The another adventure of FRONTIERPUB 9
ある、晴れた日の昼過ぎ、テムズは宿帳を手に取った。カウンターにモップを立てかけ、宿帳の頁を開く。
最初の頁には、知り合いの名前が連なっていた。開店の記念に大宴会を行ったのだ。そのときに酔いつぶれた何人かと友人たちが泊まっていった。
「テムズぅ!」
「もう、酔いすぎよ、アリサ」
「あに、いってんのよ。こんなにおめでたい日にさわがにゃい方が無理ってもんにょ!」
「一体なに飲んだの? ワインだけじゃ、ないわね?」
「ウォッカって、ぐいってやるとカァーって来ておいしいにぇ〜」
ニコニコ――いや、へらへらしながらアリサが言った。テムズに抱きついて耳に息を吹きかける。
「にぇへへ〜テムズは可愛いにぇ〜♪」
「ああ、もう。もう少ししゃきっとしなさいよ!」
「どうせ泊まるかりゃ、いいのよ〜♪ 朝までたっぷり楽しみまショ〜♪」
「どこでそんなこと憶えてきたのよー!」
テムズが悲鳴に近い声をあげるとヘレナが近づいてきた。アリサの頭をぺちんとはたいてテムズから引き剥がす。
「まったく、この子は」
「痛いにゃないの、ヘレナぁ〜。お詫びとしてあたしの相手をするの――へぶぁっ!」
ヘレナのチョップが炸裂した。アリサがキュウと目を回した。
「ヘレナ…やりすぎたんじゃないの?」
「だーいじょうぶよ。酔っ払って寝ただけだから」
コブになっているように見えたがテムズは黙っておくことにした。まあ、自業自得といえないこともない。
「もう一度言っておくわ」
「なにを?」
「開店おめでとう。おじさんが亡くなったときは正直閉めるだろうと思ってた」
「あたしも覚悟したんだけどね。あの人のおかげで、ね」
テムズが言うとヘレナがおどける。
「おやおや、またテムズの『あの人』自慢?」
「けど、あの人には一生かかっても返せない恩を受けたしね…」
「あら、奥さんになって一生かければ案外返せるかもよ?」
「もう、からかわないでよ」
テムズが頬を赤く染めてヘレナに抗議した。ヘレナは笑った。テムズも笑った。アリサも眠りながら笑っている。
楽しくて、幸せで、充実した一晩だった。
テムズは頁を進めた。何枚かめくるとまたヘレナの名前があった。このときは、そう、ヘレナが街を去る前の日だった。
「テムズ」
「いらっしゃい、ヘレナ。どうしたの? 元気ないわね」
「…一泊、泊まりたいんだけど」
珍しく覇気のないヘレナがテムズの問いに答えずに言った。テムズは少し迷ったが宿帳を差し出した。
「いくら?」
「ヘレナからお金は取らないわよ」
「…そう」
部屋の鍵を受け取ると、ヘレナは部屋に向かった。テムズはそれをただ、見送るだけだった。
ヘレナのことが気になりつつも、テムズは業務をこなしていた。やがて、夕食時にヘレナが部屋から出てきた。
「どうしたのよ、ヘレナ?」
夕食をもそもそと食べるヘレナにテムズが訊いた。
「ねえ、テムズ…」
「なに?」
「今の仕事、楽しい?」
「楽しいわよ」
テムズは自然に答えていた。辛かったり、大変なこともあるが、ここで育ったテムズにとってはそれほど厳しい辛さではなかった。
「そっか…楽しいか…」
それからヘレナは喋らなかった。ただ、部屋にもどるときに、
「バイバイ、テムズ」
とだけ言った。その時はその意味がわからず、「あ、おやすみ」と、答えただけだった。
次の日、テムズが朝の準備をしているとアリサが飛び込んできた。
「テムズ! 大変! ヘレナが家出しちゃった!」
「ヘレナが家出? …ウチにいるわよ?」
「うそ! どこ?」
「こっち」
アリサを案内した。部屋の前につくとアリサが扉を勢いよく叩いた。
「ちょ、ちょっと、他のお客さんの迷惑よ!」
「テムズ、鍵!」
テムズは小声でアリサを叱ったがそれに構わずにアリサが言った。その勢いに押されて合鍵を差し出してしまう。
アリサが鍵穴に鍵を差し込んで回す。カチリと音がした。ノブを回す――開かなかった。
「鍵、開いてたみたいね。まったく、ヘレナったら無用心なんだから」
まだ現状の理解できないテムズには構わずにアリサはもう一度鍵を回した。今度は扉が開く。
そして、部屋の中には誰もいなかった。寝台の上に部屋の鍵と一泊分の料金が置いてあるだけだ。
「一体どうして…」
わけがわからないままにテムズが言った。アリサが泣いていた。
