And others 22
Fortune 2

Contributor/哲学さん

《Fortune 1
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 ――森の中にいる。

「アリスト。あなたには私の名前を継いで貰うわ」
 母の嬉しそうな声。
 彼は子供心に不思議に思う。
「……名前?」
 名前なら既にある。父から貰った家の名と、彼自身の名、そして、神の前で名乗るべき名前。
「そう、とっても大事な、私達が守り続けてきた名前。力があって、命のある名前」
「母さんのファミリーネーム?」
「いいえ、似てるかも知れないけど、全然違うの」
 首を傾げる息子に対し、母は優しく微笑む。
「いい? 名前には大事な意味があるの。それは自分自身の存在、その特性を表すのよ。言ってみれば……名前があるから人間は生きていけるのよ」
 ジプシーであった母の言葉はいつも意味深である。
 だが、その言葉の正確な意味は分からずとも、感覚的に話の要点の様なものは幼い彼にも分かった。
「じゃあ、名前がなかったら……死んじゃうの?」
 何気ない言葉。
「いいえ、多分それはないでしょうね。草木は名前が無くても生きていけるもの」
 もっとも、本当は名前があるのだけれどね、と母は付け足す。
「でも、人として生きられないでしょうね」
 母の言葉に、思わず薄ら寒いものを感じる。
「え、えぇっと……」
「名前があるって言うことは、それを呼ぶ誰かがいると言うこと。人は誰かを名前で覚えるわ。顔や性格を覚えていたとしても、名前が出てこなければ、結局その人をちゃんと覚えていることには成らない。人は名前を覚えあい、呼び合うことで生きていけるのよ。だから……」
 母はしゃがみ込み、幼いアリストの頬を両手で撫でる。
「あなたの名前を呼ぶ全ての人を大事にしなさい。その名前が消えない限り、あなたは生きていけるでしょう」
 幼い彼にとって母の言葉は絶対の真理だ。
「うんっ!」
 彼は強く頷き、その言葉を深く心に刻み込む。たとえ何があっても忘れないように。
「そして、これからあなたに渡す名前。これは精霊との契約。使いの御名」
「精霊……この子達のこと?」
 彼は小さな両手を広げ、クルクルと辺りをまわる。
 二人は領内の森の中にいた。狩りには不都合な、深すぎる森の中を綿のような光が、明らかな意志を持ってそこら中を浮遊している。
 その光は、ある時は人の姿をなし、ある時は羽根のようにゆらゆらと風の流れに身を任せ、周囲を漂う。
 アリストはその光の名前を知っている。
 ――精霊。
 美しきこの世界の幻想。生まれた時からずっと、彼と共にいるもの。
「ええそうよ。この名前があれば、あなたはもっと彼等と仲良くなれるでしょうね」
 優しく微笑む母。だが、その笑みはどこか悲しげである。
 幼いだけに、そう言う目に見えないことに敏感だったアリストは――しかし、何も言えずただ母の言葉を聞いていた。
「けれど、それと同時にあなたは辛い運命を背負うでしょうね。あなたは……最後なのだから」
「……最後?」
 母の哀しみが分からず、ただ彼は聞き返す。
「ええ、最後よ。あなたは精霊達に最後の仕事を与えなければならない。価値ある終わり、価値の死、そして安らかな眠りを与えなければならない」
「……終わり」
 命にとって、それは即ち、死である。他の生き物に死を与えること――それは自然界に置いては概ね、捕食のためだ。
 だが、母の言葉は何処か――そう、人間の殺人に似ている気がした。
「誰だって、最期はあるものよ。ただ、それはあなたの手で、彼等にもっとも相応しい『おわり』をあげて」
 それはとても難しいことだ。
 それはとても苦しいことだ。
 けれども、それが彼、アリストの――。  





