The another adventure of FRONTIERPUB 57

contributor/蒼龍さん
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 夢を見ていた。いつもならその大方は、名探偵たる自分が完璧かつ華麗な推理によって男女関係のもつれや政府の陰謀が絡んだ完全犯罪を解決する、と言う類のものだ。
 しかし。
 その日の夢に出て来たのは、そうした類の映像では無かった。朧気に見えるその部屋は、紛れも無く故郷たる『草原』で見られた住居のそれであり、そこで辞書を片手に熱心に『あの本』を読み漁っているのは、見紛う筈も無い、幼き日の自分の姿そのものだった。
 そして――。
 部屋に誰かが入って来るのが見える。その姿はぼやけてしまって良く見えないが、それでも……そのひとが誰かを示す特徴は、はっきりとわかった。翡翠の様な瞳、部族の中でも特に恰幅の良い身体、そして……族長としての激務であまり自分に接する事の出来なかった父に代わって、いつも自分を包み込んでくれた穏やかな笑み。その全てが、忘れ様の無いものだった。それは、もう二度と戻らぬあたたかい日々への――。









追憶









「……全く。そろそろあの子が来る時間なのに、一体いつまで寝てるつもりなのかしら」
 探偵を名乗っているのに朝にすこぶる弱い居候の事を思い浮かべ、テムズは小さく溜息をつく。彼女が朝に弱い事は今に始まった事では無いが、それにしてもいつもだったらいい加減起き出していて良い時間だ。ウェッソンを使って起こさせようかと一瞬考えたが、こんな時に限って早朝から用事があるとかで出て行ってしまっている。
「確かおとといも寝坊してあの子を待たせちゃったのよね。全く、そろそろ起こしに行こうかしら」
 がちゃり。
 噂をすれば何とやら、と言うのだろうか。扉が開く音と共に、黒いマントを纏い、物静かな雰囲気が漂う少年の姿がテムズの視界に映る。
「ああ……ごめんなさいね。あの子まだ寝てるみたいなのよ。普段だったらもう起きてる時間なんだけど」
「……いや、俺が勝手に来ているだけだから、気にしなくて良い」
 自らをフゥルと呼ぶ無口な少年はそれだけを言う。けして愛想が良い訳では無いが、それでも腹は立たないのだから不思議だった。快活で人懐こいサリーとは正反対の性格で、普通なら友達になどなりそうも無い組み合わせなのだが、それが逆に良かったのだろうか、とテムズは心中密かに思った。
「そんな所に立ってるのも何だから、とりあえずその辺に座ってて。今すぐ起こしに行くから」
 彼がこくりと頷き、椅子に静かに座ったのを見て、テムズはやや足早に階段を上がって行った。



 少女は既に目覚めていた。しかし、有り余る程の元気さは、今の彼女には無い。信じられないものを見ている様な眼をして、呆然としているだけだった。いや、そもそも彼女の瞳には何も映ってはいないのかも知れない。
「……バヤン、おじさん……?」
 ぽつりと、言葉が零れ出す。ぼやけて良く見えなかったが、見違える筈の無い人。自分にとって、嘗て最も大切だった人の一人。……なのに、もうその記憶はぼやけつつある。半ば逃げ出す様に故郷から出たのは、そんな大昔の話でも無いと言うのに。
 寡黙な人間が多かった部族の人々の中で、あの人は少なくとも、自分や姉の前では笑顔を絶やす事が無かった。部族の中でも特に重きを成している人なのに、口を開けばいつも冗談ばかりだった。もう一人の伯父と比べると、本当に兄弟なのか首を捻りたくなる程だった。もう一人の伯父は、必要な事以外は喋らない人だったから。
 嘗てまだ平和だった時。たった一度だけ、親しい者のみで写真を撮った記憶が微かに残っている。そのカメラを持っていたのが伯父か、それとも母方の祖父かは忘れてしまったが。
 あの時の写真は、一体何処に行ってしまったのだろうか?
