And others 14
外伝 レドウェイト警部の日常〜例えば非番の場合〜
例えば。
これは飽くまで例えばの話だが、回し蹴りを繰り出す上で―――――爪先から頭頂まで何処をとっても不要な箇所など一つもない。頭から軸足は一徹の芯。そしてその軸を中心に全てを連動させ、肘から肩、肩から腰、腰から膝、膝から足首へ。それらを統べ、柔軟に且つ迅速に繋げていく過程は、犯罪捜査とまったく同じだと彼は考える。誰がなんと言おうと彼はそう考える。ただ、力か情報かの違いでしかない。どちらにしろ、最後の最後には絶対に獲物を取り逃してはならない。
「―――はッ!」
昼前の閑静な住宅街に、小さな呼気とは不釣り合いな烈音が轟いた。樹の枝に止まっていた小鳥も慌てて逃げていく。しかし、近所の住民は慣れっこなので一々苦情を言いには来ない。通報される心配もない。何しろ彼が本職なのだから、やってきた同僚が苦笑いするのが落ちだ。ゆっくり脚を下ろして、
「まぁ…こんなもんか」
庭先に立てた練習台の木偶人形「パエリア14号」のひび割れた顔面を見て、彼は満足するでもなく呟いた。
ホールデン・レドウェイト、働き盛りの三十一歳―――――職業は警察官である。王立警察第一捜査室に所属している。
拳闘だの東洋のなんとか拳法だのを使う署員は大勢いるが、肉弾戦での戦闘力はその誰にもひけを取らないつもりだ。しかしだからと言って彼は別段、格闘家というわけではなかった。東洋で言えば刀圭家、要するに医者は手術用のメスを戦いに用いるらしいが、それと似たようなものだ。
『仕事に必要な物が武器になっているのは当然だろう?捜査は足だ』
とは、彼の持論である。持論に合わせて体現したまでなのだ。用意されていたタオルで汗を拭きながら自宅に上がり、時計を見る。いつもなら出勤の時間だ。どうにも落ち着かず、家の中をうろうろしながらするべきことを探してみる。テーブルの古びたタイプライターを眺めながら、暇つぶしに紙巻煙草を作ろうとして、ふとサイドボードが目に入ってしまった。やれやれ。在庫の補充を無意味に思わせるほど、シガレットケースにはまだ紙筒が山と溢れている。前の休日に小型ピラミッドができるほど作って
――なにしろ一日中だ――
いたのを思い出す。なら自分は何をすればいいのか。昔はもっと趣味があったような気がするが、今ではその一つ一つが消えかけている…。
レドウェイトは手持ち無沙汰に限界を感じて、玄関へと向かった。靴べらを踵に差し込みながら、
「出かけてくる」
「あなた…」
「ん?」
向き直りかけて、
「あなた、靴」
とは妻の言葉だった。言われて右足を上げると、靴の裏が剥がれてぶら下がり、みっともないことになっている。いつもの靴屋が閉まっていたので間に合わせに他所で買った革靴だったが、彼専用の特製でなければ寿命はこんなものである。それでなくとも日々の捜査で、靴底が人並み以上に磨り減っていくのだ。
目的地ができたことを素直に喜ぶとしよう。
「ちょいと靴屋に行ってくる」
言い直して、いつものように拳銃と手錠、そして警察手帳をスーツの内ポケットに確認して、家を出た。自主的に非番にしたので、この三種の神器までは取り上げられていない。
乾いた黄色い葉が樹冠となって広がり、その下には颯々と風が吹き抜ける。街はもうすっかり秋の模様になっていた。昨日自分を撫でた風と、今日のそれは何処かが違う。メランコリックな気分になるには都合のいい曇天だ。猫背を丸めながらポケットに手を突っ込んで、枯葉散り積る並木道の上を歩く。間色でまとまったシックなこの装い、一般市民には…マフィアか何かに見えなくもないだろう。まぁ、いい。自分が気に入っていれば。
家を出てから最初にすれ違ったのは、大荷物を背負った女だった。長身で黒髪の…東洋人かどうかは判断つきかねるが、気のせいか荷物の端からペンギンが……はみ出ていたような…いや、錯覚だ。思ったより疲労が溜まっているのかもしれない。
