The another adventure of FRONTIERPUB 19

Contributor/ねずみのママさん
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闇からの声


 テムズは、ふうっと溜息をついた。店の後かたづけは、ようやく終わろうとしていた。今夜は働き手が一人足りなかったので、いつもより時間がかかってしまった。早く寝なくちゃ明日にさしつかえる、と彼女はぶつぶつ言いながら、お湯が入ったやかんを持ち上げた。
 そこに、ウェッソンがコンコンと咳をしながら入ってきた。
「どう、調子は?」
「ああ……まあまあってところかな。一日寝てたら、腹が減った」
「じゃ、何か食べ――」
 そのときテムズは何かにつまずいて、前に倒れた。
「きゃっ!」
 持っていたやかんが彼女の手を離れ、勢いよく宙を飛ぶ。ウェッソンがすばやく身をかわさなかったなら、熱湯のたっぷり入ったやかんは彼を直撃していただろう。
「だっ、大丈夫?」
 テムズは慌てて起きあがりながら言った。
「危機一髪というところだな」
 ウェッソンは床に転がったやかんとこぼれた熱湯を呆然と見つめながら答えた。テムズはモップを取り、床を拭きはじめる。
「ごめんね……でもへんね。つまずくようなものは何も置いてないのに」
 ウェッソンはそれを聞いて顔を上げた。
「――きょうは、何日だ?」
「え? 3日……夜中を過ぎたから正確には4日だけど、どうかした?」
 テムズはモップの手を休めずそう答えた。
 ウェッソンの顔色が変わった。
「そうか……うっかりしていた!」
「なにが?」
 ウェッソンはそれには答えず、黙って出ていった。テムズは不思議に思ったが、床をきれいにする方が先決だった。
 やっと床が元どおりになったころ、ふたたびウェッソンが現れた。
「テムズ、ちょっと出かけてくる。たぶん明日まで帰らないが、よろしく頼む」
「……え?」
「サリーにもそう伝えておいてくれ」
「ち、ちょっと待ってよ! こんな夜中にどこに行こうっていうの?それにあなた風邪ひいて一日寝てたんでしょ。……急にどうしたのよ」
「今は説明している時間がない。帰ったら必ず話すから」
 そう言いながら、ウェッソンは急いだ様子で店の入り口から出ていった。テムズが、
「だめよ! ウェッソン……」
 と後を追おうとしたとき、いきなり何かが彼女の目の前に降ってきた。大きな音を立てて地面に落ちたそれは――店の看板だった。
「な……なんで?」
 テムズは青くなって上を見上げる。
「すまん、テムズ!」
 そう叫びながら駆けていくウェッソンの影が見えた。
「いったいなんなのよ……わけがわかんないわ!」
 当惑するテムズの前で、看板がもう1度音を立てた。


「えーっ! 出かけたんですかあ?」
 翌朝、テムズから話を聞いたサリーもびっくりした。
「寝込むほどの風邪だったんじゃないですかぁ……なにがあったんでしょう」
「わかんないのよ、それが。今日は何日だ、って聞かれて……それから……」
 サリーは腕を組んで考え込むポーズを取った。
「……確か去年の今ごろもこんなことあったような気がするんです」
「そうだっけ?」
「あの時はテムズさんが商店会の集まりで遅くなって……まだ帰ってこないうちにウェッソンは出かけて行っちゃったんです」
「そういえばそんなことがあったわね。やっぱり丸1日くらい、行方不明だったのよね」
「あれは何日でしたっけ」
「ええとね……去年の手帳を見ればわかるわ……」
 テムズは棚から手帳を引っぱり出してパラパラめくった。
「……集会は3日の夜8時から……3日!」
「3日の晩いなくなって、4日の夜遅く……夜中過ぎてから帰ってきたんです」
「そう……そうね。4日に何か秘密があるのね」
 しかし推理はそれ以上進展しなかった。


