And others 18

Contributor/柳猫さん
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遺言


 愛は矛盾している。矛盾していなければ愛とは言えない。
 そんな確信を持て余したままで典雅に、貴婦人はただ歩みを進めている。女にしては高いと自覚している彼女の背丈を二倍は優に超える高さの鉄柵、それをぐるりと周るように。手には小さなトランク。スカートの裾をそよ揺らす風。
 常緑樹の並木を周囲に置きながら、まるでそれらが全て生気をなくし、枯れかけているようにすら思える。鮮やかさを失ったセピアの情景が果てなく続き、在りもしない枯れ木の数だけ盛衰の虚しさを感じさせる。足を止めず、流し目で並行していく。柵の向こうの家屋敷は巨大過ぎて、ほとんど風景としての角度を変えなかったが、やがて門番の男たちが立っているのが見えてきた。懐かしいとか、帰ってきたとか言う感慨は特にない。するべきことをしに来ただけなのだから。ここは何年も前から既に自分の家ではなかった。
 彼女は二人の門番の前に立ち止まった。こちらを奇異の視線でじろじろと見ている若い方には見覚えがないが、壮年の方は知っている。例えば彼は、自分のことを覚えているだろうか。黙って見据えていると、
「ご婦人、当家に何か御用でしょうか?」
 息をつく。
(こうすれば分かるのかしら?)
 彼女はバレッタを外して、結っていた長髪を解いて見せた。さらさらと細い金髪が広がる。
「あなたは―――――セリーヌお嬢様!?」
 多少のいらつきを抑えられない。口にしなければならないのはくだらない言葉ばかりだ。
「お爺様はまだご存命ね? ローシアスを呼んでちょうだい」


