The another adventure of FRONTIERPUB 22(Part 2)

Contributor/ねずみのママさん
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赤い悪魔と神の加護(後編)


 テムズは目を覚ました。最初、見慣れない場所にいるのが不思議だったが、すぐに思い出した。ジェフリーの病院で、裏口を見に行ったとき、背の高い、黒ずくめの服の男がいきなり襲いかかってきたのだった。――まだみぞおちのあたりが痛い。
 彼女は部屋を見回した。自分が寝かされていたベッドと、テーブルと、椅子。この感じは、宿屋の客室のようだ、とテムズは思った。ドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。窓から外を見ると、この部屋はどうやら3階にあるらしいことがわかった。見下ろした通りには見覚えがない。
 あれから何があったのだろう。どうも自分は誘拐されたようだが……誘拐? なぜ? あの男はいったい何者?――そしてジェフリーは……?
 ここから逃げることはできそうにない、と諦めた彼女はベッドに腰をかけ、溜息をついた。
 ドアがガチャガチャと音を立て、開いた。一組の若い男女がはいってきた。まず目を引いたのは、少女の真っ赤な髪の色――テムズの髪もかなり赤いほうだったが、それと同じくらい見事な赤毛が、肩につくくらいのところで切りそろえてあった。
 男のほうを見たとき、テムズは胸がどきん、となるのを感じた。彼の容姿は思いっきり彼女の好みだったのだ――つまり、背の高い、金髪碧眼の美男子だったのである。
「お目覚めかい、お嬢さん。悪いがしばらくここでおとなしくしていてもらうぜ」
と、彼は言った。
「あなたいったい何者? なぜこんなことをするの?」
 テムズは尋ねた。
「私を誘拐したって、身代金は手に入らないわよ。うちはお金持ちじゃないもの」
「身代金よりもっといいものが手にはいるのでね。まあ、恨むなら俺じゃなくて恋人を恨むんだな。あいつがすぐにあれを渡せば、おまえさんをこんなところに連れてくる必要もなかったんだ」
「恋人?」
 テムズは一瞬、誰のことかと思った。しかしすぐに、ジェフリーとの仲を勘違いされているのだと気がついた。
「違うわよ、彼は――」
「やつがあんたを見捨てないように祈るんだな」
「……」
 テムズは黙ってしまった。恋人ではないが、ジェフリーはテムズを見捨てるような人間ではない。しかし、彼は今怪我をして動けないのだ。いまごろひとりでどうしているだろう……。自分の身より、彼のことが心配になっていた。
 男は赤毛の少女に向かって言った。
「ジェーン、後は任せる。俺は準備をしてくる……ああ、もう勝手なまねはするなよ。わかっているだろうが、上に知れたらただじゃすまないからな」
「わかったわ」
 少女はふてくされたように答えた。
 部屋を出ていこうとする男に、テムズは慌てて声をかけた。
「待って! あなた……あの……」
「なんだ?」
 聞いておかなくてはならない。再び胸の鼓動が早くなったテムズは、ややうわずった声で尋ねた。
「あなた、数年前に……川で溺れそうになった少女を助けた、なんてことはなかった?」
 背の高い金髪碧眼の美男子は、不思議そうな顔でテムズを見た。
「いや、あいにくおれはカナヅチなんだ」
 そう言って彼は出ていった。「あの人」との感動の再会はまた夢と消えた。テムズはがっかりして溜息をついた。でもまあ、誘拐犯が「あの人」じゃなくて、よかったのかもしれない。
 部屋には赤毛の女がふたりきりになった。
「あなた、ジェーンっていうの? もしかして……ジェフリーを刺したのは……」
「よく知ってるわね。あのとき邪魔をしてくれなければ、今頃あいつはあの世にいってたのに」
「どうしてあんなひどいこと……」
「ひどい? 彼がしたことを思えば、まだまだ甘いものだわ」
 ジェーンは淡々と言った。
「――いったいジェフが何をしたというの? あんないいひとはいないわ」
「いいひとですって?」
 ジェーンは鼻で笑った。
「あなたは何も知らないのよ。善人面したあいつにだまされているのね、かわいそうに」
「……なんですって?」
 決めつけた言い方にムカッときて、テムズの声も怒りを含んできた。ジェーンはそれには構わず言葉を続けた。
「あいつはね、組織を裏切って大切な研究成果をひとりじめしたのよ。そして、そのとき私の兄を殺した」
 テムズは驚いて相手の顔を見つめた。
「うそ……」
 組織? 裏切った?……いったい何の話だろう……。テムズの頭の中は、一瞬真っ白になった。
「勝手に嘘だと思っていればいいでしょ。でも兄はもう帰ってこないわ」
「あのひとが人殺しをするなんて、考えられない――だって、人の命を救うのが医者でしょう。なにかのまちがいよ――そうよ!」
 テムズはジェフリーが言った言葉を思い出した。
「彼はあんなにされても、あなたのこと、かばってたのよ。警察に知らせよう、って私が言ったら、彼女は誤解しているんだって……そう言って……だから通報はしていないの」
「誤解……?」
 ジェーンの顔色が変わった。
「本当に誤解だったら、どんなにいいか――兄さんを殺したのが彼でなければ……」
「彼に会って誤解を解いて。お願い」
「そんなこと――できるわけないでしょう」
「だって……」
「彼がやったなんて、信じられなかった。とても優しかった、もう一人の兄さんみたいだったあの人が……でもみんなが言っていたから、私は――」
 そう言いながらジェーンはぽろぽろと涙をこぼした。さっきの態度とは全然違う。テムズは今の言葉が、彼女の本心なのだろうと思った。
「……ジェーン……あなた本当は……彼のことが好きなのね」
 ジェーンはこくりと頷いた。 
「――そうよ。好きだったから、余計に憎かった。絶対許せなかった……だけど夕べ……」
 声を震わせながら、彼女は言葉を続けた。
「私の顔を見たジェフは、全然逃げようとせず逆に近づいてきたわ。やましい気持ちなんか少しもないみたいに」
「だから、きっと何かの間違いよ。私なら誰が何と言おうと、ジェフを信じるわ」
「……でももし騙されていたとしたら?」
「そのときは……そのときよ」
 テムズはまじめな顔で言った。ジェーンはだまってテムズの顔を見つめていたが、やがて涙を拭き厳しい顔になって、
「確かめなくちゃならないわ」
と独り言のようにいいながら、部屋を出ていった。
 彼女がジェフリーと仲直りできるように、とテムズは祈った。


