The another adventure of FRONTIERPUB 38
「な、なんですってぇ!」
派手に落ちたモップが、カランカランと音を立てた。
大声とモップの音に怯えたウサギが、したたたと奥の部屋に逃げる。
フロンティア・パブは正午の客を送り出して、午後のひと時を迎えようとしていた。
フロンティア・パブの二割増な一日
「あ、あの『ミシラン』 が来るの? このパブに……」
手をわななかせて、驚愕しているテムズ。
グラスを磨いていたウェッソンは首をひねった。
「……もう一度言ってくれないか。一体、誰が来るんだ?」
「『ミシランガイド』 の記者がフロンティア・パブにやって来るのですぅ!」
数秒の静寂。グラスの音がキュッと響く。
「……見知らんガイドってなんだ?」
至極もっともな質問だ。だが、サリーとテムズが信じられないと言う顔をし、「信じられない!」 あまつさえ口にして詰め寄ってくる。
「『ミシランガイド』 といえば、今巷では大人気の“パブの格付けチャート”ですぅ!」
「そうよ! この本が今の『全国パブ飲み倒れブーム』 の火種をつけたと言っても過言じゃないんだから!」
嫌なブームもあったものだ。
『ミシランガイド』 とは、この街では有名なパブ紹介ブックらしい。都市中のありとあらゆるパブ(一説には7000件以上)を三つの星でランク付けして紹介するガイドだそうだ。発売当初から世間では大きな注目を集めて、今年度版はベストセラーの勢いなのだ……そうな。
「その判定基準は公正にして極秘! 絶対の客観性と主観を兼ね備え、一流のパブフリークでさえミシランの評価には一目置くと言われているのですぅ!
星2つ以上のパブは、あまたの行列と未来永劫の繁栄を約束され、逆に一つもつけられなかったパブは、三日と持たずに客足が途絶えてしまう……それが『ミシランガイド』 なのですよぉ!」
やはり聞いたことがない。似たようなレストランガイドなら聞いたことがあるのだが。
「……で、そのミシュ――ミシランの取材が今日あるって言うのか。何でそんな情報を知ってるんだ?」
「それもそうね」 テムズが同意した。「ミシランの調査員って全てが謎なんでしょ? 噂だと一般の客を装って来るとか聞くけど……」
だが、サリーはちちちと指を振って。
「極秘ルートですぅ!」
「……また、あの爺さんか。つくづく底が知れんな」
「あっさり秘密をばらさないでくださぁい!」
びしぃと脳天をチョップされる。サリーはチョップした手を振って(痛かったのだろう)なにやらガッツポーズを作る。
「とにかく! ミシランガイドで星の三つでも評価を得ればパブは人気赤丸急上昇! お店の経営は黒字で潤い、全国大手チェーン店展開も夢のまた夢!」
「夢どまりか」
もっとも、星三つの店ともなれば、店の外装から何まで一流じゃないといけないのだろうが。流石に店員や酒の質だけでは無理な領域だ。
「まあ、なんにせよ、あまり俺には関係な」
「ふふ……」
不気味な声に遮られて、ウェッソンは思わずぎょっとして振り返った。
「ふふふふ……」
――テムズが俯き、口の端を開いて「にやあ」 と笑っていた。
「て、」のけぞるウェッソンと、
「テムズ?」 サリー。
ぐわばっ、と顔をあげたる。めらめらと燃え上がる赤い瞳と髪。
「チャンスよ!」
こぶしを振り上げ彼女は天を仰ぎ……おそらくは幸せとか金とかそんな感じのものを掴むしぐさをした。
「これは神様が与えてくれた生涯で二度目のチャンスに違いないわ! いつもいつもいつもいつも、わけのわからない喧嘩やら銃撃戦やらに巻き込まれて、毎度毎度毎度毎度、店の中蜂の巣だらけにされて……」
言われて二人があらためて見れば、確かにずいぶんと――まるで幾多の修羅場を越えてきたかのような風格がこの店には在る(そして普通の店にはない)。
