Schrodinger Folks
some borders and indefinite princess
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[1-2] 観測の始まり



 長い目眩の中を、あてどなく泳いでいたような気分だ。
 いつの間にか真っ白に塗りつぶされていた視界が元の薄暗い地下ホールに戻ったとき、マコの意識はちゃんと自分の頭蓋骨の中に収まっていた。平衡感覚の違和感に「うっぷ」少し酔ってる。
 右斜め下に振り下ろした剣。斬撃の姿勢のままだ。刀身には破砕された紐の繊維かすが何本かこびりついている……
(糸車は)
 マコは顔を上げる。
 人影がひとつ、こちらを向いて立っていた。
 だが、その姿は……
「……なに?」
 よくわからない。さっき見た薄い色の女の子がいるとばかり期待していたのに、その人影の姿は、何というか……定まっていなかった。
 庭師風の服装の若い男がそこには立っていた。その外郭は見る間に乾ききったレースを帯びた老婆になり、その顔は髭面の威丈夫だったり、片結びの赤髪が揺れる幼児に変わり、その青い目が赤い。金色の紫。揺れる緑黒赤の布地。うねる色と姿と質量と輪郭。
 すべての一人が声もなくこちらを見ている――
(さっきっから酔いそうだ)
 異様さとちかちかする感覚にたじろいで、マコは一歩下がる。
 老いも若きも、男も女も、一秒も定まらない人影。
 まともじゃないものばかりこの屋敷では目にしてきたが、その中でもこれは、とびきり奇妙だ。
 マコの本能が逃げろ、また触手とか出してくる前に、とがなり立てるのを理性だか鈍感さだかを引っ張りだして、無理矢理ねじ伏せる。
(これは服に閉じこめられてた女の子なんだ。外に出したから不安定になってるんだ)
 そう思った。
 自分が引きずり出したのだから、見つけてあげなければ……。
「あなたは誰?」マコは3メートルの、他人とすれ違うような距離から声を掛ける。
 聞こえてはいるようで、定まらない口が確かに開いていく。
「俺はヤーガフ」「あたしはモラ」「キニーネ」「ガルフ」「ノルトン」語尾が次の声と重なり「ヴォイニ」「ロルダ」「フルート」「……」「ゴド」「ノックズ」「サマラン」明るい声。暗い呻き。無表情なささやき。人名が無限の不協和音でホールの中を反響していく。
「「トフステガラオノ……」」
「「ヤーフステルノクスートート……」」
 やがて音の輪郭も聞き分けられなくなってきた。
 頭がぼうっとする中、マコは定まらない人影の目をじっと見る。
(この中にいる)
「無駄だ」
 誰かが言う。
「不定の呪いは人の目に留まらぬ」
「おまえの目は今世界を演繹している」
「おまえの目が世界に向けて開かれる窓である限り、俺は姿を留めない」
「呪いは一時も定まらない」
「儂は不定の呪い」
「私は」「あたしは」「ぼくは」
「――うるさいっ」
 マコは語気鋭く叫んで、目を細める。
 こちらを向いて訳の分からないことを口走る、無数の人影の中に、……一瞬だけ後頭部が見えたのだ。
 無限に残響する喧噪の中に一瞬だけ、口をつぐむ細い吐息が聞こえたのだ。
 錯覚か。いや、
(そいつが本物だ)
 マコは直感した。
 そう思いこんだ。
 手を伸ばす。奔流のようにめまぐるしく点滅する人の中に。
(こいつらの中で、一番の恥ずかしがり屋が、本当だ)
 手を伸ばす。見ようとする。
「見つけて」と聞いた声を思い出す。
 こちらを見ようとしないただ一人の少女をイメージする。
(私が死にそうになりながらここまで来たのは、多分、あんたを見つけ出すため)
 果たして、その少女は再び右手の先に見えた。薄い金色の髪。小さくつむじを巻く後頭部。
「いいかげん、観念しなさいっての!」
 マコはその頭を、ぽん、と叩く。
「――!」
 少女が息を飲む。
 誰にも見られていなかったいたずらが不意に看破されたような、子供の呼吸で。
 人影の明滅が止まる。
