――道の半ばに一人の男がいる。
男は空を見上げた。
何かあって、と言う訳ではなく、なんとなくである。
もう既に夜の帳が降ろされてしばらく経つ。夕焼けの余韻すら無かった。
見上げれば夜に輝く月と星が見えるはずであった――この街の通称にもなっている、深く濃い霧さえ無ければ。
空を見上げて男――チャールトン・ウィリアムはため息をついた。
中肉中背、年は二十代半ば程。暗い茶色の髪を短く刈っている。
特に目立つところの無い男である。
地方出身で、この街に来て既に二年は経っていたが、未だに同僚から
「方言が抜けてない」と時々言われる。
そんな普通でありふれた男、ウィリアムは視線を空から降ろし、またため息をついた。
夏が終わり、本格的な冬が始まるこの季節の肌寒い気温が、ため息を白くした
――霧のせいで見えにくかったが。
「今日も疲れたなぁ。」と、心の中で呟く。
彼は現在、製造工場で働いている。
朝早くから始まり、他の工場よりもかなり多いノルマをこなさない限り帰れなく、
また製品に故障箇所があると手作業で細かい部品を取り替えたりもするので
身体的にも精神的にもかなりの負担の掛かる仕事ではあるが、
この仕事を辞めてしまうとこの街で次の職が見つかるか分からないし、そうなると故郷の両親に
仕送りが出来なくなってしまう。だから今はこの仕事を辞めたくても辞められない状態になっている。
「どうすりゃいいかなぁ、俺・・・」また心の中で呟く。
最近この事を考えることが多くなったと、彼自身も自覚していた。
自覚して、考えてもいるが、具体的な答えが見えてこない。
今の仕事に満足しているわけではもちろん無いが、かといって「何をやりたいか」と
自分に問うてみても、「分からない」と言う状態が続いていた。
「明日考えよう。」という考えがその後に出てきてそのままになる、という状態もまた続いていた。
今日もウィリアムはその考えに達し、その後は特に何も考えずに宿――ボロアパートだ――に向かって
とぼとぼと歩いていった。
次の日の夕方、いつもより早くノルマをこなして帰り仕度をしていた彼に同僚――ハーマンが声を掛けて来た。
「ようウィリアム、今日は早いじゃねぇか」
ハーマンはウィリアムより二年先輩で、彼も田舎出身ということでウィリアムはなにかと良くしてもらっていた。
「今日はたまたま調子が良くてね。故障も無かったし」
と応えると、
「じゃあ今日は久しぶりに一緒にメシでも食うか? いいとこ知ってるぜ」
いつもは一人で遅い夕食(というか夜食)をとっているウィリアムにはこの誘いを断る理由が無かった。
「じゃあ、ご一緒させてもらうかな」
そう言うと二人は手早く仕度を済ませて、ハーマン案内の元、夕飯時に賑わっている街を歩いて行った。
その酒場は大通りからは少し離れたところにあった。
多少年季の入った建物は派手ではなかったが、地味すぎると言う事でもなかった。
中からは夕食時然とした賑やかな声が聞こえていた。
「まぁ少し地味かもしんねぇけど料理は美味いし、なにより雰囲気がいいんだよ、雰囲気が。」
と、ハーマンは笑いながら言った。そして中へと入っていく。
ウィリアムもとりあえず中に入ることにした。
中はウィリアムが思っていた以上に広かった。
客は仲間同士で酒を片手に料理と愚痴を肴に豪快に笑いながら談笑していた。
その空気には陰気なものは無かったように感じた。
「懐かしいな。」と彼は感じた。
彼の故郷、彼の両親が切り盛りしている酒場もこんな感じだった。
近場で働く男たちが夕方になるとやってきて、今みたいに酒を飲んで楽しそうにしていた。
幼き頃のことを思い出していると、
「なにつっ立てんだよ。早くどっかに着こうぜ」
ハーマンに肩を叩かれながら言われるとウィリアムははっとして頷いて適当なテーブルに着いた。
席に着くとすぐに
「いらっしゃいませぇ〜。ご注文はなににしますかぁ?」
と、金髪のおさげに眼鏡の少女がやって来た。ここで働いているのだろう。
――実際は違うのだが、ウィリアムはそうとった。
ハーマンが適当に注文を言ったのでウィリアムも同じものを頼んだ。
「飲み物はどうしましょう?」