「その青い屋根の大きな建物ですね」
 鍛冶屋の青年は緊張した声でウェッソンに言った。
「そこの宿屋の3階に泊まっているそうです。修理ができたら連絡するようにと言われました」
「そうか。それじゃ、行くか」
 ウェッソンと鍛冶屋は宿屋に入った。鍛冶屋は受付けの女性に話しかけ、部屋の番号を確かめると頷いてウェッソンにこう言った。
「まちがいないようです。302号室だそうです」
 二人は302号室に向かった。ドアのそばまで来ると、まわりに人がいないのを確かめる。それから鍛冶屋はごくりとつばを飲み込み、意を決してドアをノックした。ウェッソンは腰のリボルバーに手を当てた。
 少し待ったが返事はない。もう1度、彼はノックした。
「……おかしいなあ。受付の人が、出かけてはいないといっていたのに……」
と、鍛冶屋は呟く。
 ウェッソンは不安を覚えた。もう1度周りを見回してから、思いきってドアに体当たりした。2度。3度。ドアは開いた。
 二人はすばやく部屋に入りこみ、ドアを閉めた。部屋の中には誰もいないようだった。――が、ごそごそという物音を二人は聞いた。
 音は部屋の隅にあるロッカーから聞こえてくるようだ。見ると、観音開きの戸の取っ手がハンカチのようなもので縛られている。ウェッソンはそれをほどいて戸を開いた。すると中から、両手両足を縛られ、口も布で塞がれた赤い髪の少女が転がり出てきた。
 ウェッソンは急いで彼女を抱き起こした。「大丈夫か、テム――」
 だが、テムズではなかった。同じように燃えるような赤い髪をしているが、長さは肩までしかなく、着ているものも黒っぽいワンピースだ。
「あっ、この人ですよ! この人がコルトを持ってきたんです」
と、鍛冶屋の青年は言った。ウェッソンは口を縛っている布を外しながら、彼女に尋ねた。
「ほかにも赤い髪の娘がいるだろう。どこだ?」
 少女は口が自由になると、慌てたように早口で言った。
「彼女を助けて! 急がないとふたりとも殺されてしまう!」
「なんだって?」
「案内するわ。お願いはやく……テムズはベンに連れて行かれたの。川沿いの小屋にいるはずだわ」
 両手足を自由にしてもらうと、少女は急いで部屋から飛び出した。ウェッソンと鍛冶屋は慌てて後を追う。
「君はその男の仲間じゃないのか?」
 階段を駈け降りながら、ウェッソンは少女に尋ねた。
「さっきまでは仲間だったわ。でも……そんなこと、あとでいいから。あっちよ」
 宿屋から出た3人は、通りを駆けていく。すると、向こうからウェッソンのよく知っているおさげの少女が走ってくるのが見えた。
「ウェッソーン!」
「サリー! どうしたっ?」
「先生が……呼び出されて……もうすぐ待ち合わせの時間に――」
 サリーは息を切らせながら、なんとか用件を伝えた。
「わかった。あとからついてこい」
 ウェッソンはそう言うと、10メートルほど先にいる赤毛の少女を追った。
「え、そんなぁ」
 走り続けて疲れ果てたサリーを置いて、3人は行ってしまった。しかし、サリーも遅れまいと必死で彼らを追いかけていった。


