And others 30
王立警察本部の長い廊下に軽やかな靴音が響く。 どうもこの場には似つかわしくない、着飾った若い貴婦人が早足で歩いている。服のせいで大人びて見えるが、まだ16歳という若さだった。うしろから小走りで追いかけるのは、体格のよい――むしろ良すぎる――中年の男。警視副総監、ヘンリー・ブラッドフォードだ。 「どうか、どうか、応接室でお待ちください。すぐに呼びますので……」 女性は足を止めずに答えた。 「いいえ、元気な姿を早く見たいの」 廊下を行く署員たちは、なにくわぬ顔ですれ違ってからこっそりと振り返り、物珍しそうに二人を眺めていた。 貴婦人は「第一捜査室」の表札を見つけると、その前で足を止めた。ちょうどそのとき、不機嫌そうな顔をした男が、くわえ煙草で部屋から出てきた。男は彼女をじろりと見て言った。 「なんだあんたは。ここは用のないアマチュアは立ち入り禁止だ」 後ろから追いかけてきた副総監は、その言葉を聞いて顔をしかめた。 「口を慎めレドウェイト。この方は……いや、君に言っても意味がないな。それより――」 そのとき、 「待ってください警部」 と言いながら、男がもうひとり小走りに出てきた。先に出てきた刑事よりも、ほんの少し若い。彼は副総監を見て、あわてたように姿勢を正した。 次の瞬間、女性が嬉しそうな声をあげ、彼にとびついた。 「ギャラハン! 会いたかったわ。本当にお元気そうでよかった」 思わぬ展開に、その場にいたほぼ全員が目を見張った。レドウェイトまでもがあっけにとられている。 一番驚いたのは当のギャラハンだったようだ。顔を真っ赤にしながら尋ねた。 「えっ……あ、あの……どなたでしたっけ?」 彼女はその言葉を聞くと、体を離し、不安そうな目でギャラハンの顔を見上げた。 「……忘れてしまったの? それとも、やっぱり怒ってるの? 花瓶を投げたこと……」 「花瓶……?」 まじまじと彼女の顔を見たギャラハンは、あっと叫んで二、三歩後ずさりした。 「なっ、なっ、なんでここに……?」 半年ぶりの再会だった。 |
朝もやがかかった街の中を、ルイーズはさまよい歩いていた。 彼女は途方に暮れていた。この街にはいまだに不案内で、いま自分がどこにいるのかもわからなかったのだ。16歳の今日まで、ひとりで外に出ることなど、数えるほどしかない。そういう育ち方をしていた。なにをするのにも、どこに行くのにも、お供がぞろぞろついていた。そんな窮屈な生活だったから、ひとりで好き勝手に歩きまわってみたいと、小さいころからいつも思っていた。実際、いままで何回か「脱走」したことがある。つかのまの自由を味わうのだが、毎回、すぐに見つかり連れ戻されお説教を聞かされた。それでも懲りないのが、ルイーズだった。 今回は意外とすんなり抜け出すことができた。ここ数日、婚礼の準備でいろいろな人の出入りが多くばたばたしているせいか、敷地内の警備が多少混乱しているのだ。日中神経をとがらせている警備の者たちは、どうしても夜間は気を緩めてしまうらしい。明け方近く、ルイーズは警備の隙をついて、うまいこと抜け出した。 もやが少しずつ晴れてきて、多少見通しがよくなった。すると、川の近くに来ていたのがわかった。 ルイーズはため息をついて、川岸の草の上に座り込んだ。朝露で濡れているのであまりいい気持ちはしなかったが、ぜいたくは言えない。だいぶ歩いたので、足も痛くなっていたのだ。 しばらく休んでいると、背後から、自分の方に向かってくる足音が聞こえてきた。なにかいやな予感とともに振り返ると、二人の男がもやの中から現れた。二人とも黒っぽい服に身を包み、大きな帽子のために顔がよく見えない。ルイーズは急いで立ち上がり、早足で逃げるように歩き出した。が、前方にも男が待っていて、挟まれるような形になってしまい、動けなくなった。 「そんなに急いでどこに行くんだ、ルイーズ・キャロライン」 前方の男が妙な外国訛りで言った。名前を言われて、ルイーズは驚いた。 「ひ、人違いでしょう? 私――」 「ずっとあとをつけてきたんだぜ。あんたは知らなかっただろうがね。何日も見張っていて、やっとチャンスが来たというわけだ」 つけられているとは、彼女は全然気がついていなかった。何日も見張っていた? 背筋がぞっとする。それでも、怖がっている様子を見せてはだめだと思い、強気に応戦した。 「何の用なの?」 「いや、たいした用じゃない。すぐ終わるよ。あんたを川に沈めるだけだから」 と、男は気軽な口調で答えた。 「冗談じゃないわ!」 言葉だけは強い調子で叫んだが、心の中は恐怖でいっぱいだった。とにかく、逃げなければ。ルイーズは不意をついてまた駆けだした。男たちの間をうまくすり抜けていけたかと思った。が、すぐに腕をぐいと掴まれ、乱暴に引っ張られた。 「痛い! 離してよ!」 「おとなしくしていればすぐ済むよ」 体の自由がきかない。男の汗ばんだ手で口もふさがれ、悪態をつくことさえできないのが悔しかった。 そのとき、 「あんたたち、なにしてるんだ! その子を離せ」 と、背後から若い男の声が聞こえた。 ルイーズを押さえつけている男たちは、外国語で二言三言なにか言葉を交わした。それから若い男に向かって言った。 「運の悪い男だ。見られたからには、いっしょに死んでもらおう」 ふたりが新参者に向かっていくのが見えた。そのあと、鈍い音がいくつか聞こえた。 「いいかげんにしろ! 人の命を簡単に考えるなよ、まったく」 ルイーズを押さえている手が離れた。彼女は草の上に放り出されたが、体が自由になり、やっと状況を目で確かめることができた。