The another adventure of FRONTIERPUB 35

contributor/ねずみのママさん
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時を経て色褪せぬもの



 思い出の中の彼女は――もう十何年も昔の思い出だが――背が高くほっそりしていて、ゆったりした白い服を着ていた。長い栗色の髪は彼女が動くたびに、優雅なワルツを踊るようにふわりと揺れていた。そして、彼女は確かに明るい笑顔でいたときもあったはずなのだ……本当におぼろげにしか覚えていないが、その笑顔がとても好きだった。しかし、ある時から彼女はあまり笑わなくなった。もう一度あのすてきな笑顔を見たいと、彼はずっと思っていたが……その願いは叶わずに終わった。


 真夜中の公園。夏とはいってもさすがに夜の空気は冷たく感じられる。
 ウェッソンはベンチに腰をおろして、彼女が現れるのを待っていた。
 この十数年の間で、こんなことは初めてだろう。去年のできごとがふたりの関係を大きく変えてしまったように思われた。そしてふと、今年はもう彼女は来ないのではないかと心配になった。じつをいうと、彼女に来てもらわなくては困る事情があったのだ。
 だから、目の前に白いぼんやりした影が見えてきたとき、彼はほっとした。そして、こんどは次の難題を切り抜けるために気を引き締めた。
 白い影はやがて、はっきりとした人の形になった。彼女はいつものようにその瞳に悲しみの色をたたえ、しかし口元には笑みを浮かべながら彼の前にあらわれた。
(一年ぶりね、ウェッソン。……会いたかったわ)
 遠くでかすかに鳴る鈴の音のような、澄んだ美しい声が聞こえた。
 彼女はすうっと近づいてくると、後ろに回ってウェッソンの背中に抱きついた――のだと、彼は思った。彼女の白くほっそりした腕が自分の首に回されているのが見えたからだ。しかし彼女には肉体がないので、少しも重さを感じられない。
「俺も……待っていたよ」
 ウェッソンは首を傾けて彼女の顔を見ながら僅かに微笑み、こう言った。彼女は驚いた顔で彼を見つめる。
(待っていた? どうして……? 気が変わって、私といっしょに来るとでも言うの……? そんなわけないわよね。それとも、幽霊退治の方法でも見つけたのかしら?)
 そう言ったかと思うと、ふいに泣きだした。とうの昔に実体をもたなくなった琥珀色の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれていく。
(……ごめんなさい……ごめんなさい……本当はずっと前からわかっていたのよ。あなたを連れて行くことなんて、できはしない、してはいけないことだって。でも、それを認めてしまうのは悲しかった。ひとりぼっちは寂しかった。それにあなたは年を追うごとに、どんどんあの人に似てくるんですもの……だから、どんなに嫌われても……私は……)
「アイリーン……」
 それはもうずいぶん前から気がついていた。彼女が自分につきまとう理由……誰の面影を見ていたのかということを。そして、彼女を寂しがりやの幽霊にしてしまった責任の一部は、自分自身にあるのだということも、ウェッソンは知っていた。あのとき……彼女の言うとおり、そばについていてやればよかったのだろう。けれど彼はそうせずに、急いで医者を呼びに走った。そして戻って来たときにはすでに彼女は息絶えていたのだ。
「泣かないでくれ。嫌っているわけじゃない……生きていたときは大好きだったし、今だって――ただ、君と俺とは住む世界が違うんだ。――それに、まだ礼も言っていなかったが、君は去年俺を助けてくれたじゃないか。あのとき、君が大声を上げて三つ首の怪物の気を逸らしてくれなかったら、俺はこの世に帰ってこられなかっただろう……」
 もしあのまま彼女が自分をつれて天国の門をくぐっていたとしても、彼女の心が本当に満たされることはなかったはずだ。所詮自分は代役にすぎないのだから。ぎりぎりのところでそれがわかったからこそ、彼女は諦めてくれたのだ――そんなふうにウェッソンは感じていた。
(礼なんて……もとはといえば私のわがままなのに。でもあなたはそんなふうに言ってくれるのね……嬉しいわ)
 彼女はしゃくり上げながら、ウェッソンの横に座り、彼にもたれかかるように身体を寄せてきた。肩でも抱いてやりたいと思ったが、自分の手が彼女の身体を素通りしてしまうことがわかっていたので、思いとどまった。
