The another adventure of FRONTIERPUB 10
驟雨は辺りを容赦なく包み、天上から雫が銀糸の如く注がれ人の住む矮小な床を打ち据える。
それに対して取るべき手段は無かった。誤魔化しすらも通用しない。人の英知は神の意志に対してはあまりに無力に過ぎた。賢者の悔恨は涙と化して古びた板にはじける。
天と、人。
一瞬にして無情の理を説く程に、現状は峻烈だった。無論静寂は望むべくもない。
「つまり。自然は大切にしなけりゃいけません」
「なにがつまり?」
テムズ・コーンウォルは台所の中から言い返した。腰まで伸ばした赤い髪をした少女である。取り立てて大した特徴ではないが、彼女の相手は少々風変わりではあった。
「大自然様の機嫌を悪くしちゃったら、末代祟るんですよう。台所の排水溝に網を付けなきゃもうそれだけでぷっつん行くんですからぁ」
そう言ってきたのは探偵だった。
その人種をテムズは実際に見たことがなかったが、少なくともその子供はコートと鹿撃ち帽を身に付けている。ただでさえ怪しいところ、さっき見たら随分ほこりっぽくなっていた。
「……短気よね」
「そうですぅ! 何やっても大自然様は怒って、こーやって雨を降らせたり怪人を出したり地価を高騰させたりするんですよ。これこそ事件ですぅ。名探偵サリーがでるずんばなんともってするやらとゆーか」
(『迷』探偵じゃない)
まあどちらでもいい。自称している以上は探偵なのだから。
彼女はひとりごちて、のぞき込んでいた食器棚から顔を上げた。探偵の方を仰ぎ見る。
「サリー、そっちにバケツ無い?」
「…………無いですよう」
少女はテーブルから顔を上げずにのろのろと答えてくる。二つお下げにされた金髪がさらにだらしなく卓上に転がっていた。寝ていたのだろうか?
「まったく」
食堂に戻ったテムズはうんざりと息を付いた。
一晩の屋根と食事を提供するベッド&ブレックファストという商売がある。ここ「フロンティア・パブ」もそんな類の店だった。
雨のため昼下がりの陽も薄暗い店内にはテムズを除けば一人しかいない。サリーである――ただ彼女は金を払ってくれないので、客はいないと言ってもいいかもしれない。
そして天井からは容赦なく雫が垂れ続けていた。
「なんでまた雨漏りなんかするのよ」
「え……、変ですかぁ? この辺りの建物ってみんな骨董品みたいじゃないですかぁ」
「あのね、宿を引き継いでからさすがに改修は入れてるんだってば。一年前よ? たったそれだけでガタが来てるはずもないし……」
「……そうですねぇ。つまりはけたぐり」
「え?」
「手抜き工事の左官屋さんをけたぐるんでしょう?」
「なんでよ!」
テムズは一蹴して――実際にそうしかけたのを抑えて――再び辺りを見回した。
「まあ、とにかくよ。とにかくあのバケツを……早く置かなきゃ、床染みになっちゃいそうだし」
「鍋とかボウルとかあるじゃないですかぁ」
「調理器具を雨受けに出来るわけないじゃない。宿屋の誇りってものがあるわ」
「確かに、食器は誇れます。ここって食事だけしに来る人のほうが多いですからねぇ」
したり顔で(見えないが)何やら呟いてくるサリーは無視して、次に物置を引っかき回しにかかる。ここにも手応えはない……
(まいったわね)
嘆息は止めようがなく漏れていく。雨の日はいつもこうだった、気がした。なんであれろくな事がない。
「もぉ……こんな時にあいつはどこほっつき歩いてんのよ」
ウェッソン・ブラウニングは宿の外にいた。傘の外から飛び込んでくる雫やら霧やら、そのようなものがある種の悪意を持って髪と服を濡らしている。そういう妄想を抱きつつも彼は呟いた。
「まいったな」
長身の男だった。さして目立たない外見だが、彼を普通たらしめていなかったのはただ単に銃をぶら下げていたりとらえどころのない眼光を雨の街角に発散していたり……という点だけではない。大きなブリキのバケツを抱えていた。
「なんでまたこんな事になるんだか」
視線を下ろすと、バケツ越しに黒く濡れた石畳がよく見える。
バケツからは見事に底が無くなっていて、ぱっと見たところ鈍色の筒のように見えた。よほど使い込まれていたのか、あちこちに細かいへこみと染みが刻みつけられている。側面にはフロンティア・パブの文字。
「つまり、宿の備品を壊した。壊したらどうなるか、となると」
思い出したくなかった。
「俺のせいじゃないよな……」
目を覚ますと、何故か顔にバケツが刺さっていた。底が抜けていたから一応安心したが、次の瞬間事態を悟って宿を逃げ出す――有事に備えて二階の窓から直接降りるはしごを造っていたのだ。今まで五回ほど役に立ってくれたのだが……今回はどうなるのか?
