Epilogue 休暇らしい角度で
ノノモリは呟いた。
「愛の境界ってなにかしらね」
「何言い出すんですかっ!?」
そんなに大音声を張り上げることはないだろう、恥ずかしい、とノノモリは思った。こんな街中の、しかもカーテンの掛かった個室の周囲で……。
「試着中に愛を語られたらこんな声が出るもんです!」
「そうかしら」
「愛ってのはですね、大声で語ったり聞いたりするのがお似合いなんですよ。囁かれるなんてまっぴらです」
「そうなの……。大変だったのね」
同情したが、カーテンの向こうでもぞもぞ言っているマコはまるで感謝の感情を声に込めずに言い返してきた。
「大変な事なんてなにもない人生でしたよ」
「それはけっこうだわ」
「まー、あれですかね、女中仲間はたまに噂してたかなあ。酒場の昼シフトにいいバーテンがいたとか、新入り執事のお兄さんが案外いい胸筋してたとか、ご主人と郵便配達人の少年が夜な夜な裏庭で密会してたとか、愛だの恋だの……」
「最後はきっと愛ではないわね。実は息子なのかもしれない。ああ、いえ、その場合は親子愛とも言える」
「その方が良いですたぶん私もほんとのこと詳しく知りたくなかったし。……で、なんでいきなり愛の話?」
「なにかしらね。本当に、なんだろう……」
椅子に座ってカーテンに背を向けていたノノモリは手の持って行き所に少し迷い、腿に掌を休めた。腰と脚の中間、側面が少し膨らんでいる。そうだ、ここはポケットと言う空間だ。昨日までないものがそこに入っている。
「財布が膨らむと愛の境界線について考えたくなるのかしら」
銀貨四枚の体積は想像していたよりも大きい。
「そういうものかもしれないですね。恋愛もなにかとお金掛かるみたいですし。私くらいびんぼうだった仲間の一人、元手ゼロでいい家の人と結婚してお金持ちになりましたけど」
「なるほど……」頷く。
つまり、この問答は退屈潰しだったのかもしれない。カーテンが開き「おまたせ」マコが顔を見せてからは、愛について積極的に口にする気にはならなくなった。
「どうですか?」くるりと回ってマコは自分の服を示して見せた。
ひらひらと、黒い女中服の長めの裾が回る。積層になったレースの裏地の奥にさらにドロワーズが見えた気がして、ノノモリは少しひやりとした。
似合っているかどうか聞かれているのだろうか、ノノモリにはわからなかったので、「はしたな……いえ」必要とされていそうなコメントを思いついたまま告げてみる。
「それ、あまり斜め上後ろに肩を回さない方が良いと思う。脇の縫製が弱い」
「えええー!」誰もいない試着スペースでも、出して良い声と良くない声があるとノノモリは思うのである。
「せっかく気持ちよくお金出して秋服仕立ててもらったんだから、けち付けないでくださいよー!」
「あ、そうか」ノノモリは立ち上がる(尻尾がこぼれて床に付く直前に止まった)。
「ここで正しいことを指摘するかしないかが愛の境界線なのだわ。きっと」
「従業員だってまごころこめて愛してくださいよー」
「正確さのありなし、どちらが愛してることになるかは私には分からない」
「もう」マコは何故か頭を抱えてうめいた。
「よく知らないけど、肩が回せないんじゃ剣に差し支えるんじゃない? お店の人に言ってみれば?」
「そーします……」思いのほか元気が無さそうで悪い気がしたので、
「ええと、似合ってるかも。頑丈そうでかわいい」と付け加えてみる。
焼け石に水を掛けるようなものだろう。ちょっと違うか。
「そりゃあ、ありがとうございます」マコは無理矢理「にっこり!」言って笑って、そのまま更衣スペースから出て行った。
水蒸気みたいな言動だ、とノノモリは感心した。
しばらく経って。
「めんどくさがらずに言って良かった〜♪」
