The another adventure of FRONTIERPUB 32
日常とは、儚く脆い。だからこそ、いとおしい。
『当たり前』にすがり、『何か』に憧れを持つ。
ただ、それだけが日常。
それまでの日常が過ぎ去った時、そこに残るのは一体何か。
祭りが過ぎ去った後の寂寥か。
過ぎ去ったものへの懐古か。
失ったことへの後悔か。
あるいは、新たな日常への希望か。
日常とは、儚く脆い。だからこそ、いと、惜しい。
客もいなくなり、そろそろ閉店にしようかというフロンティア・パブにその言葉は響き渡った。
「私、オペラ歌手になるわっ!」
アリサが妙な輝きを瞳に秘め、宣言するのは良くあることだった。少なくとも、一年に一回は見かける光景だ。
「あー、はいはい。頑張ってね」
アリサをよく知る人間ならば、そのつれないテムズの対応は当然のことだと肯いただろう。
「ウィーンへ行くのよ! そこで一流に触れ、一流になるのよ!」
「ああ、はいはい。近所迷惑だからもう少し静かにね」
テムズは酔っ払いに接するように――実際にアリサは酔っている――肯いて見せた。すなわち、酔っ払い本人が納得する必要最小限の注意だけを向けていたわけである。
「賛成してくれるわよね、テムズ! 私の輝ける未来のために!」
「ああ、はいはい。頑張ってね」
「私の輝ける未来にかんぱぁ――」
アリサは空のジョッキを天井へ勢いよく突き上げた姿勢のまま、仰向けに倒れた。そして、少しの間の後に寝息を立てる。
「ふぅ」
テムズは溜息を一つつくとアリサを抱え上げた。さすがにこのままにしておくわけにもいかない。
それから三日間、フロンティア・パブはいつものようにそれなりに賑わい、テムズもそれなりに忙しく、ウェッソンとサリーもそれなりに手伝わされた。そして、四日目。
「あら、ウェッソン、どうかした?」
テムズは深刻そうな表情で手紙を読んでいるウェッソンに声をかけた。
「あ……いや、なんでもない。ああ、なんでもない……なんでもない、さ」
ウェッソンの言葉はテムズへの返事、というよりは自分に向けられたものだった。いつもとは様子の違うウェッソンに、テムズはさらに聞こうと開いた口を閉じた。
「サリーは?」
しばらくたって、思い出したかのようにウェッソンが顔をあげた。
「え?」
「サリーはどこだ?」
「いつものおじいさんのところ。昨日の夜泊りがけで遊びに行くっていってたじゃない。……そういえば、そろそろ帰ってくるころかしら」
「……ああ、そうだったな」
ウェッソンは肯くとそのまま部屋へと向かった。
「あの手紙になにか大変なことでも書いてあったのかしら」
なんとなく心配になって、ウェッソンが座っていた席を見ていたテムズだったが、ばぁん! と勢いよく開かれた入り口の扉に驚いてその方向に顔を向けた。
「! ――って、アリサじゃない。どうしたのよ、そんな勢いで」
「テムズ! ヘレナは!?」
「え? ヘレナ?」
「あ〜、じゃなくて。……今、旅立つわ。私!」
アリサの恰好はその言葉を証明するかのような旅行の装束だった。両手には荷物が入っているであろう鞄。片足を前に突き出している姿勢なのは扉を蹴り開けたためだろうと推測できる。
「旅立つ? どこへ? 旅行?」
「……あれ? こないだ言わなかったっけ? ウィーンに行くって」
「あ……あの時の。あれ、本気だったの?」
おもわず聞くテムズに、アリサは大きく肯きながら答える。
「当然。私のことをなんだと思ってるのよ」
「てっきりいつもの発作かと思ってたんだけど……」
「ふふん。これまでの私は確かに夢を語るだけだったわ。だけど今回は違う。何しろスカウトされたんだから!」
「え? スカウト?」
「そう。私の叔父さん、ウィーンで音楽関係の仕事をしてるんだけどね、あたしには素質があるからウィーンでやってみないかって」
「え、けど、突然、そんな――」
アリサは満面の笑顔だった。失敗を考えていないのか、恐れていないのか。そこには挑戦する者の輝きがあった。
「それじゃあ、行ってくるね」
そして、突然のことに呆然とするテムズが見送る中、アリサは旅立った。
「え、と……まあ、本人がやる気なんだからいいことよね、うん」