「補修にお金はとられるし! 宿の客は相変わらずだし! 唯一の客はお金を払わないし! ……この調子でいけばお父さんの借金より今の方が多くなりかねないのよ! 信じられる!?」
「う……」「そ、それは……」
汗ジトで一歩下がる二人を見もせずに、握った拳を顔の前でふるふるとさせるテムズ。よく見るとはらはらと涙を流していた。
「でも信じてた、わたし信じてた。……人の幸運なんて、結局はプラスマイナスゼロだって……OKぐっじょぶ、ありがとう神様。これからはいいことしか起こらないはずよね? 見てて、父さん母さん! ちょっっっっと、人生疲れかけちゃってたけど、わたしこれから幸せになるからっ!」
「……ウェッソぉン。テムズがあさっての方向いっちゃってますぅ」
と、天井に叫び声を上げるテムズに、情報提供者のはずのサリーが、どこかおびえた瞳でテムズを見る。
「……まあ、“メディア進出”なんてよほど縁のない単語に直面して錯乱してるんだろうなぁ……かわいそうに」
ウェッソンも及び腰で、そうコメントする。
「そこ! 勝手に哀れみの目線で見ない!」 と、拳を振り上げる。だが長くは続かない。
「ふふふ……せぇっかく、広告費無料で向こうが宣伝してくれるってんだから、きっちりがっちり宣伝してもらおうじゃない! サリー!」
「い、イエス!」 テムズが勢いのままに指を差し、サリーはその声にびくりと震え上がって条件反射で挙手をした。
「外の方、掃除してきて! ちゃんと、隣の店まで掃いておくのよ!」
「え、あの、その……私は一応お客……」
「今月の宿代まだだったわよね」
「ラジャー!」
すぐさま敬礼してサリーが軍門に下る。圧倒的な統率力だ。
サリーは箒と塵取りを手に乗り猛スピードで外へと駆け出していった。
「ウェッソン! あんたは中よ! ちょっとでかけてくるけど、サボったら承知しないからね!」
「ちょっと待て、俺は今月払った――」
「ぶつくさ言うと、あんたの部屋のスコッチウィスキー割るわよ!」
「俺だけ脅迫かっ!?」
理不尽な台詞に思わず立ち上がる。
ウェッソンは何か言い返そうとしたが……しばらくしてから結局、諦めたようにモップを受け取った。
ため息をつく。
「借金が〜」 のくだりで彼はサリー以上にグサッと来ていたことは……まあ、秘密としておこう。
「こんば――」
「いらっしゃいませぇ!」
「んわぁっ!?」
いつになく大きな声に圧され、その青年は入り口を入ってすぐにのけぞった。
日も沈み、フロンティア・パブは一番忙しい時間帯を迎えようとしている。
「あら、シックさん。こんばんは」 挨拶してからようやく、青年の正体に気付いた様子だった。下ろしたてのエプロンをぱりっと着こなしている。
青年は窯に焼けた顔を少し引きつらせてながらも、
「こ、こんばんはテムズさん」 と、笑顔で返す。
「テムズさん、三番テーブルギネス3杯追加ですぅ!」
「はい、よろこんで!」
黄色と赤い声がパブの騒がしい喧騒の中で、活気良く響いている。二人とも大いに張り切っている。具体的にはいつもの2割り増しといったところだろうか。どうやら、未だに姿らしきものを見せないミシランのインスペクター(監視者)を警戒しているらしい。
「よぉ、仕事お疲れさん」 と、若い鍛冶屋のいつも座っている席に水を差し出してウェッソンも挨拶する。
「あ、どうも」 彼はこちらの声を聞いて、ようやく気を取り直した。席に座り、不思議そうな顔で「あの、何かあったのですか?」
「ああ」 瞼を半分閉じて、なんと言おうか考える。「……どうやら、パブの抜き打ちテストがあるらしくてな」
実のところ、ウェッソンは今回の事件に対してあまりやる気がなかった。
いつもどおりにグラスを磨くのみだ。――もっとも、普段どおりにはしているのでテムズも文句は言わないが。
「抜き打ちって、もしかしてミシランガイドですか?」
「知ってるのか? 他所のパブなんて滅多に行ったことがないお前さんが」