 公園のベンチにもたれて、ウェッソンは体を休めていた。頭痛はひどくなり、熱が上がってきたように思えた。
 耳元でささやく声が聞こえた――つらそうね、と。
「……誰のせいだと思っているんだ……」
 ウェッソンはつぶやいた。
(いつまでも意地を張るからよ。私と一緒に来ればいいのに)
 横から彼をのぞき込むのは、長い栗色の髪の女性だった。歳は二十を越したかどうかというところだ。なかなかの美人だった。しかしそのきれいな姿は、ウェッソン以外の人間には見ることができなかった。なぜなら――彼女はこの世の者ではなかったから。
(1年ぶりだというのに、つれないわね)
 そう言いながら彼女はウェッソンの首に腕をまきつける。
「――毎年毎年、ご苦労なことだ。そっちこそ、いいかげんにあきらめてくれないか」
(そうはいかないわ。それに、今年はチャンスかもしれないわね。あなたがそんなふうだから……)
 その言葉に彼は思わずベンチから立ち上がった。少し、めまいがした。
「冗談じゃない。風邪で体調が悪いからといって、簡単にやられるような俺じゃない!」
(いつまで強がりが続くかしら)
「今日が終わるまでだ」
 重くだるい体をひきずり、ウェッソンはふたたびあてもなく歩き出した。そろそろ昼になる。あと12時間の辛抱だ……。
 いきなりそれは来た。頭の上に殺気を感じ、横にはね飛びながら見上げると、それはウェッソンの横をかすめて飛び、また上昇していった。大きな黒い鳥――カラスだ。
 もう1度、カラスは急降下してきた。今度は頭の上からくちばしで攻撃してくる。かわしながら、ウェッソンは思った。これは気を逸らすための攻撃だ。きっと本命は他から来る……。
 回りに注意を向けながら、カラスと格闘していると、前方から馬車が走ってきた。かなりスピードを出している。馬車の御者が何か叫んでいるが、聞こえなかった。
――あれか。こっちに向かってくる気だな。
 御者の声が、今度ははっきり聞こえた。
「あぶないっ! どいてくれ!」
 どうやら馬が制御不能らしい。暴走馬車はウェッソン目がけて突っ込んできた。彼は必死で走り、馬車との激突を辛うじて避けた。馬車はそのまま走り去っていった。御者と馬のその後の運命はわからない。

 ウェッソンは地面に座り込み、肩で大きく息をしていた。
(ねえ、おとなしくしてくれたら楽に死なせてあげるわよ)
 と、彼女が言った。
「まだ死ぬつもりはない。俺は君とは違うんだ」
(ひとりではさびしいのよ……)
 そう言われて、ウェッソンは少しだけ胸が痛んだ。彼女が成仏するために、何か他に方法はないのだろうか。
――あの時、彼女はひとりぼっちで死んでいったのだ。彼はそのときにまだ子供だったので、何もしてやれなかった。……もう、十何年も昔のことだった。
 彼女は毎年自分の命日にウェッソンの前に姿を現し、あの世へと誘う。気まぐれな性格らしく、その年によって攻撃の熱心さは違っていた。かすり傷程度ですんだ年もあれば、本当に死にかけたときもある。ここ数年はエスカレートしてきていて、周囲に被害が及ぶので、彼は人の来ない場所へ出かけていって、この日をやりすごすのだった。風邪をひいているにもかかわらず外出したのはそういうわけだった。
 夜中にフロンティア・パブを出てから、何十回の危機に見舞われただろう。店を出るときに落ちてきた看板をはじめ、様々なものが彼の頭の上に降ってきた。植木鉢、物干し竿、人間、犬、箪笥、飛行機の部品。また、原因不明の爆発に巻き込まれたり、強盗と警官の銃撃戦に出くわしたり、なんとかいう拳法を使うアジア人に決闘の相手と間違われたり、猛犬のしっぽを踏んだり。馬車が突っ込んできたのは、さっきので10回目だ。今年はかなり本気らしい。
 ウェッソンは疲れ果てていた。しかし、暢気に休んでいる暇はなかった。彼女は次から次へと攻撃を仕掛けてくるのだ。
 ようやく立ち上がり、彼はまたふらふらと歩き出した。曇っていた空から、ぽつりぽつりと雨が降り出した。雨宿りする場所もない。
――踏んだり蹴ったりだな……。
 ウェッソンは濡れながら歩き続けた。


「雨が降ってきましたぁ」
 と、サリーが言った。
「ほんと。洗濯物を入れなくちゃ」
 あわててテムズは庭へ飛び出した。
 洗濯物を取り込んで彼女が家に入ってくると、サリーが傘を持って出かけようとしていた。
「ウェッソンを探してきます。傘持ってないんでしょ?」
「あ……うん、持っていなかったけど。でも、どこにいるのかわからないのよ」
「そのへんは探偵の勘で、かならず見つけだします!」
 サリーは意気揚々と出ていった。
「……あんたのほうが、風邪引かないようにね」
 と、テムズはつぶやいた。