 護送されるように門の向こうまで通され、軋む門扉を潜って屋敷へ入れば、すくっと姿勢良くも老紳士が立っている。職業柄だとは分かっているが、まったく礼儀正しさは相変わらずだ。
「お嬢様、お久しゅうございます」
 家の執事はセリーヌの顔を見るなり、恭しく頭(こうべ)を垂れた。暫らく見ない間に随分とロマンスグレーに染まったものだ。頬の肉は少し落ちている。彼はどうやら感涙に咽んでいるようだった。
「お美しくなられました…………」
「ローシアス、悪いけど私は母さんに頼まれた仕事をしに来ただけなのよ」
 心の表面はすっかり冷え切っていた。恐らくはこの屋敷で唯一気を許せるだろう相手にさえ、旧交を温めようという表情の、その一片をも見せられない。このごわごわと分厚くなってしまった面の皮を剥ぐことは、誰にもできないのだろう。今は尚更だった。
「寝室ね?」
 セリーヌは見当をつけて歩き出す。勝手知りたる他人の家だ。斜め後ろからは横並びで執事が着いて来る。彼はセリーヌの手元を見た。
「お荷物を」
「結構よ」
 少しずつ、だが確実に景色は流れていく。廊下にかかっていた絵画が減っている。贅沢な糊口(ここう)のために売ったのだろうか。
「手紙にも………お書きしましたが、ご主人様は………昨年の冬より盲いて…おられます」
 早歩きで息を乱さない老人はいない。声の調子から俯きがちになるローシアスを想像して、セリーヌは僅かに歩調を緩めた。この屋敷の階段の勾配はきついのだ。余り使うことはなかったが、それにしても小さな頃は足を懸命に振り上げたものだった。這い上がることなど許されない。
「眠っていらっしゃる…ときはうわ言のように……イクシオーヌ様と…セリーヌお嬢様のお名前を……」
(本当かしら…………)
 あれだけ無限に広がるかに見えた迷宮は今ではもう狭く、頭上を覆っていた天井も低くなった。さて、最後の一段を易々と登り終えて、右に折って五十歩だったか…いや、三十歩。それまでに何人かのメイドともすれ違った。彼女たちは振り返るが、歯牙にもかけない。どうでもいい。それよりも、毛足の長い絨毯を踏みつける度に、これから使うべき言葉が溢れてくる。セリーヌはそのすべてを余すことなくぶつけるつもりだった。ぴたりと立ち止まる。トランクの把手(とって)を強く握り締めて。
「…………………」
 前に出て扉をノックしようとするローシアスに構わず、大きく開いてそのまま祖父の寝室へと入って行く。背後で咳き込む音が聴こえた。
 奥から押し寄せてくるのは、病人が発する独特の臭気。ここまで来て嗅ぎ慣れている。しかも、それで安心する自分が…正直を言えば、よく分からない。よく磨かれた古い窓から、無数の傷に屈折した薄い陽光が部屋の半分だけを見せる。眼前に広がったのは洒脱なシャンデリア、毛皮や剥製。パーティが開けそうなほど ―――もっとも今となっては開けまい――― 広大な部屋に、大きな黒檀のベッドが鎮座している、そんな光景。そこに寝ているのが彼女の祖父だった。隣には医師たちが控えている。側に居る看護婦に自分を重ねそうになって、セリーヌはこともなく心中で打ち払った。今の自分の役目は決してそれではないのだから。
 主治医は何度か顔を合わせたことがある。彼はこちらを見て吃驚し、慌てて会釈した。無視して擦り抜け、ベッドの脇へ。セリーヌは膝を折った。
 そっと耳元へ唇を寄せて、祖父に囁きかける。目を瞑り、
「お父様、私(わたくし)です」
「おぉ、イクシオーヌか…」
 彼はセリーヌが胸を着けるほどベッドに身を寄せて初めて、誰かが側に居るのだと、気付いたようだった。耄碌している。老いた身体を起こそうとするが、最早それだけの力がない。目にも光はなかった。もがいて動けぬ、蜘蛛の巣にかかった醜い蛾。セリーヌは祖父の枯れ木を取り、強く握る。
「…お嬢様?」
 そんな奇行に背後のローシアスは驚いていたが、セリーヌは続けた。
「お父様はどうして私をお見捨てになられたのですか…」
「儂(わし)は――――――」
 嗄れたそれで、もう続かない。
 主治医が執事と、ひそひそと話し合っている。彼らは観客だ。観客が居ればここは舞台だ。そして役者。それとも道化か。
「どうしてお父様は私からあの子を盗ったのですか!」
「………………ぅ、あ…」
 ひぃひぃと息が鼻から抜けるだけで、何を言っているのかは判然としない。だが、やろうとしていることは良く分かる。シナリオ通りに、自分のしたことから、過去から逃げようとしているに違いない。最早声も出ず、文字通り老いが言い逃れにすらならないのは滑稽だった。忠実な役者だ、とセリーヌは平静に思う。
 逃さぬように掴んでいたが、わざと、手を離してみた。祖父の腕は動かず、ベッドに微か沈む。そうすれば所在をなくした白の十指がシーツを掴み、彼女は皺を寄せる。苦難の歳月を刻み込むかのように、渇き、ひび割れる。
「辛うございました」
 つぅ………………と、一筋や二筋。涙の数滴、落ちても老人の腕は潤わない。祖父の喘ぎはか細いながら、俄かに激しくなっていった。それが絶頂を迎えたときに、彼は死ぬのではないか。死に追いやることができるのではないか。
 二十年ほど前、セリーヌの母は市井の男に恋をした。その男はとても卑賤な身分で、身篭った彼女は自分の意志で家を出て、彼と共に路頭を迷うことを選んだ。やがて自分が生まれたが、男はどうにか妻を食わせようと働きに働き、結局は困憊となって死んだ。少なくともそう聞いた…………もしかすれば、妻子を棄てて逃げたのかもしれないし、母が男の元から逃げ出したのかもしれない。どのみちセリーヌにしてみれば、顔など覚えていない。最初から存在しないも同然だった。なのに母は純愛で、他には誰一人愛せず、寡婦として一生を終えた。彼女は娘には見えないものを見ていた。
 実にありふれた話だったが、それは話として済ませるからで、知る辺もなく、養い手を持たない当人たちの苦境は筆舌に尽くしがたい。貧民窟では鼠すらも貴重で、水は濁り、病が蔓延した。罹(かか)れば死を意味する。死屍累々のそこで育つ者には、押し並べて人間らしさというものを知ることができない。それでも器量の良い少女は年頃になれば売られるか街頭に立ったが、セリーヌはそうなる前に、祖父の命令で自分を見つけ出したローシアスに貴人用の馬車で連れ去られた。
 裸足で泥を踏む生活は終わりを告げ、薄汚れた少女には潔白で煌びやかな生活が待っていた。が、細民街の向こうに垣間見ていた明るい世界は満ち足りていて、空々しい。温かい寝床と腹を満たすことの次には何も思うことはなくて、目に映る全てが所詮は虚構でしかなく、広い敷地の外に出ることも許されなければ、何より母が居ない。会わせてくれと何度も頼んだが、それを言うと祖父は激昂して杖を振り上げる。汚い檻から引きずり出され、綺麗な鳥籠に押し込められただけだ。彼女はドアの隙間から外を窺うことしかできなくなり、やがて心を閉ざした。
 数年後に、やはり母と同じように家を出て、娘が娘とも分からぬ彼女に再会し、看取る。紆余曲折の果てに志したのは医の道で……なぜだろう、半死人に飽きていたはずなのに。だがあの街に行って、そこでようやく安息の地を得たのかもしれない。幸せが何かを考える力はまるで育ってはいなかったにしても。
 また、幾らか時間が過ぎただろうか。日は流れ、影が伸びれば杳(よう)として部屋の四半も照らさない。セリーヌはよくよくと寡言を祖父に浴びせ続けた。彼女以外には、誰も何も言葉を紡げなかった。
「………私はお父様のことを恨みます」
 呪詛を終えて顔を上げると、祖父はもう何処(いずこ)かへ去っていた。主治医が歩み寄って脈を取ってから臨終だと言う。そんなことは見れば分かる。血の気もない無水の身体は、彫り物のようで、およそ人だったとは思えない。父も祖父も、果たして自分に居たのか居なかったのか。
 セリーヌは歯を食いしばって、祖父の胸を一度だけ拳で叩いた。全力は出ない。そして皮肉にも手応えはまだ柔らかい……最後の肉親もいなくなった。これでこの家は終わりだ。さっさと幕を閉じてしまえばいい。
(くだらない――――――)
 茶番だ。



