
 巡り巡って地球の裏側にまでくるとは……自分の過去を知る者は思うまい。
 今はただ、この異国のざわめきの中で――。
 彼が思い出に浸れるのもそこまでだった。
 突如飛来した何かが彼の眉間へと向かう。
 とっさに避けられたのは僥倖だった。しかし、そのせいで彼の体制が崩れた。
「しまっ……」
「え?」
 同時に上がる声。
 彼は自分の甘さを呪ったこれでは――テリーを守れない。
 そう思ったときには既に第二打がテリーの眉間を打ち砕いていた。
 悲鳴すら上げずにテリーは前のめりに倒れる。
 引き延ばされた時間の中で彼は足に最大限の力を込め、背後へと跳んだ。
 こんな人混みの中で襲われるはずがないと思ったのが命取りだったか。
 だが、銃声はない。火薬の臭いもしない。
 だから、相棒が無事であると判断し、彼は近づいて来た敵に目を向け――凍り付いた。
 相手は微笑んでいた。
 殺気もなく、憎悪もなく。
 ――そこに有ったのは美しい微笑みだけだった。
 自分と同じ、黒い髪と黒い目、そして黄色い肌を持った東洋の青年。そんな青年が刀をぶらさげ、笑っている。
 彼はぞくり、とした。
――こいつは、『斬る』と言う物を知っている――
 全身が総毛立ち、言い知れぬ悪寒が全てを支配する。
 だが、相手は彼を見ていなかった。
 何もできないこちらをあざ笑うかのように目の前を通り過ぎ、倒れる途中のテリーへとその毒蛇の手を伸ばす。
「――っ!」
 やめろ、と言葉にすら出来ず彼は叫んでいた。
 だが、自分の手が相手に到達するよりも早く、相手の手がテリーの体を――受け止めた。
 遅れて、自分の手が相手の肩を掴む。
「……なんだい?」
 そら恐ろしいほど自然な笑みが返ってきた。
 正体不明の青年は気絶したテリーを腕の中に抱え、こちらを見ている。
 地面を見ればクルミのような物が二つ落ちていた。恐らくこれが飛来してものの正体だろう。
「おやおや、君の連れは酔い潰れたみたいだね。だめだよ、こんな早い時間から飲んじゃ」
 青年の言葉に何人か足を止めていた人々も再び歩き出す。――何事もなかったかのように。
「あ、ああ、そうみたいだな」
 アニキは慌てて言葉を取り繕った。
「どこかに宿はとってるのかい?」
「……いいや」
「じゃ、僕の泊まっているところに預けておこう」
 そう言って彼はテリーを抱えて歩き出す。
「おい、待て――」
「興味が有るんだ、――同業者にね」
 青年の有無を言わさぬ勝手な行動を止めようとするも、結局――相手の囁きを前にして彼は立ち尽くすしかできなかった。



「――月が綺麗だね」
 相手は忘れた母国の言葉で話しかけてくる。
「…………」
「君の名は?」
 何も言えないこちらに構わず質問してくる。
「……まずはそちらから名乗るのが礼儀じゃないのか?」
 肩をすくめ、淡々と彼は言う。
「そう言えば、ママもそう言ってたね」
 相手は女のようにくすりと笑った。
「僕は風雅・カトマンズ・スミス」
「……朧月だ」
 ついて出た言葉に彼は自分でも戸惑う。
 捨てたはずの名前なのに。
 風が流れた。
 聞いたこともない虫の音が荒野に鳴り響く。
 彼等は町はずれの古井戸の前に立っていた。
 二人で、月を見上げていた。
「綺麗な名だね」
 相手――風雅は奇妙な青年だった。洋服を着て、自分よりも流暢な英語を話す。それは英国人そのものだ。だが、長い黒髪を後頭部で括り、その腰には一目で分かる業物をぶら下げ、片手にはどぶろくをぶら下げていた。
 ハーフらしいが、余りにもちぐはぐな印象だった。
 そして何より奇妙なのが――殺気の無いことだ。
 今回の雇い主であったペンウッド卿のような「血の臭い」と言う雰囲気を放ちながら、殺気がないのである。
 あらゆる意味で矛盾している。
「はん、お前こそ女見たいな名前じゃないか」
「僕が女だったら君は喜んでたのかな?」
 相手は楽しそうに笑う。
「ああ、喜んでただろうさ」
「それは済まないことをした。後でパパに文句を言っておこう」