若い男がひとりで三人を相手に、速い動きでパンチを繰り出している。彼が悪漢連中より優勢なのは、ルイーズが見ても明らかだった。 男たちは、三人がかりでもこの男にはかなわないとわかったのだろう。リーダーらしきひとりの合図で、いっせいに別方向に逃げ出した。若い男は遅れた一人を追いかけた。が、もう少しで捕まえられるというところで、草に足を取られたのか、派手に転んでしまった。足の遅い男はその間になんとか安全圏に逃げ去った。 若い男は立ち上がったが、男たちが霧の中に消えるのを見ると、追跡をあきらめてルイーズのそばに歩いてきた。 「大丈夫かい? けがはない?」 ルイーズは服についた草の露を払いながら立ち上がった。 「ありがとう、おかげで助かったわ」 「なんだろうなあいつら。どうも、外国の人間みたいだったけど……」 彼が近くまで来て、ようやくお互いの顔が見えた。 ルイーズを助けてくれたのは、全体としてはこれといって特徴のない平凡な雰囲気の男だった。中肉中背、歳は二十代なかばといったところか。ただ、ひとつだけ印象的だったのは、晴れた空を思わせる青い瞳だった。 「どうして襲われたのか、心当たりは?」 「ないわ。知らない人たちよ」 「でもやつら、きみをどこかに連れて行こうとしていただろう」 なんだかしつこい男だ。あまり関わり合わないほうが良さそうだ。 「私なにも知らないの。それにあなたには関係ないでしょ。ほっといて」 「あ、俺は別に怪しい者じゃないよ。王立警察に勤めてる巡査だ。今日は非番なんだけど、もし良かったら話を……」 「王立警察?」 ルイーズの緊張はさらに高まった。 「うん。え?」 彼女はくるりと背を向け、逃げるように走った。王立警察だなんて、そのへんのごろつきよりまずい相手かもしれない。もし、自分のことがこの男に知られたら……。 「お、おい……待てよ。警察、嫌い? いや無理にとは言わない。でもなにか困ってて手助けになるんだったら――」 男は追いかけてくる。 「しつこいわね。なにも困ってないってば」 そう言いながら駆けていたルイーズは、しかし、突然めまいを起こし、その場にしゃがみ込んだ。 「ど、どうした? ぐあいでも悪いのか?」 「違うの……おなかがすいて……目がまわっちゃった」 巡査だという男はルイーズを背負い、朝の街を数分歩いた。やがて商店街にはいると、一軒の店の前で立ち止まり、ルイーズを背中からおろした。 「さあ、ここだ。開店前だけど、頼めばなにか食べさせてくれるよ」 店の看板には「フロンティア・パブ」とある。 「どうしたんだ?」 看板を見て呆然としているルイーズに、彼は尋ねた。 「あ、あのね……このお店、私、来たことがあるわ。今、思い出したの」 ルイーズはすっかり忘れていたのだが、看板を見たとたん、記憶がよみがえったのだ。あれは十年まえだったか……青いエプロンをした男の人の姿が、ぼんやりと脳裏に浮かんできた。 「へえ、そうなのか。前に、泊まったことでもあるのかな?」 そのとき入り口のドアが開き、眼鏡に金髪のおさげの少女が飛び出してきた。 「あらっ、ギャラハンさん早いんですね。事件ですかぁ?」 「あ、サリーちゃんおはよう。いや、今日は非番なんだ」 サリーはルイーズを見て、目を丸くした。 「ギャラハンさんが女の人を連れているなんて、それだけで事件ですぅ」 「おい、それはあんまりじゃないか?」 「するとこの人が犯人なんですねぇ」 「違う違う!」 むきになって否定する巡査に、サリーはいたずらっぽい笑顔を見せながら、 「私はこれから捜査にでかけるんですぅ。あとでお話きかせてくださいよぅ」 と言うと、スキップしながら行ってしまった。 「やれやれ。と、とにかく朝食だ」 困ったように笑って、彼は店に入っていった。ルイーズも続いて入ろうとしたとき、背後になにかの気配をふと感じた。振り返ってみたが、誰もいない。気のせいだったのだろうか。 店内では、赤毛の女性がにこやかに迎えてくれた。見覚えがあるような、ないような、不思議な感じがするのは、青いエプロンのせいかもしれない。 「おはようございます、ギャラハンさん」 「やあテムズさん、どうも。じつは朝のランニングの途中で――いや、とりあえず、悪いけどなにか食べさせてもらえないかな」 「じゃ、ハムエッグ作りますね。少し待っていてください」 そう言いながら奥に引っ込んでいった女性は、ルイーズより少し年上だろうか。ぼんやり考えていると、巡査が椅子を引いてくれた。 「さ、ここに座って」 巡査はルイーズに向かい合って椅子にかけた。 「さて、と。名前はなんていうの? 歳いくつ?」 ルイーズはむっとして言った。 「失礼ね。自分から先に名乗ったらどう? ギャラハッドさんとやら」 「あ、ごめん。ついいつもの癖で……。残念ながら、俺は円卓の騎士じゃないよ。ギャラハン・ホイットニーだ。王立警察第一捜査室に所属の巡査で、26歳独身。今はこの近くのアパートにひとりで住んでる。親父が近所にいるけどね。今日は非番で、朝のランニングの途中できみを見つけたというわけだ」 「私はルイーズよ。16歳になったばかり」 「ルイーズ……の先はなんていうんだい?」 さすがに、そう簡単に教えるわけにはいかない。 「秘密!」 「あ、そう。……まあ、とにかくどこかのりっぱなお屋敷のお嬢様というところだろうな」 「わかるの?」 ルイーズは驚いた。 「そりゃ、わかるよ。そんな庶民的な服を着ているけど、話しぶりとか態度が思いっきりお嬢様だし」 と、ギャラハンは笑った。 目立たないようにと自分では一生懸命町娘のふりをしていたつもりだったが、それがまったくの無駄だったのだ。