運命


− Second day : ただ歩く −




 陽の光が射し込んでいた。
 森の中でのっそりとアリストは起きあがる。
「……あの夢を見せていたのは君かい?」
 彼は振り返り、背後にそびえ立つ大樹に話しかける。樹齢二百年程度。その木の精が恥ずかしそうに木の奥へと隠れていった。
 くすりと笑みを浮かべつつ、アリストは辺りの森を見回す。倫敦(ロンドン)特有の朝霧が周囲に広がり、その全貌は見えない。
 ――ハイド・パーク。かつてウェストミンスター寺院が所有していたのをヘンリー八世が買い上げ、後に市民へ解放され、公園となった場所だ。
 かつてここで王族が狩りをしていただけあって、その敷地はとても広い。
 例え昼間でも盗賊に襲われる危険な場所だ。
 そして何より、色々な場所に馬糞が落ちており、清潔な人間にとって、ここで寝泊まりするのは論外だろう。
 アリストはいつもの一張羅に着替えていたのでさほど気にしていないが。
 大きく息を吸い込み、呼吸を整える。
 そして、落ち着いた頭の中に再び夢の内容が浮かぶ。
「――価値のある最期。それが、最後の役目」
 しかし、とアリストは思う。
 この国を色々歩き回ったが、多くの精霊達は疲れ、静かに消えゆくことを選んだ。
 では、彼は何の為に旅をしているのか。
 旧き契約はその意味を失い、効力を無くしたのか。
 いいや、違うだろう。
 彼の名前は有効だ。確かに意味はある。
 彼は考えなければいけないのだ。彼等の最期を。
 そこから逃げ出すことは出来ない。
 かつて、彼はその終わりを認めるのがいやだった。
 この美しい世界に何故終わりが必要なのか。永きに渡る時代の流れは、何を持って彼等からその意味を奪ったのだろう。
 アリストには責任がある。それから逃れる方法はない。
 ――けれど。
 彼は懐から一枚のコインを取り出す。
 それはたった一枚の薄いコイン。
 しかし、それはとても重い死神への切符なのだ。
 生と死は等価値であり、いずれも尊き命の営みである。
 もし、彼が死んでしまったらこの美しい世界はどうなるだろうか。
 数多ある精霊達は消えなくてよいのではないか。
「…………」
 何か、腑に落ちないものを感じ、彼は立ち上がる。
 行く宛もなく、ただ彼は彷徨い始めた。



