The another adventure of FRONTIERPUB 29

Contributor/辺境紳士
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霧笛の探偵



 この街から霧が晴れることはあまりない。
 特に朝方のそれは濃厚なミルクを連想させる粘りを感じさせる。朝日と共に散りはしても、街の住人の脳裏をつねにかすませ続ける霧。
 サリサタ・ノンテュライトは常にそのイメージを信じていた。この霧の中では物語られている犯罪と正義が錯綜していると。
 この霧の中では誰もが探偵となり、
 この霧の中では誰もが犯罪者となり得る。


 そんな中で――
 鍛冶屋は短く息を吐いた。震えるそれを抑える事もできないまま、地面に倒れ伏した標的を見据える。
 早朝の濃い霧の中でも路地に広がった血溜まりは隠れず、その持ち主であった黒髪の男は動いていない。死んでいるのは確実だった。
「…………」
 右手のリボルバーを腰に戻す。手や銃にも血糊が貼り付いていた。
 初撃で片が付かず、もみ合いながら四発撃った。衝撃を指が覚えている。衝撃が、指と躯とを震わせ続けている。
 彼は狭い路地の中、焦りに周囲を見渡した。
 逃げなければならない。もうすぐ日が昇り、霧が晴れるからだ。
(……でも……)
 しかし、この霧が晴れたとしても……
 もう彼には後戻りができない。


 そんな中で、フロンティア・パブはいつもの通りいつもの活動を開始した。それはおおむね、ミルクティーとトーストの香気で示される。
 それを三セット満載したトレイをカウンターに置いて、テムズは金髪の少女と向き合いに座った。朝日が射し込むさほど広くもない店内には、彼女達二人だけ。……いや、それとうさぎが一匹。
 そこでテムズは気付いた。
「あれ? ウェッソンは?」
「昨日出かけるって言ってそのまんま。帰ってきてませんよぉ」
 早くも鹿撃ち帽をかぶり始めているサリーが答えてくる。
「あんの甲斐性なし……朝ご飯作り過ぎちゃったじゃない」
 最近、もう一人の居候は行く先も告げずに出掛けることが多い。まったく、保護者がそんなことでどうするのか。
 だが、保護されているサリーは全く気に掛ける様子もない。彼女はすでに二皿目に手を伸ばしていた。
「大丈夫ですぅ。こーして無駄にはしませんからぁ」
「……そーね」
 テムズもそれ以上気に掛けるのはやめた。
 表を見ると、完全に霧が晴れている。今日もいい天気。平和な一日が始まるのだ。


 平和に時間は経ち、少ない皿を完璧に洗い終えたテムズが一息入れた頃。
「見てみて下さいぃ! これ!」
 サリーが手招きしている。
「ウェッソーン、サリーが呼んでるわよー……っていないのね」
「だからテムズさんが代理ですぅ!」
「……なに? どーでもいーから早く済ましてね」
 カウンター席に近づくと、サリーは手に持った新聞をばさあっと広げてきた。目をそらすと、包み紙も開けられていないフィッシュ&チップスが転がっているのが見える。
(ふうん。珍しい)
 テムズは新聞に顔を向け直した。サリーが隠れて見えないので、そっぽを向いていても良かったわけだが。
「『速報・パディントン・スクエア内路地の惨劇!』それは本日早朝、混迷の霧の中で繰り広げられた。被害者(男性・身元不詳)は散歩だろうか、一人狭く薄暗い路地を歩く。その先に待ち受けるものが悲劇と破滅だと知らずに――」
 こちらが読むスピードと全く同調させて、サリーが朗読してくる。
 ぱっと見て暗記したらしい。意外な特技に感心したので、話の内容は忘れてしまったが、ひとまずテムズは聞いてみた。
「つまり?」
「殺人!! じーけーんーでっ・すぅぅぅぅ!」
 近所の診療所にまで聞こえそうな大声に、テムズは焦って店内を見回す。幸い、客はいない。
 ……と思ってしまい、ちょっぴり鬱が入った彼女はうめいた。
「お昼っからやなトピックで盛り上がんないでよ……だいたい、なんでもう新聞が出てんの?」
「やだなぁ知らないんですか? 『まるまるタイムズ』ですよぉ。その朝の出来事をつぶさに脚色しつつ伝えてくれる、探偵御用達の高級紙!」
 サリーは元気にしゃべった。
「聞いたこと無いなあ。ホントに売ってるの?」
「もちろん。公園の隅っことかで」
「三文タブロイドじゃない! あんた、お小遣いあげてんのに何に注ぎこんでんの!?」
「えー。だって探偵御用達ですよう」
 その彼女の目を見ると濁りの一点もなく、真摯にきらめいているのである。
「……そりゃ、あんたみたいな子にはもってこいでしょーね……」
「というわけで、このラインから情報を得たわたしは事件解決へと乗り出すんでしたっ! アマチュアはお嫌い? でもわたし、これっぽっちもくじけませんことよ。これからはフリーターの時代ですぅ!」
 がたんっ!
 とカウンターから飛び出したサリーを、テムズは黙って見送った。いろいろと悟ったり諦めたりした彼女にとっては、いつものことである。
 ひとまず手つかずの昼食をうさぎに押しつけて、テムズは外を見た。
 客は居なくとも、青い空。きっと平和なまま一日は暮れるだろう。