「うわさで聞くんですよ。最近この辺りのパブが良く載るって」
「……となると知らなかったのは俺だけか。ずいぶんと老けたものだ」
そうこうする内に、ビールを配り終えたサリーがカウンターに帰ってきた。彼女も下ろしたてのエプロンを着用している。
「シックさんいらっしゃいませぇ〜。注文決まりましたか?」
サリーがメモも取らずに聞いてくる。彼女は記憶力が抜群によいのだ。
どこか楽しそうに「オーダーはいりまぁ〜す」声を上げるサリー。実際楽しいのだろう。こちらの袖を引っ張り、客のいるテーブルを指差してくる。
「ねぇウェッソン! 奥のテーブルの人、さっきから店の内装や調度品ばっかり見てるんですよ! 怪しいと思いませんか?」
ウェッソンは再度瞼が重くなってくるのを感じながらも、しっかりと回答した。
「……それは多分、注文がしたいのにお前が来ないから、声を掛けようかどうか迷ってるんだと思うが?」
「あぁ! わ、忘れてましたぁ!!」
あわてて駆けていく。駆け寄るサリーを見止めて、客は助かったとばかりにサリーを呼び止めた。そして、注文をする客に、平謝りをしているサリー。
客席はいつもどおりに喧騒に溢れ、それぞれが勝手に酒を飲み、あるいは語らっている。まったくもって日常的な光景だった。
「サリーさん、何をしているんですか?」
「誰がミシランの調査員かを、名推理で当ててみせるんだそうだ」
「……当ててどうするんですか?」
「そこまでは考えてないさ」
苦笑する。確かにどうなると言う話ではある。テムズのことだから賄賂を贈ったり、こびを売ったりなんて間違ってもしないだろう。
となれば、こちらにできることなんて、固唾を呑んで見守るぐらいしかない。緊張して逆に普段どおりの行動ができなくなるのが落ちだ。
それに、『ミシランの調査員』らにしても賄賂など受け取らないだろうし、ましてや緊張などされたいと思わないだろう。だから一般人を装うのだろうし。
一仕事終えて手が空いたサリーが、再びカウンターに帰ってきた。
「見てウェッソン! あの青い作業着の人、スープをものすごくゆっくり飲んでますよ! きっと材料を隠し味まで吟味しているに違いありませぇん!!」
「……猫舌なだけだと思うが」
良く見ればふーふーとスプーンに息を吹きかけている。
「そこの灰色のスーツの人、最初の注文でオムレツを注文してました! 一個目が玉(ギョク)だなんてなんだかものすごく『通』って感じがしませんか!?」
「まったくしないな……というか、パブで通ぶるなら料理じゃなくて酒だと思うが」
パブはあくまで飲み屋だ。料理を出さなかったり酒のツマミだけだったりの店も多い。そう言う意味では、料理中心のこの店はパブとしては珍しい。
「あああ! あの緑色の人、なんだかそこはかとなく記者っぽいオーラを漂わせていますすよ! もはや疑う余地が微塵もありませぇん!」
「もはや推理でもないと思うが」
グラスをきゅっと磨き、三秒も待たずにことごとく却下していく。
「もう! じゃあ誰ならいいのですかぁ!」
と、サリーが頬を膨らませて、むちゃくちゃな事を言った。
「なあにやってるのよ」
コペン――
「痛ぁ!?」
テムズがキッチンの仕事を一通り終えてやってきた。右手に微妙に凹んだトレイ、左手には魚貝類のパスタを持っている。パスタは本日のオススメである。
テムズはパスタをカウンターに置きながら、
「ゆっくりしていってくださいね、シックさん」
と、微笑んだ。青年は照れた様に頬を掻いて皿を受け取る。
「は、はい。あの……髪切ったのですね。似合ってます」
「あ、わかります?」 と、テムズは顔を赤らめて前髪をいじる。「ちょっと切り揃えただけなんですけど……」
ちなみにウェッソンはわからなかった。帰ってきたテムズに「自分で切ることにしたのか」 と、言った途端に蹴飛ばされたのは言うまでもない。
「別に写真を撮られるわけでもないし、なにより無駄な努力……」 と言ったときにはコブラツイストまで掛けられた。