 二つの影が朝霧の中疾走する。
「どうしたテリー! 息が上がってるぞ!」
 黒い影が併走する黄色い影に接近する。
 それを僅かにかわし、カウンターの一撃が黒い影に伸びる。
 伸びた手は空を切る。まず一手。
 しかし、その手をフェイントに死角からのすくい上げるような左アッパー。これで二手。
 これも、相手の右頬を掠め、上がりきった左腕のせいで左側面ががら空きになる。
 その隙を逃さず黒い影が迫る。
 だが、それは罠。伸びきった腕をそのままに体を回転させ、右肘打ちへと持っていく。これが最後の一手。
 交錯は一瞬。
 気が付けば巻き毛の青年はあっさりと地面に倒れていた。
「アイタタタ……まいったッス。やっぱアニキにはかなわないッス」
 背中を押さえ、巻き毛の青年はギブアップを唱えた。結局、最後の一手も軽く流され、背中に痛烈な一撃を受けたのだ。
「やれやれ、今日の組手はこんな所か。でも……ま、遠征して来た手応えはあったな」
 嘆息しつつ、アニキと呼ばれた黒髪の青年。
 引き締まった筋肉はともすれば鈍重さを連想させそうだが、彼のそれは柔剛を兼ね備え、しなやかに、そして鋭く動く。それはさながら鍛えられた鞭のようである。
「ほんとッスか! ありがとうございますッス!」
 対する巻き毛の青年は恐らく師であろう黒髪の青年と比べればややかたさが残り、動きに無駄があるように見える。
 もっとも、それは師がいるからそう見えるだけであり、実際金髪の青年の実力は相当のものだろう。その動きの無駄があるとしても一流と言っても差し支えないものに違いない。
 ――あくまでも、素人の相対評価でしかないが。
「……と、見せ物じゃないんだが?」
 話しかけられ、アリストは肩を竦める。
「いいじゃないか、減るものでもなし」
 こんな早朝に人がいるとは思わなかったのだろう。その黒髪の――たぶん――格闘家は不快げに嘆息する。
「しかし――あんたは何もんだ? 乞食にしてはやけにこざっぱりしてる」
 上から下までざっと見渡した後、アニキは言う。
「なあに、ただの詩人さ。最近はもっぱら生きる意味を探してる」
 ヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべ、アリスト。
「生きる意味――ッスか」
「結局、死んじゃうのになんで生きるのかってことさ」
 ジャ、ジャンとギターを鳴らしてみる。
「さて、なんでだ? テリー」
「ええっ! オイラッスか! 船乗りには関係無いッス!」
 話を振られ、当惑する巻き毛――テリー。
「馬鹿。体だけでなく、心も鍛えないとダメだろうが」
 弟子を叱り、師はこちらに向き直る。
「ま、そんな大それたテーマを語れるほど俺も鍛錬は積んでないけどな」
「当然だね。生涯を通してそれを探していかなきゃ」
「……じゃあなんでオイラに聞いたんッスか」
 泣き言をあげるテリー。それに対し、アニキはキッパリと断言した。
「ノリだ」
「そんなぁ……」
 師の言葉にがっくりするテリー。
 まあ、無理もない。
「だが、そうだな。昔お釈迦さんはこう言ったそうだ。
 生きることとは苦しみである。
 ってな」
「……へぇ、それはまた後ろ暗い」
 お釈迦さんと言うのは彼等の武道の始祖なのだろうか。よくは知らないが、ともかくその話を聞いてみる。
「この世には奇跡もなければ、神もない。
 この世の苦しみを知り、それを乗り越え、悟りを開いたところに本当の幸福があるとお釈迦さんは言っている」
「つまり、この世には夢も希望もない、諦めろって事かい?」
 アリストの言葉に対し、アニキはそうだな、と小さく頷いた。なんとも救いのない話だ。
「その昔、お釈迦さんに子供が死んだ母親がどうしても、自分の息子を蘇らせて欲しいと懇願した。
 すると、お釈迦さんは『街に行き、死人を出したことのない家を探しなさい。あれば、その家からケシの実をもらい、それをその子に飲ませなさい。そうしたら蘇ります』と言った。
 そして母親は街に行って必死でそんな家を探したそうだ」
「……で?」
 よくある宗教ならば奇跡がおこり、息子は蘇るだろう。
 けれど、アニキの口振りからはそういうものは感じられない。
 では、どんな結末があるのか。
 アリストは期待と共に彼の言葉を待つ。
「ある訳ないさ、そんな家。どんな家でも死人は出てる。母親は何百軒まわってもそんな家を見つけることが出来ない」
「……で、母親はどうするッスか? お、オチがないんッスか!」
 弟子の言葉に師は肩を竦める。
「そんな家を探していくうちに母親は気付くのさ。
 人が死ぬのは当たり前。息子が死んで悲しいのは自分だじゃない。誰だってそんな哀しみを乗り越えて生きてるんだ。
 って言う風に悟るんだ」
 その言葉を聞いてテリーは頭をひねらせ、唸る。
「えーと、当たり前って気付いたらどうなるッスか?」
 そんな弟子の言葉にアニキは苦笑する。
「さぁな。自分で考えな。俺も昔は意味が分からなかったさ」
 そう言って、再び彼はこちらに向き直る。アンタは?、とでも言いたそうだった。
「……なんとなく、分かった気がするよ」
 ジャカジャン、と彼はギターを弾く。
「なかなか、生きることは難儀だねぇ」
 アリストは嘆息しながらも、事も無げに言う。彼の言葉は辛辣でとても手厳しい。徹底した現実主義だ。
「……ああ、そうだな」
 でも、それは余りにも――。
「夢がないね」
「ま、そんなもんさ」
 そして再び彼は公園を歩く。