 そう言って風雅は小さな盃を取り出し、どぶろくを盃に注いだ。月の反射のせいか濁った感じが見えず、盃に注がれたのはただ真っ白な液体にしか見えない。
 彼は一気に飲み干すとこちらに別の盃を差し出す。
「君は?」
「――俺はいい」
 そう言うと、風雅はまた一杯飲み干した。
 静かな時が流れる。
 彼は何も出来ず、ただ荒野の風景に目をやった。赤と黄色の織りなす荒れ果てた荒野を月の光が照らし出す。
 それは美しいと言えば美しい。
 されど――。
「ここは濁りが足りないね」
 風雅はぽつりと洩らした。
 彼は何も応えない。
「満月はただそれだけで美しい。けれど、霞がかった方がより一層美しい。
 完璧な真円よりも、それが僅かな雲に覆われ、朧げ映るその瞬間が――なによりも美しい」
「――完全よりも不完全を雅(みやび)に尊ぶってか」
 そう言うと相手は笑みを深め、こちらを見つめてきた。
 思わずぞくり、としてしまう。
 恐ろしくも危なかしい何かに惹かれてしまいそうになる。
「――ねえ」
「なんだ?」
 やや改まった顔で相手は訊ねてくる。
「日本て、どんなところ?」
 突拍子もない質問に彼はやや面食らった。
 風雅はあの国を知らないのだろうか。
 彼にとってあの国は捨てた故郷だ。
 体面やしきたりに縛られた――。
「ちっちゃなところさ?」
「でも、いいところなんでしょ?」
 あそこにいい所など――。
 そう思った瞬間、ふいに強い風が二人の間を薙いだ。
 古井戸に寄りかかっていた大木の枝が揺らされ、葉の何本かが盛大に宙を舞う。
 ヒラヒラと落ちていくその様に、朧月は静かにこみ上げるものを感じた。
「――ああ、綺麗な所だな」
「へぇ?」
「桜が、とっても綺麗な所さ」
 再び風が舞い、落ちた木の葉を巻き上げる。
 月の光の下、小さな木の葉達はひらり、ひらりと空を舞った。
 朧な世界の中で綺麗な桜が宙を舞う。
 暗闇に舞う薄桃色の花びらは、ただそれだけで美しいと思えた。
 その桜吹雪の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
 誰よりも美しく微笑みながら。
「……いけねえな」
 彼は熱いまぶたを軽く拭った。
「ここは風がキツいな。すぐに砂が目に入る」
「……慣れれば辛くはないさ」
 そう言って風雅は盃に口をやる。幸いなことに、相手は月を見ていた。こちらを見ていなかった。
「かもな」
 溢れ出る熱いしずくを拭いきれず、彼は目を瞑った。
 だが、それでも桜吹雪はやむことなく、最愛の女性がゆっくりとこちらへと歩いてくる。
『綺麗?』
 月の光に照らされ、青白く浮かび上がる肌。その中で、唇だけがただ赤く輝いている。
「ああ、とてもな」
『よかった』
 そう言って彼女は微笑む。
『ずっと一緒だよ』
「分かってる」
 素っ気なく彼は答える。
『ありがとう』
 そう言って彼女は踵を返した。
 迷いのない堂々とした足取りで。
 だから、彼は止めなかった。
 これは別れでは無いのだから。
 そして朧気な世界は白刃の元に消えた。
キンッ
 軽い金属音と共に目が覚める。
 見れば風雅が刀を鞘にしまい終わっていた。
「……僕の刀は人の心を斬る。戦う心を。迷う心を」
 風雅の声は静かであった。
「だが、君には必要ないみたいだったね」
 そう言って、再び相手は笑った。
「いいところなんだね。でも、僕には行けそうにないな」
 遠い目をして風雅は言った。そんな青年は……どこか寂しそうだった。
「馬鹿いってんじゃねぇよ」
 そんなしんみりした雰囲気をうち消すように朧月は言う。
「生きてるんだ。いつか行けるに決まってんだろ。何あきらめてんだ!」
「でも……」
 彼は有無を言わさず風雅の胸倉を掴んだ。
「でもじゃねぇ! 行けるに決まってんだろ。どうしても無理だって言うなら……」
「……言うなら?」
「俺がお前の迷う心を叩きつぶしてやる!」
 相手は目を丸くしてこちらを凝視する。
 やがて、彼はまた笑った。
「ありがとう」
「礼はいらねぇよ」
 そう言って彼は手を離した。
「日本に行ってみな。こんな所では会えないいい女がごろごろしてるぞ」