結局、テムズはそう結論づけた。アリサなら成功するにしても失敗するにしてもきっと大丈夫だろう。もちろん友達としては成功して欲しけど。と、心の中で加えて。
「テムズ」
一人頷くテムズに、いつのまにか部屋からでてきたウェッソンが声をかけた。
「え? なに?」
顔を向けたテムズに向かってウェッソンは何かを放った。それを受け取って、テムズは驚きの声を上げた。それは、最高額紙幣の束だったのだ。
「俺のツケは、それでたりるか?」
「多分大丈夫だけど、それよりもこれ、どうしたのよ」
「え?」
「ここを出て行く」
「どうしたのよ、突然!」
ウェッソンは何も答えず、外に向かって歩き出す。ウェッソンの手には数少ない荷物の詰まった鞄が握られていた。
「ウェッソン!」
「サリーを、頼む。あいつを、巻き込むわけには行かない」
ウェッソンはテムズの呼ぶ声に立ち止まり、それだけを口にした。そして、そのまま出て行――
「ただいまぁ、ですぅ」
そこにサリーが帰ってきた。いつものように陽気な顔。ウェッソンはその顔を少しだけまぶしそうに見て……黙ってすれ違い、出て行った。
「ウェッソン、どうかしたんですかぁ? あ、これお土産ですぅ」
それに対して何も知らないサリーは不思議そうな顔でテムズにお土産の袋を渡す。中身は紅茶が主流のこの街では珍しい緑茶の葉だ。
「うわっ! 札束ですぅ! どうしたんで――まさか強盗ですかぁ!?」
「サリー……」
「え? ホントにそうなんですかぁ? け、警察に、だけどテムズさんですしぃ……ああ〜、あんびばれんつですぅ!」
一人暴走をはじめるサリーだったが、テムズの次の一言でその動きが止まった。
「ウェッソンが、出て行っちゃった」
「……え? いま、なんて言ったんですかぁ?」
「ウェッソンが、出て行ったのよ。しっかり料金を払って」
「またまたぁ〜。今日は4月1日……じゃないですよねぇ」
「本当よ。たった今! チェックアウトだとか言いながら札束を投げて! サリーの横を通って! 出て行ったのよ!」
テムズのその一言が引き金だった。サリーが身を翻し、駆け出す――とっさにテムズはそのサリーの腕を掴んでいた。
「離してくださいぃ!」
「だめよ! あいつはサリーを巻き込みたくないといったわ! だからっ!」
「それでも行かなくちゃいけないんですぅ!」
サリーはすれ違った時のウェッソンの顔を思い出していた。あれはウェッソンが昔の知り合いに死神と呼ばれていた時の顔だった。いつも死に場所を探していて、ときおり充実した生を羨ましそうに見るあの顔は。
「行かせない!」
サリーは頑なに言い張るテムズを一瞥すると、おもむろにはにわに近寄った。そして、いつも携帯している七つ道具――ただし、確実に七つ以上の品物が入っている――を入れたウエストポーチから金鎚を取り出し、振り下ろす――ぎゃー!――! その中にあったのは、そこそこの紙幣と数多くの硬貨だった。密かにはにわはサリーの貯金箱として活用されていたのだった。
「これで、チェックアウトですぅ!」
「サリー、何を――」
「これでテムズさんとは他人ですぅ! 止める権利はありませぇん!」
「サリー……」
テムズの顔を見たサリーは表情を歪め――それでもテムズの手を振り解いて走り出した。
「何が……どうなってるっていうのよ……」
そして、たった一人、テムズが残された。
「そうだ……アリスト……」
テムズはエプロンのポケットから一通の手紙を取り出した。今朝届いていたものだが、後で読もうと思ってポケットに入れておいたのだ。
『時間がないので簡潔に書く。もう会えないか』
それは、『当たり前』が失われる最後通告だった。友人は旅立ち、居候という絆は切れ、旅人はもう来ない。
涙を流す力すら抜け、少女は、なすすべもなく椅子に座ることしかできなかった。
「あの、どうかしたんですか?」
いつのまにか闇が訪れていた。差し込む月の光りを背に、誰かがテムズに声をかけた。
「……ブレイムスさん」
虚ろな目で、テムズがその誰かの名を呼ぶ。
「何があったんです? いえ、それよりもまずは明かりをつけないと」
テムズの座るテーブルに、明かりのともったランプが置かれた。心配そうな鍛冶屋と、力ないテムズが闇の中から浮かび上がる。
「それで、何があったんですか?」