 鼻歌混じりに彼は公園を歩く。
 彼の歌声は公園に染み込み、精霊達を踊らせる。
 彼の歌はただ人々の聴覚を刺激するのではない。聴覚をきっかけとして、彼等の魂を刺激するのだ。
 共鳴する魂に引き寄せられ、人々は彼の言葉に耳を傾ける。
 上機嫌に歌いながら、彼は公園の中を歩いていった。
「おう、アリ坊またここに忍び込んでたのか。ここは国立公園だってのに」
 なじみの用務員に見咎められる。
「っと、ゴメンゴメン。でも、なかなか寝心地がよくってさ」
「いい加減定職につけよ。アンタ程の楽師ならいいとこイケるだろ」
「気ままなのがいいんでね」
 そう言って彼は用務員と別れる。
 ――いい加減、ここを利用するのはやめるべきだろう。彼がまた上司にどやされるハメになる。
 そんな事を考えているうちにアリストは公園の外に出る。
「さぁて、今日はどうするか」
『相も変わらず無計画なことだな』
 ギターケースから皮肉げな声。
「なぁに、こう見えても色々考えてるのさ」
『……残り時間は差し迫っている』
「分かってる、分かってるさ」
 そう言いながら彼は街の中を歩く。
 相変わらず、この街は賑やかだった。様々な人が街を歩き、様々な声が、音が、この街のそこかしこを飛び交う。
 それらの心地よい雑音を聞き流しながら、彼は今日の朝飯をどうしようかと考える。
「生きることとは、罪だ!」
 不意に、神父の説法が聞こえてくる。
 なんとなく、内容に惹かれ、立ち止まる。そこにはやや強面の長身の神父が声高らかに語っている。
 アリストのそれとは違い、それはどこか高圧的だ。
 しかし、アリストにはない熱さ、力強さが感じられる。まるで熱心な革命家の演説のようでもある。
 神父は拳を振り上げ、熱烈に語っていた。
「人は生まれた時から罪を背負って生きている!
 他の獣の血肉をすすることによってしか人は生きていけない。他に生きる何かを殺すことによってしか人は生きていけないのである!
 そして、人は悲しい生き物。同じように生きる他者を、傷つけながら人は生きている。人は人を傷つけ、罪を重ねながら人は生きている。
 とても、罪深い生き物だ。そして、その全てを神は見ておられる。
 だが、父なる神はその全ての人を許してくれる。
 神の子供達よ、その罪を認め、悔い改めなさい。
 そして、全ての人々を愛しなさい。汝が敵を、汝を嫌う全ての者を愛しなさい。
 さすれば、神の救いの手があなたの元へと至るだろう」
 その演説にあるのはキリスト教特有の隣人愛だ。多くの国民がそうであるように、アリストもまたクリスチャンだ。彼の言うことは分かる。
 だが、何故だろう。彼の演説を聞くと、どこか神への熱烈なラブコールを語っているだけに聞こえる。
 よくよく考えれば、何処に行っても後ろ暗い話ばかりだ。
 何か景気のいい話はないものか。
 ため息をつきながら、彼の迷走は続く。



