The another adventure of FRONTIERPUB 31
「テムズ……」
太陽の光を柔らかく受け止める蜂蜜色の髪。澄んだ青空よりも澄み、気高い輝きを持つ瞳。口元に浮かぶ微笑はやさしさと凛々しさを兼ね備えている。囁いたのは、まさにテムズの夢見る『王子様』そのものだった。
「王子様……」
テムズは囁き返した。あるいはただ声にならなかっただけかもしれない。
「あっ……」
モデルでさえもうらやましがるような繊細な指がテムズの頬を撫でた。思わず力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるテムズの体を王子様がその繊細さからは想像できないような力強さで抱きとめた。一瞬体を硬くしたテムズだったが、王子様の微笑みに改めて体を預ける。
夢見心地のテムズは、ゆっくりと瞳を閉じた。そして唇が触れ合うその時を、待つ――
待つ――
待つ――
待つ――
待つ――
待つ――
松――
竹――
梅――
「……なんだか、すごく負けって感じよね」
見慣れた自室の天井を見上げながらテムズは誰にともなく言った。窓の外からは鳥の声が聞こえる。まだ陽は上らないが、朝が来るのだろう。
つまりは、そういうことだ。
「今朝は妙に機嫌が悪いように見えますぅ」
「ん、まあ、実際に機嫌が悪いんだろうな」
すっかり冷えた塩辛い風味の珈琲をもてあましながら、ウェッソンはサリーの言葉に答えた。ここ数日は何か問題となるようなことをやった憶えもないし、今日テムズと接触したのは朝の挨拶の時とこのすっかり冷えた塩辛い風味の珈琲を受け取った時だけだ。そのことから結論を導き出すと――
「八つ当たり……なんだろうな」
魔女狩りという忌まわしい風習があったときに魔女呼ばわりされた人々のことを考えながらウェッソンはすっかり冷えた塩辛い風味の珈琲を胃の中に流し込んだ。こういった理不尽なことは、世の中からなくなるべきだと思う――自分の胃のためにも。
「さて、逃げるか」
「ですぅ」
ウェッソンとサリーは立ち上がった。刻一刻と近づいてくる、テムズの八つ当たりから逃げるために。
「ウェッソン? サリー?」
テムズが顔を出すとそこには誰もいなかった。
「……逃げたわね」
テムズは呟き、拳を震わせた。宿代を払わなければ自主的に手伝いもしない二人に苛立ちを覚える。魔女狩りという忌まわしい風習があったときに魔女呼ばわりされた人々のことを考えながら思った。いつの世も真面目に働く女は理不尽な目に会う。世の中から理不尽なことはなくなるべきだわ――私の幸せのためにも。
たまり続ける鬱憤を周囲の家具に発散させるわけにもいかず、テムズは檻の中の熊のようにぐるぐると歩き回った。
「……何でこんな時に限ってあのウサギはいないのかしらね」
怒気――限りなく殺気に近いものに高まったそれとともに吐き出された言葉に、店の隅でうつらうつらとしていた白いウサギがビクリと体を震わせた。赤毛の悪魔の求めるウサギは黒毛だとはわかってはいたが、とばっちりを恐れて逃げることにした。足音を忍ばせて店の外に逃げながら胸中にて思う。魔女狩りのときといい、何故こうも人間は理不尽なのだ。世の中から理不尽なことはなくなるべきだ――我輩のせっかくの余生を楽しむためにも。
「テムズ」
店の隅からウサギがいなくなり、テムズがさらに32回まわったところで店の入り口に人影が現れた。その人影から発せられた声に、テムズは入り口に顔を向けた。今、私の名前を呼ばなかった?