 喧噪が悪夢から目覚めたように幻聴を残して止む。
 姿が固定される。
 血の気のない肌をランプしかない闇色に曝した少女は、半身をこちらに向けようとして――
 その輪郭を、動作を完了させる一秒間で波ガラスに屈折させるように変えた。
「え!?」
 変化は服からだった。藍色の布地が少女の身体の外輪を包むように現れ八分丈のガウンになり、背丈をマコと同じくらいに伸ばし、髪が波を打って黒く、つんと立つ小振りな鼻の上に真鍮枠の眼鏡が現れ、頭頂の両脇に冗談みたいな猫の耳が生え、くっきりとしたまつげに縁取られた両目は閉じられたまま――その人影が小さな金のティアラを戴いていることに気付いたのが、マコの観察の一番最後の項目であった。
 一秒で変化が終わり、目の前の何者かが振り返り終わり、マコが意味のある言動を取れないうちに、床のランプが消え視界は暗転した。

 十秒もしないうちに、そう、十数秒前には素っ裸の少女が立っていたはずの場所から、
「ここは……」
 えらくか細い声で、つぶやく声が聞こえる。
 マコは、いまさらだなぁ、と反射的に思った。
 全部いまさらなことだが、どうやら自分は、この館で仕事にありつけそうにない。





「どうして歩いているの?」
「寒いでしょあそこ」
 マコと猫っぽい黒髪の少女は暗く湿った地下ホールを後にして、一階の回廊を緩いペースで歩いていた。
 三時間はあの陰鬱な闇の中でうだうだしていたように思っていたのだが、日は高くなり切らず、いまだに白黄色の不透明な光を森の高木に塗りたくっている。
「夏だったのを忘れてたなあ……暑くなるかも、地下に戻ろうかな」
「夏なのね、今」
「……ほんとに何も覚えてないの?」
 マコは半分振り返って猫っぽい黒髪の少女を見る。表情が薄いわけではない、きらきらと光る細目。でも、意識のピントが合っていないようなふわふわした声のトーンだ。
 さっきの不安定な人影の奔流を思い出して、マコはぶるっと身震いする。
(そうだ、わかんないことだらけだ)
 遅れてきた臆病風に吹かれて地下を抜け出したはいいが、不確かなことが脳のいたるところをじわじわ浸食している気分がしてとても気持ちが悪い。
「確かめられることから固めてかないとね」
「なにを?」
 きょとんと聞いてくる黒髪の猫耳っぽい少女――(めんどくさいな、そうだ、まずはここからだ)マコは考えずに一息吸って相手の目を見る。
「私はマコ、武装女中。この館で働くために来たの。あなたの名前は?」
「名前?」
 大きく目を一回瞬かせて、彼女は口を閉じたままくぐもった声を漏らし、
「ええと……なにかな……そう、ノノモリ。確か」
 とあやふやに言った。
 記憶がないとは出会って一分後に本人から聞いたが、
「これじゃ偽名を探してる人の会話みたいだ」
 のっけから嘆息していると、ノノモリと名乗った猫耳少女は申し訳なさそうに言葉を継いだ、「ところどころ記憶が削れてるの。その穴をモルタルで埋めながら話している感じ。ごめんなさい、苛つかせたら謝る」
「あ、いいのいいの、謝ることじゃない」
 マコは不意をつかれて、胸の前でぱたぱた手を振った。
「いい名前だと思う。ほんで、苗字は?」
「…………」
 今度の沈黙は長かった。ノノモリは天井をにらんで、ひび割れた壁紙の隙間に蜘蛛でも探しているような顔をしている。
「忘れた?」
「……ノフリト、だったと思う。ごめん、これは、確かじゃない」
「ノフリト? ちょっと待ってよ」
 マコは荷物袋からしわだらけの封筒を取り出し、目の粗い小版紙を引っ張りだした。
「ラーナ・ノフリト。この依頼票を発行した名前。やっぱりだ」
「?」
「私は、領主の奥方さん名義の依頼で、娘の世話役としてここに呼ばれたんだよ。ノノモリ、ここの姫なんじゃない?」
「姫? まさか……」
「じゃあ王女。そうだね、姫ってよりは、そんな感じだ」
「待って」
 ノノモリは遮るように手をこちらに伸ばして、「待ってよ」目をぎゅっとつぶり反対側の左手で彼女自身の耳元(猫のそれがある方だ)を揉みだした。人間らしい動作だな、とマコは思う。