 それから暫らくして、セリーヌの待つ死の床へローシアスが持って来たのは、丁寧に封緘された書状だった。白けていて、意匠もない。
「遺言状でございます」
 彼はその封筒と紙切りナイフを盆の上に乗せ、セリーヌの前に差し出した。紅い蝋封の印には見覚えのある家紋。もう使うこともない。迷わず封を切り、広げれば、
(………………馬鹿ね、死人が…死人に宛てるなんて)
 目を細めて見るそこには、娘のイクシオーヌと孫娘のセリーヌに遺産を等分せよと、簡素に書かれていた。サインは力なく、日付は最近のものだ。祖父が娘の死を分かっていて尚そうしたかったのかは、今となっては分からない。知りたくない。
 セリーヌはそれを小さく畳むと何度か破り、掌に乗せた。窓辺に寄り、そっと手を開いて紙片を風に舞わせる。夕映えの中、ローシアスは何も言わずにこちらをじっと見ていた。だから彼女は振り返ると両手を広げ、首を傾げて見せた。ぐるりと見渡して、
「いいこと? お爺様のベッドを、お売りなさい。私の鏡台も、母さんのドレスも、あの銀の蝋燭台も食器も絨毯もこの屋敷も敷地も何もかも。それでこの家の者には充分なことをしてあげるといいわ。私は貴方を信頼しているのよローシアス」
 非情、そうとしか形容できぬ目で執事を見た、そのつもりだった。だと言うのに、これはどうだ。診療所では決してしないような口早さ。どうしても冷めきらない自分を………心の何処かに見つけてしまう。大仰な身振りは余計に自分を浮き上げる。懐旧の情を噛み殺せない。
 紙片の幾つかは、風に乗ることができず、部屋の陰に落ちていた。斜陽の老父が眠る枕元にも。残った文字は“イクシオーヌ”だった。つまらない偶然だ。物語はとうに終っているのに………。