と聞かれ、
「エールを二つ、お願いするか」
とハーマンが言うと、
「分かりました〜。ちょっと待っててくださいですぅ〜」
と言って少女はカウンターの方へ行ってしまった。
とりあえずハーマンがこのパブについて話してくれた。
さっきの少女はサリーといい、居候であり、それで手伝っていると言う事。
カウンターでグラスばかり磨いている三十くらい(実際はもう少し若いらしい)の男は
ウェッソンと言いサリーの保護者であり、彼もまた居候であると言う事。
そして店の主人は調理場にいる赤の長髪の少女で名前をテムズと言う事。
とりあえずこの酒場を構成している三人の従業員(?)についての説明が終わった頃、
「お待ちどうさまですぅ〜。」
と、おさげの少女サリーが二つの料理皿と二つのジョッキを器用に持って
(少しふらついていたが)来た。
持ってきた品々をテーブルに置くと
「ごゆっくりどうぞ〜」
と言い、サリーはまた他のテーブルから注文の声を聞いてそちらの方へ行ってしまった。
改めてウィリアムは、懐かしいと思った。
彼の酒場でも、母が調理し、父がカウンターでグラスを磨き、そして自分がサリーの様に
注文をとったりしたものだ。
そんな事を思いながらウィリアムは先に食べ始めたハーマンを見て、彼も目の前の料理を食べ始めた。
料理は美味かった。
素材も多分良いのだろうがそれ以上に味が良かった。母の味、というやつだった。
さすがに故郷の母の味とは大分違ったが、同じ暖かさを感じた。
ハーマンがここを気に入った理由もそうなのではないかとウィリアムは思った。
料理を食べ終わり、酒を飲みながら話をしていると、
ガターンッとイスの倒れる音と、その少し後に「ううっ」とすすり泣く声が聞こえてきた。
音のした方を見てみると中年の男がグラスを握ったまま床に座り込み、泣いていた。
たまにいるのだ。酒を飲みすぎて、何が理由か――今に対する不満か、過去の悲しみか――分からないが、
突然泣き出してしまうしまう客が。
ウィリアムも子供の頃、そういった客をたびたび見てきた。
そういう客に対して決まって対応をするのは―――
と、遠巻きに見ていた客の外からその客に近づいていったのは、
赤い長髪の少女、ここの主人のテムズだった。
テムズはその客の傍へ寄り、しゃがみ込んで客に話しかけ、時には相手の話を聞き、時には相手に諭すように
話をしていった。そうする内に客は落ち着いたのか、泣き止んでいった。
その光景を見てウィリアムは昔、母が同じようにしていた事を思い出したし、何より泣き虫だった自分を
なぐさめてくれた母に重なった。
いつもは厳しかった母が、泣いた自分をそっと抱いてくれて背中を優しく叩いてくれた。
その内に泣き止んで、気づかない内に母の腕の中でよく眠ってしまったなぁ、と
ウィリアムは懐かしそうにその光景を見ていた。
しばらくハーマンとしゃべっていて、そろそろ帰るかと
ウィリアム達も席を立った。勘定を済ませると、
「ありがとうございました! またのお越しを!」
とテムズが元気良く、その言葉で見送ってくれた。
外に出て、ハーマンとはそこで別れた。直後、鋭い夜気が顔を叩いた。
やはりこの季節は寒い。
そう感じながらウィリアムは今出てきたばかりの酒場の看板を見た。
「フロンティア・パブ」
また来たいな、と彼は思った。
故郷に帰りたくなったら。母に会いたくなったら。母の味が恋しくなったら。
そんな事を考えながら彼は
「たまには手紙でも送ってみるかな」
と、故郷の母の顔を思い浮かべた。優しい――厳しくとも、優しい母。
テムズも母と同じ厳しさを持っているはずだ、とウィリアムは思った。
街の中心の方を向いて、
――この街が、俺の第二の故郷だ。
そう心の中で強く言い、彼は今度は帰る方を向いた。
「明日もがんばるかぁ。」
そんな事を――昨日とは違い、どこか安堵した様子で――心の中で呟き、歩き出す。強く冷たい風の吹く中を。
彼の家――ボロアパートに向かって。
今夜は霧もなく、空には月と星が輝いていた。
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