「あなたを雇った覚えはないわ。……というか、だいたいのことは覚えてない。館は廃墟で、この私自身ベビーシッターが必要な歳じゃないわ。きっとね」
 そう言われてマコは一瞬思い出す。このノノモリよりもずっと幼かった、色の薄い後ろ姿。声。
「"私の境界を探して"……」
「え?」
「ねえ、ちっちゃい女の子を知らない? 金髪で、私の肩くらいの身長で」
「いいえ」
「ノノモリが今の姿になるちょっと前まで、そんな子に見えたんだ。その子が言った。境界を探して、って」
 自分は何を言ってるんだ、と、言葉の表層をなぞりながらマコの理性がぼやく。
 自分もたいがい、わけのわからない空気に毒されてるな……。
「……マコ、ちょっといい?」
 ノノモリが名前を呼んで、マコは少し驚いて彼女を見返す。
「何か思い出しそう。この館、二階はある?」
「このフロアと比べるとすごい狭いけど、あったよ。誰もいなかった」
 視線で方向を示してやる。回廊の一角に斜めの角度を書いた手摺りが見える。
「調べたいことがある。よければ、付き合って」
 ノノモリは短い逡巡を見せて、そちらへと歩きだした。絨毯が思い出したようにほこりを上げる。
「いいけど、なんで?」
「この潰れた家では、あなたを雇えそうにないから。手間賃程度の金品が残ってるかもしれないわ」
 ノノモリが、このタイミングで初めて語尾に笑いを漏らす。冗談のセンスがいまいちわかんない子だな、とマコは考えた。
 自宅の金品漁りなんて、笑えもしない。
 歩速を早めるノノモリの足下には朽ちかけた絨毯。
 ……まさにそんな状況じゃないか。
 この、名前以外になにひとつ定まっていない黒髪の王女。
 マコも間もなく後を追って、革靴で床を蹴る。
(この子から目を離さない方がいい)
 マコの親切心か、本能か、怒りみたいなものか、道徳か、どこかが囁く。
(まだ幽霊だって決まった訳じゃないもんね)
 猫を追いかけるのはだいたい人間に備わった好奇心の仕業だ。マコは口端で少しだけ笑う。

 階段を登りきると円形のホールに着いた。
 埃まみれに風化しきった一階とは異なり、軋む階段を登った先にある二階部分からは、どこか干し草に似た明るい匂いがした。
 マコが最初に館を探索したときは駆け足で通り過ぎてしまった場所だったが、ノノモリの後をぶらぶらと追いかけながら(彼女は早く歩かないのを美徳としている畑の人間だ、とマコは思う)周辺を見回してみると、天井に連なっている色硝子の天窓が一枚だけ開いており、細い陽光とかすかな外気をホール内に取り込んでいた。
 マコが連想したのは、前の職場の近隣にあった小さい牧場の木柵の色だ。長い間風雨に曝され、幾度となく湿潤と脱水を繰り返された、すかすかの灰色の木肌。
(保存されてるな)
 天窓の向こうには小さい雨よけの屋根が組まれていて、それがかろうじてこの木製のホールを腐食から守っていたのだろう。
 走り回れば二秒もかからず壁に激突するであろう、狭い円形のホールの壁には、等間隔で六枚の戸口が開いている。マコが来たときは、いずれも鍵で封鎖されていた。
 いざとなれば破るかな、とマコが(我ながら遠慮ない)思った矢先に、かちゃりと金具が駆動する音が聞こえる。
 驚いた。
「え? 鍵あったの?」
「開いてたわ」
 首をひねったマコを残し、乾いた靴音を立てて、ノノモリが戸口をくぐる。迷いない足取りに、マコは思わず声を掛けた。
「そっちになんかあるのー?」
「私の部屋だった気がする」短くノノモリが返す。
 二人は戸口をくぐる。廊下もなにも挟まず、そこは布地が多い小部屋だった。暗褐色の落ち着いた様式の家具がいくつか、刺繍のクッションが並んだ鉄細工のベッド、壁掛けの小さいフレーム、曇りきった鏡。
 小さい女の子の部屋だ、マコは直感した。所は変わっても、うさちゃんのぬいぐるみがあろうがなかろうが、だいたい女の子の部屋には、共通する雰囲気がある。