ルイーズはがっかりした。 「で、いったいどうしたんだ? 家出、かな」 「う……どうでもいいでしょ、そんなの。あなたには関係ないわ」 「そうはいかないだろ。いまごろ家の人が心配しているよ、きっと」 「心配なんて……家族は多いしみんなそれぞれ忙しいし、ひとりくらいいなくなってもしばらくは気がつかないわ。そうよ、私なんか……」 ルイーズの声のトーンが沈んできたのに気づいたのか、ギャラハンは雑談的な口調から、まじめな声に変わった。 「家族とのあいだで何かまずいことでもあったのかい?」 この人は、ヘンリーのように話をちゃんと聞いてくれるだろうか、とルイーズは思った。 「……なんだか、なにもかもいやになったの……家族も他の人もみんな、都合のいいように私を利用しているだけなんだって思って。私は姉様たちと違って美人でもないしおてんばだし気が強いし、誰も私を本当に好きになってくれているわけじゃないのに……お世辞言ったり妙に親切にしてくれたりして」 たったひとり、例外はいる。ヘンリーだけは違う。本当の友達だ。でも、その彼ともまもなく別れなければならない。 「それは……思い過ごしじゃないかな」 「あなたになにがわかるっていうの! 私……上の姉様より先に、外国の知らない男の人のところにお嫁に行かされるのよ。あと何日かたったら出発なの……」 思わず目に涙があふれそうになるのを必死にこらえてうつむく。 「そう……か、ごめん。いいところのお嬢さんもいろいろ大変なんだな。でもさ、一度そのこと、話し合ってみたら?」 ルイーズは首を横に振る。 「無理よ、もう決まっていることだし。話してどうにかなるものなら、とっくの昔にそうしてるわ。どうにもならないから、最後の手段で……」 「家出して、あとどうするつもりだい?」 「この街の中の人にまぎれて、のんびり気ままに暮らすのもいいかなって……」 「きみが思うほどのんびり生きているわけじゃない。けっこう大変なんだよ」 「でも、自由に気楽に生きているように見えるわ。あなただって」 「え、俺? ……俺なんか、この歳になっても彼女いなくて……いやそれはどうでもいいんだけど、これでも昔はいろいろあったよ。じつは親とうまくいかなくて、家を飛び出したりしてさ……つまり誰かさんと同じなんだな」 ルイーズは驚いた。のんきな顔をしているこの男は、とてもそんなふうには見えないのに。 「なによ、それなのに私には家に帰れというの?」 「うん、それなのにっていうか、それだからというか……」 ギャラハンは一瞬、ためらうように口をつぐんだが、すぐに話を続けた。 「俺も人一倍丈夫なだけがとりえで頭悪くてさ、よく兄ふたりと比べられてたから、きみの気持ちはわからないでもないよ。にいさんたちは優秀でいい学校に行ったんだけど、体が弱くて、ふたりとも二十歳前に死んじまったんだ。二番目の兄貴の葬式のとき、俺が丈夫なのは兄さんたちの健康を横取りしたからだ、お前が殺したんだ、って母親になじられて、頭に来て家を飛び出した。でも……そのうち、やっぱり親の老後の面倒見るのは俺しかいないんだと思って、猛勉強してなんとか警察官になれたんだ」 彼の話しぶりは、内容のわりにはなんだか楽しそうだった。へんな人、とルイーズは思った。 「ふーん……お人よしね。私ならそんなひどいこと言う親、ほっとくわ」 ギャラハンは苦笑いした。 「そうもいかないだろ。それに、おふくろとは最後までうまくいかなかったけど、少なくとも俺を産んでくれたことには感謝してる。生まれてこなかったら、この世の中のいろんなことを経験できなかったし、友達もできなかったしさ。……これで運が悪くなけりゃ最高なんだけどな」 「でも、どうして警察官になったの?」 そう言いながら、彼女はまたヘンリーのことを思い出した。彼はいま王立警察の上層部にいる。この巡査よりもかなり年上で、もっと威厳があるのだが、なんだか少し感じが似ている、と思った。不思議なもので、それだけのことで、この巡査に対する警戒感が薄らいでくるのだった。 「ああ、それは昔……うん、もう十年くらい前かな、ちょっとした人助けをしたことがあるんだ。そのときある巡査が俺のことをずいぶんほめてくれて、なんだか嬉しくなっちゃってさ。それまでろくにほめられたことなんてなかったから……あのときのことがきっかけなんだろうな、きっと」 「ずいぶん単純な理由ね」 ルイーズが突っ込む。 「あはは、まあね。人生なんてそんなものさ」 気楽に笑うギャラハンを見て、なんとなく腹立たしくなってきた。やっぱりヘンリーとはだいぶ違って、いいかげんな男みたいだ。それとも街の人間というのは、みんなこんなふうなのだろうか。小さい頃から重荷を背負った自分の生き方など、きっと理解してもらえないのだろう。そんな気がしてきた。 「あなたはそれでいいのかもしれないけど、私はちっとも幸せじゃない。おとうさまもおかあさまも忙しくてめったに話なんかできないし、ほかの人たちは決まりきったつまらないことしかやらないし。こんな生活もういやなの」 「まあ、そう言わずにとにかく今日は家に帰るほうがいいんじゃないか。送っていくよ」 「いやよ」 「でも……」 「帰らない! 家に帰されるくらいなら死んだ方がましよ」 「いいかげんにしろ!」 ギャラハンの大声に、ルイーズはびっくりして黙り、次の瞬間思わずわっと泣き出した。 「あ……! しまった、つい……ええと」 ちょうど料理を運んできたテムズが、口を挟んた。 「ギャラハンさん、だめじゃない! 女の子をどなりつけたりしちゃ」 「ご、ごめんよ悪かったよどなったりして。