「……リー、サリー!」
 不意に聞こえた声に、一瞬サリーはびくりと身体を震わせた。しかし、それが聞き慣れた声であるのだと気付き、ほっと息をつく。
「サリー、起きてるの? あの子が下で待ってるわよ!」
 改めてテムズの声を聞いて、サリーは急速に現実へと帰っていった。そう。今日は二人目の助手――フゥルと一緒に捜査に出掛ける約束をしていたのだ。漸くその事を思い出して、慌てて彼女は叫ぶ様に言った。
「ご、ごめんなさい! 今すぐ降りて来ますから!」
 大急ぎで支度を始めるサリーだったが、『夢』の事を頭から取り払う事は、どうしても出来なかった。何故だろうか。あの不吉な黒馬の夢の様な、凶兆を報せる夢でも無いと言うのに。
 けたたましい音がパブに響き渡り、テムズと少年は思わずその方向に眼を向ける。テムズは頭を抱え、少年は少しばかり眼を見開いた。余程慌てていたのだろう。自称探偵の少女は、ものの見事に階段で転び地面に激突していたのだ。
「ちょ、ちょっと。大丈夫? あんた寝ぼけてるんじゃないの?」
「あぅぅ……だ、大丈夫です。たった今はっきり目が覚めましたからぁ……」
 流石にこれは堪えたらしく、暫く彼女は痛みに呻いた。しかしやがて痛みを堪え、自力で立ち上がる。探偵たる者、この程度の傷を受けたぐらいで屈する事は出来ないのだ。
「……本当に大丈夫か? 無理をして外に出る事は……」
「もう、何を言ってるんですかぁ! まだあの凶悪なネイルクリッパーは捕まってないんですよぉ! ちょっと寝不足だからって、見過ごしてはおけないんです! ほら、早く行きますよフゥル!」
「あ、ちょっと! 少しくらいご飯を……」
 呼び止めようとした時にはもう遅く、サリーはフゥルの腕を引っ掴んで勢い良く外に駆け出してしまった。その後姿を見送ってテムズは小さく溜め息をつき、片づけを始めた。帰って来た時にはおいしいご飯を作ってやろうと思いながら。



「うう〜、この名探偵がここまで苦戦させられるとは、ネイルクリッパーめ、敵ながらあっぱれですぅ」
 ネイルクリッパーなる凶悪犯(出典・まるまるタイムズ)は、未だその影すら掴めぬ難敵だった。テムズやウェッソンは『デマなんじゃないのか』と相手にしてくれないが、サリーにはそんな認識は無かった。彼女に言わせれば今はまだ潜伏しているだけであって、こちらが隙を見せれば再び凶行に移りかねない。だから一刻も早く捕まえなければ大変な事になってしまう! それが彼女の主張なのだった。迷探偵の推理に間違いは無い。
 だが情報が無ければ捜査は進展しない。そこで今日は情報通であるネルソン氏を訪ねて、少しでも情報を集める事に決めたのだ。決して、お茶を飲んだりおかしを食べたりしながらのんびり話をしに行く訳では無い。決して、そんな事は無いのだ。
 あの人と話をしている内に、心の中のもやもやが少しでも晴れるかも知れないと言う気持ちはあるけれども。
「……」
 もう一歩でネルソン邸の玄関と言う場所で、不意にフゥルが足を止めた。まるで何かを警戒する様に、玄関を睨んでいる風に見えた。さりげなくサリーの前方に、庇う様に立っている。
「どうしたんですかぁ?」
 そんな事には気付いていないサリーが、何処か間の抜けた声で問う。くるりと振り向いたフゥルの顔は、いつもの無表情な――それでいて少し穏やかな顔だった。
「いや。中に誰か――」
 彼が口を開きかけた時、その『誰か』がドアを開けて外に出て来た。すぐに反転し、中に居る人――恐らくネルソン氏に――シルクハットらしき帽子を取って会釈をした後、こちら側を向いた。
 一瞬、サリーは声が出なかった。ほんの一瞬だけ見えた顔に、『あの人』の面影があったからだ。背が低く頬は痩せこけ、殆ど白い口髭ではあるが――その瞳は、『あの兄弟』特有の翡翠色だった。
「……失礼するよ、お嬢さん」
 しかしその老人はすぐにシルクハットを深く被り、軽く会釈しただけで足早に立ち去ってしまった。決して、彼女の顔を見ようとはせずに。
 胸の鼓動が高鳴る感覚がした。見間違いだろうか。『夢』が自分にあらぬ錯覚を与えたのか。だって、もしもあの老人が本当に『あの人』だとしたら自分を無視する訳が無いのに。にっこりと優しい笑みで、自分を包み込んでくれる筈なのに。
