Super short 5(Part 2)

Contributor/柳猫さん
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オン・ザ・ロック
The drunkard in the drowsing




 何かに触れていることで心が落ち着くのだ。
 唇が、掌が、指先が。パイプにしろ、グラスにしろ、剪定鋏にしろ…銃把と引き金にしても。そう、それが女の肌であったことも過去に多かった。しかし今は絶え間なく温もりを感じている。いつでも背中から、リズミカルな鼓動と共に伝わってくるのだ。それが何なのかを考えるのが、多少なり人生に疲れた自分にとっては億劫なのだが―――――――







 全ては虚構のように、琥珀色の煌きの中で揺蕩(たゆた)っていた。芳しい香気が充満している。ウェッソンが虚ろな目つきで周囲を見渡すと、そこは空中のようで水中のようで、辺りには近くに遠くに透明なガラスの塊が浮き島のごとく漂い、ひしめいたそれが眼界をぼんやりと埋める。「どこだここは?」と、彼は他人事のように呟いた。
 最初に目に付いたのは横たわった軍服の男だった。妙な格好で、手足を投げ出して島の端にひっかかっているだけという感じなのだ。島は巨大で、一人ではない。頭を撃ち抜かれている者や手足がもげている者、かっと両眼を見開いたままの者や、そういう血みどろの男たちが大勢山のように積まれていた。ぴくりとも動かない。きっとどこかの戦いで死に急いだのだろう。明日を夢見たのかやり場のない怒りに猛(たけ)ったのか。
 遠ければ遠いほどこの世界の黄色が濃密になる。日に褪せたようで、鮮やかではないが潤みを帯びて艶やかだ。男たちの島は気泡も上げず、見る間に遥か下方へと沈んでいった。ウェッソンはその光景に凄寥(せいりょう)の念を禁じ得なかった。一瞬なのかもしれないが、彼らとは何処かで出会っていたのかもしれない。今、本当に別れたのだ。
 カランカランと不思議な音がこだまし、誰も居なくなった。そして、
「あなたの中に……まだ私が居ただなんて。驚いたわ」
 ウェッソンの島のかなり下の方から声が聞こえる。気だるげに見下ろすと黒髪の女。美しい東洋人だ。好みのタイプかもしれない。丹花の唇に薄く切れそうな笑みを浮かべて、小さな島に腰掛けている。
「でも………………嬉しい」
 そっと、胸の長筒を抱き寄せる。あれは誰だったか、いや、一度愛した女を忘れるはずもない。ウェッソンが無理に口を開こうとしたそのとき、カラリ、と乾いたような濡れたような音を立てて辺りが揺らめいた。サツキを乗せた島はすーっと音もなく闇の中へ堕ちていった。もう見えない。おぼろな視線を撓(たわ)めてウェッソンは首を傾げた。一体ここはどこだ?