人間観察はとっくに職業病になっている。その女とすれ違ったのを契機に、レドウェイトは始めた。そうやって小一時間も歩き詰めれば、露店が軒を連ねる昼のストリートは段々と賑やかになってくる。石の床を踏みつければまた乾いた音。
捜査における観察にとって一番に重要なのは、そいつが信用できるかできないかだ。それは良い奴だとか悪い奴だとかという意味ではなく、まして保証人のサインを引き受ける気が起こるかどうかとも関係がないし、一緒に街を歩きたいかどうかといった意味合いでもない。どんなお人よしでも、どんなに責任感が強くても、自分がそいつを好きでも嫌いでも一様に関係なく、人は犯罪を犯すときには犯す。そういうものだ。容疑者も被害者も情報提供者もついでにうるさい上司も全員、黄銅色のカボチャか何かだと思わなければならない。
仮にそこを歩いている二人連れの女の子。二人がパン屋へ入ったのを見届けて、張り込みをする気分でベンチに腰を下ろし、懐からマッチと煙草を取り出してから一服して暫し考える。まず、彼女たちが何かの事件の目撃者だったとする。事情聴取の際、果たして信用できるかできないか。
のほほんとした方は信用できない。見るからに洞察力がなさそうだし、覚えていないと自覚していても或いは取り繕おうとするだろう。多少の手がかりになったとしても、曖昧模糊な記憶は捜査を混乱させる。
逆にもう一人。頭の切れそうな方は信用できそうだ。何故救急箱をぶら提げていたのかは腑に落ちなかったが、その点を除けば実に理知的に見えた。後れ毛の一本もない束ねられた金糸、映える白磁の肌は貴族のようでもあり、それに加わる理由としては小さくない。有体に言うと美人なのだ。しかも知を兼ね備えているに違いないと確信させる。背筋が張っていて足音を立てない歩き方はまるでトップモデル…さもなくば軍人か何かのようでもある。だが、これが目撃者でなく容疑者だったとすると、立場は逆転だ。この女は信用できない…敵に回せば厄介なことになるだろうとは想像に難くない。ついでに言うと、のほほんとした方は犯罪を起こしてもどうせ直ぐに捕まるだろう。結局、どちらも信用できない。
「人を見かけで判断するな」とはよく言ったものだが、実際、人は見かけで判断できる。“見かけ”にどれだけ多くの判断材料が含まれているのか彼らは知らないだろうが、だからと言って素人にそんな観察術は求めない。彼らが持つべきでもない。
前に女私立探偵とやら ――尾ひれがついて金髪三つ編み丸メガネの少女だとかいうふざけた噂だ――
が殺人事件を解決してしまったことがあったが、探偵は探偵だ。大人しく捜し物だけをしていればいい。一般市民にできない仕事だからこそ自分達が特別な資格を得て特別な仕事に努めているのだ。その領分に土足で踏み込まれては、秩序と言うものが成り立たない。ただでさえ警察の中でも混沌としているというのに。犯罪捜査には危険と忍耐がつきまとい、ときに汚し汚される。そんな汚泥の中に好きこのんで首を突っ込んでくるのは気が触れているとしか思えないし、相応の精神力を持ってしなければいつか触れてしまうだろう。そういう危険とも背中合わせなのだ、刑事というのは。私立探偵とかいう人種はそれを分かっているだろうか? もし本物に会う機会があれば、一度尋ねてみたい。果たして惨殺死体を見て彼らは嘔吐に耐えられるか。
―――――目蓋を伏せて、不健康な煙を肺の奥へ導く。汚れた自分でいるための道具の一つだ。
そもそもレドウェイト警部は女を余り信用していなかった。それは別に男女差別ではない。女はともかく、嘘をつくのが上手いのだ。もしくは極端に下手か。そのどちらもが自分にとって扱いにくいのである。
程なくしてパン屋から二人が出てくる。包みを抱えた女の子の片割れ――どうあっても信用できない方だ――は出口でけつまづいて、すってんと音がしそうなほど見事に転んだ。本当に見事だった。持っていた紙袋から、昼食用だったらしいパンが散乱する。一瞬拾ってやろうかと思ったが、拾ってどうになるものでもないかと思うと、煙草を消して立ち上がるのも億劫だ。彼女は石畳で膝小僧を擦り剥いて泣き出すが、連れの女は提げていた救急箱
――まるで予期していたかのように――