……泣かないでくれよ」 ギャラハンのうろたえぶりがおかしくて、ルイーズは泣きつづけていられなくなった。でも、せっかくなのでそのまま泣き真似をする。 ギャラハンは少し優しい声になって、諭すように言った。 「あのさ、ほんとは死んだ方がましだなんて考えてないんだろ? あんまりヤケになるなよ。このへん最近治安がよくないし、気をつけないと悪いやつにつけ込まれたりするんだよ」 もちろん、ルイーズも死にたいなどとはこれっぽっちも思っていない。ちょっとおおげさに言ってみただけなのに、彼が本気で心配してくれているようなので、少し気の毒になった。 「それに、生きていればきっとなにかいいことあるよ。どんな境遇にいたって」 ルイーズはようやく顔をあげた。涙を拭いて、 「私……もう、どうしたらいいのかわからないの」 と、小さくつぶやく。 「でも帰りたくない。帰さないで、お願い」 「いや、そう言われてもなあ……」 頭をかきながら考えるギャラハン。 「まあ、とにかく食べてください。おなかがすいていたら、いい考えは浮かばないわよ」 テムズがお皿を並べながら言った。 「そういうわけでテムズさん、この子、一晩泊めてやってくれないかな」 結局、ルイーズが粘り勝ち、ギャラハンはあきらめたのだ。 「もちろんお客様は歓迎ですよ」 とテムズ。 「ちょっとわけありそうなんで、よろしく頼むよ……特にサリーちゃんには、その――」 「わかったわ。そうね、ギャラハンさんの親戚とでも言っておくわ」 テムズはさらりと答え、ルイーズに向かってやさしい笑顔を見せた。 「お部屋にご案内します。こちらにどうぞ」 そう言って彼女は階段に向かう。 「あ、じゃあ俺、これからおやじの家に行くけど、帰りにまた寄るからさ。少しゆっくりして、頭を冷やして、なにかいい方法を考えようよ」 ギャラハンはそう言って入り口のドアに向かった。 「あ、あの」 ルイーズの声が彼をひきとめた。 「え?」 「どうしてそんなに親切なの? 今日初めて会ったばかりなのに」 「警察官は、市民を守るのが仕事なのさ。じゃ、また」 ギャラハンは少年のように屈託のない笑顔でそう言い、行ってしまった。ルイーズはほんの少し、心細さを感じた。自分は彼に頼ろうとしていたのだろうか? テムズのあとに続こうとしたルイーズは、ふと、カウンターに目をやった。折りたたんだ新聞――『南部公園墓地で"早すぎた埋葬"事件』という見出しが読めた――の横に、写真立てが見えた。男性の写真。見覚えがある顔。 「あ、この人……!」 「はい?」 「この写真の人、ここのご主人?」 テムズはうなずいた。 「ええ、先代の店主です。私の父です。四年ほど前に亡くなりましたけど」 「あ……そう……だったの」 会えるかと少し期待していたので、ショックだった。 「あの、なにか?」 「昔……この人に、ホットミルクをごちそうになったことがあるの」 「父に? じゃ、前にも泊まってくださったことがあるんですね」 「そうじゃなくて、ちいさかったころ、この近くで迷子になっちゃって……泣いていたら、親切な人が、おまわりさんを呼んでくるからここで待っててって。待っている間、このご主人がミルクを出してくれたのよ」 「まあ、そんなことがあったんですか……こうして泊まってくださるのも、なにかの縁でしょうか」 テムズが穏やかに微笑む。 「そうかもしれないわね」 できることなら、ここにしばらく泊まっていたい。そんな気になった。 いつもルイーズが使っているベッドに比べると、フロンティア・パブの客室のベッドはかたくて体が痛くなりそうだった。けれど、徹夜したあとなので、ぐっすり眠ってしまった。昼寝から覚めた時には、もうすでに窓の外は薄暗くなっていた。 お昼ご飯を食べ損ね、またしてもおなかがすいていたルイーズは、食べ物を求めて階下へ降りていった。テムズがテーブルを拭いていた。 「あら、お目覚めですか。お茶でもいかがですか」 こちらがなにも言わないうちに、店主は手際よくお茶の支度をしてくれた。 「さっき、ギャラハンさんが来たんですよ。でも、ルイーズさんがお休みになっていたので、帰りました。また明日、来てみるって……」 そういえばまたあとで来ると言っていたのを、すっかり忘れていた。無駄足をさせて申し訳なかったかもしれない。 のんびりお茶を飲んでいると、ドアベルが鳴り、一人の男がなにか大きな袋を担いで店に入ってきた。黒髪で背の高いその男は荷物をカウンターに置いた。 「買い出し終わったぞ、テムズ」 「あ、おかえりなさいウェッソン。ありがと」 店の従業員だろうかとルイーズは思った。 「ところで、なにかあったのか? 見慣れない男たちが数人、そのへんをうろうろしているんだが」 「さあ、知らないわ。どんな人たち?」 「なんか黒っぽい服と帽子だったな」 ルイーズは朝の事件を思い出した。まさかあの連中がまだ……? あの外国語は、どこかで聞いたような気がする。しばらく考えたルイーズは、自分がお嫁に行くニードルランドの言葉に似ていると思った。 彼らが自分の命を狙っているのは、間違いなさそうだ。理由はわからないが、もしかしたら今度の結婚となにか関係があるのだろうか。警察に――ヘンリーに来てもらえば、身の安全は保証されるだろう。そのかわり、人生で最後になるかもしれない自由な時間を失い、連れ戻される。どちらを選べばいいのか、まだ決心がつきかねていた。 落ち着かないルイーズの様子に、勘違いをしたらしいテムズが言った。 「あ、心配しなくて大丈夫ですよ。ただ、紳士じゃないお客さんがたまーに来るので、ルイーズさんのお食事はお部屋までお持ちしますね」 翌朝早く、ギャラハンがまたやってきた。