思考を止めてウェッソンは商店街を見回した。店の大半は閉店の看板を出している。ありがたい市条例のおかげで、近頃従業員たちはこぞって週末にのんびりすることができる。
(大陸じゃこんな事はなかった)
もっとも、戦時下では店そのものが無かったりしたこともあったのだが……それでも、過去はいつも甘美な響きを持ってにじり寄ってくる。
それを振り払うあがきが、つまりは現在に生きるということなのだろう。
ウェッソンは再び思考と、足を止めた。
なじみの鍛冶屋を頼ってきたのではあるが……無愛想な店先には人気のかけらすらない。休業だ。
「……根性が無くなったんだ」
少なくとも自分は雨の下歩き続けている。この街の従業員に見せてやりたかった。俺は従業員でもなく、単なる客に過ぎないんだぜ。
(客ですって?)
直後浮かんだ宿の経営者の幻想を振り払って、ウェッソンは彷徨を再開した。
サリサタ・ノンテュライトは正直言って焦っていた。
(うぅ、まいりましたぁ)
テムズは今度は地下の食料庫に消えている。それでも顔を上げると焦りが音に出て聞かれてしまいそうな想像にかられて、いまだにテーブルから離れることができない。
悟られてはいけなかった。元凶はおおむね彼女にあるのだから。
昨日の昼の事である。
自室(客室という名前だったが)の天井板を外して、屋根裏に上がれる事を発見した彼女は探検に出るべく準備を開始していた。
「こーんなにボロっち……古いんです。ちょっとくらい狂王の遺産とか試練とかあってもいいですよねぇ」
――その時ベッドに転がっていたペーパーバックには「屋根裏遺跡の狂王(試練編)」の文字が刻まれていたりする。
そしてサリーは偶然廊下に転がっていたバケツを発見し、ようやくそれでクローゼットに登ることができた。自力ではい上がるには背が足りなかったからだ。
クローゼットから必要以上に慎重に体を起こし、天板を持ち上げる……予想通りそれは軽々と持ち上がった。彼女は目の前に広がるであろう緊迫の冒険に思いを馳せて、にへへぇと笑う。
「テムズさんが出かけてる今がチャンスですぅ」
すでに事態はそれなりに緊迫していた。家主が帰るまでおおむね半時間。
天井に開いた穴のふちに両手をかけ、一気に身体を持ち上げる。予想以上に床――天井か――それは、強固にサリーの体重を支えてくれていた。
そろりと足を踏み出す。もう一歩。
ぎし、ぎし、ぎし……
屋根の軒下にはところどころ空気穴か何かが設置されていて、明かりに困ることはない。
(絶好の宝さがし環境ですねぇ)
上機嫌で進む。隣室の真上まで移動しただろうか……そこの住人がまだ寝ていることは確認していた。
サリーは周囲を見渡した。宝らしき金銀財宝の輝きは見あたらない……しかし、宝はすべからく財宝とは限らないものだ。
「たとえば日記帳。『死ぬまで夢を持ち続けましょう』とか書いてるような……」
しかし、そういう精神の充足をもたらしてくれる宝の気配もありそうになかった。