 川にかかった橋のちょうど真ん中のあたりに、二人の男が立っているのが見えた。一人はジェフリー・ハリスン。そして、相手は背の高い黒ずくめの男だった。
 ジェフリーは書類の束を男に渡していた。受け取った男はかわりに何か小さなものを相手に手渡した。ジェフリーは橋の向こう側に向かおうとして、男に背を向けた。その時、男は懐から素早く拳銃を取り出し、医師に向かって発砲した――かと思ったが、それよりも僅かに早く、ウェッソンの撃った弾が男の銃をはじき飛ばしていた。
 驚いたジェフリーが振り向いた。男は駆けてくる3人を見て、信じられないという表情で叫んだ。
「ジェーン! お前どうやって――」
「ジェフリー、そいつを逃がすな!」
 ウェッソンは負けずに大声で叫んだ。援軍を得た医師は、男を取り押さえようとした。しかし負傷している身では力が出せない。相手は彼の手をふりほどき、橋の欄干に飛び乗った。一瞬ためらっていたようだったが、すぐに川に飛び込んだ。
 ジェフリーは橋から川を覗き込んだ。
「ベン!」
と、彼はうろたえたような声で呼ぶ。そこにウェッソンたちがたどり着いた。
「川に逃げたか――追うか? しかしテムズはどこにいる?」
 医師は青い顔でウェッソンに言った。
「あいつは泳げないはずだ。助けないと……」
 上着を脱ぎ、橋の欄干に手を掛けたジェフリーを見て、ウェッソンは驚いた。
「おい、飛び込む気か? 君を背中から銃で狙った相手だぞ」
「だがこのままでは溺れてしまう!」
 本気で飛びこもうとするジェフリーの腕を押さえ、ウェッソンは、
「わかった、わかったよ。俺が行くから。テムズのほうを頼む」
と呆れ声で言った。そして、人助けのために川に飛びこむのはこれで何度目だろうかと考えながら、水に飛び込んでいった。
「すまない、ウェッソン」
 医師は申し訳なさそうに呟いた。それから振り向いて、鍛冶屋とジェーンに言った。
「テムズは向こうの小屋に――」
 向こう岸にある小屋のひとつを指さしたジェフリーは、途中で絶句した。小屋の屋根のあたりから、細い煙が出ていた。
「煙が!」
 走ってきたサリーが叫び声を上げた。
「ベンが発火装置を仕掛けたのよ! それが燃えだしたんだわ」
と、ジェーンが泣きそうな声で言った。
「テムズさんっ!」
 鍛冶屋の青年は顔色を変え、小屋を目がけて猛スピードで駆け出した。
「あっ、君! 入り口に鍵が――」
とジェフリーが言ったときはすでに遅く、青年はどんどん小屋に近づいていた。
「サリー、これを彼に」
 ジェフリーは駆け出そうとしたサリーに、手に持っていた鍵を手渡した。さっき書類と交換したのは、これだったのだ。
「はいですぅ!」
 サリーは負けずにダッシュして、鍛冶屋のあとを追った。ジェフリーも走り出したが、十歩も行かないうちに立ち止まり、膝をついてしまった。胸を押さえ、もう一度立ち上がろうとした彼に、ジェーンが駆け寄って手を貸した。
 小屋の入り口が開かず焦っている鍛冶屋に、サリーが鍵を渡す。鍛冶屋は急いで鍵を開け、ドアを開いた。黒い煙がもくもくと出てきた。
「きゃっ!」
 サリーは煙と熱気に、思わず後ずさりした。この中にいるテムズはいったい――。
 しかし、膝より下の方にはまだ煙が来ていなかった。鍛冶屋は這うようにして小屋の中へと潜り込んでいった。サリーはただ、心配しながら見守っていることしかできなかった。
 どれだけ時間が経っただろう。ずいぶん長く感じたが、実際には1分もなかったかもしれない。青年が、赤毛の少女を抱えて這い出してきた。彼もテムズも真っ黒になっていた。
「鍛冶屋さん、大丈夫ですか? テムズさんは?」
 サリーは駆け寄りながら尋ねた。
「……気を失っているようです」
 鍛冶屋は心配そうに言った。