部屋に入ってきた彼は、きのうとはうってかわって、厳しい顔をしている。 ルイーズは覚悟した。もう、この巡査にも伝わってしまったのかもしれない。ヘンリーは仕事の手際がよいのだ。 「きょう出勤したら、昨日付けで捜索命令が出ていた。特徴がきみとぴったり合うんだ。全ての部署に緊急最優先で命令がでている上、肝心の名前が伏せられている……ということは、重要人物だということだ。かなりの家柄のお嬢様なんだろう? これ以上ことが大きくならないうちに、家に帰るほうがいい」 「私をつかまえに来たの?」 「そうじゃなくて、自主的に帰ってほしいから、説得しに来たんだ。じつはきのう俺がきみを背負って歩いていたところを、同僚の刑事に見られていた。けさ、さっそく問いつめられて困ったよ……なんとかごまかして抜け出してきたんだけど、途中で何人ものパトロール巡査に会ったから、ここにいることももうじき知られちまうだろうな。とにかく、みんなよりも先に、きみと話がしたかった」 まだ帰りたくない……。ここに一晩泊まっただけで、なにもしていないのだ。このままではギャラハンに連れて行かれてしまう。なんとかしなくては。ルイーズは考えながら、テーブルの花瓶に手をかけた。 「それからもうひとつ、例の怪しい外国人の件でも、外務省から連絡が来ていると――うわっ」 ルイーズが花瓶を突然投げつけたので、ギャラハンはとっさにそれをよけようと体をひねった。花瓶が砕ける音を聞きながら、ルイーズはすばやく窓枠にのり、屋根に上り始めた。 屋根の上、おてんばルイーズは身軽に歩き出す。と、そのとき。大きな銃声とともに、屋根の瓦が一枚はじけ飛んだ。 「え、なに?」 驚く彼女の耳に、さらに同じような音が続いて聞こえた。屋根が、割れるような音を立てている。 「きゃ……」 思わず立ちすくむ。 窓から外をのぞくギャラハンの頭。彼が見ているのは、フロンティア・パブのはす向かいの建物らしい。ルイーズもそちらを向くと、三階の窓に、拳銃のようなものを構えてこちらを狙う黒服の男の姿が見えた。三人ほどいる。たぶん、きのうの連中だ。 「ルイーズ!大丈夫か」 ギャラハンが上を向いて呼んだ。 そのとき、店の前の道を、制服私服入り交じった警官らしき一群が駆けてくるのが見えた。ギャラハンは彼らに叫んだ。 「警部! そこのアパートの三階です! 銃を持ってるのが二人くらいいます」 警官たちの一部がすぐさま向きを変え、そちらに向かう。だが狙撃手は慌てる様子もなく、ルイーズを狙って撃ってきた。 「屋根の向こう側に隠れるんだ」 とギャラハンが屋根に上りながら大声で言う。しかしルイーズは恐怖で足がすくんでしまって動けない。またすぐ近くで屋根に穴が開いた。 このままではだめだ、とルイーズは必死の思いで、なんとか一歩踏み出した。が、その瞬間、足を滑らせた。 「きゃあ!」 屋根から落ちる、もう終わりだと目をつぶった瞬間、右腕を強く引っ張られて落下がとまった。驚いて目を開けると、視界の端を、なにか黒っぽいものが落ちていった。 ギャラハンの大きな手が、ルイーズの腕をしっかり掴んでいる。 「がんばれルイーズ。そっちの手も……」 肩の関節が抜けるかと思うほど痛かったが、ルイーズは我慢して精一杯左の手を伸ばした。その間も、銃声はやむことがない。瓦がびしびし音を立てて割れ、落ちていく。恐怖で口もきけず、ただ手を伸ばすだけだった。二人の両手がつながった。 ふわっと上に飛んだ気がしたが、すぐにルイーズはギャラハンの腕のなかにすぽっと収まった。 ギャラハンはルイーズを抱いたまま駆け出し、となりの家の屋根裏部屋の窓を蹴破って飛び込んだ。聞こえる銃声が少し小さくなった。 勢いで床に転がったルイーズは、ようやく、自分が助かったことを理解した。 「けがは……ないか」 押し殺したようなギャラハンの声にいやな予感がして、彼の方を振り返ったルイーズは、小さな叫び声を上げた。 「きゃっ……」 ゆっくり体を起こしたギャラハンは、血まみれになっいる。服の何か所かに穴が開いて、そこから鮮血が流れ出していた。 「ど、どうして? 私にはひとつも当たらなかったのに」 ギャラハンは近くの壁にもたれて座り込み、 「どうも、こうなるんじゃないかって気がしてたんだよ……俺……いつもおそろしく運が悪いんだ。でもおかげできみにけががないなら、よかった」 と、あきらめたような笑顔で言う。 「なぜ私をほうっておいて逃げなかったの? ……こんな……こんな……」 ルイーズは半分泣きながらギャラハンのそばに寄る。 「きのう初めて会ったばかりなのに……赤の他人のためにこんなになっちゃって……バカよあなた」 そう言いながらも、傷から流れる血をなんとか止めようと、自分のストールを取って傷口に当てた。しかしそれはすぐに赤く濡れていき、ルイーズの白くほっそりした指先をも染めていく。もう、どうしたらいいのかわからなかった。 「……きのうも言ったけど、市民を守るのが警察官の仕事だ。それに……もしかしたら、きのうはじめてじゃないんだ……十年前……」 「え?」 ギャラハンの言葉がとぎれ、低いうめき声に変わった。ルイーズは身が切られるような思いがした。 「ごめんなさい! ごめんなさい! 私のせいで……私のわがままのせいでこんなことに」 「い……言っただろ、丈夫なのだけがとりえだって。大丈夫、心配しなくていいよ。それより君はどうして……命を狙われなければならないんだ」 「それは……」 そのとき、階下から聞こえてくる声と大勢の足音。 「この上か?」 