 そんな詩人の背を見つめる二つの影があった。
 一つはどこかアリストに似た金髪碧眼の美青年。そして、それに付き従うガンマンだ。
「で、彼をどうするんですか?」
 どこか疲れたような声。対し、彼の主は楽しそうに言う。
「どうやら彼はテムズに近づく男性の一人らしいからね。適度に脅してみてくれ」
「……ええっと、サリサタ様のご友人に手を出されるので?」
 頭の裏に紅い悪魔を思い浮かべ、ガンマンはウンザリとした表情を浮かべる。
「君に女のあれこれを口出しされる覚えはないさ」
 主の言葉に肩を竦め、再び彼はため息をつく。今日はあと何度ため息をつくことだろうか。
「まぁ、方法は任せるよ。僕は他の男も見にいくから」
 そう言って主はばさり、とマントをはためかせ、堂々と人混みの奥に消えて言った。
「……さてと」
 この距離で気付かないと言うことは、相手は恐らく素人だろう。
 たとえばこうやって銃身を向けると――。
 背後に悪意を感じ、なんとなく彼は前に飛ぶ。
ドサドサドサ
 振り向けば、積み上げられていた砂袋が彼の居た位置に倒れてきていた。
「…………」
 砂袋はきちんと縄で固定されていたはずだ。縄も新しめのもので、決して簡単にほどけるものではない。
 ――おかしい。
 こういう彼の「予想外」の事態と言うものはなかなか起こらないはずである。
「あーっ! テメェ何散らかしてやがる!」
 顔を上げると大工らしき男が肩を怒らせこちらへ走ってきている。
 ガンマンは慌ててその場から逃げていった。


『やれやれだな――』
 その偉大なる精霊はため息を漏らす。
「ん? どうしたんだい?」
 周りに聞こえない程度の声でぼそり、と相棒に聞くアリスト。
『なに、大したことではない』
 彼は市場に来ていた。
 いい果物でも見つけてテムズへの土産にしようと思ったのである。
 と、背後で盛大な悲鳴が巻き起こる。
 振りかえると、向こうの通りで運悪く果物の積み荷が倒れたのか、一人の男が大量の檸檬に押し潰されていた。
「……なんだ? 今の突風は?」
「おかしいわね、こんな所で風が吹くはずないのに」
 あちらこちらで行き交う声。
 よくよく見れば、大通りには精霊の通った後。もっとも、それは彼が相棒を引き連れているので残って当然のものなのだが。
「……シュヴェリア」
『――汝が気にすることではない』
「…………」
 結局、アリストは相棒の言葉を信じ、何も問わぬ事にした。