「おぉーい、そこに居るのはサリーちゃんじゃないか?」
 不意に家の中から声が聞こえた。その声でやっとサリーは我に帰る。ゆっくりとした足取りで玄関に出て来たネルソンは、二人を見て忽ち穏やかな笑みを浮かべた。
「おお、やっぱりそうじゃ。おや、フゥル君と言ったか、君も一緒だったのかい。そんな所で何しとるんじゃ? さ、上がっておいで。丁度客が来ておったからな、お茶やおかしも用意するぞ」
「あ……はいですぅ!」
「……邪魔させて貰う」
 サリーは動揺を抑える様にいつもより大きな声で返事をし、フゥルは小さな会釈をしながら中へと入って行った。


「ふむ……ネイルクリッパーなる手配犯は聞いた事が無いのぅ。警察の幹部に知り合いが居るんじゃが、今度やつと逢った時聞いてはみるがの、正直あまり期待しない方が良いかも知れんのぅ」
「はう……そうですかぁ……」
 さしものネルソンでも、ネイルクリッパーの情報までは掴んではいないらしい。サリーはかなりがっくりとしていた。フゥルは特に気にする素振りも無く、黙々とお菓子を食べている。
「すまんのぅ。フゥル君の件といい、役に立つ事が出来なくて」
「とんでもないですぅ! おじいちゃんは何も悪くないですよぉ! でも、はぁ……これからどうしましょうか……」
 さしもの迷探偵も、ここまで情報が集まらなければお手上げに近い。事件はこのまま迷宮入りなのだろうか。いや、そもそもこのネイルクリッパー(出典・まるまるタイムズ)が本当に居るかどうかはわからないのだが。
「まぁ、とにかくゆっくりして行ってくれ。ばあさん!」
「はいはい。わかっていますよ、おじいさん」
 流石と言うべきか。ネルソンの言葉とほぼ同時に、その妻である優しそうな老婆が、新しく沸きたてのお茶を持って来た。お菓子は既に置いてあるが、もう結構な数をフゥルが食べてしまっているので、老婆は新しくお菓子を補充する為にまた奥に引っ込んだ。
「ほっほっほ。人は見かけによらないと言う物じゃが......君は随分と甘いものが好きなんじゃのぅ?」
 老人の言葉に、フゥルは別に恥ずかしがるでもなく『おいしいからな』と小さく答えた。元々甘いものに縁が無かったせいか、その虜になってしまったらしい。
「ああ、そうだおじいちゃん」
「うん?」
 暫くのゆるゆるとした時間を過ごした後、サリーはさりげなく訊ねた。
「さっき来ていたお客さんって、どんな人だったんですかぁ?」
「ああ……彼か」
 サリーの質問に、彼は何処か遠いものを見る様な眼になった。
「わしも昔は色々と無茶したものでな。世界中をこの身一つで旅をしたものじゃよ。現地人に助けられたり親交を深めたり、あるいは逆に出て行けと脅かされたり……いやはや懐かしいものじゃ」
 程よく温くなった紅茶を口に含み、ネルソンは話を再開した。
「さっき来ていた男も、わしを助けてくれた現地人の一人だ。もっとも、実際に助けてくれたのはその父親だがな」
 大航海時代はとうに終わったが、人々の冒険心が衰える事は無かった。人類未踏の地(西洋人にとっての話と言う場合もあるが)はまだ幾らでもあったし、黄金郷(エル・ドラド)を求める人も未だに多く存在した。サミュエル・テイラー・コールリッジがかの『クーブラ・カーン』でザナドゥ(上都)と言う名の幻想的な都を描き出したのも丁度この時代である。冒険に熱を上げるのも無理からぬ話だった。
 後に北の冒険王として不動の名声を得るネルソン・オールドマンも、その時はまだ理性よりも野心の勝る無鉄砲な冒険家の一人に過ぎなかった。彼はある帝国の初代皇帝が墓に遺したとされる莫大な財宝の情報を手に入れ、その捜索に当たったのだが、案内役には早々と逃げられ、止せば良いのにそのまま探索を続け、とうとう空腹と疲労により倒れてしまった。それを助けてくれたのが、訪問者の父親と彼が属する部族だったのだと言う。
「もう何十年も前の事だ。最初に顔を見た時は誰かわからなかったが……それはそうだな。あの時はまだフゥル君より少し年上と言う程度だったからな。だがその顔はわしが滞在していた当時はまだ存命だった祖父に瓜二つだった」