 ――熱い……。
 テムズはそう思った。
 自分は砂漠にいるのだろうか? 体は火照っているし、喉はカラカラで痛い。立っていられなくて、倒れてしまった。すると誰かが抱き上げてくれた。誰だろう……?
 夢うつつの中、いきなり、水を浴びたような冷たさを覚えた。
「テムズ、テムズ――」
 そう呼ぶ声が聞こえる。見ると、金髪の青年がいる。まちがいなく、「あのひと」だ。テムズは思わず飛びついた。
「会いたかったわ、私の王子様!」
「抱きつかれて嬉しくないというわけではないのだが、テムズ」
 よく知っている声が、よく知っている言い回しで答えた。
「君は人違いをしているんじゃないか?」
 テムズはびっくりして、眼を大きく見開いた。目の前に見えたのは、なじみの医師の困ったような顔だった。テムズは慌てて、手を放した。
「ごっごめんなさい!」
 ジェフリーはやさしく微笑んで、
「君を助けたのは彼だよ」
と、鍛冶屋の青年に顔を向けた。テムズは鍛冶屋を見た。全身真っ黒で、髪の一部が縮れている。火事にでも遭ったような姿だった――と、彼女はそこではじめて、自分自身も同様に黒く汚れていることに気がついた。
 鍛冶屋ははにかんだような笑顔を見せ、
「だいじょうぶですか、テムズさん」
と言った。
 テムズは立ち上がり、鍛冶屋の方に足を踏み出したが、膝に力が入らずよろけてしまった。倒れそうになった彼女を、鍛冶屋の青年の腕が抱きとめた。
「まだ、休んでいたほうがいいですよ」

 テムズは青年に支えられたまま、動かなかった。涙があふれてきて、鍛冶屋のシャツを濡らした。しかし彼は何も言わず、慰めるようにテムズの背中を軽く叩いた。彼の顔は頬に触れる彼女の髪よりも紅潮していた――もっとも煤で真っ黒になっていたので、誰も気がつかなかったが。


 ずぶ濡れになったウェッソンが、川から上がってきた。結局、男を見つけることはできなかったのだ。彼は川岸で煙を上げている小屋を見て驚いた。小屋の傍までいくと、さらに驚いた。右手には、煤で真っ黒になった男女が抱き合っている。左手には泣いている少女と、それを慰めようと何か話しかけている男がいる。どちらも、男の髪は茶色で、女の髪は真っ赤だった。奇妙な一致だ、とウェッソンは思った。そして二組の男女のあいだに、ひとりあぶれた金髪の少女が、手持ち無沙汰な様子で立っていた。
「テムズは、無事なようだな」
「ええ。危ないところだったけど。鍛冶屋さん、格好良かったのよ」
 サリーはなにやら夢見るような瞳で二人を見つめていた。
「そうか。彼もようやく報われたというわけだ」
 ウェッソンはジェフリーのそばまで行き、低い声で捜索の結果を伝えた。医師は沈痛な表情で頷いた。
「ありがとう――世話をかけた」
 泣いていた少女は顔を上げ、震える声で言った。
「私……これからどうしたらいいの?」
「心配しなくていい。私に任せてくれ……きっとうまくいくよ」
 いたわるような声でジェフリーはそう言った。