 そこで言葉を切り、彼は顔を逸らす。
「……お前みたいにいい女がな」
 一瞬の沈黙。
 そして、二人は同時に笑った。
 声を立てて、心の底から笑った。
 そして、朧月は相手の盃を取り上げた。
「……あ」
 それは相手が口を付けた盃だ。さっきまで、風雅が使っていた盃。だが、それでよかった。
「つげよ」
「喜んで」
 相手は――それこそ女性のように――微笑みながらどぶろくを注いだ。
 そしてそれを一気に飲み干す。
 口の中で薄い粘度を伴った甘い味が広がった。
 予想とはかけ離れた違和感に思わず吐きそうになる。
 だが、彼は堪えると必死で飲み下した。
 そして叫ぶ。
「これ、ミルクじゃねぇか!」
「――そうだけど?」
 風雅はキョトンとこちらを見つめている。
「そうだけどじゃない! なんでこんな土瓶なんかに詰め込んでるんだ! 紛らわしいだろう!」
「いいじゃない。これは飲み物を入れる物だろ?」
「使い方を間違ってる! 一回日本に行って勉強してこい! このちぐはぐ野郎!」
「酷いなぁ。これは母さんの形見なんだ。僕がどう使おうと勝手だろ」
「思いっきり『酒』って書いてあるだろうが! 『酒』って!」
「大丈夫、誰も読めないよこんな漢字」
「謝れ! 笠をかぶった金○マたぬきさん達にあやまれ!」
「なんでそんなモンに謝るのさ。意味分からないよ」
「だぁぁぁぁ! コレだから無知は困る。いいか! みっちり教えてやる! 俺に合わせて歌え!」
「え? 歌うの?」
「そうだ! いいか。いくぞ! た〜ん、た〜ん、た〜ぬきのき○たまは〜♪」
「うわ、なにその下品な歌?」
「げ・ひ・ん・じゃ・ねぇ!」
「ねぇ? もしかしてミルクで酔ってる? 絶対酔っぱらってるでしょ?」
「酔ってねェ! ほら手を叩け! 腰をふれ! た〜ん、た〜ん、た〜ぬきのき○たまは〜♪」
「え、えぇ――と、たーん、たーん?」
「ええい! 気持ちがこもってなーい!」
あおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおん、ぉん、ぉん
 コヨーテの鳴き声が荒野に響く。
 夜はまだ始まったばかりだった。



「ねぇ、ホントにオイラは酔っぱらったんすか?」
 新しい荷物を運びながらテリーが聞いてくる。
「うっせーな。だから5件目でお前はダウンしたんだよ。一件目から既に飛ばしてたからな。そのせいで昼の記憶も飛んだんだろうさ」
 アニキはめんどくさそうに言う。
「ホントっスか? オイラを眠らせてどっか女の所にいってたんじゃないんスか?」
「ば、馬鹿。んなわけねぇだろが」
 うるさいテリーを追っ払い、彼はさっさと甲板へと歩いていく。そろそろ錨を上げるころだろう。
「おかしいっスねぇ? こんなに記憶が抜け落ちたこと無いッス。頭も痛くないッスのに……」
「うだうだ言ってねぇでお前は船長に報告してこい!」
「あいあいさーッス!」
 そう言ってテリーは慌ただしく船室へと向かった。
 『純潔の女神』号出向の時だ。
「やあ」
 と、船の上から声がした。
 見上げると太陽の光を背に、風雅が立っている。
 逆光のせいでその表情は見えない。だが、笑っているのだろう。
「なんだ、見送りに来たのか」
「なんだじゃないだろ? 一夜を共にした仲じゃないか」
 相手は――恐らくだが――にこにこと言ってくる。逆にこちらが恥ずかしくなった。
「これを頼む」
 そう言って風雅は一振りの小太刀を投げた。逆光でその軌道は見えなかったが、簡単にアニキは掴み取る。見てみると小太刀に手紙がくくりつけてある。
「……これは?」
「フロンティア・パブって宿にいる冴えない男に渡して欲しい」
 その言葉に彼は軽く眉をひそめる。だが、すぐに彼はその疑問を引っ込めた。
「ああ、分かった。必ず届けよう」
 そう言って彼も笑い返した。眩しくて相手の顔は見えなかったが、笑い返されたような気がした。
「君に会えて良かったよ」
「……ああ、俺もだ」
 しばし、二人は見つめ合う。
「また、どこかで会おう」