 王立警察本部の、北側地下室。
 署内の人間にカタコンペと称されるこの一角に近寄るような物好きは変態か、もしくはその手の変態を捕まえたがる偏執狂の探偵くらいしかいない。
 空気としての実際以上に重い何かを感じがちになるこの陰湿な小部屋に立ってはいたが、レドウェイトは物好きではなかった。これで飯を食っているのである。
 部屋の中で唯一塞がっている粗末な寝台を見下ろして、彼は背後の男に問いかけた。
「……こいつが三十分前、非番中の俺を叩き起こした張本人なわけだな」
「まあ、そうです。警部」
 部下が示した死体を、レドウェイトは観察した。いくら見ても慣れることはないが、動じていい立場というわけでもない。毎回倦怠と共に感じる妄想を軽く振り払って、頭の中で情報を並べ上げる。
 男。20か30か、いまいち分かりにくいがそんなところか。自分とさして変わらない若造が早い眠りを迎えて、こうして転がされているわけだが、そんなことはどうでもいい。
 銃創が三つ。急所ではない、てんでばらばらな箇所に当たっている。殺人犯はさして手練れというわけではなさそうだったが、それがこの死体にとって良かったわけではないだろう。
「被害者の身元は?」
「いま当たっています。現場近辺で見知っているという人間はまだ見つかってませんね」
「パーク西に住んでるような連中はこの手の事件に関わりたくないだろうさ。東の住人なのか、あるいは外の人間か……」
「黒髪だからですか? あまり見ないって言っても、結構いますよ」
「いいや。外から来たガンマンだったら、こうして撃ち殺されても不思議じゃない気がしてな」
「ガンマン? 判るんですか?」
 レドウェイトは軽くかぶりを振った。寝起きの頭でこの部屋にいると、こういうものも信じたくなってしまう。
「勘かな」
「なんですかそりゃ」


 何事もなく時は過ぎ、フロンティア・パブの店内が赤く染まる頃。
 入口のドアが開いた。
 からんからん。
「お帰りなさい。ほら、ご飯できてるよ」
「……捜査は順調かい、とか聞かないんですかぁ?」
「『名探偵は過程は語らず。語っていいのは犯人指名の時だけ』」
「解ってるじゃないですか♪」
 棒読みしてやると、サリーは満足げにいつものカウンター席についた。
「そりゃ五回も聞かされたらね……」
 聞かなくても解っている。何も進展していないのだろう。
 そんなサリーの前に皿を置いてやりながら、ふと気になったテムズは違う質問を口にしかけた。
「ねえサリー」
「おっと、それ以上は言わなくてもいいぜ。ですぅ。『なんでこの宿には一人もお客さんが来なくて、わたしは才色兼備で王立警察も秘密裏に信頼するとはいえひときわエキセントリックな探偵が食事をするのを眺めていないといけないのかしら』……お客さんがいないのは今に始まった事じゃありませんから、テムズさんは前向きに生きるべきですよねぇ」
 ひとまずテムズは、質問を中断した。代わりに拳を形作る。