(しかも上等な部屋だ)マコは職歴で見知っていた。家主の家族じゃなければ、クローゼットにこんな上等な板材を使うものか。
 マコはこういう部屋に興味本位で立ち入って、ほうきから下着までひっぺがされて身体検査をされた思い出がある。忘れてたのに……。
 うんざりしている横で、ノノモリは緩やかな手つきで、机の引き出しの中身を一つずつ見ている。
「なにかあった?」
「写描帳……?」ノノモリはつぶやいて、糸綴りの薄いノートを引き出しから取り出し、こちらに見せた。
 表紙に名前。幼い文字。
 ノノモリ・ノフリト。
「…………」
 ノノモリはぱらぱらとノートをめくる。中紙はざらざらした光沢のない紙で(そうだ、画用紙だ)、「なにそれ?」すべてのページに、黒い線が真横に引かれている。
 インクを付けたペンを力一杯紙に押しつけ、乱暴に擦りつければ、ちょうどこういう線が引けるだろう。
「…………」ノートを手早くめくり続けるノノモリの表情は、こちらからは読みづらい。わずかな角度で覗き見える瞼とまつげが窮屈に細められている。
 まるで見たくないものを前にして、頭を万力で固定されているような顔だ。
 線はどこまでも続いている。
「次が最後だ」マコは横から口を出してみる。わけがわからないが、彼女は辛そうだ。
(そりゃ、線ばっか書いてる子供時代とか思い出すのはやだよ。そんなもん、ずっと見てることないよ)
「早く読んじゃいなよ」
「うん」ノノモリはうなずいて、最後のページをめくった。
 最後のページには線ではなく、数行に分けられて短文が書かれていた。

わたしの
 線を
おしえて

「…………」なんと言っていいかわからず、マコは机越しに窓を見た。
 黄色に褪せた埃だらけのカーテンから、夏の青空が覗いている。「入道雲を描くべきだよ……」とつぶやく。
「ノノモリ、あなたが描いたの?」
「ううん」ノノモリが一度首を振り、「日付があるわ」単文の最後にとても小さく書かれている数列を指した。
 続けて「今は何年?」と聞いてくる。
「その台詞、時間旅行してる人みたいだね。七十七年」
「それは四皇歴?」
「え? あ、うん。たしか」
「そこは同じね、良かった。……のか、どうか、わからないけど」
 ノノモリはノートを閉じ、手早く引き出しに戻した。目だけをこちらに向ける。
「書かれてた日付は四皇三十五年」
「え?」
「私は四十年くらいこの館にいたみたいね」
「ちょっちょっ、待ってよ」
 マコは慌てた。なにを言い出すのか。まさか「ほんとに時間旅行したっての?」
「言い方を探すなら、私は"寝すぎ"たんだと思う」
「寝てたって……」
「切れ端だけど、理由も覚えてなくもない。マコ、さっきあなたが言ってた"女の子"」
 ノノモリは左腕を使って壁掛けの小さいフレームを指した。
 黒い油絵具で描かれた極小の肖像画……と思ったが、それは「写真」だった。以前の職場で見たことがある。そのとき見たのは印紙に刷られた光沢写真だったが、これは硝子の光画板を使った骨董品だ。
 父と母と、小さい娘の家族写真。「あ」満面の笑みを湛えた子供っぽい表情。母親によく似た、長く流れる色の薄い髪。
「さっき見た子だ。これ、もっとちっちゃい頃の写真みたいだけど」
「それが本当のノノモリ・ノフリト」
「……」
 痛くなった幻覚を感じ、こめかみを親指でぐりぐりしてみた。ここを押さえないと、無視していた膨大な疑問が噴出しそうな気がする。
 こちらが我慢して黙っているのを読みとった様子で、ノノモリは長めの吸気に胸を膨らませた。
  「世界は境界線でできてる。私もこの館も、あなたも」
 日が高くなっている。窓の光をすべての埃が跳ね返し、濃い色の光条を描き出す。机を斜めに横切り、その前に立っていたノノモリの姿を直線に霞ませる。
「すべての境界線をぼやかせてしまう、世界にはそういう呪いがある。不定の呪いと呼ぶ人もいる。誰かの悪意が編み出す呪術ではなく、世界の振る舞いが稀にもたらす歪み。呪いの中では人の境界は失われて、雲のように存在が変わる」
「ノノモリはそいつに呪われたの? なんで?」