それはまあ、どうでもいい。ウェッソンは、関節痛をこらえながらもパイプを取り出して火をつけた。煙を吸いこむと、火皿の煙草がじじっと赤く燃える。
落ち着きを取り戻している間中、三人はサリーの髪について話をしていた。
今度髪を切りに行こうとか、髪型は変えるべきかとか――いわゆる世間話だ。
ウェッソンはこういう時、たいてい無言である。「ウェッソンはどう思う?」 等とはあまり聞かれたくないものだ。
「ウェッソンはどう思いますかぁ?」
「いつも言ってるだろうが……聞かないでくれ」
聞かないでほしい――と常々思っているし、口にしているにもかかわらず、二人は何回も意見を自分に求めてくる。
「む、何ですかぁ、そのあからさまにめんどくさそうな態度は!」
「あからさまにめんどくさいんだ」しかも答えても答えなくても不機嫌な顔をするのでやってられない。
まあ、それもどうでもいい。テムズに向き直る。
「しかしあれだな。張り切っていたわりには、普通に商売するんだな」
「仕方ないわよ、採点基準が全然わからないんだから……やれることしたら、後はいつもより頑張るぐらいしか」
顔をしかめて、フロンティア・パブの店長は反論してきた。
「僕から見れば、いつもどおりの気もしますけどね。あ、もちろん悪い意味じゃなくて」
「シックさんの言うとおりですぅ! 普段から頑張ってキリモミしている証拠ぉ!」 切り盛りのつもりらしい。
二人の台詞に「そうね」 と、テムズが微笑む。先ほどまで少しこわばっていた様子だったが、それでずいぶんと落ち着きを取り戻したようだった。緊張していたのだろう。一息ついてから、彼女はようやく店内を一望した。
「で、それらしい人見つけた?」
「わたしの一押しはあの右から二番目の人ですぅ!」
「……あの人、常連さんじゃないの」
「あれ?」 とメガネを掛けなおすサリー。
「顔なじみ以外は全員見てはいるんだが……それらしい奴はいないな」
ウェッソンも一応答える。なんだかんだで、気を配っていたのだ。
「よほど演技が上手いのか、それともガセネタだったのか……俺は後者だと思うが」
「そんな事ありませぇん、そうです! きっと犯人は変装のプロに違いありません!」
サリーがルーペを取り出し、酒を飲みわいわいと盛り上がっている客に焦点を合わせた。
「失礼だからやめなさい」
テムズがサリーのルーペを奪う。あわてて取り返そうとするサリーだが、テムズがルーペを持つ手を上に伸ばすと届かなくなる。
「まあ、用心に越した事は無いし、今日一日は注意して頑張ればいいんじゃないか?」
ルーペの取り合いが白熱する二人――サリーがテムズの脇をくすぐり始め、テムズは涙目で笑いをこらえている――にウェッソンは妥当な意見を発案する。
コペン――
「え、何か言った? ウェッソン」
と、痛がるサリーをよそにたずねてくるテムズ。
「なんにせよ、ごたごただけは勘弁して欲しいところだな」
「……そ、そうね」
ガシャーン――
「……まあ、どうせ無理なのはわかってるんだがな」
ウェッソンは頭をおさえて、煙とため息を同時に吐きだした。
「なんだとてめえ! もっぺん言ってみろ」
「けっ、何度だって言ってやらあ!」
いきなりテーブルの一つで言い争いが始まっている。別に珍しいことではない。紳士の国なのでめったにあるわけではないが、どんなパブにだってこういう事態は間々ある。
ありはするのだが――
「何もこんな時に起きんでも……」
毒づきながら、カウンターを離れる。テムズがあわてて止めに入るが、言い争う二人は体躯が大きく、難儀しているようだ。
「待て、テムズ。俺がやる。お前がやるとイロイロまずいだろ?」
肩に手を置いて、前に出ると、テムズがうなずいて一歩下がった。どこかにいるかもしれない調査員を気にしてか、
「……なるべく穏便にね」 と、そんな注文を残していく。