仕立ての裏布を上等なものに換えてもらったマコは――それを無料で提供してもらったため――ほくほくとした顔で服屋を出た。脇に抱えたのは、真新しい服が包まれた店印付きの飾り袋。
「包装って幸せですよねぇ。新品ですよぅ。買い物の悪魔ってきっと包装に包まれてるんだ」三歩後ろを歩くノノモリにそれが見えるようにくるくると回ってあげると、ノノモリは空を見上げて涼しい顔をした。目を回したくないに違いない。
「厚手の服を新調しに来たんでしょう。包装は本質じゃないわ。どうせ無駄になるのに」
呪いのおかげで毎日新しい服が着られているノノモリは、かえって、おしゃれな話に乗ってこないのだ。
(そういう系だ。おしゃれな話をして慣れさせなきゃ駄目系の子だ)
マコは簡単にそう決めつけた。
「本質じゃ服は包めないんですぅ」
にこにこと口を尖らせたマコだった。
二人は歩いて武具屋を探す。
昨日壊してしまった剣の鞘を修理するためだ。戦闘用に鉄芯が仕込まれている特注品で、専門外の業者……例えば以前職場の近くにあったような家具屋……では手が出せないことも多かった。
人里にはもちろん馬に履かせるくつわや樽板を留める金輪、鉄鍋の需要はごまんとあるが、人通りのある明るい街角に殺傷用の道具が並んでいるところを、マコは見た記憶がない。
「魔獣対策も社会の正当な仕事の一つじゃないの? どうして?」
首をひねっているノノモリに、マコは「んー」と息をもらす。
「けっこうね、人相手に使われることがあるんですよ。武器って。あまりほめられないんです」
「誰に?」
「神様とか世間様とか」
「境界線のはっきりした話じゃない」
ちょっと怒っている。珍しいな、とマコは思った。
「マコが殺人者なわけではないでしょう。住み分ければいい」
「まあね」それも考えたことがないわけではなかった。剣を持っている意味とか。右手に感覚が溶けてしまってからは、それはもう定かではない。
「どんな仕事だって、嫌う人はいるもんですよ」
「マコも?」
マコはちょっと町を眺める。ここだって旅の途中、ほんの少しだけ逗留している町だ。
大きい都市ではないが、外界から狭く隔離されている館でもない。
数日歩き回っただけでも区画の所々に光と影のむらが見えた。そういうものだろう。
均質な環境なんてこの世界にはない。
「日の当たるとこを歩きたいですけどねー、できれば」
それさえ心がければ十分だ、と、彼女は思う。
洗濯をして今頃宿の窓辺で風に当たっているだろう、エプロンとカチューシャが無くても、自分を示す単語は武装女中だ。それはノノモリの呪いみたいに自身に染み着いて離れない。
だけど、それはきっと、この猫耳の少女が浮かべている表情みたいに、悪いことばかりではないのだ。
家具屋に紹介してもらい、武具屋は見つかった。先日訪れたノルタリ砦(黴臭い集合住宅の方だ)にほど近い、階段で下りた区画に工房があった。
わざわざ進んで景気の悪い立地に店を構えたみたいだ……もともとはなかった箔をつけるみたいに。ノノモリはそう感じた。
鞘とついでに剣を預けて、二人はまた町を歩く。
中央にささやかな高台になっている区画があり、外縁に手すり付きの整備された回廊が造られている。そこから下の町並みと、やや遠くに外壁が見えた。
正午前、暑さの緩まない時間だ。
建物が作る日陰を縫っていくと、乾いた涼風が、長く伸ばした髪にこもった湿気を綺麗に吹き飛ばしてくれた。
(いい天気)
ノノモリは目を細めた。
横でふらふら歩いているマコは居心地悪いようだった。
「身体がまっすぐ進まない気がします」いつも剣がぶら下がっていた、空の剣帯をぽりぽりと掻いている。
「ねえ王女」
「なに?」
「王女の尻尾って、バランスとるためにあるんですねぇ」
「そうなの?」
意識したわけではないが、尻尾の筋がひらりと円を書いた。
「今の私、尻尾もがれた猫みたいな気分です」
その時ノノモリが連想したのはぐうたらな犬だったが、表情に出さないことにする。