「ああ。その時はまたミルクを傲るよ」
 そう言って彼は『酒』と書かれた土瓶をチラつかせる。チャプン、といい音が聞こえた。
「……酒の方が好きなんだが」
 アニキはそう言ってやや頬を引きつらせる。そうすると風雅もやや苦笑しつつ、頷いた。
「分かった。次は酒も傲るよ……でも、歌は勘弁してね」
 その言葉にアニキはむっとする。逆光で見えないが恐らく相手はかなり『まずーい』顔をしていることだろう。
 何故あの歌のよさが分からないのか。
 やはり彼には日本の心が分からないらしい。
「じゃ、次は日本で会うか」
「それもいいかもね」
 汽笛の音が港に響いた。
「じゃ、これでお別れだ」
 そう言って彼は背を向ける。
「また、どこかでね」
 柔らかな風雅の声。
 それに対し、彼は小太刀を掲げ、答えた。
「次は日本で」
「――――」
 再び響いた汽笛の音にその声はかき消され――だが、男達は再度の約束を誓い合うのであった。
 船はゆっくりと動き出す。
 広大な海の向こうへと。
 生き方の違う二人の男が海を隔てて離れてゆく。
 だが、生きている限り、再び会うこともあるだろう。
 一度巡り会うことが出来たのだから。
 再会の日を夢見て、風雅はいつまでもいつまでも船を見つめ続けるのであった。



「で、あのかわいこちゃんは誰だったんスか?」
「馬鹿、そんなんじゃねぇよ」
「またまた〜ポニーテルのよく似合うお淑やかな黒髪の美女だったじゃないっスか」
「いや、男物の服着てただろ?」
「男装の麗人っスか〜いいっスねぇ〜」
「お前、色々と勘違いしてるぞ。ほら、胸とか無かっただろ?」
「着やせするタイプっスね」
「ああ、そうだな――って違う! お前の目は節穴か!」
「アニキこそ間違ってるっス! どうみてもアレは女ッスよ!」
「なんだなんだ?」
「ケンカか?」
「あ、センチョー! リョウリチョー! 聞いて下さいっス! アニキが一夜のラブロマンスを!」
「なんだとっ! そいつぁ聞き捨てならねぇな!」
「アイタタタ! 料理長! 首が極まってる! 極まってる!」
「よーし! 尋問室に運べ!」
「アイアイサー!」
「船長アンタまでぇぇぇ! 離せ!!! 俺は間違ってないっっっっ!!!」



「確かに渡したぜ」
 そう言って小さな黒い棒を渡し、いつもの二人組は帰っていった。
「ウェッソンっー贈り物ですぅ!」
 二階にまで届く様にサリーは大声を上げる。
「なんだ……? こんな朝っぱらから」
 二階の桟に体を預け、両手をだらしがなくぶら下げながらウェッソンは訊ねる。
「早朝張り込みに行こうとしたらマッチョな二人がこれを渡してったですぅ!」
「早朝張り込み? 誰かと交代でやってるの?」
 こちらはいつも通り早朝から店の前を掃いていたテムズ。
 もはや誰を張り込むとかはどうでもいいらしい。
「いいえ、ひとりですぅ! でも昨日は眠かったので早々に引き上げたのですぅ!」
「……逃げられたと思うけど」
「そんなことないですぅ! 昨日眠くなったときに気付いたですぅ! こっちが眠いと言うことは相手も眠い! だから今日の所は相手もこの辺ですぐに寝るはずだときづいたんですう!」
 自信満々でサリーは答える。その言葉にテムズはため息をついた。
「……あんた6時に帰ってきたじゃない」
「はいですぅ! 朝から犯人探し回ってたから夕方になるともうくたくたで疲れてたですぅ!」
 何故か胸を張って彼女は語る。まさに名推理と言わんばかりだ。
 仕方なく、テムズは彼女の持っている贈り物を取り上げた。
「……これは私がウェッソンに渡しておくから早くいけば?」
「では任したですよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぅ!」
 一瞬にして遠ざかっていく声。
 それを見つめながら、若いっていいな、と思うテムズであった。
「で、なんだって?」
 芋虫の様に地面を這いながらも、ウェッソンは二階から一階正面玄関まで到達していた。
 地面に壊れたように転がるその姿はまさにぶざまな負け犬だ。