「急げ、屋根裏部屋だ」 ギャラハンは舌打ちすると、ふらつきながらも立ち上がり、部屋の隅に立てかけてあった箒を手にした。ドアに向かって立ち、それを構えようとする。しかし、すぐに箒を取り落とし、膝をついてしまった。もう、立っていることすらできないようだ。 ルイーズはたまらず、その箒を取り上げ、ギャラハンをかばうようにして立った。ギャラハンがなにか言ったが、声が小さくてよく聞こえなかった。ドアがあいた瞬間、ルイーズは相手の頭めがけて思いっきり箒を振り下ろした。 「いてっ!」 手応えがあった。ルイーズはそのまま勢いをつけ、何度も何度もその男を叩いた。怖い、などと思っている余裕はない。必死だった。しかし、別の男に腕を押さえられた。 「おやめください、ルイーズさま!」 その声に聞き覚えがあり、ルイーズは抵抗をやめて声の主を見た。 「ヘンリー?」 王立警察副総監、ヘンリー・ブラッドフォード。彼の登場はいつも、ルイーズの小さな冒険の終わりを意味していた。今度もやはりそうだった――そして、この次はたぶんもうないのだ。 「彼はうちの警部です」 何度も頭を叩かれた男は困ったような表情で、頭をさすりながらルイーズに会釈した。うろたえるルイーズ。 「ご、ごめんなさい……私……」 「そのご様子ではお怪我もなくお元気なようで……」 ルイーズの腕を放し、ほっとしたような顔で副総監は言った。 「グレゴリー警部」 と、ギャラハンが警部を見てかすれた声を出した。 「ギャラハン、おまえ……」 警部はなにか言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。 「じっとしていろ、今傷を縛るからな」 彼はひざまずき、ギャラハンの傷の応急手当を始めた。 「早く、早く医者を呼んでちょうだい!」 ルイーズが泣きそうな声で叫ぶ。副総監はうなずいた。 「今、呼びに行っています。ですがそのまえに――」 「またひどくやられたな。追い打ちをかけて悪いがギャラハン」 警部は静かに告げた。 「誘拐の容疑でお前に逮捕状が出ている」 「そ……そんなぁ……」 情けない泣き声を出すギャラハン。 「お前がそんなやつじゃないことは、もちろんわかっている。だがな、今朝のお前の行動は疑われても無理ないぞ」 「はあ……そうですよね、自業自得です。でも……ああ……今日は最悪だよもう」 「お前を撃ったやつらは今レドウェイトが追いかけている。……すぐに医者が来るから、がんばれ」 このやりとりを聞いたルイーズは、あわてて副総監に抗議した。 「彼は誘拐犯なんかじゃないわ。それどころか私の命の恩人なのよ。すぐに取り消してちょうだい」 「お待ちください。お話はあとでくわしく伺います」 「私が勝手に抜け出してきたのよ。まいどのことだもの、あなただってわかっているでしょ? なにが問題なの」 「そうはおっしゃいましても王女……」 「おう……じょ?」 ギャラハンがびっくりした顔で彼女を見た。ルイーズは、心の奥が痛んだ。今まで黙っていたこのことを、ギャラハンはどう思っただろうか。騙されたような気がしているだろうか。 「そう……だったのか……なんてことだ……俺は」 彼は声を震わせながら言った。 「許してくれ……きみが特別な立場にいることも……何も……知らずに、いろいろ酷なことを言ってしまって――」 ルイーズは首を横に振った。 「どうして謝るの? 私……嬉しかったわ! 普通の女の子として扱ってくれて……いままでそんなことなかったから……謝るのは私のほう……」 数人の警官が階段を駆け上ってきて、警部に報告をする。 「四人とらえました。やはりニードルランド国の某大臣の手の者かと……。近くに仲間がまだ潜んでいないか、レドウェイト警部が捜索を続けています」 「そうか、わかった。王女をお送りする馬車の準備は?」 「たった今、この店の前につけました。それと、医者も来たようです。ここによこしますか?」 「ああ、頼む。副総監殿、馬車の用意ができたそうです」 副総監はうなずいた。 「ではあとは任せる。外交問題に発展しそうなので、取り調べは慎重に特別体制で行うことになるだろう。すぐに担当を行かせるので、打ち合わせてくれ」 「了解しました」 傷の応急手当を受けているギャラハンを心配そうに見つめていたルイーズに、副総監は声をかけた。 「王女、宮殿までお送りいたします」 「私はまだここにいるわ。ギャラハンのそばに」 「いえ、発見しだい宮殿にお連れするようにとの、女王陛下のご命令ですので」 「ヘンリーお願い、せめてもう少し……お医者さまが来るまで」 「医者はすぐに来ます。さあ、どうか」 「でも!」 そのときギャラハンが血の気の失せた顔を上げて言った。 「ルイーズ……帰って、おかあさんと……仲直りを……」 まっすぐルイーズを見つめる澄んだ青い瞳は、必死に何かを訴えていた。 「俺のようにはならないでくれ……それに――」 彼は咳きこみ、警部の腕に支えられながら、苦しそうに息をついた。 「それに……どこに行ったって……幸せは見つけられる……あ……あきらめないで……」 思わずルイーズはこう答えた。 「あなたの言うとおりにするわ……私……」 それを聞いてギャラハンは安心したような笑顔を見せたが、そのまま目を閉じてしまった。 「ギャラハン……!」 医者が駆け上がってきたので、ルイーズは場所を譲った。副総監が再び言う。 「あなたがこれ以上ここにいらしても、なにもできることはありません。それより、彼の容疑を晴らすために、馬車の中でお話を伺いましょう」 ルイーズはあきらめてうなずき、副総監の腕に抱えられるようにして、階段を下りていった。 馬車の中でルイーズは自分の体験したことをすべて話した。