ウェッソンもそれは重々承知していたので真顔で頷いた。
「ああ、わかってる。なにしろお前さんだと流血沙汰になりかねない……ってこら、く、首を絞めるな! 息が」
「て、テムズ! 落ち着いて! シックさん!」
「ぼ、暴力はいけません。テムズさん」
あわててテムズを羽交い絞めにして止めに入る二人。
ウェッソンはなんとか息と意識を取り戻して(かなりやばかった)後ろの凶暴な気配に怯えながらも、堂々と言い放った。
「二人とも、事情はよく分からんが喧嘩するなら外で――」
「うるせえ!」
回答は気合の入ったパンチだった。ウェッソンにしてみればハエの止まるような遅いパンチではあったが。
肩を後ろに移動して、上半身で避ける。
避けられた男は勢いと酔いで体を制御し切れずに派手な音を立てて床に倒れた。
「おいおい、喧嘩の相手は俺じゃないだろ」
頭をかいて、顔をしかめると、周囲の客から失笑が漏れた。
「コノヤロォ!」
残された一方の男が顔を真っ赤にして、なりふり構わず殴りかかってきた。
同じ様に躱そうとするウェッソン。だが、
「――!?」
なぜか肩が動かない。後ろから肩を押されたためだと気づく前に、
ゴツ――
「ウェッソン!!」
サリーが悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
「ウェッソン! 大丈夫!?」
「大丈夫、なんとも無い……」
とはいえこめかみに拳をモロに食らい、脳が揺れて眩暈がする。平衡感覚が狂い、ろくに立ち上がる事もできない。回復には時間がかかるだろう。
「けっ、偉そうにほざいてた割りに大した事ねえな」
と、自信たっぷりに言う酔っ払い。
「へへ、こんな古臭いパブの用心棒じゃ、タカが知れているってもんだ」
転んだほうの男が、立ち上がり自分の事を棚にあげながらほざいた。
「ウェッソンは弱くなんてありませぇん!」
「なんだぁその目は? 俺たちは客だぞ!」
サリーがウェッソンを庇い、キッと男たち二人をひるむことなく睨みつけていた。
「は、店が店なら店員も店員だな、クソまずい料理だしやがって。古いパブは出すものも古いのか? ああ?」
先ほどまで喧嘩していたくせに、仲良く暴言を吐き散らし嘲る二人。この手のやからは憂ささえ晴らせればなんでもいいのだ。だから常に愉快なほうを選ぶ。
「古い料理なんて出してません! フロンティア・パブの料理はどれもテムズが毎日一生懸命作ったものですぅ!」
「そうです! このパブの料理はそこいらのパブよりメニューも豊富だし、ずっとおいしいです!」
根も葉もない暴言に、真剣な目で抗議する二人。
「黙れ」 と怒号が響き、スープの皿がガシャンと、もう一回割れた。
「けけっ、この料理が美味いぃ? 舌ぁイカレてんじゃねえか?」
「ははは、そりゃそうだ。こんなパブの客だぞ。ゴミダメみたいな連中に決まってる」
せせら笑う声が店中に響き渡る。
ウェッソンは、「野郎」 怒気を帯びた目で酔っ払い二人を睨んだ。
相手がその気なら、いくら酔っ払いとは言え穏便に済ませるつもりは最早ない。
そう裡に決め、懐に手を差し入れ膝立ちに立とうとして――
――それをテムズが、一歩前に出て止めた。
「料理が口にあわないというのなら、あやまります。代金も……結構です」
そういう彼女の表情はうつむいていて判然としない。「ですが」 と続ける。硬く握られているこぶしが、ぎゅうっと更に握られる。
そこで、顔をあげた。
赤い髪が慣性のままに浮き上がる。
「ですが、他のお客様に迷惑をかけて中傷までしたあなた方は、もうお客様じゃありません!」
一瞬で二人を視界に捉え、睨みつける。無言の圧力が二人を襲っている。
「今すぐ! 私の店から出て行ってください!」
あまりの迫力に、ウェッソンたちも観客たちもが呑まれて言葉を失った。
それは、この店の主が誰かを、一瞬でパブ中に知らしめるには十分すぎる宣言だった。