「うぅ……頭は駄目ですぅ。灰色の脳細胞が死んじゃうじゃないですかぁ」
「二十回くらい繰り返してるのに学ばないのは、ある意味頑丈な脳なんじゃないかしら?」
 帽子の上から頭を抱えてうめくサリーに、テムズは少し微笑ましい気分になった。
「ともかくよ。彼、最近来てないわね」
 店内を見回すジェスチャーに、サリーも同調して視線をきょろきょろさせる。
「どの彼ですかぁ?」
 テムズは不覚にも、言葉に詰まった。
「……ほら、あの人よ。ウェッソンと仲良しの」
「あー、鍛冶屋君」
「あんたね……名前くらい覚えなさい」
「てへへー。何て言うんでしたっけ?」
「え?」
「鍛冶屋君の名前ですぅ」
「…………」
 テムズは再び、店内を見回した。もちろん、誰もいない。
「どーしたんですか?」
「えーと、その、それは置いておきましょ? つまり……」
 からんからん。
「お客さんが来たからね♪」
「絶対忘れてますねぇ!?」
 心の中で認めておいて、無視しておいた。


 自宅へと戻るのに多大な決断を要したが、夜闇に乗じてなんとか部屋の中に転がり込むことは出来た。もしくは、概して遅れがちになる王立警察の初動に救われたか。
 鍛冶屋は疲れ切った身体を、椅子に寄り掛けさせた。
 窓から見える小さい庭には、バラがのんびりと咲いている。
(新大陸に逃げようか……)
 さして稼業が繁盛していたわけでもないが、多少の蓄えはある。ギルドに電信でも打っておけば、あとは一切の痕跡も残さず街を去ることが出来るだろう。
 そして、あの男との関係を探ることは警察には不可能のはずだ。恐らく、自分と彼を知っている人間が把握している以上のことは。
 大戦に由来したあの因縁は、それほど間を置かずに膨大な数の事件に埋もれてしまうだろう。過去の闇は、霧の中で全て断ち切った。この国を脱して、新たな人生を始めることになんの問題もない。
(……)
 現在に未練があるというわけでもない。だが。
(せめて、もう一度……)
 まだ鮮やかな記憶。
 ふと浮かんだ彼女の笑顔が、鍛冶屋の胸中を僅かに刺す。
「もう一度だけ……会っていいのだろうか……?」

 
 路地裏同然の外は、ガス灯もそれほど照らしてはくれない。天気が良かったのは夕方までで、月も隠れてしまっているのが判った。
「そろそろ帰ります。明日も早いですし」
 その言葉に、ふと脇にやっていた視線を戻す。
「そう? まあ……仕事じゃあんまり長居させられないか。大変よね、お互い」
 カウンター席から立ち上がった客に笑いかけて、テムズは店内を軽く見渡した。午後九時。相変わらず店内には客の姿がいない。居候も。
「サリー?……変ね。さっきまでいたんだけど」
 首をひねる。客は気楽に応じてきた。
「きっと疲れて休んだんですよ。昼間もなんだか走り回っているのを見かけたし……子供って羨ましいですね」
「そうね」
 テムズは微笑んだ。若干それは乾いていたが。
(あの子、確かそろそろ17よね……)
「それじゃあ、また」
「ええ、ブレイムスさん。また来てね」
 軽く扉を鳴らして、彼は去っていった。これで客が完全にいなくなった。
「んじゃ、仕込みでもやっちゃいますか……」
 軽く伸びをして、テムズは台所に向かいかけた。もう溜息すらつく気にもなれない。
 すぐ足を止める。
 なんとなく、サリーがいたテーブル席が(何故かつまらなそうにこちらを見つめていたのは覚えている)目に留まった。
 空になった皿と見慣れない夕刊(タイトルは『超タイムズ+1』と読めた)、そして一枚の紙片。
 手に取ってみる。雑な字で数行記されたそれは。
「…………サリー!?」
 扉の鈴が鳴る。
 その人影に向かって、テムズは顔を上げた。焦燥をそのままに浮かべて。