 安くてマズい大衆食堂でアリストは昼食をとる。
 友人との研修で手持ちの路銀はあるものの、習慣でついこう言う場所に来てしまう。
 辛いのか甘いのかも分からないスープを飲みながら、彼はフロンティアパブに行けば良かったと僅かに後悔をした。
「そういえば、前におごって貰った分、渡さないとなぁ」
 色々と金の工面が大変らしいし、レコードなんかよりも現金の方がいいだろう。失礼なことこの上ないが、自分はなくてもそれ程困らないのだから。
 大衆食堂には様々な職種の人々が入り乱れ、無数の声が響き渡る。
 そこからは泥臭い生活の匂いがして、なんとなく、清潔すぎる上流階級の昼食より親しみを感じる。
 やはり、自分は貴族など向かないのだろう。
「――次のターゲットはこのフロンティアパブにするか」
 聞き知った名前に、思わずアリストは盗み聞きしてしまう。
 声の主は斜め向かいに座るガラの悪そうな四人組だ。
 内容がどうも不穏当な事もあり、アリストは彼等の会話に耳を傾ける。
「馬鹿、あそこには手を出しちゃなんねぇ。お前はトーシロか?」
「……すまねぇ、首都に来たのは最近なんでな」
 リーダー格の言葉に最初に発言した髭は謝る。
「その店には死神が居る」
 その言葉にアリストはごくりと息を呑む。それは彼が探し求めていた情報と一致している。
 だが、彼が何度訪ねても、それらしい人物はあの宿にいなかった。いつも、あの赤い髪の――。
「死神?」
「ああ、普段は冴えない男だが、間違いなく――凄腕のガンマンだ」
 思わずアリストはスプーンを落としかける。
「暗黒街のボスからも、あの店には手を出すなとお達しが下ってる。マトモなゴロツキはあそこにいかねぇよ」
 マトモなゴロツキとはこれいかに?
 それはともかく、話に該当する人物は一人しか居ない。あの店に男手は一人しかないと聞いている。
 ――まさか。
 震える手を抑えつけながら、アリストはスープをすする。
 ――今は。今はまだ、それを考えるべきじゃない。
 無理矢理頭の中に浮かんだ雑念を振り払う。そんな彼に構わず、向こうのテーブルの話は続く。
「しかし、最近警察の監視も厳しくなってる。監視の薄いところに行けないのは痛いな」
「仕方有るまい。まだ俺も命は惜しい」
 もしかしたら、最近噂の強盗団とは、彼等のことなのだろうか。新聞を買わないアリストだが、つい癖で路地に落ちている新聞をよく見てしまう。そこには連続強盗団について大々的に書かれ、警察に対する不信感やら、住民に対する警戒の呼びかけなどが記載されていた。
 しかしまぁ、現実はなんとも杜撰なものだ。警察が必死で探している犯罪者はこんな人混みの中で堂々と犯罪の相談をしている。そして、それを誰も咎めない。
 いや、自分や、周りの人間も同罪だろう。少なくとも、アリストは警察が無能だと思いこそすれ、通報しようとは微塵にも思わないのだから。
「――つくづく僕はいい加減だな」
 まずいスープを啜りながら、思わず洩らす。下手をすれば、そこにいる強盗達にすら自分は劣っている気がする。
「……で、明日の天気は?」
「夜はどしゃ降りらしい」
「チャンスだな、雨は警備が手薄になる」
 対する強盗達はとても勤勉だ。雨の中も働くと言うのだからご立派である。
「偉大なる兄貴は言った。人の欲望が世界を動かすってな」
 主犯格らしい髭面が言う。なんとも傲慢な言葉。
 ――けれど、アリストは存外にその言葉に心を奪われた。
「やるからには全力で行け。たとえ、失敗することがあっても、悔いることのないよう、全力で行くぞ」
『おう』
「何かを求める力が未来を変えるんだ!」
 そう言って男達は出ていった。
 人の欲望が世界を動かす。強い意志が、何かを求める力が未来を変える。
 強盗にしてはいい言葉だ。
 ――にしても。
「体育会系のサークルの様だったなぁ」
 まるで全国大会を前にしたどっかのチームが気合いを入れているようだった。もしかしたら、あの主犯格は何かのスポーツの元監督かも知れない。
 ――惜しい人物を無くしたものだ。
 なんとなく、勝手な想像でため息をつきつつ、彼は席を立った。
 そして、支払いを済ませる背後でガシャン、と誰かが転ける音がする。アリストは背後を振り向かなかった。