 翌日。半ば騒然と、半ば沈鬱とする屋敷の中で、ローシアスは陣頭指揮に当たって滞りなく葬儀の準備を済ませた。葬列には外の人間など誰も呼ばないし、落ちぶれた名家にまともな付き合いが残っているはずもなかった。これが社交界の現実だ。
 喪主の自分は別段することもなく、礼服に黒いレースの手袋を身につけていく。そこはかつての自室ではない。することがないということが、これほど苦痛だとは。
 最後の仕事だ。
 忙しく動き回るローシアスを呼び止めて、部屋に入れると、
「あなたに渡すものがあるわ」
 トランクを横たえ、鍵を外す。セリーヌはその中から紙袋を取り出して、それに入っている束ねられた金糸を彼に手渡した。忘れられていた遺志を改めて見せるように、ブロンドは未だ輝きを失っていない。
「この御髪(おぐし)はもしや…」
 彼女は網掛けのベール越しにローシアスの表情を見た。
「母が私に預けたものよ、棺に入れるといいわ」
「お、おぉ…!」
 老執事は言葉にできず、それを手にただただ咽んだ。
「ありがとうございます…ご主人様がどんなに喜ばれることか」
(あなたも……………死人に執着するのね。こうなってもまだ、この家に仕えようというの?)
 美貌の母が死を覚悟したときに、自分が斬髪をしてやったのだ。それが彼女を短髪の少女へと還し、旅立ちを決定的にした。売れば生活の足しにはなっただろうに、長く伸びても決して、その時まで母は切ろうとしなかった。この髪の束からは、生への執着が消えかかったときに染み付いた、鼻では嗅ぐことのできない仄かな香りがする。生家から捨てられ、貧民として暮らして……だが彼女が確かにこの世界の片隅に生きていたことの証だった。それも今、棺に納められようとしている。妄執はセリーヌの過去と共に。
 やがて老いた執事は希望を得たように、顔を上げた。
「お嬢様にお願いがございます」
「言ったでしょう。私はこの家を継ぐつもりはないわ」
 と、予想していたその懇願を切って捨てる。だが彼は胸に片手を当て、深く深く辞儀をして、頭を垂れたままでそれを上げようとしない。彼にだけは、苛立つことが許されない気がして、セリーヌはただ、悟られぬよう息をついた。
「このローシアス・キニーネー、僭越ながらお嬢様のお気持ちは分かるつもりでおります。お家のことはもう私めも諦めました。ですが最後に一つだけお願いがあるのです。これだけは―――――」
 生きている人間の、真剣な表情だ。
 他に………何があると言うのだろうか? この家は自分という歴史の一過点でしかない。元より得るものも、失うものもなかった。今までの人生で出会ってきた人間を振り返れば――――母、祖父、貴族たち。組織の者。病院関係者。医師と同僚。街の住人。沈黙の中で考える。母は母であったし、祖父は祖父だった。そうか、なら…この老人は自分にとってどういう存在だったのだろうか。セリーヌは葬列のことを想い、そこから自分の将来を十二分に余しているのだということに気がついた。まだ大人には、なれていないというのか。少女時代の憧憬は、今の自分の姿ではなかったように思う。いや、憧憬など持っていなかった。
(そうねローシアス、あなたは最初で最後の教師だったわ。私にはまだ学ぶべきことがあるのかもしれない。あなたから――――――)
「いいわ…言ってごらんなさい」



 全てを終え――――――汽車に乗り、街へ。
(ほんの数日留守にしていただけなのに…どうしてかしら)
 帰ったときにはもう日は沈んでいた。低い石段は一つきり。ガス灯の薄明かりを浴びて診療所の戸を潜ると、その馴染んでいたはずの様相が妙に懐かしい。おんぼろという俗な言葉がよく似合う佇まい。染みや…瑕(きず)や…少しの間にも散らかっていく、しかしいつでも清潔な、矛盾を溶かしたこの場所が。
 直ぐに「お帰りー」と気の抜けた声がして、ばたばたと駆け出して来たのは同僚の看護婦だった。両手に黒い物体を乗せた皿を抱えている。戸を開けただけで、どうして自分だと分かったのだろうか。夜間に急患がくることはそう珍しくはないというのに………自分が逆の立場だとしても、やはり分かるのだろう。
 セリーヌを見た途端、アリスがくわえていたクッキーを ―――こちらの色は比較的まともだ――― 口からぽろりと落とした。目を白黒させて、無表情だろう自分の顔と頭を見比べている。
「………………ど、どうしちゃったのセリーヌ?!」
 きょとんとしているアリスを無視して、セリーヌは黒焦げのクッキーを皿から一枚摘み上げて、その半分を口にした。やはり甘くて…辛く、そして後味は苦い。
「アリス…また砂糖と塩を間違えたわね」
「てへへ」


 そう、愛は矛盾しているのだ。それでいい。




end.

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