 晩夏と言え、朝になると冷え込みはそれなりになる。幾度となく繰り返しこの地を包んだ濃霧が、薄明るい公園を白く濁らせる。
 この時間を待って、鍛冶屋は家を出た。駅への行程では、ここを通過するのが一番早い。
 早朝では街が誇る愛犬家達も起きだしていないのだろう、人影は全く見られない。
 いや、何処かの気の早い新聞売りがラックを組み立てているのが見えたが。
(誰が買うってんだろう)
 何となく気になったが、自分も買う気にはなれない。コートの襟を立て直して、足早に歩を進める。公園から駅林道へと踏み出したとき――
 唐突に、子供とぶつかりかけた。道の脇からふらふらと(まるで寝不足のように)飛び出したその少女は、二つお下げにした金髪をくるくる回しながら公園へと消えていく。
(子供は元気だな)
 彼は苦笑した。自分が子供だった時代は既に薄くぼやけて思い出すこともできない。正直で、純真だったような気がする。しかし、幼年期が後の運命を呼び込んだとすれば、それもけして恩恵ではなかったのだろう。
 純真で、単純なまま大人になったために。救いがたい因縁も抱え込んでしまった……
 ふと想念にかられて、鍛冶屋は目を閉じた。
 現在の自分は何なのか。
 形の無い過去以上に、自分は不安定な存在になってしまっている。現状をもたらしたあの事が歪みだったのだとしたら、自分もまた混沌にひずんでいる。
 過去は過去であるために、取り返しは付かず思い出すこともできない。だが、今の自分が少年時代の輝きを保っていたとしたら……
「あなたが犯人ですねぇ〜!」
 霧に濁りきった現在に、なにより明快な答えを出すことができただろうに。例えばこんなふうに。
「まったく、その通りさ……」


 朝の公園が凍り付いた。
 白霧の流れすらも、そのままに閉じこめて。
「えーっとぉ……あなたが、ホントに、犯人ですねぇ?」
 サリーは呆然と繰り返した。
 目の前の青年……鼻すらくすぐる濃霧で顔までは確認できないが、ともかく青年はゆっくりと呟いてきた。
「な……何を言っているんだい。君は」
「いやだから、あなたが犯人ですかぁって。それでぇ、まったくその通りさって……聞きましたぁ」
「それは……聞き違いだろう? 僕は急いでいるんだ。遊ぶなら他を……」
 軽く嘆息して、青年はきびすを返す。
 その時には、もう手が反応していた。弾みで握っていた朝刊が放り投げられる。
 びしっ!
「わかりましたぁ! あなたがパディントン路地銃殺事件の犯人ですぅ!」
「どうしてわかったんだ!?」


 白霧が凍り付いた。
 朝が訪れる公園の光をも、そのままに固まらせて。
 反射的に開いた口をそのまま、鍛冶屋が言葉を失っている間に、眼前の少女……よく見えないが、ともかく少女は俄然気を取り戻したらしい。
 こちらの眉間を指した手をそのままに、口早にまくし立ててきた。
「……一度ならもちろん、二度まで聞いちゃ五人のたてがみ審問団もファイナル・アンサー! まんまと探偵の前に真実を現しましたねぇ!?」
(まずい)
 ようやく頭が回り始めた。
 よりにもよって。野次馬のようなこの少女に自白をしてしまったらしい。
 カートゥーンのような展開。これが因業というものだろうか?
(逃げないと――)
 だが、一瞬の連想が判断を妨害した。
 少女の声を、聞いたことがあったのだ。どこかで。誰だろう?
 そんな中、時間だけは凍ることなく動いていた。
 朝の光が、ひときわ鋭く白霧を照らす。


 ひとまず突きつけた手をそのままに、最後まで言い切っておいた。
「あなたにも、植民地とか新大陸での辛い記憶があるでしょぅ? 洗いざらい吐けば警察にはちょっぴり黙ってあげますぅ! なに、探偵には真実が報酬さ。建前はそうですもん」
「…………」
 その時、不意に霧が晴れた。
 不明瞭だった視界が晴れて、彼女は見た。
 事実を。
 探偵ならば、当然推理してしかるべきだった真実が。
 全く不甲斐ないことだったが……、今の今まで気付かなかったのである。
「あっ」