「――で、言い訳はあるのかい?」
 主君の言葉に、配下は必死で答えを探し――。
「祟りです」
「へぇ、君からそんな言葉が聞けるとはね」
 彼の主は信じていないようだった。当然だろう。自分も信じられないのだから。
「俺の予測する未来の外から何かの力が働いています。残念ながら、超常現象は専門外です」
 頭からラーメンを被り、危うく窓から落ちてきた植木に殺されかけたガンマンは言う。たった数時間の出来事なのに、この世の全てに裏切られた気もする。
 そんな捨て犬のような――まあ、いつものことと言えばそうなのだが――部下を前にして、主はため息をつく。
 似たような話なら祖国で聞いたことがある。
「この国にもオババ様みたいな呪い師がいるってことか」
 男の主はさっきまで調べていたテムズの男リストを思い浮かべる。
 馴染みらしき医師――あの看護婦達がいる限り他の女と結婚はしないだろう。いや、出来まい。気の毒な男だ。
 冴えないガンマン――凄腕らしいが甲斐性無しだ。おまけに妹が唾を付けている。唯一、一つ屋根の下で住んでいる男とは言え対象外だろう。
 そして、その知り合いの鍛冶屋――少なくとも、あの青年が好意を抱いてるのは確かだが、あの小心者に思いを伝える度胸は有るまい。色々質問したが、結局「そ、そんな、す、すきだなんて」、と自分の気持ちすら認めることが出来ていない。しかも、品揃えはやけに変な弾丸が多かった気もする。
 そう言えば、銀を打っていた。吸血鬼でも倒す気だろうか?銀の弾丸など意味はなかろうに。
 そうなると、残る対抗馬はあのさすらいの吟遊詩人となる。あの吟遊詩人は――ガンマンと同じく甲斐性無しで、能力はともかく将来性が薄い。
 しかし、昨日出会ったテムズは嬉しそうにレコードを抱きしめていた。
 ただ、それだけのことである。それが唯一、他の候補者達より優位に立っているとも言える。
「…………」
 ――まあ、妹の宿が潰れないように便宜を図ってやるだけだ。
「どうするのです?」
 沈黙に耐えかねたのか、配下が聞いてくる。
「なぁに、僕が自らでるだけさ。君は下がっていいよ」
 そう言って主は歩き出した。
 鼻歌を歌いながら、裏路地から大通りへと移動する。
「……だだだだ〜ん、だだだだ〜ん……」
 調子っ外れの鼻歌をまとい、主は行く。
「……あーあ、僕にも音楽の才能があればな」
 その声は、心なしか羨望の色が濃かった気もする。少なくとも、主をよく知る配下はそう思った。