 ネルソンがその集落に滞在したのはほんの数日だったが、部族にひどく馴染み、助けてくれた相手とは無二の友にまでなったと言う。彼等との交流を重ねる内に、ネルソンはこの財宝については手を引く事に決めた。部族の人々は財宝目当てで当地に来る者を憎んでいたし、(ネルソンは咄嗟に、自分はただの遭難者であると名乗っていた)自分の目的を知らないとは言っても、自分を手厚く遇してくれる人達の事を悲しませたくなかったからだ。
 故郷に帰ると言うネルソンの言葉に、今や親友となった件の父親は号泣し、自分に懐いていたその子供は、いつか必ず逢いに行くと、これまた涙を浮かべていた。再び迷わない様にと、彼等は案内する人員まで割いてくれ、何とか無事に故郷に帰りついたのだった。
「いやはや恥ずかしい限りじゃよ。もし彼等が居なければ、わしは今頃ここにはおらんじゃろうな。流石にその後は懲りて、もっと冷静に行動する事を心掛ける様になったよ。それからじゃな。物事が上手く行き出したのは」
 ほっほっほ、と穏やかに笑いながら、彼は残りの紅茶を急ぐでもなく飲み干した。
「まあ、つまらん老人の昔話と言う奴じゃよ。あんまり面白い話でなくて済まんの。その後なら、色々と面白おかしい話もあるんじゃが」
 新しく淹れられた茶を飲みつつ、ネルソンは苦笑する。しかし――。
「おや、どうしたんじゃ? サリーちゃん」
「ふぇっ?」
 何かを考え込んでいたのだろうか。ネルソンの呼びかけに一瞬びっくりした顔をして、間の抜けた声を出してしまった。明らかに心ここに在らずと言うべきか。
「あはは、ごめんなさいですぅ。だって何十年も前に一度訪れたっきりの人の事を覚えてて、ここまで逢いに来るっていう物語みたいな話が本当にあるなんて思わなくって。見ず知らずの人を助けてくれた事といい、すごくいい話です。つまらない話だなんてとんでもないですよぉ」
 サリーの返事にネルソンは、『それは嬉しいのぅ。ほっほっほっ』と好々爺の笑みを浮かべたが、フゥルはサリーの事をじっと見つめ、何事かを考えていた。



 結局二人は夕方までネルソン氏の家で厄介になった。あの老夫婦の包み込む様なあたたかさは、なかなか振り払いがたいものがある。お菓子や紅茶がおいしいせいもあるのだろう。いつもはサリーに帰宅を促す側である筈のフゥルも、まるで当たり前の様にお菓子や砂糖入りの紅茶をたっぷり堪能し、逆にサリーから止められる程だった。もっとも彼は、
「……甘いものが好きで何が悪いんだ?」
 と真顔で言うだけで、食べるのを止めようとはしなかった。老人達は微笑ましそうに見つめていたけれども。
「それにしてもどうしましょう……ここまで情報が集まらないとは、完全な誤算ですぅ。おじいちゃんなら何か知っていると思ったんですけど……」
 ううむと唸り、灰色の脳細胞をフル回転させて打開策を練ろうとするサリー。何をどうしようと、解決策など思いつきそうもないものだが。
「……サリー」
「あ、何か対策を思いついたんですかぁ?」
 自分に言葉を掛けて来たフゥルに、サリーはきらきらと眼を輝かせながら聞いた。しかし。
「……無理は、するな」
「……え?」
「無理をするな、と言っているんだ」
 フゥルの真剣な、それでいてサリーの事を案じた瞳を見て、サリーから笑顔が消えた。
「朝からおかしいとは思っていたが……あの老人の事が気になっているのか」
 彼は基本的には他人に干渉する事の無い男だ。サリーに出会う前はずっとそうして生きて来たし、サリーと出逢った後も、彼女の核心――例えば過去――に迫る様な事は一切聞こうとはしなかった。テムズやウェッソンといった『保護者』についても、彼女から聞かされた以上の事は知らないし、聞く事もしなかった。そんな彼が、恐らくは初めて人の内面に踏み込んで話をしている。
「お前が気に掛けている老人がお前にとってどんな人物なのかを訊くつもりはないが……自分一人で抱え込むな。お前には『保護者』が居るんだろう。素直に彼等に相談して、少しでも心を楽にすれば良い」
(……不思議だ)
 フゥルは思う。自分は何故こんな事を話しているのだろうかと。以前の自分では考えられない事だった。他人が何をどうしようと、自分には関わりの無い事。今もその考えは決して無くなった訳ではない。そんな自分が、他人の内面に踏み込んで、あまつさえ他人を励ましてさえいる。何故、自分はこんな事をしているのだろう?