ヘンリー・ブラッドフォードは静かに彼女の話を聞き、いくつかの質問をした。それから今度は彼が話す番になった。 副総監の話というのはこうだ。ニードルランドの大臣のひとりが政治的な立場から、皇太子とルイーズの結婚に反対していた。彼は自分の擁立したお妃候補が敗れたため、なんとしてもこの結婚を阻止しようと、非人道的な行動に出た。つまりルイーズを暗殺するための刺客をこの国に差し向けたのだ。刺客といってもプロの殺し屋ではなく、大臣の秘書だの事務所の若い者だのの寄せ集めだったらしいが。ニードルランド本国でこのことが発覚し、すぐに外務省を通じて連絡がきた。しかしそれがヘンリーの耳に入ったときには、すでに王女は宮殿を脱走していた……。 馬車が宮殿に着いたあとの数時間は、ルイーズは上の空だった。メイドが泣き出したり、女王が抱きしめてくれたり、教育係はお説教ではなく、いたわりの言葉をかけたりしてきたが、ぼんやりとしか覚えていない。ようやく我に返ったのは、薄暗くなった廊下を歩いてくる副総監の姿を見つけた時だった。 ルイーズはせきこんで尋ねた。 「ヘンリー、彼は釈放されたのね? けがのぐあいはどう?」 しかし副総監の表情は沈痛なものだった。 「じつは……手続き中に知らせが来まして……手術後まもなく死亡したとのことです……」 ぞっとするような悪寒が体を走った。今のは聞き間違いであってほしい、と思った。 「うそ……うそでしょう?」 ヘンリー・ブラッドフォードは静かに首を横に振った。ルイーズの目の前は真っ暗になった。 ふるえながら泣いているルイーズに誰かが声をかけた。 「きみ、どうしたの? どこの子?」 「ルイーズっていうの。帰れなくなっちゃったの」 泣きながら、ルイーズは答えた。 「まいごになっちゃったんだね」 抱き上げてくれたのは、十五かそこらの少年だった。 フロンティア・パブの看板と、ドアベルの音。 「おまわりさんを呼んでくるから、ここで待ってて」 椅子に座らされた。 青いエプロンをつけた男の人が近づいてきた。 「外は寒かっただろう。これを飲みなさい。元気になるよ」 ホットミルクのにおい。 「ありがとう。いただきます」 あたたかくて、おいしいミルクだった。 ルイーズは夢から覚めた。そして思い出した。6歳のときに、訪問先から脱走して街を歩き回ったあげく迷子になった自分を助けてくれたのは、空のように青い瞳を持った少年だったことを。 「あれが……あなただったのね……」 だからあのとき、彼は、はじめてではないと言ったのだ。 「うそつき……人一倍丈夫だから心配するなって言ってたくせに……死んじゃうなんて」 涙が頬を伝ってつうっと流れていくのがわかった。 「ルイーズさま、大丈夫ですか?」 と、声がした。ルイーズは、副総監と侍医のひとりがのぞき込んでいるのに気がついた。 「あ」 ルイーズはゆっくりベッドから起きあがった。 「私……がらにもなく、気絶してた?」 副総監はうなずく。 「申し訳ありません、王女。私がもっと慎重に言葉を選んでお話しするべきでした」 「あなたが謝ることはないわ。どんな言い方をしたって……同じことよ」 そう言いながら、涙を拭う。まだ信じられない。しかし、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。 「ヘンリー……彼は、少しあなたに似ていたの」 「え? 私に、ですか?」 副総監は驚いた顔をした。 「似ていたの。澄んだ瞳をしていて、優しくて、私の話をちゃんと最後まで聞いてくれて、自分のことのように一生懸命心配してくれたの……そうよ、生きていれば、そのうち警視副総監くらいになったかもしれないわ」 「そうですか……彼は副総監にはなれませんでしたが、巡査部長になることが決まりました」 「巡査……部長?」 「極めて異例ですが、一階級特進を急遽決めました」 「死んでから昇進したって意味ないわ……」 「おっしゃるとおりです。ただ、遺族への見舞金の金額が上がります。彼はひとり息子でとても父親思いだったと聞いているので、せめてそのくらいはしてやりたいと思います」 「ひとり息子じゃないの……お兄様がふたり、早くに亡くなったんですって」 たったひとり残った息子にも先立たれた父親は、どんなに悲しい思いをしているだろう。ルイーズの胸の痛みが増した。 しばらくのあいだ、黙って心の中で泣いていた彼女は、やがて顔を上げ、副総監に言った。 「ヘンリー……私も……せめて私にできることを一生懸命やるわ。そうすることがあの人への恩返しに……あるいは償いになるなら。彼が立派に職務を果たしたように、私も……」 深呼吸をする。自分のすべきことはわかっていた。おそらく、生まれたときから決められていた運命。逃げていても何も解決しない。 「ニードルランド皇太子妃になって、しっかりつとめを果たします」 三日後、旅立ちの日。空はよく晴れていた。 狙撃の件で婚礼を延期すべきだとの声もでたが、ルイーズの強い希望で予定通りに出発することになった。黒幕と言われるニードルランド国の某大臣は、すでに身柄を拘束されているとのこと。先方でもルイーズの決断を歓迎し、万全の体制で花嫁の到着を待っていた。 副総監に聞いた話では、ギャラハンの葬儀は明日行われることになっていた。参列できないのは残念だったが、そのほうがいいような気もした。心のどこかでまだ彼の死を受け入れられなかったのだ。 あしたのいまごろ、ギャラハンは「巡査部長」として、同僚や友人たちに見送られるはずだ。そんなことを考えながら、窓の外の、雲一つない空を見上げる。 