さほどの時間をおかず屋根裏をあらかた歩き尽くして(そもそもそれほど面積があるわけではない)、サリーは宝を見つけられなかったことを確信した。しかし。
「それは肉眼での話ぃぃ!」
彼女はポケットからルーペを取り出した。郷里の父親から譲り受けたそれは、僅かな屋根裏の光の中でも蒼く、鋭く輝く。真実を追究する探偵のみがこの正義の光を以て悪と虚偽を照らすことができるのである。このルーペは彼女の魂であった。
「……そぉいうことで、これでもっかい調査開始ですぅ」
サリーはささっとかがんだ。
……こういう時だけさまになっている。
がさ、がさ、がさ……
ルーペを通した視界は微少から極大まで拡張され、一片の塵すらも逃さない。この光景はサリーのお気に入りだった。無論視界はそれに伴って狭くなるが。
彼女はじりじりと探索を続ける。全てをルーペの先に注ぎ込みながら。真なる探偵への憧憬が、あらゆる謎に対しての挑戦心がサリーを突き動かす。
そして無意識のまま時間は過ぎゆき、彼女は何かを発見した。
「えーと……これはぁ……」
それは極大に拡張された状態では単なる壁にしか見えなかった。年月しか塗り重ねることが許されない鈍色に、うすく輝いている。
「これはぁ……」
ルーペを外さずにサリーは推理を始めた。その時。
がちゃ、からんからん。
「ただいまー。サリー、ウェッソン、いる?」
「はあっ! テムズさん帰って来ちゃいましたぁ!?」
とっくの昔に半時間は経過していた。
急いで立ち上がってちょうど上に走っていた梁に頭を強打する。一瞬の閃光と共に純白のお花畑に舞った後に眠くなって地面にふわりと倒れ込んだ、と思った瞬間に床面と激烈なキスをする。天井と屋根が戦慄するほどに激しく揺らぎ、同時耳元を轟音と、ついでに得体の知れない感触が擦過していく――どうやらねずみの家族が住んでいたらしい。ついでに床にはクモの巣がびっしりこびりついていた。
その頃にはサリーは完全にパニックに陥っていた。
……どうやって自室に戻ったのかすら覚えていない。とにかく天井からの不審な物音を聞きつけてテムズが二階に上がってくる頃には、サリーは全ての証拠を隠滅してベットにそしらぬ顔で座っていた。
店主が階下に去り、残ったのは彼女がおみやげに買ってきてくれたフィッシュ&チップスの包み、ずたぼろに汚れたコートと帽子(シーツの下に隠していた)、そして先刻飛び降りたはずみで踏み抜いてしまったらしいブリキのバケツが一個(これはクローゼットの中に隠してあった)。多分ごまかせたのだろう……とサリーは思った。しかし。
「うぅ……バケツを壊しちゃいましたぁ」
つまり宿の備品である。その破損に関して店主テムズが出る行動というと。
(ぶるぶるっ。思い出したくないですぅ……)
かぶりを振ったサリーは、揚げた白身にかぶりつきながら途方に暮れた。
……雨は勢いを弱めず降り続いている。テムズは今度は二階に行っているようだった。
床のところどころに水たまりが出来上がり始めているのにサリーは気付いた。
(バケツじゃなくて、なんかタライとか洗面器とかさがしてくださいよう)