(もう、あなたや周りの人たちを危険な目に会わせないと約束するわ……だから……一年に一度こうして会いに来ても、嫌がらないで……お願い……)
 彼女のほうからそんな言葉が出たので、ウェッソンはおおいに助かった。いつ、どういうふうに話を切り出そうかと思案していたところだったのだ。
「今の言葉、信じていいのか?……それなら話したいことがあるんだが」
(なあに? そんなに改まって……)
と、首をかしげて、彼女は問いかけた。
 ウェッソンは軽く息を吸い、はっきりとした口調で彼女に告げる。
「叔父貴が生きていた――君に会いたがっている」
 彼女は驚いて瞳を大きく見開いた。信じられない、といった顔だ。無理もないことだが。
(ほ……ほんとうなの? ウェッソン……あの人が……)
「一ヶ月前、ある用事があって故郷に帰り、ブライト牧師に会いに行ったんだ。すると数日前にレナードが訪ねてきたばかりだと教えてくれた。俺だって驚いたよ。それから急いで彼の宿泊先を訪ねていって、いろいろな話をした。叔父貴は……船が難破して、地図にもない小さな孤島に流れ着き、十何年ものあいだそこから出られなかったそうだ。半年ほど前、たまたまある商船がそこに漂着して、それに乗せてもらって国に帰ってきたと言っていた。君のことを話したら、会わせてくれと……幽霊でもいい、呪い殺されてもかまわないから会いたいと言うんだ」
 それを聞いた彼女はウェッソンにすがりつき、悲しいくらい真剣な目で懇願した。
(呪い殺したりなんてしないわ! お願い会わせて……レナードに会わせて……)
 ウェッソンは静かに答えた。
「俺も実際、たとえ何が起こっても、会わせないわけにはいかないと思っていた。お互い、ずっと相手を思い続けてきたんだからな。でも君の今の言葉が本当なら、安心して彼のところに連れていける。……大丈夫か、アイリーン」
 幽霊に「大丈夫か」と聞くのもなんだか変だと思ったが、そう声をかけたくなるほど、彼女は気が動転しているように見えた。
(ええ……ただ……夢のようで……いいえ、夢でもかまわないわ……ずっと待っていたんですもの……)
 彼女は何度も涙を拭っていた。ウェッソンは少しの間、彼女が落ちつくのを待った。それからゆっくり立ち上がり、
「それじゃ、行こうか」
と言って歩き出した。彼女はその後ろにおとなしくついてきた。
 公園の敷地を出て通りを行く。深夜の大通りは、昼間の賑わいからは想像できないほどに、静かだった。聞こえるのはウェッソンの足音だけだ。
 彼はふと、人の気配を感じて街路樹に目を向けた。木の陰に男が立っている。男はこちらを見ていきなり、
「ひいっ!」
と、恐ろしいものでも見たような声をあげて後ずさりしはじめた。小柄な、赤毛の若い男だが、ウェッソンが知っている顔ではない。歯をがたがたふるわせながら、
「お、おた、おたす……け……」
とぶつぶつ言っている。
「おい、どうした……?」
 ウェッソンがそう声をかけるかかけないかのうちに、男は背中を向け、全速力で逃げだすように駆け出していった。
「……なんだ、あいつは」
 呆気にとられて見送るウェッソン。
「ひょっとして、君の姿が見えたのかな?」
(違うと思うわ。あなたのほうを見て驚いていたようだったわよ)
 考えてもわからないのでさっさとあきらめ、二人はまた歩きだした。やがて大きな教会の横を通り、暗い路地に入っていくと、古い小さな建物が薄明かりの中に見えた。
「ここだ」
 ウェッソンはいくつか並んだドアのうち、かすかに明かりがもれている一つを確かめ、そっとノックした。ドアが開くと彼は振り返って、彼女に入るようにと合図をした。
 彼に続いて彼女が部屋の中に入っていくと、中には一人の男が待っていた。背格好がウェッソンとよく似ていて、年齢は四十過ぎくらいだろうか。
 彼女はおそるおそる男の顔を見た。男は黙って彼女を見つめかえした。彼女は目に涙をいっぱいため、両手で口元を押さえた。生前の彼女が深く愛し、死んでからもなお待ち続けていた彼が、とうとう帰ってきたのだ。かつて黒々としていた髪はいくぶん白いものが混じり、顔の皺も深くなっていたが、おだやかな灰色の瞳は昔のままだった。
「レナード!」
 次の瞬間、彼女は恋人の胸に飛び込んでいった。男は彼女を受け止め、しっかりと抱きしめた。長い年月、そうできなかった分を取り戻すかのように。