「あなたはそこにいるのかしら……」 やがてすべてのしたくがととのい、食事の後は出発の時間を待つだけというころ、警視副総監がルイーズを訪ねてきた。 「よく来てくれました、ヘンリー。最後に会えて嬉しいわ」 「ああ、申し訳ありませんお忙しい時に……じつは……その、今申し上げるべきかどうか迷ったのですが――」 汗をかき、息を切らしている。ずいぶん急いで走ってきたのだろう。 「あ、あの、ホイットニーが……なんと葬儀の準備中に息を吹き返しまして」 「えっ?」 「棺が突然ガタガタ動き出したので、その場にいた連中はもう大騒ぎだったようです。医者が言うには、その……むずかしい状態ですが、回復の可能性はあるとのことです。いや、丈夫な男だとはきいていましたが、まさかこんなことになるとは」 ルイーズは副総監の話がにわかには信じられなかった。 「本当……なの?」 「ええ、私も警察病院まで行って確認しました。ただ……意識ははっきりしていないようです」 奇跡が起きたのだ――いや、ギャラハンは嘘をつかなかったのだ。驚きと喜びで体が震えだし、胸の鼓動が早くなった。それをなんとかこらえ、壁の時計をちらと見て、ルイーズは副総監に言った。 「病院に連れて行ってください。私も一目でいいから会いたいの」 「えっ、い、今からですか? しかし――」 「急いで行って戻ってくれば、出発までには間に合うわ。お願いヘンリー」 「私はかまいませんが、女王陛下がお許しくださるかどうか」 「すぐにお許しをもらってくるわ! 馬車を玄関につけて待っていて」 そう言うと、ルイーズは副総監を残して廊下を駆け出して行った。 白っぽい天井と壁に囲まれた部屋の中。ギャラハンは死んだように横たわっていた。彼の青い瞳は、今は閉じたまぶたの下に隠されている。毛布の胸のあたりがわずかに上下しているのが、生きている唯一の証のように思えた。 ルイーズは彼の手にそっと触れた。ひんやり冷たい。フロンティア・パブの屋根の上で掴んでくれた手は、もっと温かかったのに。 「ギャラハン……」 そっと呼んでみても、なんの反応もない。 「棺から出てきたかと思ったら、ばったりと倒れてそのまま……今はこういう状態です。明日目覚めるか、一ヶ月先か、一年先か……まったくわかりません」 と、副総監は言った。 「そう……でも……どんな境遇にあっても、生きていれば、きっといいことがあるって……ギャラハンは言ってた」 ルイーズはギャラハンの冷たい手を握り、彼に話しかけた。 「本当は、あなたが良くなるまでずっとそばにいたいけれど、私、もうニードルランドに行かなくちゃならないの。あなたが守ってくれた命、大切にして、そして自分のつとめを果たします。だから……あなたも早く……早く元気になってちょうだいね……遠くから毎日祈ってるわ」 彼女は優しい声でささやくように言うと、副総監のほうを振り返った。 「彼のこと……よろしくお願いします」 「もちろんです。意識が戻ったら、まっさきに、王女がお見舞いに来てくださったことを伝えます」 「ありがとう、ヘンリー。あなたにはいくら感謝しても足りないわ……最後まで迷惑をかけてしまってごめんなさいね」 ルイーズはもう一度ギャラハンの顔を目に焼き付けるように見つめ、そして病室をあとにした。 「ひどいわ。私はあの日から一日だって、あなたのことを思わない日はなかったのに」 ルイーズはちょっぴりすねたような口調で言ってから、お茶を一口飲んだ。 「すまない……忘れていたわけじゃないんだ。あのときよりずいぶんきれいになっていたから、誰だかわからなかった」 応接室のふかふかソファーに居心地悪そうに腰掛け、ギャラハンは一生懸命言い訳をした。 「きっと、今は幸せなんだね。よかった……心配してたんだ。結婚するの、いやがってたみたいだから」 彼はあいかわらず、青い瞳でまっすぐに見つめる。そして、あいかわらず、親しげに話しかけてくれる。ルイーズにはそれが嬉しかった。 「幸せよ。あなたに勇気をもらったから。それに、皇太子殿下はとても優しいの」 「さっきは本当に驚いた……もう一度会えるなんて思っていなかったんだ。別世界の人だし」 ギャラハンはそう言いながら、頭をかく。 「じつはね、こっそり抜けてきたの」 「ええっ?」 「せっかくの里帰りなのに、スケジュールがいっぱいで自由な時間が全然ないのよ。今頃また捜索命令がでているかも」 「それはまずいよルイーズ……俺はまた誘拐容疑で逮捕されちまう。副総監だってただじゃ済まないだろう」 あわててギャラハンは立ち上がった。 「やだ、冗談よ。ちゃんとことわってあるから大丈夫」 ルイーズは楽しそうに笑った。 それを聞いてまた座り直すギャラハン。ルイーズは半年前と同じように、ギャラハンの手をそっと握った。今日の彼の手はあたたかい。 「ちゃんとお礼を言っておかなくちゃ、と思ったの。会えるのはこれが本当にもう最後かもしれないけど……あなたのことはずっと忘れないわ。ありがとう。私の命と……心を救ってくれて」 それを聞いたギャラハンは照れたような笑顔を見せた。 「そんなたいそうなことしてないよ、俺は……。でも、なにかの役に立ったのなら、よかった。警官になってよかった」 ルイーズは、言葉にならない――むしろ、言葉にしてはいけない――思いが胸をよぎるのを感じた。それをそっと心の奥底にしまい込み、ただ優雅な微笑みを浮かべる。 「これからも、市民を守り続けてください……お元気で」 ギャラハンは例の明るい青い目で彼女をじっと見つめ、 「きみも……いつまでも幸せに」 と静かに言って手を握りかえし、そして離した。 おしまい |