 働くこともできない社会の負け犬にはお似合いと言えよう。
 そう言えば、テムズはこの光景をどこかで見たことがある。
 そして、すぐにその答えに辿り着き……彼女は深く、深く、ため息をついた。
「……成る程。アリストの師匠ね」
「……何を納得している? ……やけに
「気にしないで」
 なにやら非難がましい目を向けてくる居候にテムズは苦笑しながら黒い棒を指しだした。
「ああ、待て。今筋肉痛で辛いんだ。立ち上がるには段階が必要だ。まず、あれだ。まずは、ゆっくりと腰関節をずらしながらだな」
 老朽化してギミックの滑りが悪くなった木人形の様に同じ場所をゆっくりと上下動させながらウェッソンは器用に関節を動かし、立ち上がっていく。
 だが、テムズはめんどくさかった。
「……えいっ」
 テムズが軽く箒を一回転させると箒の柄が物の見事にウェッソンの顎を直撃し、彼を背後にある椅子の上まで吹き飛ばした。
「……段々人間離れしていくな、お前」
「……段々ヘタレていってるでしょ、あんた」
 顎をさすりながら苦い顔をするウェッソンに、テムズは平気で言う。
「勘弁してくれ。昨日はずっと山の中を駆けづりまわって、全身の関節が悲鳴を上げてんだ」
「もう、引退の年なのね。スポーツ選手は寿命が短いって言うけど……」
「うっさいな。お前も怪盗サルモンキーを追いかけてみろってんだ」
 テーブルに俯せに倒れ込みながらウェッソンは言う。
 「凄腕」とやらももう過去の時代としか言いようがない。
 まあ、最近店は平和だし、それがいいのかも知れない。
 争いなんかなくて、だらけられるくらい平和であるべきなのだ。……本来は。
「でも、宿代は稼いで欲しいわね」
「ギクっ」
「ギクっじゃないわよ」
 テムズは深くため息をついた。あるいはもう少し治安が悪ければ彼は用心棒になれたかもしれない……そんな不謹慎なことを考えながらテムズは黒い棒をテーブルに転がした。
「ったく……なんだよ」
 ダルそうにウェッソンは呟く。だが、それを目にした瞬間彼の目つきが変わった。ゆっくりと体を――上下動させつつ――起こし、その黒い棒を手に取る。
「……これは」
 そう言ってさっきまでとはうって変わって慎重な手つきでその黒い棒を取る。
 そして、ゆっくりとその棒を左右に引き延ばした。すると、中から白く輝く刃が零れ出る。
「……もしかしてカタナ?」
「知ってるのか?」
 ウェッソンが意外そうな顔をする。
「ええ、確か東洋の工芸品でしょ。その切れ味もさることながら、刃の美しさは最高の芸術品だとか……」
 その言葉を聞いてウェッソンは複雑な顔をする。
「ああそうか。ま、普通はそうだわな」
 そう言って彼はカタナをしまい、くくりつけられていた手紙を見た。
 そして、盛大なため息をつく。
 やがて、また彼はテーブルの上に突っ伏した。
「――なぁ、知ってるか?」
「何よ?」
 突然な問いにテムズは戸惑う。
「友人の言葉なんだが――フロンティアってのは斬り開くもんなんだとさ」
「……だから何?」
「…………なんでもないさ」
 そう言って彼はカタナを取って床の上にゆっくりと転がり落ちた。
「はぁぁぁあ、俺はまた一つ年を取ってしまったか……そらそうだわな……彼女に会ってから冬が過ぎて、また、彼女に会ったわけだし。まあ、彼女とはもう二度と会わない訳なんだが……」
 ぶつぶつと呟きつつ、その芋虫は床をゆっくりゆっくりと進んで行った。
「……結局なんだったのかしら?」



 人は常に新しい何かに立ち向かっていかなければならない。
 それにうち勝つために、強い自分を、強い心を持つべきである。
 いつか、戦うその時が来たならば――その時、心に自分の武器となるべき刃があれば幸いである。
 その刃はいつまでも自分を守り続けてくれるだろう。
 願わくば、辛い今を堪え忍び、その刃をいずれは杖として、未来へと持っていけることを願う。







[A sequel or hunch]

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