(顔を見られてしまった……!)
 鍛冶屋は愕然と認識した。動転の余り気付かなかった……この事態では、目撃者を殺すしかない。
 早朝の公園はこういうことにうってつけになってしまっている。苦々しく判断した彼は、それ以上の躊躇を捨てた。
 すでに手は反応している。握っていた銃を、既にはっきり見えている少女に向けた。
 彼女が誰なのかは考えないことにした。
 これが終われば、この街の記憶をすべて消すことになるのだから。


 解っているこの真実を、認める気になれなかった。
 認めてしまえば、絶対的な何かが終わってしまう予感がした。
 だが。
 まだ自分の右手が上がっている。探偵は事件が解決するまで、決して手を下ろしてはならないからだ。
(……つまり、事件は解決してない)
 自分は探偵なのだ。
 サリーが一瞬の空白から立ち直ったときには、彼も右手を差し出していた。
 その先には銃口。
「あ、ちょっと待って――」

 
 軽い炸裂音が空気を叩き、
 青年の手から銃がはじき飛ばされた。サリーの背後から黒髪の男が飛び出し、突っ立っている青年を蹴り飛ばして、石畳に組み伏せる。撃ち抜かれた鉄塊が反対方向に落ちて、重い金属音を立てた。
 一瞬だった。
「大丈夫か、サリー?」
「ウェッソぉん……」
 サリーは間の抜けた声で、その他称保護者の名前を呼んだ。
 ウェッソンは気を失った青年の顔をちらりと覗いてから、釈然としない顔で振り返った。
「まあ、なんやかや聞きたいことはあるんだが……。こいつは誰なんだ?」
「……犯人ですぅ〜」
 彼女は右手と、ついでに腰を落とした。
 ようやく、犯人が銃を持っていたことを認めたからだ。


 昼にようやく帰ってきた居候二人から事情を聞いて、テムズは直ちに接客を放棄した。
「ど・お・し・て・『推理ショーに行って来ます。ガチョウのコールドディッシュを用意してくれたまえ』とか書き残して飛び出したりしたのよー! 殺人犯でしょ銃殺犯でしょ!? 銃持ってるに決まってるじゃない! 解らなかったの!?」
「えー、だって。そもそもわたし探偵ですしぃ。探偵って殺されませんよ、けっこう」
「あんたはいっぺん死になさい! ……っ」
 サリーの眼前にティーセットを叩き付けて、テムズはもつれかけた呼気を抑えようとした。始めた側から失敗していたが。
「うう……ぐすっ。ホントに死ぬかと思っちゃったじゃない。怪盗と勝負するとか、財宝を探しに行くとか、殺人犯を捕まえるとか、そんなこといつものことだってのに……ホントにそんなことになっちゃったら、どうする気なのよ……ひっく」
「て、テムズさーん?」
 ミルクティーをぽたぽたさせながら呼びかけるサリーを無視して、うめく。
「……宿代だって、今まで二回くらいしか、貰ってないのに……ぐすん。そもそも、おとといからサリーをほっぽってあいつは何を……」
「ああ悪い。カードの負けが込んで泊まってた」
「あんたは今死になさい!」
 しれっと言うウェッソンに、テムズはティーポットを投げ付けた。
「だいたい、ゆうべ帰ってきてからサリー探しに行ってたんでしょ!? なにやってんのよ!」
 ポットをすんでの所で受け止めて、彼はミルクティーと冷や汗をぽたぽたさせながら続けてきた。
「俺も今朝まで探しっぱなしだったんだ……こいつは猫より見つけにくいぞ。まあとりあえず、気持ちは解らんでもない。反省してる。今度から気を付ける。今回はサリーが無事で良かったじゃないか。うん。まあとにかく忸怩としているから、次こそはこのような不祥事で危険が危なくないように――」
 バケツでウェッソンは黙った。
「ごめんなさい」
「すみませぇん」
「…………。ま、許してあげる。サリーは今後危ないことは控える、ウェッソンは賭事を一生やらない。いいわね?」
「はぁい」
「え……?」
「いいわね」
「善処する」
 大きく息を付いて、テムズは回収したティーポットで再び紅茶を入れ始めた。
 そして、彼女が少ない客の相手を再開している間に、サリーとウェッソンは昼食と新聞をあさっている。いつものこととは言え、この居候達は。
「……それにしても、本当に捕まえちゃったのよね。よく犯人が分かったじゃない」
「そうそうそう、聞いて下さい!」
 水を向けると同時に、サリーはサンドイッチから顔を上げた。
「これこそまさに探偵推理! ザ・ディティクティブ・ストーリィ! そもそも今回の捜査はまるまるタイムズ、超タイムズ+1、ズームタイムズアウトの三紙の情報のみで成立したんですぅ」
「あのタブロイド?」
「そう。たったの一日で真実に足る情報を提供してくれる探偵紙シリーズ。まるまるタイムズで事件の概要を知ったわたしは、超タイムズの『犯人は明朝ウェホース・ガーデン駅から逃亡を図るであろう』という社説に従って張り込みに向かいましたっ!」
 サリーの瞳は濁りの一点もなく、きらきらと真摯にきらめいている。いつものことだ。
「そして翌朝、ズームタイムズの風水占いが示す『はぐらかす彼に要チェキ。恋愛にこじつけられるチャンス!?』を思い出したわたしは見事、犯人を特定したのですぅ! 凄いでしょう!?」
「確かに凄いわね……」
 もう冷たい目をする気にもなれなかったテムズは、素直に感心した。
 その時、客の一人が席を立った。
「じゃ、休み時間も終わりますし……僕はこれで」
「あ……ごめんなさい、変なところ見せちゃって。また来てね、ブレイムスさん」
「えーっと、すぐ夕方来ます」