「この野郎!」
だが、酔っ払い二人は聞き入れなかった。その迫力に圧倒されながらも、
「ふざけんな!」
と、手を振り上げる。
だが――そこまでだった。
『――なっ?』
暴漢二人は、そこから一歩も動く事は無かった。
なぜなら腕を後ろからつかまれていたからだ。ウェッソンではない。
振り返る二人。
そこには二人の手をつかむ……やはり二人の男。
体躯こそ小柄だが、がっしりした体つきの彼らは――
――ただの一般客だった。
仕事明けの労働者たち――ウェッソンは彼らの名前すら知らない。テムズなら知っているかもしれないが――彼らが二人の酔っ払いの腕をつかみ、
「おいおい、このパブの料理がまずいだとよ。家の母ちゃんの飯より美味いってんだよな」
「はは、こいつらの方こそ舌がイカレてんじゃねえのか?」
いつもの冗談話の口調で問答している。スキンヘッドの煙突掃除夫姿の男が、酔っ払いの腕を捻って肩をすくめ、似たような状態で、ひげ面の大工姿の中年が口の端を引いてがははと笑っていた。
ドン、と腕をつかむ彼らが、酔っ払い二人を突き飛ばす。
押された男たちが衝突して絡まるように床に倒れた。派手な音を立てる床板。
「くそ、よくも……」
「殴られ――」
『殴られるのはお前たちだ!』
二人と、そしてフロンティア・パブのすべての群集が一斉に声をあげ、一歩前に出た。
ダン――と 地鳴りのような足音が店を揺るがして響く。
「ひっ」 と、酔っ払い二人はお互いを抱きあうように竦みあがった。
『失せろ!』
空気中に濃密に漂っていた、怒気と言う怒気が塊となって襲い掛かる。
「出直してきなさい!!」
「お帰りはあちらですぅ」
テムズとサリーが出口を指してエスコートする。
「うわあああ!」
「失礼しました!」
酔っ払い二人は我先にと、見るも滑稽な姿でパブを飛び出していった。
とたん、パブの中では喝采が巻き起こる。無論、中心にはフロンティア・パブの店主――テムズ。残った客に祝福されて彼女は、
「やっぱりお金もらって置くべきだったかしら」 一言そうぼやいた。
大爆笑。
「やれやれ」 なんとか立ちあがろうとしていたウェッソンは、立ち上がる気力を放棄して床に座り込む。
客たちが立て続けにビールの追加を注文している。今から馬鹿みたいに飲みなおそうと言う算段だ。
おそらく、今日の売り上げは食い逃げ2名分ぐらいをものともしないだろう。
陽気なパブの店主が歌う客たちの声にあわせて一曲披露する。サリーがジョッキを八個いっぺんに持って忙しく駆け回る。
それを見たウェッソンは、パイプに火をつけて苦笑した。
「これじゃ用心棒なんて必要ないな……」
「結局いませんでしたねぇ、それらしい人」
今日一日の仕事を終えて、疲れ果てたサリーが机に突っ伏してそう断言した。
あれから祝杯だとばかりに叫んで踊って歌って飲んで(ノンアル)騒いで、それでもサリーは逆調査をしていたらしいのだが、彼女のお眼鏡にかなう人物は遂に現れなかったようだ。
「……そっちの方がいいわよ、あんなの見たら星一つだって取れないだろうし」
テーブルの向かいではテムズがため息を付いてティーカップの中の紅茶を眺めていた。
仕事明けのささやかなティータイム。つっぷすサリーの横にも紅茶が湯気を立てている。
「それともやっぱり変装の達人だったのでしょうかねぇ。意表を付いて昼来ちゃったとかぁ」
「そうかもしれないわね」
気のない返事で、テムズは両手でカップの温もりを確かめるようにして包んでいた。少し微笑んでからそれを口につける。
「……」
「……なによ」
対面からジト目で見てくるサリーに、いぶかしげな顔をするテムズ。
「嬉しそうですねぇ。星一つも付かないかもしれないのにぃ」
「……まあね」 カップを口から放してテムズは今日の馬鹿騒ぎを思い出すように微笑んだ。
「別にどうでもよくなっちゃった、星の数なんて」
おしまい
……あるいは、こちらにつづく