このままではなし崩しに雨漏りの原因すら突き止められかねない。それだけは避けたかった……払わずに済んでいる宿泊費が増額されるというのはさすがに心苦しい。まあ心苦しいだけで済むから別にいいとは思ったが。
(真実は常に求める者にのみ味方する……真実って非情ですぅ。ウェッソンと一緒に早めに謝ろうって思ったのにぃ……)
その彼は、今朝何故かバケツと一緒に消えていた。バケツの保管場所に困って、彼の頭にかぶせていただけだったのだが(似合っていた)……これでは本末転倒である。
無論逃げることは許されない。
(それは探偵のアイデンティティですぅ! ……あうぅ)
不利な証拠の隠匿はひとまず探偵の仕事に入っているらしい。
実は金がなかった、というのは問題なのかもしれない。多分、現状の全てに対して。
ウェッソンの足はダウン・サイドの飲食店が並ぶ通りに向いていた。理由もない。すでに雨の中で何かを考えることも放棄していた。
(バケツは……売ってないよな。売ってても金ないし)
よれよれの財布の中に入っている金額を思い出そうとする。……多分エール一杯分。
(一杯引っかけて強気になってそのまんま帰る。論外だな。殺される)
しかし一度浮かんだ想念は振り払うことができなかった。自然と目は休日でも空いている奇特な店を捜して鋭く動く。なにか気分転換が欲しかった。
「そうだ。カードで稼げばいいんだよな」
ふと思い当たる。
パブに行けば賭事が何より好きな連中が常にたむろしているのである。カードは、近頃めっきりツキが落ちていたのが気になったが……
妙案というか口実を見つけたウェッソンの視界に、明かりの灯った窓が目に入った。どうやらここは開店中らしい。
その瞬間。
店先のドアから人影が飛び出して、通りの石畳に叩き付けられた。盛大に水しぶきが上がる。
「……?」
見ると人影はまだ少年で、白いエプロンを着けていた。従業員のようだ。
「分かったか。客に虫を喰わせといて謝りもしねぇ奴はそうなるのさ!」
ドアから大柄な男が顔を出して罵声を浴びせた。男は店内に消えてなおも熱弁を振るう。
「この詫びはきっちりしてもらうぜぇ! 衛生局に通報されてぇか!?」
「そんなぁ……」
顛末はウェッソンの耳にも飛び込んでいた。あまり品の良くない区域とは言え、この類の人間が出るのは珍しいのではと彼は思った。
特にこのようなティー・ハウスでは。
(この街の連中は紅茶ばっかりなのかね)
彼は嘆息して従業員の少年を助け起こした。
「あ、ありがとうございます」
少年は憤慨か興奮か、顔を真っ赤にして言ってくる。店内からは何やら乱闘が起こっているような音が響いていた。
「俺に任せろ。……それとな、後で店長に口利いてくれ」
ウェッソンは少年の頭を軽く叩いてやり、ティー・ハウスの中に入っていった。
「無い……」
バケツを捜すテムズの瞳に、不安の色が浮かび始めていた。嫌な予感がする。そろそろ二年に及ぶ経営の中で、宿にある物の大概の位置は把握していた。
にもかかわらず。
「……無い……」
まさか、本当に無くなってしまったのだろうか?