「テムズ」
太陽の光を柔らかく受け止める蜂蜜色の髪。澄んだ青空よりも澄み、気高い輝きを持つ瞳。口元に浮かぶ微笑はやさしさと凛々しさを兼ね備えている。彼女の名を呼んだのは、まさにテムズの夢のなかの『王子様』そのものだった。
「王子様……」
思わず、テムズの口から言葉がこぼれた。その言葉に『王子様』は少しだけ笑みを深くすると突然テムズを抱きしめた。
「テムズ、会いたかった……」
事態が飲み込めずに呆然とするテムズの耳元で『王子様』が囁いた。
「え? なに? 夢、じゃないの……?」
「夢なんかじゃないよ。――これがその証拠」
混乱するテムズに、『王子様』がそっと唇を重ねた。そして、しばし静寂が流れる――
「どう? 夢じゃなかったよね」
『王子様』がそう言ったとき、テムズはようやく我に帰って『王子様』を突き飛ばした。
「ちょっと、突然何をするんですか!」
『王子様』は動じずに微笑みかけた。
「ごめんごめん。嬉しくて、つい、ね」
「つい。じゃありません! 今度やったら本当に怒りますからね!」
「ああ、ごめんごめん。食事、もらえるかな?」
「……少々、お待ちください」
頬を上気させながら厨房に下がるテムズを見送りながら『王子様』はそれまでとは少しだけ種類の違う笑みを浮かべた。
「思ったとおりの人だ。はるばる旅してきたかいがあった」
「え? 何か言いましたか?」
ふいに顔を出すテムズに『王子様』は慌てるそぶりも見せずに微笑みかけた。
「君の手料理が楽しみだって言ったんだよ」
「からかわないでください!」
そう言って勢いよく厨房に下がるテムズに、『王子様』はその笑みをまた少しだけ、大きくしてみせた。
「あたしのこと、どこで聞いたんですか?」
食事の後、紅茶の香りを楽しむ『王子様』に別のテーブルを拭いていた手を止めてテムズが聞いた。
「え?」
「会いたかった。って言いましたよね? それってあたしのことを前から知っていたってことでしょ?」
「驚いたな。思ったよりも冷静だったんだね」
『王子様』は心持ち目を大きくして驚きを表現したあと紅茶を一口分だけ含み、喉に滑らせた。
「君に縁のある人から手紙を受け取っていてね。そこによく君のことが書かれているんだ」
「わたしに縁のある人? 誰ですか?」
『王子様』はもう一口、紅茶を啜った。
「秘密、にしておこうかな。……どうしてって顔をしてるね。君の悩む顔が見たいからっていうことでどう?」
テムズは少しだけ頬を膨らませて見せた。それを見た『王子様』は幸せそうに微笑む。
「可愛いなぁ」
『王子様』の言葉に、テムズはそっぽを向いた。動悸が早くなることを押さえられない胸が、疎ましくも心地よくもあった。
バターン!
突然、すさまじい音とともに扉が弾かれるように開いた。
「おう、メシだ! さっさと用意しな!」
その男にテムズは見覚えがあった。何度か店の料理に難癖をつけたことのある男だ。最後に見たのは踵落しで床に沈めた時だったか……。あの時はウェッソンが「やれやれ」などといいながら後始末をしていた。
「ちょっと、あんたは出入り禁止にしたはずよ!」
「おいおい、この店は客を追い出すってのか! こいつは少しばかり接客態度ってのを教えてやる必要があるみてぇだな!」
「また痛い目に会いたいの?」
テムズは仁王立ちになって言いがかり男を睨みつけた。言いがかり男は怯みながらもテムズを睨み返す。
「へ、へん。できるもんならやってみな。おい! お前ら!」
言いがかり男の合図とともに数人の男たちが店の中になだれ込んでくる。それもあきらかに場慣れした男たちだ。
「ちょっと! 卑怯じゃない!」
「あん? きこえねぇなあ。悲鳴でもあげてくれりゃあきこえるかも知れねぇがな」
男たちは意外に揃った声で笑った。
「何でこんな時に限ってウェッソンがいないのよ……」