「もしかしたら、私が進んで呪いを喚び出したのかもしれない。理由は……憶えてないけど」
「じゃあ……?」マコは眼前の少女を見つめる。黒髪の横顔。「今のノノモリは……?」
「わからない」
 断言された。違和感あるな、と思う。
(そんな不安そうな目で、なにか一つでもきっぱり言えるもんか)
 マコは一息ついて、荷物袋からくしゃくしゃの依頼票を取り出す(取り出すたびにしわが増える紙である)。
「なんだったんだろ、私が受けた依頼って。ノノモリはあの変な糸車の中で四十年寝てて、屋敷は廃墟になっちゃって、誰もいなくなった。私が依頼受けたのって、ついこないだなのに」
「……その紙、見せてくれる?」
 おずおず、という声音で言ってきたノノモリに、紙束を渡してやる。
 依頼票をめくりながらしばらくノノモリは声を発しない。と思ったとたん、唐突に「……更新日時」
「え?」
「この更新日時って?」
 紙束の最後のページ、こまごまとした付則が書かれたおなじみの定型文だ。どの依頼票にだって同じ紙がくっついている、マコは一秒だって目を通していない(その時間を他の素晴らしいことに無駄使いするべきだ、という信念の持ち主である)。その一角をノノモリは指で指す。活版ではない、手書きで微細な数字がいくつも刻まれている。
「36年発行、37年更新、38年第二更新、中略、76年第四十更新……? なんだ、これ」
「見てないの? あなたの依頼票よ。ほら、付則に特例として書かれてる。本部預かり、一年毎に自動更新。延長期限は例外なき限り四十年」
「更新? 誰も寄りつかない危ない仕事とか、割に合わない仕事とか、ずーっと掲示板に貼られてるような依頼票のことだよ……」マコは顔を三センチまで近づけて数字を凝視した。
 簡単な問題が頭の中で何周もするような、脳が摩擦熱を発している気分。数字の羅列をかみ砕いて意味を出力するのに、六秒いっぱいかかった。
「私、大昔の依頼でここに来たって事?」
「そうね」ノノモリはこちらの顔を反映したような、微妙な角度の表情で答えた。こっちだってどんな顔をしていいかわからない。
「私は世界に発現した不定の呪いに呑まれて、ここに留まるしかなかった。呪いはそれ自体を恒常させるためにいくつか周囲に作用を及ぼす。世界の確実さから境界線の歪みを保持するために、"服"と呼ばれる殻機構を作ったり。揺らぎに瀕し続ける自我のカウンターとして、無意識に無限の物語を内包したり。それらだって、かつて私が望んだことだったかもしれない。望んで屋敷の地下に封じられたのかもしれない。……でも」
 地下の大扉を思い出す。煮詰めた固縄で封鎖された閂。
(あれは、人の手で巻かれたものだった。糸車の怪物じゃない)
 マコは慎重に、疑問に触れた。
(……誰が巻いたの?)
 ノノモリはいつの間にか無表情を作っていた。その腰から伸びる作りものじみた黒い猫の尾が、ゆるりと揺れる。
 陽光にも明るい面を見せない滑らかな漆黒。
「でも、娘に及んだ不定の呪いは、この館にいた他の人間にとっては、望むことではなかったはず」
「だからって、まさか、閉じこめたの!?」
 反射的に大声が出た。叫び声に近かった。
 この館で見た不自然さが頭の中でつながっていく。つまりは、「実の娘を、あんなとこに、一人で……!」
「そうせざるを得なかったのね」
 そうされた本人は、眉一つ動かさずに言ってのけた。
「不定の呪いは伝播する。ねえマコ、個人の境界を崩壊させるとどうなるか、想像できる?」
 そんなこと言われても「わかんないよ」かぶりを振る。
「呪われた人間にとってみれば、変容するのは世界のほう。不定の呪いを通して見た世界の境界もまた、歪む。世界がうつろう。呪われた人間のそばにいると、周囲もまた影響を受けるの。昨日と今日で、同じものが残っているとは限らない」
「そんなの、呪われてなくたってそうだよ」
 マコは口をとがらせる。
「ノノモリの家族はどうなったの?」
「覚えていない。ただ、見ればわかるでしょう」