 その頃、フロンティア・パブからほど近い診療所で。
 いつもの通りうっかりして、裏返ったままだった開業札を急いで直しに行った看護婦のアリスは、玄関先に何かが置かれているのを見つけた。
 ありふれたバラの花。摘んでから間がないのか、瑞々しい花弁が赤く映えている。
(誰が置いていったのかな……?)
 不思議には思ったが、ひとまず彼女はバラを拾い上げて、中に戻っていった。


 事件の解決というものは、爽快には行かない。
 大概は犯罪とその情念に引きずられて、嫌な味を残す。もちろん今回も、その例に漏れない。
「敗戦国の、密偵に通じた過去か。その男としては、まだ国家に頼る気が起きなかったんだろう」
(……普通に蹄鉄を打っていた人間だというのに)
 レドウェイトは沈鬱にひとりごちた。大陸を揺るがした先の大戦から、さほど経ってはいないのである。
 過去のものになったと思いこもうとしたのは自分だった。
(この手の事件が、嫌でも教えてくれる。因業と言うのかね)
 沈鬱は顔に出さず、一つ息を付く。
「だいたい解った。で、奴を『偶然』持ってきた善意の市民というのは誰だ? 一応、報賞しないといけないからな」
「それがですね……」
 もったいつけたように部下が書類を読み上げた。王立警察に足を踏み入れる人間は大抵、書類にサインすることになっているのである。
「……私立探偵だと……?」
 まだ年若い警部は、険悪にうめいた。
 先程より、気分はむしろ悪化している。
「凄いですよね……こっちは初動段階と言うのに、犯人を捕まえたんですよ。探偵小説みたいですね」
「くそっ。こんな事だから、アマチュア共が増長するんだ」
「私たちが言えますかね、それ」

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 玄関脇の指定席で新聞を読んでいたウェッソンはにやりとして、目の前を通り過ぎたその青年に囁いた。
「名前、覚えてもらったようだな?」
「え!? いやその、何言ってるんですか!?」
 あからさまに動転した様子の客だったが……
 やがて気を取り直した彼、シック・ブレイムスは窯に焼けた顔に満面の笑みを浮かべた。
「……嬉しいです、ホント」

おしまい



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