 夕暮れ時。
 アリストは河原にいた。
 なにをするでもなく、土手に座り、ぼうっと大きな川を見ている。
 考えることは色々ある。
 テムズのこと。
 精霊のこと。
 歌のこと。
 ――死神のこと。
「……僕は何がしたいんだろうね」
 ため息をつきつつ、彼はギターに問いかけてみる。
 答えはない。
 当然だろう。
 少なくとも、彼女は自分を甘やかすために居るのではない。
「……だだだだ〜ん、だだだだ〜ん……」
 不意に、へたくそな鼻歌が彼の耳に届く。
 それはゆっくりと足音と共に彼へと近づいていた。
 このまま行けば、自分の後ろの道を通り過ぎるだろうか。
 だが、その鼻歌は足音と同時に彼の背後で立ち止まる。
「やぁ、詩人さん。歌わないのかい?」
 軽薄な言葉。しかし、その声にはどこか育ちの良さを感じさせる美しさがある。声の主は男だろうか、女だろうか。どちらとも取れる中性的で美しい声だ。宮廷でもこういう声は重宝されるだろう。残念なことに、音感はないようだが。
「あいにく気分屋でね。少なくとも今日はそんな気分じゃない」
 振り向かずに、応える。我ながら失礼なものだ。しかし、それを拒絶と受け取らなかったのか、なおも背後から声がくる。
「それは我が儘なことだね。じゃあ、君は何の為に歌うんだい?」
「少なくとも、一部の金持ちの為だけじゃないのは確かだよ」
 ややむっとしながら応える。
「じゃあ君は積極的に人の前で歌ってるのかい? 金も払えないような人々の前で」
「ああ、積極的ではないけどね」
 さすがに振り返り、応える。夕陽を背に、金髪碧眼の貴公子がそこに立っていた。ススキを片手に持ち、冷ややかな視線をこちらに投げかけている。
「自分のために、金を稼ぐために歌うわけでもなく、他人のために、歌うわけでもなく、君の歌は何の為にあるんだい?」
 ――全てを見透かしたような目。
 少なくとも、最初から向こうは自分に会うつもりだったのだろう。
「まるで僕のことを何もかも知ってるみたいな口振りだね」
「少なくとも、調べられる範囲ではね。不可思議な力を操って、気分屋で、元貴族で、甘ったれなんだろう?」
 相手は何を望んでいるのだろう。おおよそ、公な自分の経歴を本当に知っている。だが、狙いは分からない。
「何にしても、君のことは全てが曖昧だ。肝心な事が分からない。君はテムズをどう思っているんだい?」
 思わずアリストは立ち上がる。土手の下に居ることを差し引いても身長は向こうの方が高いだろうか。
 見下ろす睨み付けながらアリストはギターを持つ。
「それが君となんの関係がある?」
「金持ちの女に飽きたからね。あの子は庶民にしてはなかなかいい女だ」
 似たような話は幾らでも聞いたことがある。気位の高い貴族の女に飽きた貴族が庶民に手を出し、都合が悪くなったら捨てる。
 ――だけど。
 よくある話だ。
 ――それでも。
 そんな話は昔からどこにでもあった。
 ――だとしても。
「――僕の気持ちが何処に有ろうと、少なくとも彼女に手を出して欲しくないな」
 声が震えぬように努めつつ、アリスト。
「ずいぶんと勝手な言い分だね。甲斐性無しの君よりもずっと僕の方が彼女に相応しい。君は彼女を幸せに出来るのかい?」
「…………」
 ――愛さえ有れば、と言うのは理想でしかない。今の生活を続ける限り、彼女を幸せに出来る道理はない。
 では、どうすればいいのか。
 あの貴族達に混じって演奏をすればいいというのか。
 それとも、彼女と一緒になってあの酒場を切り盛りすればいいのか。
 それもいいかも知れない。
 だが、その前に彼には付けなければならない決着がある。
「そんなこと、分かるはずがない。でも、君には彼女を渡さない。それだけは言える」
「力づくでも?」
「ああ、そうだ!」
 ギターを投げ出し、アリストは相手に殴りかかる。
 しかし、それは空を切り、代わりにどてっ腹に痛烈な一撃。
「かぁ、はぁ――」
 呼吸が出来なくなり、無様にアリストは倒れる。
 護身術でもやっているのだろうか。触れることも出来なかった。
「……君にはがっかりだね」
 そう言って貴公子は背を向け、歩き出す。
「……ま、待て!」
「待たないよ」
 左手のススキをふりあげつつ、相手は歩いていく。
「……か、風よ――精霊よ」
 アリストの言葉に応じ、彼を取り巻く様に微風が流れ始める。
「へぇ、それが君の本当の力かい?」
 足を止め、貴公子は言う。精霊は見えなくとも、何かの意思がある風と言うことは分かるのか。
「我がプリスの名において――」
 不意に、精霊達の声に耳を疑う。
 こちらの表情に不審を抱いたか、向こうも首を傾げる。
「――君は、女だったのか」
 ――少なくとも、精霊達は嘘をつかない。彼は、間違いなく男装の麗人だ。
「な、何故彼女に手を――」
 風がやみ、二人は見つめ合う。
「――男に生まれた君には、一生分からないさ」
 肩を竦め、相手は言う。
「君は本当にそれでいいのか」
 男装の麗人は何も応えない。何も変わらない。
 いや、僅かに。確かに何かが変わった気がする。つけ入る隙はそこにある。
「分かっているんだろう? 君は男になれない。けど、それ以前に君は――」
 精霊達は教えてくれる。彼女は――。
「だが、女である私にも君は劣ると言うことさ」
 相手は再び背を向け、歩き出す。その背中は全ての言葉を拒絶し、遠くへと向かう。
「……だだだだ〜ん、だだだだ〜ん……」
 へたくそな『ベートーベン』が静かな夕暮れに響いていく。
 そうして人影は夕闇の奥へと幻のように消えていった。
 後に残されたのは――。
「……僕は」
 夜空を振り仰ぐ。そこには幾千の運命を見守る数え切れぬ星々。
「どうすればいいんだろう……」
 しかし、誰も応える者はいなかった。






「――予定がずれております」
「誤差の範囲だ」
「もしかしたら、彼は越えるかも知れません」
「――彼には一欠片の幸運もあるまい。死神はすぐそこまで来ているのだから」






けれど、本当の結末を知る者はなく――。

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