 そこまで言い切った直後、ノノモリは不自然に呼気を止めた。
 彼女は床を見る。埃くらいしか見るものは残っていないだろうに。
 不自然な間を五秒開けた後、王女が抑揚薄くつぶやいたのは、
「……いなくなってしまった。境界を歪まされて、ノフリト家は滅んだ。館だけ残して」
「……」
(何を言えばいいっての)
 黙っていると、ノノモリはこちらを見ずにさっさと部屋を立ち去った。
「金品はここにないわね」
「ちょっと、ノノモリ」
 肩をつかんで引き戻す。「それはどうでもいいから……」長い間地下で寝ていたことがイメージしにくい、質量のある、しかしそれでも細い肩。あらがうでもなくノノモリは振り返った。
「マコ、あなたの依頼はとっくの昔に失効してるの。依頼者も対象の人間だっていなくなってる」
 声は変わらず平坦だ。
「その依頼票も、ただ気まぐれな理由で数字が追加されただけで、あなたの職場で塩漬けされ続けてたんでしょう。これ以上ここにいることはないわ」
 声は平坦だが……
「一時間前の私もそう言ってた。でも、ほっとけないでしょ、いくらなんでも」
「早く帰りなさい」
 そんな顔で言うような台詞じゃないだろ、とマコは苦々しく内心でつぶやく。
「ノノモリはどうするの」
 目の前の少女は目を揺らして、……揺らすだけで、何も答えない。
 わずかに開いた天窓から、甲高い鳥の声が遠く聞こえる。
 いつの間にか日は高くなり、ひび割れた壁紙を照らす光条はなくなった。窓の青色が非現実な蛍光をにじませて、部屋中のなにもかもの輪郭に切り取られる。
 沈黙は長かった。
 知らず身じろぎしたマコの左足がぎ、と床板を鳴らす。
「どうしたらいいかしらね」
(ほら)マコは肩に置きっぱなしだった手を離す。
(途方に暮れてるんじゃない!)
 太陽を直視した後眼球に染み着く影のように、ノノモリの体温が手のひらに残っていた。
「自縛霊ってわけじゃないんでしょ? 領主の娘とか、王女とかさ、そういうのが一人でこんなとこに居てもすることないでしょ」マコは一息にまくし立てた。
「え」
「一緒にここを出ようよ」
「ええ!?」
 なんて声で驚くんだろう。
「そんな変なアイディアでもないでしょ」まさか本当に、真っ先に自分をここから追い出そうとしていたのか。
「何言ってるの。私あなたに、地下でひどいことをしたのよ」
「それはあの糸車で、ノノモリじゃないし」
「無駄な依頼でここまで来させたのだって」
「それだってノノモリじゃない」
「本当は一秒だって早く、あなたはここから立ち去らなきゃならない!」とうとうノノモリは叫び声をあげた。
「わたしが生きている範囲が呪いの影響下なのよ! なにが起こるかなんて、不定の呪いにわかるわけがない。私だってほとんど覚えてない。確かなのは、決して吉事じゃないということ。私は呪いに冒されてるのよ。私に関わると、いずれあなたの境界線まで失わせてしまう!」
 虚を突かれた。
 ノノモリの下瞼の縁に、ほんのわずか、濡れた光の線が見えた。
 自分は意識せず気づいていたのかもしれないけど……
(こっちも心配されてたのか)
 マコは口元を緩めた。 
「大丈夫、ふらふらしてんのは、こっちだって似たような仕事だよ」
 マコはノノモリの方に歩き、小部屋の戸口をくぐり、ホールに出る。かちゃんと剣帯の金具が鳴る。小振りな荷物袋も背中にくくりつけられている。中には飲みかけの水筒と食べかけのハードビスケットの包みがひとつ。一日分の旅装もない。
 旅をし直すには不安な装備だ。ここが何もない廃墟だというなら、出るのは早い方がいいだろう。
「ノノモリ、それ、布靴じゃないよね? ちょっと砂利道歩くよ。ま、夕方には元来た宿に着けるでしょ」
「マコ」
 目の前のノノモリが呆然とつぶやいてくる。
「あなたは私を……」語尾はほどけるように消えた。
 置いていけばいいのに、とか、言おうとしたのか。
 一人でここにいても、何をするのかわかってないのに。
(子供なのかもな。見た目より)