 でも。ひとつだけ、わかっている事がある。自分を『友達』と言ってくれた、この純粋で明るい少女の事を、放って置く事が出来ないと言う事。彼女の寂しそうな姿を、見ていられないと言う事。
(……本当に、不思議だ)
 けして、悪い気持ちはしないけれども。
「……ありがとう、フゥル」
 少女の顔は心なしか明るさを取り戻している様に思えた。まだ本来のそれからは遠いが。
「……気にするな」
 少年は、本当に微かではあるが、穏やかな笑みを浮かべた。少女もそれをわかっているのであろう。笑顔で以ってそれに応えた。
「もう日も暮れている。早く保護者の下に帰る事だ」
 そう言ってフゥルはくるりと踵を返す。もうフロンティア・パブとは眼と鼻の先にある距離だった。
「フゥル!」
 少年が足を止める。
「また明日、ですぅ!」
「……ああ」
 二人はいつもの様に、それぞれの帰る場所に向かった。お互い、心の中にあたたかい何かを残しながら。



「あら、お帰りサリー。遅かったのね」
 テムズの声はいつもよりゆとりのある声だった。今日は休日に当たり、パブはいつもの喧騒から遠い。見た所、席についている者は隅っこのテーブルの椅子に座っている老人一人しか居ない。
 その姿を見て、サリーの足が止まった。ネルソンの家から出て来た老人と瓜二つの姿をしていたからだ。
「おや……あの時のお嬢さんか。これは奇遇だ」
 果たして、振り向いた老人の顔は、あの時の老人そのものだった。
「ふむ……ご主人。彼女が貴女の言っていた?」
「ええ。あの子がサリーですよ。……それにしてもウェッソンは何をしてるのかしら」
 どうやらこの老人はフロンティア・パブに宿泊する人らしい。しかしどう見ても金持ちと言う風貌がする人で、とてもこんな場末の宿に宿泊する様な人種には見えない。
「伯顔さんって言うんですって。一日だけの宿泊だけど、宜しくね。ちょっと待ってて。今の内にご飯を作っちゃうから。伯顔さんも、もう少し待っていて下さい」
 それだけを言うと、テムズは台所に引っ込んでしまった。テムズがぼそりと呟いた様にウェッソンは未だにパブに帰って来ていないらしい。だから嫌でも、サリーは老人と二人きりで正対せざるを得なくなった。(まさか上の階に逃げる事は出来ない)いつもだったらそれは別になんでもない事だが……。
「……似ているなぁ」
「え?」
 伯顔と名乗る老人の言葉に、サリーは思わず老人の方を向いた。老人は飲みかけの酒が残っているグラスを見つめている。その頬骨は本当に痩せこけていた。
「姪っ子にね、似ているんだよ。君の雰囲気がね」
 その何処か寂しそうに言う老人の声で、サリーの疑念は確信へと変わった。幾ら姿が変わっても、これだけは間違える筈が無い。
「おじさんも……私の伯父さんに似ています」
 一瞬。ほんの一瞬だけ、老人の眼が見開かれる気がした。しかし、すぐにそれは穏やかなものに戻る。いや、元々変わってなど、いないのかも知れないが。
「そうか。それはますます以って奇遇だね」