 雨は激しくなっていた。川は水かさを増し、流れが速くなっている。ウェッソンは橋の上で、ぼんやりとそれを見つめている。
 時刻は午後5時。今日が終わるまでまだ7時間ある。
(川に飛び込むというのはどう? 流れも速いし)
「溺れるほどじゃないね」
 ウェッソンは橋の欄干にもたれたまま、動かない。ときおり咳き込むだけだ。
 川の流れの音にまじって、かすかに彼の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
「ウェッソーン」
 彼は顔を上げた。声がした方を向くと、傘をさしたサリーが橋を渡って駆けてくるのが見えた。
「見つけた……! ウェッソン、びしょぬれじゃない」
「こっちに来るな、サリー! 来ちゃダメだ」
 ウェッソンは叫んだ……いや、叫ぼうとしたが、かすれ声しか出なかった。
 サリーはウェッソンのところまで来ると、持っていた黒い傘を差しだした。
「ねえ、何があったのか知らないけど、帰りましょ。風邪をこじらせちゃうわ」
 彼女は大きな目でウェッソンを見上げて言った。
 ウェッソンは傘を受け取ったが、首を横に振った。
「……まだ帰れない。今日が終わるまでは……。いい子だから先に帰ってくれ」
「どうして?」
 サリーは少し怒ったような口調で尋ねた。
(その子のせい?)
 彼女の声が聞こえた。ウェッソンははっとなった。
(その子がいるから、あなたは私の所に来てくれないのね?)
「違う……! サリーは関係ない! 手を出すな……」
 彼がそういいかけたとき、突風が二人を襲った。ウェッソンは踏みとどまったが、サリーは風に押されて欄干にぶつかった……と思うと、その部分の欄干が音もなく崩れ、川に落ちていった。サリーもバランスを崩し、欄干に続いて落ちていった。
「きゃあああっ!」
「サリー!」
 ウェッソンはあわてて川に飛び込む。流れの速い中でなんとかサリーの手をつかみ、離さないように抱え込みながら岸に向かっていった。かなり下流まで行って、2人はようやく岸にたどり着いた。
「大丈夫か、サリー」
「うん……なんとか。ふぁ……くしゅん!」
 くしゃみをひとつして、サリーはにっこり笑った。
「まったくひどいことを……。これ以上サリーに何かしたら承知しないぞ!」
 ウェッソンは幽霊をにらみつけた。しかし、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
(引っかかったわね、ウェッソン)
「――なんだって?」
(長時間雨に打たれただけでも充分だったけど、今の水泳はだめ押し。これであなたは確実に、あと数時間で死ぬわ)
「ば……ばかな……」
 そのとき彼は急に激しい頭痛と悪寒に襲われ、同時に胸の痛みを覚えた。
「ウェッソン……大丈夫?」
 激しく咳き込むウェッソンを見て、サリーは背中をさすってやった。こうすれば少しは楽になるかと思ったのだが、咳は止まらない。
 口元を押さえているウェッソンの手の指の間から、鮮血がしたたり落ちてきた。サリーは驚いて思わず叫ぶ。
「ウェッソン!」
「サ……サリー……馬車を拾ってくれ……医者に――」
 ウェッソンはようやくそれだけ言うと、また咳といっしょに喀血した。
「わかったわ。待っててね!」
 サリーは急いで駆け出していった。そのときにはもう、ウェッソンにはサリーの姿は見えず、川の音も聞こえなくなっていた。


「……ここはどこだ?」
 闇の中で、彼は彼女に尋ねた。
(もうすぐ、天国への入り口よ。ここからは本当にすぐ)
 彼女はそう言って、ウェッソンの腕をとった。
(この日をずっと待っていたのよ……長かったわ)
「――俺は……とうとう負けたのか……」
 行く手に明かりが見える。
(行きましょう。これで私もあそこに行けるわ。悩みも苦しみもない世界へ)
 しかしウェッソンは立ち止まった。
「何か聞こえる――俺を呼んでいる……」
 彼は後ろをふりかえった。暗闇が続くばかりだ。しかし、そのむこうから声が聞こえてくるのだった。
 彼女は顔色を変えた。
(まさか。ここまで声が届くわけがないわ……)
 けれどウェッソンには聞こえたのだ。
「ウェッソン、ウェッソン!」
 サリーが呼んでいる。あんなにせっぱ詰まった声で。何か困りごとが起きたようだ。
「宿代踏み倒したまま死ぬなんて許さないわよ!」
 これはテムズの声。なんだか泣き声になっている。珍しいこともあるものだ。
 声のする方に向かって歩き出そうとしたウェッソンに、彼女は言った。
(だめよ、もう戻れないわ。戻るためにはそこにいる魔物と戦わなくてはならないのよ)
 暗闇から、頭が3つある竜のような怪物があらわれた。ウェッソンは一瞬ひるんだが、覚悟を決めて竜に向かっていった。
(あなたの拳銃では倒せないわ!)
 彼女は引き留めようと必死で叫んだ。しかしウェッソンはかまわず竜の前に進んでいった。
「必ず帰る。俺はまだ死ぬわけにはいかない」
(ウェッソン……)
 彼女はもうなにも言わなかった。ただ悲しそうな顔で、彼の後ろ姿を見送っていた。


 若い医師は憮然とした表情でウェッソンを見ていた。
「非常に希なケースだ。あの状態から回復するとは」
「……その不機嫌そうな顔はなんなんだ?」
 と、ウェッソンは横になったまま尋ねた。医師は答えた。
「そのおかげで私はテムズから藪医者呼ばわりされたんだ。おもしろいわけがないだろう」
「そいつは悪かったな」
「まあいい。まだ立て替えた治療費を全部返してもらってないからな」
 そう言って医師は笑った。
「さてと、もう彼女たちを中に入れてもいいだろう。呼んでくる」
 医師は病室から出ていった。入れ替わりに入ってきたテムズとサリーは、開口一番、
「さあ、わけを話してね!」
 と声を揃えて言うのだった。

おしまい

Continued there》
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