 さすがのテムズも、その日は家に帰るとそのまま死んだように眠ってしまった。ウェッソンとサリーも徹夜して疲れていたので、さっさと店の臨時休業を決め込んで、ゆっくり休んだ。
 翌朝になるとテムズは元気に復活し、掃除洗濯炊事をこなした。それからケーキを焼いて、まず鍛冶屋の青年のところに持っていった。昨日のお礼だと言うと、彼は顔を真っ赤にして(今度はテムズにもはっきりわかった)恐縮しながら受け取った。
 それから、テムズは病院に寄った。入り口のドアを開けると、疲れた顔のハリスン医師が出てきた。彼は少しびっくりしたようだったが、テムズが中に入ってくるのを見ると、診察室のドアを開けた。
「どこか具合が悪いか? 煙も吸い込んでいなかったし、火傷も軽いからたいしたことはない。なにかあるとすれば精神的なショックからか――」
「あ、診察を受けに来たんじゃないの。一晩寝たらすっかり元気よ」
と、テムズは言った。
「あなたの具合はどうかと思って――ね、あのひとは?」
 ジェフリーは振り向いて答えた。
「ジェーンなら、今朝早く発った」
「えっ?」
「スイスにいる高名な博士のところに向かった。ここにいるよりずっと安全だし、兄の遺志を継いで例の研究を手伝うこともできるからね」
「……そう……もっとお話ししたかったわ。赤い髪の娘同士として」
 テムズはちょっぴり残念に思った。それにしても、ずいぶん早い出発だ。
「君がまだ寝込んでいると思って、挨拶もせずに発ったが――向こうに着いたら手紙を書くと言っていたよ。とにかく君のお陰で彼女の誤解も解けた。ありがとう」
「あら、なにもたいしたことしてないわ。それよりあなた……」
 テムズはジェフリーの前に立って、彼を睨みつけた。
「彼女が気にするといけないと思って、『怪我はかすり傷程度だよ』とかなんとか言ってさっさと追い出したんでしょ。まったく……」
 そう言いながらテムズがジェフリーの白衣を引っ張ると、シャツの胸の赤い染みが見えた。
「ほら、まだこんなに出血してる……おとなしく寝ていなさい。無理してると死んじゃうわよ」
「テムズ……離してくれないか」
「表のドアに『本日休診』の札を掛けて、ちゃんと横になって休むと約束したら、離してあげるわ」
「わ……わかった。そうするから」
 テムズはやっと手を離した。ジェフリーは大きく息を吐いて、ソファーに腰をおろした。
「……君は変わらずにやさしいんだね。ひどく迷惑をかけた上に過去を知られて、嫌われたかと思っていた――」
 ジェフリーはそう言った。テムズはあきれ顔で答えた。
「またそんなこと言ってる。そりゃ、正直言って少し驚いたけど……だからって、何が変わるというの?」
「テムズ……」
「それにね、ジェフ。どんな過去だったとしても、それがあったからこそ……今のあなたがいるわけでしょう?」
 ジェフリーは驚いたような表情で、テムズを見つめた。それからつらそうに目をそらした。
「……君は……すばらしい人だ。ありがとう……だが、これからもなにがあるかわからない。もうあまり私とは関わらない方が――」
 テムズの平手打ちが飛んだ。
「見損なわないでよね! 私がそんな薄情な人間だと思うの?」
 彼女は本気で怒っていた。
「……わ……悪かった。つい弱気になって……けっして本心でそう思ったわけでは……」
 医師は弁解しようと慌てて立ち上がった。が、貧血でも起こしたのか、身体がふらついた。テムズは急いで彼の身体を支え、もう一度ソファーに座らせた。
「ジェフ……」
 テムズは彼の耳元で、囁くように言う。
「これから先なにがあってもきっとだいじょうぶよ。あなたには神様のご加護があるんだから……。それに、みんなあなたのことが大好きなのよ――そのことを忘れないで、ジェフ」
 医師は鳶色の瞳に深い哀しみの色を湛えたまま、静かに頷いた。
「許してくれ……看護婦達がいなくて静かすぎるので、つい、柄にもなくいろいろと考え事をしてしまうんだ……」
「いつ帰ってくるの?」
「明日の晩にはセリーヌが――」
 そのときドアが開いて、元気良く入ってきたのは、もうひとりの看護婦だった。
「ただいまかえりましたーっ!」
「アリス……予定よりずいぶん早いじゃないか」
と、ジェフリーが驚いて言った。
「ええ、まあ、いろいろあって」
 そう答えたアリスは、テムズがいるのにはじめて気づき、何を勘違いしたのか、
「あっ……どっ、どうも、お邪魔しましたあ〜」
と言って後ずさりしてドアを閉めると、慌てて階段を駆け登っていったようだった。
 直後、物が落ちるような大きな音が響いた。ジェフリーは溜息をついて言った。
「また階段を踏み外したな」
「……だいじょうぶ? アリス」
 テムズは階段の下でうつぶせに伸びている看護婦に声をかけた。アリスはぱっと起きあがり、
「いえ、おかまいなく。私、昼寝しちゃいますから、どうぞごゆっくりー」
とわけのわからないことを口走りながら、今度は慎重に、二階に上がっていった。
 アリスが帰ってきたので、とりあえずジェフリーはだいじょうぶだろう――テムズはそう思うことにした。ちょっと不安だったが。
「彼女はだいじょうぶみたいよ。それじゃ、私帰るわね」
と、テムズはジェフリーに言った。
「……あ、食事当番はしちゃだめよ。あとで私が何か作って持ってくるから。お大事にね、ジェフ」
「テムズ……いろいろと、ありがとう――すまなかった」
「謝らなくていいんだってば。まったくもう」
 赤毛の少女はそう言いながら、明るく笑った。

おしまい


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