 老眼鏡を整え、酒をぐいと飲み干してから、老人はテーブルの向かい側の席を引いて、サリーに薦めた。
「聞かせてくれんかね? 君の伯父さんの話を」



 ある所に、草原を駆け巡る騎馬民族があった。嘗ては『蒼き狼の帝国』と言う世界帝国を作り出し、文字通り世界に覇を唱えたと言うが、内部分裂と支配地の反乱により、やがて帝国は解体され、統一されていた部族も統制を外れ、草原には諸部族がばらばらに点在するままになった。
 その数ある部族の一つであるテュ族と言う部族に、一人の女の子が居た。草原の民は末子相続が原則であり、族長の最後の子供であるその女の子には、生まれながらにしてテュ族を率いる使命が与えられていた。しかし族長の子供とは言っても、女の子は女の子だ。年端も行かぬ頃から所謂帝王学を仕込まれて、平気で居られる筈がない。そして当然の事ながら、彼女はどうしても『部下』から特別扱いを受ける訳であり、友達と言える存在など殆ど居なかった。女の子はある意味孤独と言えた。
 そんな女の子に光を与えてくれた人が二人居た。一人は彼女の同腹の姉であり、もう一人は彼女の母方の伯父であった。伯父の名前はバヤン・テムルと言った。
 立派な体格をした伯父バヤンは非常に博識で、それでいておおらかで明るい人だった。いつも笑顔で、度々優しく頭を撫でてくれた。父ベクテルは族長としての責務があったので、ある意味伯父は第二の父とも言うべき存在だった。
(いいかい、サリー嬢ちゃん。悲しい顔ばかりしては駄目だよ。確かに辛い事や悲しい事はあるけれど、悲しい顔ばかりしていたら、その内笑う事も忘れてしまう。泣くなとは言わない。泣くのも大切な事だ。でも、泣くだけでは人間として成長出来ない。悲しい事や辛い事を乗り越えて、にっこりと笑う。それが理想だと私は思っているんだ。いいかい、辛い事や悲しい事に屈してはいけないよ。笑う事を忘れるのは、人間として一番辛い事だ。それだけは忘れないでいてくれよ)
(ほう、それは英国の探偵小説じゃないか! マリー嬢ちゃんあたりから貰ったのかな。やっぱりそうか。あの子は私以上の西洋かぶれだからなぁ。そういえば最近視力がめっきり悪くなったとクランから聞いたが、その為だったんだね。……え? 自分は名探偵になれるかって? ああ、なれるだろうさ。きっとね)
 眼前の『老人』に話をするにつれて、どんどん過去の光景が蘇って行く。それは、確かに楽しい日々だった。確かに、あたたかい日々だった。もう一度その時に戻りたくなる程に。いつだったか、何処かの誰かが自分に同じ様な光景を見せていた様な気がする。それが誰なのかは、もやが掛かっていてついぞ思い出す事が出来ないのだけれども。
 でも、過去には決して戻れない。起きてしまった過去を変える事は許されない。どれだけそれを望んだとしても。
「……サリーちゃん、と言ったね」
 サリーは、次の言葉を待った。何となく、その内容が予想出来る。
「その伯父さんの事が、好きかい」
「はい、大好きですぅ」
 躊躇いは無かった。老人の瞳が、少し潤んだ気がしたのは自分の思い過ごしだろうか?