「当たり前だ! いないことを確認したから来たんだからな!」
テムズの呟きに言いがかり男が胸を張って言った。そのあとに例によって声を揃えて笑う。
「聞こえてるじゃない。やけに情けないことを威張ってるし」
男たちの笑いが凍りついた。だが、気を取り直したように言いがかり男が叫んだ。
「やっちまえ!」
男たちが一斉に動き出した。テムズも身構えるが、凌ぎきる自信はなかった。自分は弱くはないと思うが、『戦い』の中に身を投じて生き残れる自信はない。こんな時に限ってあのうっとおしい黒ウサギもいない。
突如、男たちの一人が激しい回転とともに床に沈んだ。テムズの前にはいつのまにか『王子様』が立っている。
「やれやれ。この国の男は礼儀ってものを知らないのかい?」
呆気に取られる男たちの間を『王子様』が無雑作に歩き回りながら顎を叩いていった。最後に言いがかり男の前に立つ。
「醜い奴だね」
「なっ――」
言いがかり男が何かを言おうとした瞬間、『王子様』が言いがかり男の顎を叩いた。それだけで言いがかり男が床の上に崩れ落ちる。それを合図に男たち全員が白目をむいて床の上に倒れていった。
「大変だったね、テムズ」
『王子様』がテムズに微笑みかけた。それをテムズは唖然とした表情で見返すことしかできない。
「テムズ!」
「テムズさぁん!」
ウェッソンとサリーが飛び込んできた。床に倒れた男たちに気がついて足を止める。
「チンピラどもが店に向かっていると聞いて急いできたんだが……お前がやったのか?」
「……そい」
「え?」
テムズの呟きが聞こえずにウェッソンがテムズに近づいた。そして、その顔を見て、ウェッソンは凍りついた。
「遅い!」
もう一人、男が床に沈んだ。
「……ふぅ。ところでサリー、何に驚いてるの?」
体から力を抜いて、テムズはサリーに声をかけた。サリーは店に飛び込んできたときから動きを止めている。その顔には、驚愕の――いや、恐怖の表情が張り付いていた。そして、視線の先には『王子様』。
「?」
困惑するテムズの傍で、『王子様』がにこやかにサリーに声をかけた。
「やあ、サリー、久しぶり。けど、ちょっとタイミングが悪かったかな」
言葉と共に『王子様』がサリーに気が付いたので、テムズはそのときの表情を見ることができなかった。サリーが「ひぃっ」と息を飲んで腰を抜かしたその瞬間の表情を。震える体を懸命に抑えながら、サリーが言った。
「な、何でお姉ちゃんがここにいるんですかぁ!」
「え?」
サリーの言葉にテムズは『王子様』の後姿を凝視した。お姉ちゃん? 誰が? 『王子様』が? だって『王子様』は……え?
「あ〜あ、今日はここまでかな」
『王子様』はテムズのほうをクルリと向いた。その顔には柔らかい微笑が浮かんでいる。
「また来るよ。今度は君を花嫁として迎えに来たいね」
混乱の中にあるテムズに背を向け、『王子様』が店の出入り口に向かう。途中でサリーの耳元になにやら囁き、もう一度振り返って見せてから『王子様』は店から姿を消した。
「こうして、お姉ちゃんは帰っていった。今回はお姉ちゃんにしては派手な問題を起こすこともなく、安堵している。だが、テムズさんに秘密を持つことは私の心に大きな負担を与えていることは確かだ。お姉ちゃんが帰り際に囁いたあの言葉さえなければテムズさんが納得できるまでお姉ちゃんの非常識さを教えることができるというのに……魔女狩りという忌まわしい風習があったときに魔女呼ばわりされた人々のことを思う。こんな理不尽なことは世の中から無くなるべきであろう――私の心の平安のためにも」
日記を閉じるとサリーは深い溜息をついた。
「ボクのことは秘密だよ。サリー」
姉が帰り際に囁いた言葉に身を震わせる。喋ったりしたら――
サリーはその夜はしばらく眠れなかった……
END