あのバケツはこの店が名前通りパブだった祖父の時代から、置かれているものの片割れだった。
(冗談じゃないわ。去年一個失くしてるってのに)
テムズが子供の頃からそこら中に置かれ、時に遊び道具にし時に壊して……そのつど修理を重ねる。この宿にある備品はおおむねそういうものだった。
(おととい……それより前だっけ? 掃除の時に使ったもの。間違いないわ)
不安は間を置かず焦燥に変わっていた。
(どこかにある……! お願い)
ウェッソンの部屋(客室だということは最近忘れかけていた)を開けて中を見る。
「なんも無いわねぇ……」
彼の部屋は殺風景もいいところだった。何かあるとすれば机の上、油に黒ずんだ雑巾と工具箱が一つだけ。あの男にはなにか文化的な趣味は無いのだろうか? 捜索は見回すだけで終わった。窓に何故かはしごが掛かっているのは気になったが、まあ今は関係無い。
扉を閉めて、隣室に足を踏み入れる。(家主の前では入居者のプライバシーは無かった――それが居候ならば)
「きったないわねぇ……」
サリーの部屋は混沌としていた。本が山を築き、そばには何故かピンが無数に立っている市街地図、試験管立て(試験管の代わりに筆記用具が立っていた)、ガラスのポーン、古新聞、カードフォルダー、緑柱石の宝冠のおもちゃ、注射器、名士録、妙に口径が大きな小銃、スクラップブック、はにわ、などなどがさらに大きな塊となっている。さらには銃痕で女王陛下のイニシャルが刻まれているような落描きがされていた。
ちなみに以上が机の上で、これらをカウントした時点でテムズは観察をやめた。そのほかの部分も似たようなものだ。
(掃除は自分でやってって言ったのに〜……)
頭を抱えながらも、テムズの目は異常を捉えていた。
……クローゼットの真上、天井板の一部がほんの少しずれている。
彼女はクローゼットに登り(さほど苦労はしなかった)、天井板に手をかける。それほど抵抗もなく板は持ち上がった。
「……なぁんか……怪しい」
テムズが二階に上がってから半時間が経過していた。
「まだ捜してるんでしょうかぁ……?」
サリーは厨房から勝手に持ち出したスコーンにかぶりつきながら呟いた。鼻が痛くなってきたのでもう顔は上げている。
雨はしつこく降り続け、床にできた水たまりはそろそろ小川を作りそうに思えた。事態は悪化を続け、代わりに謝ってくれそうなウェッソンは戻ってこず、自分はこうやって寂しいおやつの時間を過ごしている。テムズが戻らないとミルクティーも出ないのだ。
(雨はいやですねぇ……)
故郷ではこのような思いにふけるようなことはなかった……そもそも草原には雨が滅多に降らなかったのだ。
……それとも。この街に来て、自分が変わってしまったのだろうか。
何となく憂鬱になってしまう。彼女が溜息をついたと同時。
「あったー!」
「ふえぇっ!?」
二階よりさらに上から何かの物音がして、それから間もなくどたどたとテムズが階段を駆け下りてきた。そのままこちらに詰め寄ってくる。
とりあえず謝ろう。
「ゆ、ゆるしてくださいぃ」
「何言ってんのあったんだってば! 全然気付かなかったぁ、あんなトコに置いてないわよね普通!? 良かったぁ、本気で無くなってたって思ってたもん!」
「な、なにがですかぁ?」
テムズにしてはえらく素直に喜んでいるように思えた。どうやらスコーンを持ち出していることには気付いていないらしい。
「これよ!」
彼女は誇らしげに――古びたバケツを見せた。底がある。
「えぇ?」
サリーはびっくりした。彼女が踏み抜いてしまったはずのバケツと全く同じものに見える。
「あんたが謎に思うのも無理ないよね。屋根裏に転がってたのよ」
「や、屋根裏……」
(そうかぁ。昨日見つけたのはバケツだったんですねぇ)
偶然、例のバケツとうり二つの代物。考えてみると、これは……
「誰が持ち出したのかしら……それによく見たら天井がぼこぼこになってたのよ。きっと雨漏りもあのせいだと思わない?」
「断固として思いますぅ!」
チャンスだった。
「きっとおととい辺り泊まったお客さんが邪悪なバケツ蒐集家で、この宿にあったバケツを『おお、それ見よこの輝きこの艶は三国股に掛けても二度と見られぬいい仕事である』とかなんとか天井裏に隠してしまったんですぅ!」
「そーなの?」