『バイバイ、テムズ』
ヘレナが言った最後の言葉が、テムズの頭の中で渦巻いていた。
ヘレナは今どうしてるんだろう…。テムズは思いをめぐらしながらページをめくった。書いてある部分の中ほどに来ていた。
そこにある名前は、ウェッソン・ブラウニング。サリサタ・ノンテュライト。
店に男が入ってきて、テムズの顔を見ると驚いたような表情になった。
「あの、なにか?」
「あ、いや、なんでもない。それよりしばらく泊まりたいんだが」
男の言葉に宿帳を出しながらテムズが訊く。男は女の子を背負っていた。
「期間はどれくらいですか?」
「とりあえずは…こいつの病気が治るまで」
テムズは女の子を覗き込んだ。息が荒い。
「熱があるみたいですね! お医者さんを呼びましょうか?」
「そうしてくれるか?」
「はい。ええと――」
男が記入した宿帳を見る。ウェッソン・ブラウニング。
「ブラウニングさん」
「ウェッソンでいい」
「分かりました。ウェッソンさん。お医者さんを呼んできますからその子は寝かせて置いてください」
「ああ、分かった」
テムズは急いで近所に住む医者の家に行った。事情を説明して、来てもらう。
「ただの風邪だな。安静にしていればじき治る」
「そうか。謝礼なんだが…これで足りるか?」
「…十分だ。あと、これは熱さましだ。苦しそうだったら飲ませてやるといい」
「ありがとう」
「気にするな」
医者は帰っていった。ウェッソンがテムズを見る。
「話があるんだが…」
「はい?」
「…金がなくなった」
「はい?」
テムズは聞き返した。なにやら聞いてはいけないことを聞いた様な気がする。どうか聞き違いでありますように。
「金がない」
自分の耳が健康であることはテムズは知った。あんまり嬉しくなかった。
「…わかりました。それじゃあ、宿代は待ちますからウェッソンさんは料金を稼いできてください。娘さんの看病はあたしがしますから」
「娘? いや、娘じゃないぞ」
「え? じゃあ、恋人? 少し年齢差があるようだけど…」
「いや。恋人でもない」
「ま、まさか…誘拐…」
ウェッソンは深々と溜息をついた。
「そんなわけないだろう」
「それなら関係は?」
「保護者だ。彼女の親御さんに頼まれてな」
この時、それが嘘だという事にはテムズは気がつかなかった。事実を知るのは数日後のことである。
そして、ウェッソンの言葉にテムズは重要なことに気が付いた。
「それじゃあ、部屋は別々ですね。宿代は割増になりますけど文句はありませんよね?」
テムズはにっこりと笑って言った。鉄壁の商人の笑顔だ。
「…ああ。わかったよ。文句はない」
ウェッソンがお手上げのポーズをする。テムズは満足げに肯いた。
次の日、店のほうに女の子が出てきた。少しふらふらとしているが重症ではないようだ。
「あら、起きてきたのね。気分はどう?」
「少しだるいですけど大丈夫ですぅ」
女の子の額に手を当てる。少し熱が高いが無理をしなければ大丈夫だろう。
「昨日は無理だったみたいだけど、今日は大丈夫ね。宿帳、書いてくれる?」
女の子は肯いて宿帳に名前を記した。サリサタ・ノンテュライト。
「ノンテュライトさんね」
「サリーって呼んでください」
「わかった。あたしは――」
ウェッソンが起きてきた。サリーを見つけ、少し慌てたようにやってくる。
「おい、サリー。もう起きて平気なのか?」
「うん。――あの、それで名前は?」
サリーはウェッソンに肯いて見せた。それからテムズを促す。
「名前?」
「ええ。あたしの名前。さっき言おうとしたらあなたに邪魔されたんです」
少しの皮肉が篭ったテムズの言葉にウェッソンは頭を掻いた。
「いや、それはすまなかった。…そういえば俺もまだ名前を聞いていなかったな」
「そうでしたっけ? それなら二人に自己紹介するわね」
姿勢を正すテムズ。
「あたしはテムズ・コーンウォル。このフロンティア・パブの店主です。テムズって呼んでくださいね」
そのときのテムズの笑顔は彼女の生涯の中でも最高に部類される笑顔だった。
テムズは宿帳を閉じた。二人の居候――もうすでに客と呼ぶ気もない――にもそろそろ手伝わせる時間になったことに思い至ったからだ。
「ウェッソン! サリー! そろそろ手伝って! あんたたち自主的に働こうって気はないの!」
フロンティア・パブの中にテムズの元気のいい声が響いた。
END