「あーもう疲れた」
「だらしない。明日の準備ってまだ残ってるんでしょう」
くるりと体を回して手すりにもたれ掛かった武装女中……今は非武装女中か、マコにノノモリはあきれた声をかけた。
「鞘が直ったらぴゃぴゃーって走って準備しますよー。明日行く先だってどうせ隣町なんだし、今日はもう、いつもよりいい食料と高くて買えなかったお菓子包みとか買って備えればいいんですよー。港町の仕事なんだし食事は出るそうだしそっちはそっちできっと美味しいですようへへ」
「緩んでるわねえ」
ノノモリは苦笑した。マコよりは上品になるように手すりに背中を預ける。
尻尾が風を受けた。
「ハックラストベリ助教授が報酬の支払いに誠実な人物だったのが嬉しい、って言うのはわかるけど。浪費で無くして私にたからないようにね」
「それ悪い言葉ですよー」
「まあ、私、お金の使い道は無いんだけど」
報酬を折半しようと言い出したのはマコだ。
(お金持っとく癖付けた方がいいですよ)とその時彼女は言ったものだった。
寸時の回想に連続するようにして、その時と同じ気楽な声音で、マコは
「呪いをなくすために旅してるんじゃないですか。服が替わらなくなったら、替えの下着から買わなきゃです」と言った。
どうだろうな、と反射的に思ったが、それを言うのは彼女に失礼だとも思う。
「ん」
なので、そんな中途半端な声が出た。
「呪いが解けたら、王女はどうなるんですか?」
「どういう意味で?」
「今の猫っぽい王女は、どうなるんですか?」
「いなくなるかもしれないわ」
素直に答える。
「そのままかもしれないし」
マコはそう言って脳天気に笑った。
「なんとかなるもんですよー。王女は、王女がなりたいようになるものです」
「マコ……」
武装女中の表情は、カチューシャやエプロンが無い分、ずいぶん幼く見えた。たぶんこれが、マコの年相応な顔なのだろう。
昨日湖で見た、歪んだ鏡の小さなノノモリくらいに見えるし、表情だって同じくらい無邪気なものだ。
(存在が呪いそのものに浸食される)
不吉な予言を囁く少女の顔を思い出す。
それとマコとは、やはりまったく違う。違うというか、
「緩んでるなあ」口に出せばそうとしか言えないノノモリだった。
「明日から引き締まりますって」へらりと手すりにもたれかかったマコは「あっつい!」悲鳴を上げて日差しに白く焼けた石肌から両手を放り出した。
「なにこれこんな熱い! 厳しい! 休暇中に厳しい世界! くそう」
(引き締まった)
鉄板に焼き縮められたステーキの映像を思い浮かべてから、ノノモリは「そうだ、使い道」胸の前で軽く手を合わせた。
「冷たいものでも飲みましょう。私が奢ってあげる」
「それは良い言葉です! でもどうしたんですか? いきなり」
「愛かしらね」
適当に答えたのだが、まあ違いはしないだろう。
「愛ですか?」
愛も感謝も似たようなものだ。たぶん。
「なにも定まらなくたって、愛くらいはそのへんに浮かせられる。マコだって空に浮かんだんだし」
「私もう、あれいいです……。自分の体重をへんに自覚しますもん」
回廊の隅におまけのような階段が刻まれていたので、二人はそちらに歩を向ける。この間飲んだホットショコラの店が、冷たいメニューを出しているかもしれない。
「こういうの初めてかもですね、王女」マコが気楽なトーンで声を掛けてきた。
「なにが?」
「ショッピングして散歩して、いいかんじのカフェに行くとかさ」
「うん」
「友達みたいなことですよ」
本気で言っているのか、いないのか。
ノノモリは外壁のさらに外、太陽の角度を一瞬確認した。
「カフェね……」ちょっとだけ笑って返事をする。
お茶を飲む場所。
時間を規定するために、武具屋ほどには大事な存在だ。
(時々の境界線 おしまい)
[三巻 パラグラフの迷路(冊子版)へつづく]