Super short 5(Part 1)

Contributor/柳猫さん
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このくらいの距離
The orphan in the drowsing


 後に訪れるだろう哀しみは、初めてのときよりも、もっともっと深いものだった。それを思い出さずにいることは出来ても、一生忘れることは出来ないと思う。それほどまでに、何もかもを決定付けてしまったのだから。今ではもう、良かったとか悪かったとかは言えない…………でも、寂しくなるときはやっぱりある。



 カチコチと…時計の音が聞こえる。店の壁に掛けた大きな時計だ。カウンタの上からいつでも店内を悠然と見下ろしている。昼ののびやかな日差しの中でも、夕暮れの喧騒に紛れていても、深夜の静寂の中でもこの場所の、ここにある音の全てを支配している。
 時計は今も止まらなかった。少女はそれをいつも、今日にも懸命に首を持ち上げて心躍らせながら仰いでいた。そうしないと、文字盤が見えない高さだったからだ。でも音はいつだって聞こえている。
 様子を見に行った方がいいかなぁ、とも思い始めていた。自分はもうちゃんと用意をして、こんなに良い子にして待っているというのに。階段の途中で腰掛けて、先週買ってもらったばかりの小さな鞄を抱きしめて。なのに父も母も支度が遅かった。何しろ、乗合馬車に遅れるんじゃないだろうかと心配なのだ。それも楽しみの一つだから。絶対、御者の隣に座るんだと、心に決めている。
 奥の部屋でなんだか揉めている二人の話し声を、朝8時を報せる時計の低音がボーンと響いて掻き消すと、何事もなかったかのようにまた同じリズムで振り子が揺れている。何も変わっていない。怒られたから、そろそろ観念して出てくるはずだ。
 ほら、板張りの床が軋む。
「待たせた、さぁ行こう」
 と言って、ようやく奥から出てきた父に、赤い線を無数に散らして少女は飛びついた。はにかみながら、堪らず外行きの大きなズボンを思いっきり掴んでしわくちゃにする。待ちに待っていたのだ。父は危うく被っていた山高帽を落としそうになって、微笑した。祖父が居なくなって以来、一家の空気は決して明るくなかった。あれから父が笑ったのは多分、これが初めてだ。母はよく笑っていたけど、やっぱりなんだか変だった。
 父はいつにもましてしかめっ面で仕事をして、少ない常連客にもまるっきり愛想がなかったし、グラスばかり黙々と磨いて、自慢の料理の味付けは妙に薄かった。勿論、賄いも。不思議と、母はそれを注意しなかった。弔問客にすら、温厚な父が「親父の話はするな」と吐き捨てた。どんなに貧しくても、寂れていても、店にはいつも温かさがあったのに………。
 だから今日があるんだなと思う。玄関の吊り看板を“closed”にくるりと回して、客室を周って背伸びして窓を一つずつ閉めていけば、戸締りは完璧。誰も泊まってないから、誰も居なくても大丈夫。窓越しのテーブルに日溜まりがいくつもいくつも出来ていた。
 出発だ。父は革張りのトランク片手で、少女は空いているもう片方の手に…引かれながら、ふと振り返った。視界の隅にちらりと白い毛玉が見えたのだ。それを追いかけて歩きながら目を泳がせる。
「あれあれ?」
 椅子に、うさぎがちょこんと乗っていた。何処も見ていないようでもあるし、そこかしこを見ているような気もする。周囲の景色がぼやけ始める中で、白だけが妙にくっきりとしていた。店の出口に近づけば近づくほど遠ざかっていくはずなのに、相変わらず存在を主張していた。
 うさぎが鼻から息を漏らすように、頭を少し動かす。
「あ」
 と、少女は何かが込み上げてきて、堪らず泣きそうになった。だから咄嗟に口をいっと結んだ。段々泣き顔になってくる。でも父は構わずに手を引っ張ってくる。うさぎと父親の背中を交互に見る。何度も。
「うさぎ、見えないの?」
 と、ぼそぼそと口にする。
「兔?」
「………………うさぎ」
 娘の考えが分からず目を合わようとする父に、母は視線を少し逸らした。彼は仕方なく息をつく。うさぎもまた嘆息する。おもむろに振り向く父の褐色の瞳は影を落とし、もう艶のない黒に近く、何より悲しげだった。
「どうしたんだ?」
「……………………………………」
「気付いているんだろう? テムズ」
「……………うん」
 頷いてしまった。トランクを床に置いて、父は―――――
「このくらいか?」
 長くて太い両手を左右いっぱいに広げて見せる。
「ううん」
 今度は大きな掌を向かい合わせて、胸の辺りまで近づける。拳一つ入るかは入らないかの隙間。
「このくらい?」
「えっと…」
「なら―――――」
 と言って、右手の人差し指と親指で欠けたわっかを作ってみせる。それを娘の目前に持ってきて笑い、これならどうだい? とばかりに首を傾げてみせた。
 なのに、少女は被りを振った。それに父は頷いて、笑みを消し、
「そうだな、テムズ―――」
 屈み越しになって目線を合わせると、娘の前髪を掬い上げて、おでことおでこをくっつける。色んな匂いがした。
「……このくらいだ、私たちの距離はな」
 目と目が合う。吸い込まれそう。凄く近くて…鼓動が、時計の音を掻き消すくらいに高鳴っている。父は額にキスをしてくれて、だけどそっと身を離した。それを見て、母はくすくすと笑っている。
「さよなら、お父さんお母さん」
 最後に。彼はとても穏やかな笑みを向けてくれた。小さなテムズを一人きりにして、ドアがゆっくりと開いた。ふわりと光が溢れて―――――




 目を覚ましても、身を起こす気にはなれなかった。横たわっていたその枕もとから、前髪が幾筋か零れて落ちる。
 夢でもいいからもう暫らく見ていたかったな…と彼女は思って、再び目蓋を伏せてベッドの柔らかさに身を委ねた―――――記憶の中の父は確かに、そんなことをする男ではなかった。家族旅行などした覚えはない。触れることすらも…数えるほどしかなかった。しかし…彼は、父さんはいつでも自分にそうしたかったのだと思う。理由なんてない。彼女だって、そうして欲しかったのだから。
 とっくに気づいていたのだ。そういう気持ちで、いつもいてくれたのだと。



end

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