を彼女の前に降ろすと、「先に帰ってるわ」と言い残して、何事もなかったかのようにすたすたと歩み去ってしまった。地べたで泣きべそをかいている女の子をおいて。
………もしかして道中芝居か何かだろうか? くすくすと笑うだけで、道行く誰も木戸銭を置いたりはしないが。レドウェイトは足を組んだままベンチの背に両手をかけてもたれ、自分と同じ機嫌の悪そうな天を仰いだ。いつからこの街はこんな風になってしまったのだろうか? 恐らく、昔からそうだったのだ。自分がよく見ていなかっただけなのかもしれない。幾つかもの難事件とそれを解決する前に壁へぶつかり、壁を壊す道具を探すためにまた歩き回った。警部まで昇進したのは、根回しでも天分でもない。純粋に功労のためだと自分は考えている。出世のために仕事をしたことはただの一度もない。同時に、仕事を楽しんだこともなかったような気がする。
思わず掌を顔に当てて、
「くっ…くくっ………」
しかし確かに―――――笑えるのだ。不思議なことに。
女の子の爽快な転びっぷりを思い返してしまい、レドウェイトは一人、声を殺して笑った。具体的に何がおかしいのか分からないのにとにかく笑える。もう押さえなければならないほどに腹筋が痛い。そう、こんな風に…その気になれば何にでも楽しみを見つけられるものだ。自分が子供の頃はそんな風にこの街も色づいていたような―――確証はないが。ずっと見てきたはずなのだ、忘れているだけで思い出せないはずがない。恐らく心のどこかに麻酔をかけられていたのだろう。
体温を奪う鉛色のベンチから腰を上げ、再び歩き出す。醒めながら、彼は久しぶりにのんびりと映り行く街並みを楽しんでいた。もう観察は止めだ。
色取り取りの看板に目移りし、店先から薫ってくる料理を想像して腹の虫を鳴らし、女物のアクセサリーを見ながらあいつに似合うだろうか、などと考える。いつ以来か分からないが、実に久しぶりだった。
―――――が、手を止めて、やれやれと嘆息する。そうだ、こんな風に自分の生活は無為に削られてきたのだ。ふと、視界の隅…レドウェイトは雑踏の中に小さな悪を見つけた。男の手元にある刃物は、恐らくベルトを切り裂くためのものだ。凶器にはなり得るが、飽くまで凶器ではない。
要するに典型的なひったくりだった。力の弱そうな女からバッグをもぎ取って逃げ去る―――ある意味、殺人犯などよりレドウェイトが嫌う人種。彼は直ぐさま、正義を全うするべく動き出した。スーツの裾が跳ね上がる。
都合の良いことに「ひったくりよ!」と、女は叫ばなかった。恐怖に慄いているのか。なんにしても嬌声を上げられないのは大助かりだ。人々が注目して足を止めると、犯人は逃走経路を容易に確保できてしまう。こちらからも確認しにくいが、人の流れに割り込むのは予想外に難しいものだ。
なら、補足してからこうすればいい。
「警察だ、止まれっ!」
その合い言葉が、まるで神話の一説のように人波を分かつ。取り残されたのは間抜けな犯人だ。開けた視界を確認し、一応懐から銃を取り出す。辺りから悲鳴が聞こえるが、撃つか撃たないかには関係なく、これは純粋に儀礼のようなものなのだ。素人に言っても分かるまい。
普通に考えればとても走って追いつける距離ではない。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ!!」
月並みなことを言いながら足元へ照準を合わせるが、動いている的に弾を当てるのは、彼にとっては蹴りでバットをへし折るより数等難しい。聞くはずもなく走り去ろうとする犯人へ一度だけ、引き金を絞る。レドウェイトの思いを他所に、銃弾はまったく明後日の方向に飛んで行った。逃げ出す通行人たちは散漫で、下手に撃つと逆に犠牲者が出かねない。
「くそっ、いつもこうだ!」
苛立ちながら吐き棄て、怒りに任せて銃を地面へ投げつけようとして…なんとか堪える。上着を払ってホルダーへ戻すと、全力で走り出した。当然だが、鍛え抜かれた脚力には衒いもなく自信がある。走りに走る。何処までもいつまでもとにかく全力だ!