 揺らめく眼下、渋い黄色を幾重も幾重も通り抜けたその奥に、次には古いなじみの男女の姿が見えた。微かに懐かしい光が瞬いていて、はっきりとはしないが、それでも見間違えるわけにはいかない。叔父とアーサーとアン、小さなメアリ。十五年前に雪の中に埋もれてしまったはずの儚い者たちだった。そして直ぐ近くに身を寄せ合うようにしているのは老いたレナードとその恋人。彼らがなぜここに?
 全員が沈黙し、陰鬱な面持ちでテーブルを囲んでいた。その誰もが服を染める斑な模様に。鮮やかさを奪われた黒い染み。血だ。どんなに…目を覆っても、手暗がりの向こうにその光景が慄然と存在している。たとえどんなに揺れていようとも。いや、揺れているのは恐らく自分自身なのだとどうにか気づく。正体をなくし、ウェッソンはふらふらと、何度も自分の島から転げ落ちそうになった。闇の底へ。しかしその度に誰かが彼の袖を掴んで、引き戻すのだった。
 カラリ、とまた乾いたような濡れたような音が響き、彼らを乗せた島も世界の深みへと堕ちていく。「………………!」手を伸ばそうとした。しかし届くはずもない。声にならない声が唇を震わせた。
 しかし、闇色に霞みつつある彫像のような六人の中にいて、ふと彼を見上げた女性がいる。ただ一人だけ……アイリーン。彼女の髪が踊っている。ふわふわと。漂うようにではなく、一つの心を持って舞うように。
「過去に囚われてはいけないわ、ウェッソン」
 声は辛うじて、ここまで届く。遠くから、物寂しげな瞳でこちらを見上げている。今にも消えようとしている。
「あぁ………………」
「あなたが残ったことには意味があるのよ」
「分かっているよ…」
「そうじゃないの。こんな風に、思い出さなくてもいいわ。辛いでしょう?」
「聞いてくれ、僕は…」
「もう何も言わなくてもいいわ」
 アイリーンは泣きそうな顔で首を振った。彼の心はこのとき、少年の日に引き戻されたかもしれない。大きな両手で、顔を包み込むように。
「ウェッソン!」
「分かっているんだ…けれど!」
「…………………」
「けれど…本当に、思っているんだよ。決着を…つけたいって……」
 尚も、指の隙間から瞠目する。動悸に呑まれ、両目がみるみる潤みを帯びていく。水の中にあって水を溢れさせる。嗚咽が漏れ始めた。
「……………」
「真相が闇の中に消えてしまうことが怖い。それに…それに、もっと怖い。いつか、『もうそれでいい』と僕自身が思ってしまうことが!!」
 胸を掻き毟り、身を絞られるような心地でウェッソンは自分の世界に叫び声を上げた。それは波濤となって最果てまでも届き、だが鈍く低い音を立てて反響した。涙が幾筋も頬に零れて伝い、荒く息をついたままで喘ぐように唾を飲み込む。そうだというのにその身に熱はなく、深々(しんしん)と、いつかのように凍えてしまいそうだった。震えながら己の両肩を抱く。
 大人になったはずの、それが自分の本音だった。まだだ。まだ、こんなにも弱かったのか――――――
ならどれだけの時間が経てば強くなれる。本当に強くなったときには、もう何も覚えてはいないのではないだろうか。なら弱いままでいたい。それでもいい…一人ぼっちなら、せめて忘れたくない。
「ごめんなさい、私にはもうそこまでいけないの」
 カラリ、と止めを刺すように乾いたような濡れたようなあの音が響き、アイリーンさえもまた、ウェッソンの眼下、闇の淵へかき消されてしまった。誰も彼もそこに呑み込まれてしまった。また黄色の世界に彼を残して。下は常夜だ。そこに何があるのだろうと思ったが、やはり何も見えず、何も響いてこない。いつかは自分も堕ち、そこに行くのだろう。だが今はここに浮かんでいる。なぜ?
なぜ自分だけがそこへ行ってはならない?
 下ばかり見ていた彼が顔を上げると、そこには馴染みの風景が形を変えて広がっていた。もう安心だ。やっと希望を見出し、縋るような気持ちで冷え切った場所に立ち上がろうする。良かった…あの忙しくしている赤い髪の少女は
「テム――」
 と………………どうしてか。伸ばしかけた腕は、指は力をなくす。どうしてだろう、ひどく声をかけることが躊躇われた。最も近い島であるそれさえ、ひどく離れているのだ。見渡せば、ぽつりと、これだけの数の中で離島なのである。自分の居る場所は。それに比べて、テムズの周りには幾つも幾つも島が浮いて、共に歌うように周りを漂っていた。彼女に懸命に話しかけているのは鍛冶屋の青年、ふらふらと寄ってくる島に乗っていのは吟遊詩人、彼女の友人たち、慌しくしている診療所の面々、それにちらちらと他の島も見える。彼女がそんなにも人々の中心にいることに、今まで気がつかなかった…。ウェッソンは不器用に泣き笑いの顔を作った。
「結局、俺だけが取り残されているのか」
 手を広げて頭上の水面を仰ぐと、何よりもきらきらと眩しく光の網を為して輝いている。頭上にも無数の島々が浮かんでいた。小さくともみな、それぞれがそれぞれの居場所をきちんと持っている。ならば、ここが彼のいるべき場所なのだ。どんなに遠くても、ここにいなければならないのだ。しかしパイプはない。グラスも、鋏もない。銃もない。触れるものがない。過去は闇に沈み、未来はまだ眩しい光でしかない。
「つまり」
 耳元から聞こえる突然の声に、彼は心臓が裏返るほど驚いて振り返った。だが一瞬で、やっぱりか、と情けない顔で思い直す。背中合わせの感触がなくなったかと思うと視界が鮮やかな金色の海原に埋まり、
「こういうことですぅ!」
「とほほ…」
 びしっと指を突きつけられて、ウェッソンはなんだか妙に安堵するのだった。