 優しい瞳で恋人達の抱擁を見ていたウェッソンだが、やがて目をそらし、窓の外を眺めた。真っ暗でなにも見えないとわかってはいたのだが。……なにか心に引っかかるものがあった。漠然とした違和感を感じるのだが、それが何なのか、彼にはわからなかった。
 やがて男が口を開いた。
「すまなかった、アイリーン。牧師やウェッソンから話を聞いたよ。ずっと俺を待っていてくれたこと、足を滑らせて崖から落ちたこと……。帰ってくるのが遅すぎた……許してくれ」
(……それでも帰ってきてくれたのね……私のために……嬉しいわ)
「……だがウェッソンにつきまとうのは筋違いだ。こいつを苦しめるのはもうやめてくれ。頼む……一人でさびしいというなら、いっそ俺を殺してくれ――」
(レナード、その必要はないわ……だってあなたはもう――)
「え?」
 レナードは、あっと小さな声をあげた。
「そうか……そうだったんだ。なにか大切なことを忘れていたような気がしていたんだが、やっと思い出した」
 彼はアイリーンの身体を解放し、甥に向かって言った。
「ウェッソン。俺は……いや、俺も、もう死んでいるんだ」
「な……なんだって?」
 ウェッソンは椅子から跳び上がった。
 たちの悪い冗談を言うような叔父ではなかった。真剣な目をしてウェッソンを見ている。
「たぶん、ゆうべ……夜遅くに公園の横を通ったときだ。辻強盗に襲われた。金目のものなんか何も持っていなかったんだがな。相手は小柄な若い男で、力ではとてもかなわなかった……そして、気がつくと茂みの中に倒れていて、腹にナイフが突き刺さっていた――」
 レナードは一瞬身震いした。そして続けた。
「このままでは死ぬしかないと思ったが……目の前が真っ暗になったあと、妙に身体が軽くなって……どういうわけかこのアパートまで辿り着いていた。刺し傷は消えていた。夢でも見たのかと思ってそのまま忘れていたが……たぶん俺は自分の死を認めたくなかったんだろうな……アイリーンに会いたい一心で、魂だけがここに帰ってきたようだ」
 ウェッソンは一瞬、レナードの話が信じられなかった。しかし、すぐに気がついた。彼はさきほどアイリーンをしっかり抱きしめていたのだ。彼女の身体を素通りせずに。それは――生きている者にはできないこと……さっき感じた違和感は、それだったのだ。
 ウェッソンはそっと手を伸ばし、自分の指が叔父の腕を突き抜けるのを確かめた。数日前には確かに触れることができたのに――。
 そしてもうひとつの符号。
「小柄な男……?」
 ここに来る途中、公園のそばで出会った男。もしかしたら、彼が、叔父を殺した犯人ではないのか? 暗がりの中でウェッソンを見て、自分が殺した男の亡霊だと勘違いしたのではないだろうか? だとしたら――。
「なんてことだ……」
 ウェッソンは弱々しく呟いた。
「ウェッソン、すまない」
 申し訳なさそうに、レナードは言った。
「俺の頼みは聞いてもらったのに、お前の力にはなれなくなってしまった。兄貴の一家の事件のことだが……」
「ああ、もう気にしないでくれ。それどころじゃないだろう? そっちはなんとか自分で調べる。俺のことはいいから――」

 またしても、自分ひとりだけ取り残されたようだ――深い悲しみが胸に広がってくる。だが、ウェッソンは気を取りなおして顔を上げた。死んでしまった者はもう戻ってこない。そして、生きている者は前に進んでいくしかないのだ。
「アイリーン、今度こそ天国の門をくぐることができそうだな。叔父貴と二人で仲良く……」
(ええ、そうね。ありがとう、ウェッソン。みんなあなたのお陰よ)
 これでやっと、彼女の呪縛から解放される。ウェッソンは肩の荷が降りたように思ったが、同時になぜか寂しさを感じるのだった。いざ別れるとなるとこんなものなのだろうか。
 その気持ちを察したのかどうか、アイリーンはウェッソンの手をそっと握った。
(ウェッソン、今はお別れだけど、またいつか会えるわ。そのときが来るまで、あなたは幸せに生きていってね。私たちの分まで……)
 そう言いながら彼女はやさしく微笑んだ。春風のようなその笑顔は、ウェッソンが遠い昔に見た覚えのある、いちばん幸せそうだった時の彼女を思い起こさせた。長い年月を経て、たった今、彼の願いもまた叶ったのだった。



おしまい


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