「そうか。その伯父さんも、きっと君の事が大好きだろうさ」
 心なしか、声も震えている気がした。
「そういえば、おじさんにも姪っ子さんが居るんでしたよね。その子には逢わないんですかぁ?」
「ああ……」
 老人は遠い眼になった。まるで、自らを蔑んでいるかの様に。
「元々は逢うつもりだった……いや、私の家に引き取るつもりだった。私の家はそれなりに大きくてね、最近一族を纏める当主が死んでしまったんだ。その姪っ子は当主の実の娘でね。家督相続の混乱の中、何処かに消えてしまったのだが、やっと居場所がわかったんだよ。だけど、連れて帰るのも、逢うのも止めにしたよ」
「どうして……ですか?」
「私も姪っ子とは親しかったんだがね。肝心な時に何もする事が出来なかった。あの子は苦しんでいたんだ。家督相続問題が泥沼になって行く中、事態はとうとう親族同士で殺しあうまでになってしまった。そしてその隙を突いて、親族のある狡猾な男が財産を掠め取ってしまった。それに反発する連中は正統な後継者であるその子を連れ戻して家督を取り戻せと息巻いた。……馬鹿な話だよ。そうした争いこそ、彼女が最も嫌う事だったと言うのにな。私は、あの子に合わせる顔が無いのだ。それに――」
 大分前にテムズが注いだ紅茶を、彼は一息に飲み干した。
「その子は今、友達や保護者に恵まれて、幸せな生活を送っているのだと言う。それを考えればますます連れて帰るなど出来なくなったよ。今ある幸せを引き裂いて、無理矢理故郷に連れ戻す権利が誰にある。本人が望めば別だが、無理強いして故郷に連れ帰るなど考えられる事では無い」
 ふう、と老人は息をついた。その眼には、悔恨と寂寥が入り混じっていた。
「……すまんな。年寄りの下らない繰言だよ。忘れてくれ」
「合わせる顔が無いとか、そんな事は言っちゃダメですよぉ」
 思いもかけぬ言葉に、老人の動きが止まった。
「きっと、その姪っ子さんはおじさんに逢いたがっている筈です。私も……伯父さんには逢いたいですから」
 暫く、老人は身動き一つする事が出来ず――涙を拭う事も、出来なかった。
「そう……だな。そうかも知れないな。私の……独りよがりなのかも、知れない」
 溢れ出る涙を拭いながら、彼は言葉を紡ぐ。まるで、零れていった欠片を紡ぎ、直そうとするかの様に。
「……ありがとう。君に逢う事が出来て、良かったと思うよ」
 涙を拭き終えて、老眼鏡を掛け直す。その時にはもう、老人は元の落ち着きを取り戻していた。
「もう、夜も遅いな。ご主人。どうもありがとう。とてもおいしい食事だった。感謝する」
 老人はゆっくりと立ち上がり、会計を済ませて部屋へと向かう。その後姿には、少しだけではあるけれど、力強さが戻っている様な気がした。
「それにしてもそんなにその姪っ子とサリーは似てるのね。あの人との話も、サリーに関する事ばかりだったもの。色んな事を聞かれて、ちょっと驚いちゃったくらいだけど……」
 テムズの言葉は、サリーの顔を見た事で途切れてしまった。――その頬に、伝うものがあったから。
「サリー、あんた――」
「大丈夫ですよぉ」
 サリーは、にっこりと微笑ってみせた。それは強がりでもなんでもない、心の底からの笑み。テムズはその笑みに、それ以上の言葉を紡ぐ事が出来なかった。



 夜が明けようかと言う時。三十がらみのがっしりとした大男に護衛される様に霧の中を歩いて行く老人の姿があった。大男は東洋人で、老人と同郷の者と見えた。
「……本当にサリサタ様をお連れしないと仰せで御座いますか、バヤン様」
 男の口振りには、不満が少なからず表れていた。
「そうだ。今はまだ時期では無い」
「しかし、イェスゲイめに隙を見せる形で、バヤン様御自らこんな辺境くんだりまで出向かれたと言うのに何の成果も無いのでは、同胞達に動揺を与える事になりましょうぞ。矢張り、無理にでも……」
「バルチュク」
 バルチュクと呼ばれた冷たい眼差しの男も、老人の放つ鬼気には戦慄せざるを得なかった。背中を汗が流れ落ちる。老いたとは言え、自分ではこの人には到底勝てない。咄嗟に、無残な屍となった自分の姿を思い浮かべた。
「それ以上申すな。これは主人である私の厳命だ、我が『アクワイ』バルチュク・アルト・テギンよ」
「しかし、バヤン様。それは矛盾した話ではありませんか。少なくとも『保守派』がそう考える事は間違いありません。別してセチェン家は、ゼラの扱いに於ける失策から、それを取り戻す機会を窺っております。彼等ならサリサタ様を拉致してでも連れ戻すと言う事もやりかね……」