 最初に見たノノモリ、今の猫耳の前に垣間見た金髪の小さい女の子だったら、今の言動は似合っていたことだろう。
「呪いとかなんとか、つまり、訳の分からない災難だよ」マコは笑いかける。
「災難にちぢこまって歩けない人を、ほっといちゃいけない仕事なんだ、武装女中ってのはさ。
 ……あ、そうだ」
 ポケットにしまった依頼票を再び引っ張り出す。もう、洗っていないハンカチと言われても信じられるくらいにしわくちゃだ。
「やっぱこの依頼受ける」
「何言ってるの? そんなのはもう」
 くしゃっと紙片を押しつける。
 一枚目の、自分が掲示板の張り出しを二度見してしまった主文のほう。
 そこだけは館に向かう草まみれの小道を歩きながら、暗唱して覚えた。マコは最後にもう一度、ここで暗唱してみる。
「"求人。今年十歳になる領主の娘の世話役。女性、気配り、教養を兼ね備えた人物を希望。個人武装免許、家庭教師経験者優遇。賃金は国家西方制定基本給の1.2掛け。支給物なし(建物備品は使用自由)。生活経費は別途請求のこと――"」
 三歩ノノモリの脇を抜けて、ホールの壁に開いている高い硝子組みの窓の前に立ってみる。うっすら埃がついた内硝子を手のひらで拭う。
 飛び込んでくる光の粒子が増えた錯覚。硝子の向こうは一面の森と平野。昼間の陽光に場違いな緑の彩度を拡散させている。
 原色の光惑。
 まだ少しだけ凍えていた身体の芯が、じわりと暖まっていく。
 雲をちょっと観察してから顔だけ振り返ると、ノノモリはじっと依頼票を目を落としたまま、微動もしてない。
「……補足があるわ」
 それを聞いて、マコは続ける。
「"依頼人による補足 娘は寂しがり屋で寝るとき誰かが側にいないと泣き出すくらいです。今もベッドにこもって泣いています。遊び相手になってあげてください"」
 ノノモリは顔を上げた。
「これって……」
「たぶんだけど」マコは目を合わせた。さっき見たのは幽霊だったか、とちょっと思ったくらいにノノモリの目は乾いている。
「ノノモリが呪われて地下に閉じこもった後に、出された依頼なんだと思う」
「…………」
「家族が散り散りになっちゃって、どうしようもなくなったんだけど、娘の様子だけは見てほしいって思った誰かが、家政ギルドに依頼票を出したんだよ。四十年って延長限界まで付けて。こういうオプションって、確かすっごく高いよ」
 ノノモリは目を揺らして、マコの肩越しを見て、
「…………無責任じゃない」ちょっとすねたようにつぶやいた。
「まあ、そうだけどさ」
 ノノモリは窓越しの空を見ているようだった。
 黒い瞳に、格子状に区切られた微少の青色が見える。
「そうね。
 娘もそろそろベッドから出なきゃ、あなたの雇い主が心配するわね」





 室内が暗くなると共に窓の外はますます眩しくなり、木々が落とす影が、小さく、真下に、黒々と草を染めている。
 見るからに、とっくに真昼だ。
 急ごうと言ってるのに、ノノモリときたら決断から動き出すのがたいそう遅く、ちょっぴり(面白いことになってきた)わくわくしていたマコのモチベーションはちょっぴり(めんどくさいことになってきた)しょげかけていた。
「仕方ないでしょう、あなたに手付け金を払わなきゃいけないんだから」
 ノノモリは二階の「高級そうな」部屋を根こそぎ荒らしだし、家人が引き払った際に手を着けられなかったと思える、チェストに打ち付けられた金の飾りボタンやら、引き出しの奥に仕舞われていた金糸刺繍の染織物やら、果ては一抱えもある木製の額(中は空っぽだ)まで引きはがしだし、マコはさすがにそのあたりで止めに入った。
「未練なさすぎでしょ! 自分ちなんでしょ?」
「覚えてないから大丈夫」
 なんだかすっきりした顔で笑うノノモリである。
(そのでっかい荷物、誰が背負うと思ってんの)
 荷物を整え(直射日光でぼろぼろになった厚手のカーテンで即席のバックサックを二つ作り、でかい方をマコが背負った)、二人は一階の玄関に立つ。
 目の前には黒々とした木色の両開きの扉。当然ここが、朝方にマコがくぐった入り口だ。