「うぉおおおおおお!!!!」
驚異的な速度で肉迫するレドウェイトの気配に畏怖したのか、ひったくりは思わず振り返った。
そこから一拍もあるかないか。
「な?! なんなんだてめ――ぐはっ」
「―――刑事だ! 文句あるかッ!!!」
鈍い音を立てて、男は必殺のとび蹴りに沈黙した。間違いない、やはり刑事の武器はこれだ。直ぐに崩れ落ちた身体を踏みつけ、腕をねじ上げて手錠をかける。息を切らせて、レドウェイトは誰にともなく仕事を完遂した。
「…………か……確保ぉ!」
周りからは遠巻きの歓声が上がっている。
徐々に散り始めた野次馬たちの中心で前後不覚になった犯人を揺り起こしていると、いつの間にか隣には被害者が立っていた。言動がそうは見せないが、辛うじて年齢は少女と…言えるか。彼女は小動物の耳を模したようなカチューシャを頭に付けていた。一体、この街のまともな女は絶滅しかけているのか? レドウェイトは男の襟首を掴んだままで、振り返った。なるべく彼女の方を見ないように。
「助かった。そいつには大事な物が入ってるんだ…」
心から安堵した様子でピンクのポシェットを受け取る彼女。誰も同じような少女たちを見ないので安心だと思うが、最近の流行ではないと信じたい。―――――いや、もしかするとこれはゴシックロリータという奴だろうか。
(余りお近づきにはなりたくないな……)
女はやはり、妻のように落ち着いた装いに限る。歳には関係なく。もし自分に女の子が生まれたらフリル付きのドレスなぞ絶対に着せるまいと、学生時代から心に誓っていたくらいだ。
「危うく撃ち抜くところだったぜ」
理解不能な服装をした少女は意味不明な言葉を口にして、去って行った。本来なら調書を取るのに同行を願うところだが、どうしても引き止める気にはなれなかった。しかし、不思議だ。
「おい、お前。なんであんな女の子を狙ったんだ?」
眉を顰める刑事からは目を逸らして、ふらふらしながら男はぼやいた。
「さっきあのポシェットから大金が覗いてやがったからだよ、くそっ…ついてねぇ」
「やれやれ…これだからアマチュアは困る」
レドウェイト警部は肩をすくめた。街の平和を守るのはそんな大捕り物ばかりではないと分かっているつもりだが。
襟元を正して皺を伸ばす。折角のアイロンがけが台無しだ。
署の玄関口に突っ立っている新米警官にひったくり犯を突き出して、レドウェイトは帰路に着いた。一悶着あったものの、一日はまだまだ終らない。こんな早い時間に家に帰ってくるのは慣れていない…そう言えばいつも帰りは日が暮れてからだ。
暫らく家の前をうろうろしてから、近所のおばさん連中に「あぁ、遂に……なったのねお隣の………ェイトさん可哀相に…」と囁かれたのを契機に、彼は汗ばんで家の戸を潜った。
妻は何か書き物をしているようだった。こういうときにはそっとしておくのも夫の努めだ。しかし彼女は直ぐに手を止めると、「お帰りなさい」と、ティーポットを持って居間までやってくる。テーブルに並べたティーカップにハーブティーを注いで、一服しているレドウェイトの隣に座った。いつもカモミールの甘い香りは仕事帰りの彼を落ち着かせる。自分の煙草はそれを台無しにはしていないだろうか。時折不安になる。
「あなた、たまの非番はどうでした?」
「あぁ、何もなかったよ。いつも通りだ」
「いつも通り?」
まさか本当は上司に踵落としを食らわせて謹慎中だ、などとはとても言えなかった。…もっとも、妻は気付いているだろうが。気付かない振りをしていてくれる、そういう女だ。
「けど、なんだか良い顔ね」
「…ん、そうか?」
「あなた、靴………」
急に足元の感触を思い出す―――――完全に忘れていた。
が、まぁ少なくとも今日はもう必要ないだろう。彼女の歩調に合わせる分には。紙巻煙草を灰皿に押し付ける。そこにきてようやく、彼はまだ昼飯を食べていないことを思い出したのだ。贈り物など、一年目の結婚記念日にタイプライターを買ってやったくらいだ。終ぞここ十年はしていない……言うならリハビリ、というところか。水面に映しながら―――――
「それより…久しぶりに飯でも食いに行かないか?」
「どうしたの、急にそんなこと言うなんて」
彼女は湯気の向こうで柔らかく微笑んだ。「愛してるからだ」なんて照れくさいセリフはプロポーズのときだけで充分だ、と…どきまぎしながらレドウェイト警部は思う。
(やっぱり俺はこいつがいい)
いつになく嬉しそうな―――――とびきりの笑顔を見せる彼女に腕を組まれながら。今日ばかりは上司に、あの出来損ないのパエリアにニンジンをつき立てたような男に…もう少し優しくしてやってもいいかもな、とさえ思えるほどに。
たまの非番も悪くない。
END
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