テムズが怪訝な表情を見せる寸前に(何故かテムズは自分の推理を聞くときはそんな顔しか見せてくれなかった)びしぃと指を突きつける。
「そして昨日昼間に乗じてこっそりバケツを秘密の隠し場所から持ち出そうとした時に、天井裏に住み着いている<マザー>と異名を取る謎の巨大ねずみと死闘を繰り広げたにちがいありません!」
「そうかしら。確かに昨日天井の方でばたばたしてたけど……」
「そーなんですぅ!」
「…………」
テムズはしばらく黙った。内心冷や汗を浮かべながら、サリーも指をそのままに保っている。彼女の知っている名探偵は、事件が解決するまで決して上げた指を下ろすことはないのだ。
「……ま、そうかもね。ねずみじゃなくて猫とかいたずらしたのかもしれないし……これも見つかったから言うこと無いわ」
テムズはぽんっと手を叩いた。バケツを雨漏りの下に置いて、満足そうな笑みを浮かべる。
「ホント良かったぁ……もうこれで大丈夫。明日は大工さん呼んで来なきゃね」
(な、なんとかごまかせましたぁ)
テムズよりさらに安心して、サリーは大きく息を吐いた。
絶体絶命の危険は回避されたのだ。自分の過失は無くなって、テムズは事実を知ってしまうことなくバケツを見つけて喜んでいる。
そろそろ夕刻が近づいていた。夕食の催促でもして大団円を迎えよう、とした……
その時。
がちゃ、からんからん。
「……あのなテムズ」
ウェッソンが帰ってきた。
「ちょっと話しにくいことがある……だから言わずとも察してくれれば嬉しい」
脇にバケツを二つ抱えている。サリーたちは固まった。
「事故ってもんはある。過失ともゆーな。だが償いもあってしかるべきだと思うわけだ」
近所のティー・ハウスのマークが入った新品と……底の抜けたブリキのバケツ。
「このように新しいバケツ貰ってきたから、ここは一つ心穏やかに許してくれることをお薦めたい。……」
彼は、その時点で気付いたらしい。床に置かれたバケツに目をやった。
「ひょっとして余ってたのか?」
テムズが笑顔も硬直したまま呟いてきた。
「……説明してくれるかしら」
「……………………」
サリーはもう一度、今度は嘆息して指を下ろす。
事件が解決したからだ。
「でもでも、良かったと思いますぅ。バケツは一個捨てちゃったけど結局当社比一個増量、わたしたちも無事だったんですからぁ。ウェッソンもそう思うでしょぉ?」
宿の裏庭。生け垣になっているバラを刈り込んでいる所にサリーが話しかけてきたのは……その翌日の朝だった。
「まあ……な」
ウェッソンは空いている手で頭をさすった。こぶが出来ている。バケツのふちは意外に痛かった。
(なんで俺だけ殴られたんだ?)
とはいえ、不条理は今に始まったことではない。
「前回に比べりゃ、なんぼかましか……」
「銃で花瓶を持ち上げてて、うっかり落っことしちゃった時ですかぁ? やめた方がいいって言ったのにぃ。あれでテムズさん二日くらい泣いてて出てこなかったんですよねぇ」
「言ったっけか」
あの時はサリーがけしかけたような気がした。まあ、さすがに調子に乗りすぎたとは思っている。殴られた方がいっそ気楽だったのだが。
「破片をごはんでくっつけようとした秘策も空振りしましたしぃ。あれ片付けた後も半日閉じこもってたの知ってますかぁ?」
「あーいいからサリー、お前は大工さんの手伝いでもしてろ。ここは俺の仕事だから」
「わっかりましたぁ! 任せてくださいぃ!」
元気よく返事を残して、彼女は宿の中に消えていった。テムズが呼んできたらしい大工達が屋根に足場を作っているのが見える。テムズには気の毒だったが……そもそも一年前の改修で大工が天井の封印を忘れていなかったら、そもそもその際バケツを借りたりしていなかったら、今回の事件が起こることはなかったのだ。
ところで、全ての事情が明らかになっても大工はけたぐられずに済んだらしい。そうサリーが言っていた言葉の意味はよく解らなかったが。
それだけが唯一の吉報か……。ふと脇に目をやって、ウェッソンは気付いた。
(いや……ひょっとしたら)
(テムズの奴は、ようやく……現在に生き始めたのかもしれないな)
背の低いヒースの植木鉢、その周りを古ぼけたブリキが飾っている。
底の抜けたバケツは、雨上がりの陽差しに燦然と輝いていた。
おしまい