 ノノモリの両手が荷物の肩紐にかかっていたので、ドアノブにはマコが近づく。ひんやりした、無限の人の手で磨かれた真鍮の感触。すぐにひねり開けようとしたマコはなんとなく、顔だけノノモリに向けて聞いてみた。
「こういうときは、行ってきます、て言えばいいのかな?」
「違うんじゃない? ここにはもう帰ってこないと思う」
「じゃあ、やっぱり、行ってきますって言っときゃいいよ」
「そうなの?」
「私もそう言ってきたもん」
「そう。
 じゃあ、――――」
 ノノモリは口の動きだけで何かをつぶやいた。
 
 マコはそれを横目に、今度こそ玄関の扉を開ける。
 外気にもっとも近く、館でもっとも暗い一角。
 光が満ちる。
 
 日を浴びた二人はしばらくポーチの石組みに立って、鳥の声を聞いていた。
「……境界」
「?」
「境界を捜せって言ったのね、私」
「うん。意味分からんけど」
「私が失った境界を見つければ、不定の呪いは無くなるかもしれない」
 どういうことだろう、とは思ったが、その時マコは違うことを気にしていたのだ。ノノモリの横顔を見て、マコは聞いてみる。
「そうしたら、ここに帰ってこれる?」
「……そうかもね」
 ノノモリはちょっと笑った。揺れた頭に金色のティアラが新しいハイライトを散らす。
 風がひゅうと吹いて、乾燥した涼しさを運んだ。
「行こう、マコ。道案内頼むわね」
「うん」
 二人は歩き出す。ポーチの一歩外は、長年人の足が入っていない雑草で埋まっていて、すぐに「領主の館」の気配は足下から消え去った。
「いよいよ、私、何者でもなくなっちゃったわね」
 急ぎ足で諦めたような、雨の前の風みたいな声でノノモリは言った。
「そうでもないでしょ。……そうだ、そうでもないね」その数歩先でマコは言い返す。
「?」
 マコはにっこり笑って、腰にぶら下げている剣の鞘をかたんと叩いた。
「ほら、武装女中が仕えてるんだから、少なくともノノモリは私のご主人だよ」
 えほん、と咳払い一つ。
 彼女に向き直って両足をそろえる。回転する勢いに浮かび上がったエプロンが落ちるのを待つ。右手を左胸に添える。
 新しい職場では最初に必ずこうしていた。
 社交的な笑顔を練習すれば、多少は仕事がしやすくなるものだ。
 マコははきはきと
「よろしくお願いしますね、王女!」
 と大声で言い放ち、半秒遅れて遠くの木々に反響するのが聞こえて、
 ノノモリは今までで一番びっくりした顔をして、ずいぶん長い間、歩行途中の不自然なポーズで硬直していた。
「なにその言葉遣い。似合わないわよ」王女と呼ばれた少女は憮然として、「なんの王女よ。不自然な立場だなあ……」呆れたようにぼやきだす。
 あはは、とマコは笑う。
 夏の日差しに肌が焦がされ始めるまで、あと少し時間がかかるだろう。
 歩きながら、マコは扉を開ける直前に見たものを思い出している。
 暗い視界の中で、王女の口元が一言だけささやいていた。
 そうだ、この子は、
 ノノモリは音に出さず、
(さようなら、って言ってたのかな)
 マコは苦笑する。
 出てきたところがあるなら、誰だって行ってきますと言っていいだろうに。
(その「出てきたところ」さえ呪いがぼやかしちゃうなら、悲しんでもいいかもね)
「呪い、無くなるといーですね、王女」
「…………うん」

 高空で鳥が鳴いている。

 小石が散らかった坂道を一つ超えれば、数十年の時流に打ち捨てられた館は見えなくなった。
 眼前には泡の固まりのような白々しい夏の雲、いくつもの層に青色を分布させた空、鈍い鋸目を連ねる黄緑色の森、見ようと思わなければ見えないほどの草に刻まれた淡い人の踏み跡、しばらくそれを追えば轍でできた街道に出る。
 鳥はそのすべてを俯瞰している。
 人は歩いて、自身の視界を変えていくしかない。
 旅の始まりはいつだって、なしくずしだ。


(観測の始まり おしまい)
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