 夜だ。
 ずっとうつ伏せていたらしい。自分の袖で半分覆われた視界の向こうに………………散らばったカードと酒瓶、それと幾つかのグラスが見える。氷はもう跡形もなく溶けきって、グラスの底には水溜りの乾いた染みができていた。全て暗がりの中だが。
 とにかく頭が割れるように痛い。確か夕暮れから何人かでテーブルを囲み、酒を呑みながらカードをやっていたのだ。最初に近所の好々爺が一人勝ちをし、「まだまだ若いのぅ」と言い残してその金で酒を振舞って抜け、そこで馴染みの医者も抜けて、給仕をしていた店主が店を閉めて寝室に引っ込んでそれから…それからどうなったのか覚えていない。もう一人誰か居たような気もする。最後まで残った自分は特に、ひどく酩酊してしまったようだった。そのまま眠りこけてしまったのだろう。身体の火照りが抜けて夜気が染み始めている。
 誰かの気配を感じて顔を上げると、そこに居たのはテムズだ。モップを逆さに、真正面に構えている。一挙動でウェッソンの喉元に突き立てるには充分過ぎる近さだった。顎を上げて仰け反りながら、
「ちょっ―――――ちょっと待った! 話せば分かる!!」
「…………………!」
 どうにも急には頭が働かなかった。何をしたのか、心当たりがないでもない。夜通しギャンブルで朝帰りだったり、店の手伝いをサボったり、血塗れになって診療所に担ぎ込まれたり、そもそも宿代を踏み倒しているとか…………よく考えれば、いつ叩きのめされても文句は言えない甲斐性の無さではある。しかし庭木の手入れは欠かさない ――まぁ、趣味だが―― し、グラスはいつもピカピカに ――単なる癖だが―― しているじゃあないか。時々は荒事もこなしている ――それで店の調度品が壊れるのはどうしようもない―― というのに。ウェッソンが慌てて弁解のセリフを考えていると
「何よ、にやにや笑っちゃって…」
 テムズは急に萎んだようにモップを降ろして、そう呟いた。
「…笑ってた? 俺がか?」
「サリーが起きちゃうでしょ、静かにしてよね」
 彼女はなぜか答えなかった。
 確かに直ぐ隣の椅子に、いや、ほとんど寄り添うように…サリーの寝顔がある。まったく気がつかなかった。息をつき、斜めになってしまっている眼鏡をそっと外して、つるを畳んでテーブルに置く。ウェッソンはサリーの寝相で跳ねかえった髪を、梳かすように優しく撫でた。
「まるで父親みたいね」 
「……保護者、だからな」
 ようやく側のテーブルにモップを立てかけて…テムズが席につく一瞬、俄かに月明かりは彼女の頬を照らした。濡れている。
 ウェッソンは驚いて、思わず声を上げた。
「どうしたんだ、泣いてたのか」
「………………」
 馬鹿な質問をしたかもしれない。彼女は答えずに、
「ウェッソンの夢は楽しかった?」
「あ、あぁ悪くは…なかったかな」
「そうね……私も」
 ならどうして涙していたのか、それを訊けるほど気障でもない。自分の役割りでもない。そうだ、カードをやっていた最後の一人を思い出した。シックの奴、少し帰るのが早かったな…ウェッソンは居心地の悪さを感じて、そんなぼやきを心中に落とした。仕方がない。
 ボトルを掴んで、
「酒に付き合ってくれないか」
「まだ呑むの?」
「足りないな―――」
 そう言って、彼は適当に選んだグラス一つに酒を注いでバーテンのようにテーブル上を滑らせると、テムズへ差し出した。自分はもう充分だ。それから席を立ち、ガス灯を点けようとすると―――――「このままでいいわ」とテムズは言った。振り向くと、彼女は頬杖をついて暗い琥珀色の向こうにサリーを見ている。
「この子はどんな夢を見てるのかしらね…」
 静かな夜だ。そんな当たり前のことを思う。





end

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