鍛冶屋はテムズの肩に手を置き、優しい声で聞いた。あまりにも非日常的な雰囲気のせいか、鍛冶屋はいつもとは違って平常にテムズと接することができた。
「みんな……みんないなくなっちゃった……どうしてかしらね、急に、こんな――どうしてよっ! あたしが何かした!? 宿代なんてどうでもいいわよ! 友達じゃなかったの!? あたしは! ただ――」
ダムが決壊するように、突然勢いを増して叫ぶテムズを鍛冶屋は強く抱きしめた。無骨に、ただテムズのためだけを思って。
「ただ、みんな一緒に……」
涙が言葉を覆い、ただ、嗚咽を漏らすだけのテムズに鍛冶屋は優しく囁く。
「大丈夫ですよ。きっとみんな、帰ってきます。それに、僕はいなくなったりしません」
鍛冶屋はテムズを落ち着かせるように軽く背中を叩き、頭を撫でる。そして――
「テムズさんが、好きだから」
嗚咽が止まった。鍛冶屋の言葉は止まらない。
「こんな時にいうのは卑怯かもしれません。だけど、テムズさんの支えになれるなら、僕はどんな汚名だろうと喜んで受け入れます」
落ち着かせるために動いていた手が止まった。ランプの深く温かい光と、月の淡く鋭い光が混ざり合い、二人を包み込む。
「テムズさんは一人じゃない。一緒に帰ってくるのを待ちましょう、皆を」
「……ブレイムス、さん」
「シック、のほうで呼んでください。嫌じゃなければ」
「ええ。シック」
静寂が、二人を祝福していた。
「……やるなぁ」
「……予想外の進展ですぅ」
入り口から、ウェッソンとサリーが中を覗いていた。覗きながらひそひそと話す。
「これで、手紙が間違いだったなんてオチがつくのもなぁ……」
「しょうがないですぅ。間違いだったんですからぁ」
「死神なんていうから俺のことだと思ったんだがなぁ……」
「結構ありふれてるんですぅ、きっと」
ウェッソンの受け取った手紙は『鮮血の死神』への手紙だった。送った相手――漆黒の獣という異名を持つ男――も「フロンティア・パブに死神がいる」ということしか知らず、ウェッソンもまた「獣」という単語から人違いをしていたのである。だが、ウェッソンはその人違いを嬉しく思っていた。人違いでなければ、殺されている確信があった。
「さて、どうするか」
「何事もなかったかのように帰るっていうのはどうですぅ?」
「仕方ない、それで行くか」
なおもひそひそ話を続ける二人の後ろに、鬼が降り立った。いや、正確には両手に鞄を持ったアリサだ。その表情は鬼を思わせるほどの怒気を漂わせていた。
「アリ――」
「――サさん?」
アリサは自分の表情に恐怖心を抱く二人を気にすることもなく、店の中に飛び込んだ。
「聞いてよ、テムズ! 叔父さんってば、音楽は音楽でも教会でパイプオルガンを弾いてたのよ! そんなんじゃ、オペラ歌手になれないじゃない! あーもう、ヤケ酒しかないわ! お酒持ってきてよお酒! ――って、なにやってんの?」
一通りわめいた所で状況に気が付いたらしい。抱き合う二人を見、それから覗き込んでいる二人を見て言った。
「あなたたちも。なにかの流行?」
呆然としていたシックは、やがて笑顔でテムズに囁いた。
「ほら、みんな帰ってきた」
テムズは、涙に濡れた笑顔を見せた。
「あら、今日は一段と賑やかみたいね」
「何かいいことでもあったのかな?」
フロンティア・パブから洩れてくる明かりと歓声にヘレナは笑みを浮かべた。この賑やかさが帰ってきたと実感させてくれる。
「さ、早く帰りましょ、オード」
「ああ、そうだね」
ヘレナはオードの手をとって足を早めた。もう一つの家に向けて。
ちなみにその頃。
「おまちなさい! マイ・ダーリン!」
「いやだぁー!」
アリストは追いかけられていた。追いかけているのは昔親交のあった貴族の令嬢と執事、執事の部下だ。勝手に外に連れ出したらその親に「娘を傷物にされた。責任を取って婿になってもらう」なとどいわれて逃げた。その頃からの縁だ。
逃げるアリストのポケットから数枚の便箋がこぼれ、空に舞う。白紙のはずの便箋の中には一枚だけ書き込まれているものがあった。それは、書き直したために捨てる手紙のはずだった。
『時間がないので簡潔に書く。しばらく会えなくなりそうだ。だけど、きっと帰る』
書き直し前の手紙を送ったことに、誰も気がつくことはなかった。
END