 バルチュクの言葉は、不意に腕で遮られた。一瞬驚いた彼も、すぐに眼を細めて僅かに腰を低くする。
「……そこに居るのはわかっているぞ。ウェッソン・ブラウニング」
 老人の言葉と同時に、『やれやれ』と言いながら男が姿を現す。果たしてその姿は、朝からずっと姿を見せなかったウェッソンその人だった。――その眼にはいつもの眠気など欠片も無いが。
「随分と遅い帰りなのだな。それでもあの子の保護者のつもりか」
「白々しい事を言うな。そこの大男を使って一日中俺をつけ回していたのは何処の誰だ」
 ウェッソンの眼はますます厳しさを増してゆく。用事を済ませて外に出た瞬間に何者かの気配を感じ取ったウェッソンは、その正体不明の男をフロンティア・パブに導かない様にしていた。もし自分を狙う刺客なら、テムズやサリーに危険が及んでしまうのだから。
「流石に、実力は確かな様だな。君にならば、あの子の事も任せられるかも知れぬ」
「……何処の誰ともわからん奴等に太鼓判なんか押されても、ありがたくともなんともないな」
 暫く、無言。ウェッソンも老人も、互いを睨む様に見据えていた。もしこの場に普通の人間が居たならば、腰が抜けて立ち上がる事も出来ないかも知れない。それ程までに凄まじい緊張感であり、殺気ですらあった。
「……私の名は、バヤン・テムル。あの子の……サリサタ・ノンテュライトの伯父に当たる者だ」
「なるほど。あんたが、あの『アクワイ』とか言う奴を送り込んだ連中の長って訳だな。業を煮やして、あんた自身がサリーを連れ戻しに来たのか?」
「最初は、そのつもりだったがな」
 バヤンはゆっくりと煙管を取り出した。煙は霧に隠れて見る事が出来ない。
「テムズと言う娘からあの子の事を色々と聞かせて貰う内に、そしてあの子と話をする中でそんな気持ちは失せてしまった。……私は、あの子を不幸にはしたくない。『立場』からすれば矛盾極まる事だが、それが私の本心だ。信じるか否かは君の考え次第だがな」
 バヤンから、鋭気が消えている。ウェッソンはじっと彼の眼を見た。霧に包まれているので完全に見える訳ではないが、その瞳に込められた感情が明らかに変わったのはわかった。ウェッソンも少しだけ、警戒を緩める。
「……私は、肝心な時にあの子を護ってやる事が出来なかった。肝心な時に傍に居てやれなかった。君がどんな経緯で『保護者』になったかは知らぬが……」
 次の所作に、ウェッソンは元よりバルチュクまでもが驚いてしまった。彼はウェッソンに対して、深々と頭を下げたのだ。
「――あの子を、頼む。あの子は強い子だが、脆い部分がある。だから……」
「知ってるよ、そんな事は」
 ウェッソンもようやく、その鋭気を和らげる。
「あいつは俺が護る。あんたに頼まれたからでも、あいつに頼まれたからでもない。俺は、自分の意志であいつを護るんだ」
 自分が果たして、彼女の保護者と言うに足りる存在かはわからない。しかしそれでも、彼女の身はこの生命に代えても護ってみせる。それが、自分に出来る唯一の事だから。
「……その言葉、信じさせて貰う」
 バヤンの瞳はいつしか、元の冷静なそれに戻っていた。
「一つだけ、忠告させて貰おう。我が部族は一枚岩ではない。あの子を尊重する者ばかりでは無いと言う事を、覚えていて貰いたい」
「……ありがたく受け取っておくよ」
 ウェッソンの返事に満足そうに頷き、バヤンとその従者バルチュクは、くるりと踵を返す。
「あいつに黙って行くのか」
 その問いに、バヤンが答える事は無かった。二人はゆっくりと、早朝の霧の中へと消えて行く。その姿は、まるでこの世ならざるものの様に見えた。ウェッソンはその後姿が見えなくなるまで、その方向を見つめ続けていた。



 そろそろ朝日が差し込み始める頃だが、少女が目覚める気配は無い。恐らくは良い夢を見ているのだろう。その寝顔は、穏やかな笑顔だった。部屋もいつも通り散らかったままで、足の踏み場に困るのは相変わらずだ。
 しかし、いつもと一つだけ違う事があった。それはこの部屋の中に、今まで無かったものが混ざっている、と言う事だった。それは、ある家族を写した白黒の写真。中心に小さな女の子、その両脇に両親らしき人物。女の子の姉らしき、恐ろしい美貌の少女。女の子の母親に顔立ちの似た老人。矢の様な長身の、眉間にしわを寄せている大男。そして、女の子の頭を撫でる様にしている、穏やかな笑みを浮かべた恰幅の良い男が写し出されていた。それは確かに、幸せな光景だった。とても幸せな、想い出だった。




おしまい


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