ガタン。
 その物音に振向いた目に、物陰へと消える黒い影が映った。
「……猫、か」
 アクワイは彼のホームグラウンド―― 一般的な言い方では裏路地と言う ――を彷徨っていた。今までに潜んだり、たむろしたり、住んだり、くつろいだり、ここが安住の地かとまで思ったことはある。だが、彷徨ったことは無かった。そもそも、彼の人生の中でも彷徨うという事態は限りなく無縁のことだった。それなのに、今、何故彷徨うなどという事態に直面しているのか。
「あの方こそ悪魔……いや、魔王と呼ぶに相応しい」
 そう魔王である。あの魔王が関ると、彼の人生は限りなくどん底に転落する。いっそ逃げてしまおうかとも思う。
 逃げる。その行動は彼に一時の自由を約束するだろう。だが、その代償は彼にとって全てを――否、全て以上のものを捨てるに等しい。そして、どれだけ己の力を尽くそうとも、自由は『一時』しか得られないのだ。

「そうそう、良いことを思いついたんだ」

 その瞬間、アクワイは己の内に内包する全ての殺気を垂れ流し、両手をマントの中に隠された武器へと伸ばした。――そして、次の瞬間には何事も無かったかのように殺気が消え、両手をだらりと下げる。冷たい汗が一気に噴出した。
「げ、幻聴か……」
 アクワイは地面に崩れ落ちた。呼吸が乱れていることを意識しながらも、それを正そうとする努力を放棄する。いま呼吸を正しても無駄だと感じていた。そして、予想通りに自分を彷徨わせることになった言葉が、群れとなって浮かび上がってくる。

「彼女に贈り物をすることを思いついたんだ」
「もちろん、ボク自身で贈り物を用意することも考えたよ」
「だけど、彼女は特別な人だ。わかるね?」
「ああ、大丈夫。キミは貴重な人材だ。二、三日くらいなら待ってあげるとも」
「そうだな……たとえばホープダイア」
「なるほど、ありきたりすぎると言いたいんだね。やはりキミは貴重な人材だ」
「是非とも彼女に相応しい特別な品を用意してくれ。明日までに」
「え? 二、三日? 愛しの姫君をそんなに待たせるわけにはいかないだろう?」
「解ってくれて嬉しいよ。もちろん、間に合わないなんてことは無いと思うけど、一応罰も用意しておくから」
「そんなことは気にする必要はないだろう? 何しろキミは優秀な人間だ。それに比例してすごい罰を用意しておくけどね」


 生気を失った物体が転がっていた。その表情は絶望の色しか見えない。
「……せめて全力は尽くそう」
 そう決心し、アクワイという人間となって立ち上がったとき、建物の隙間に不思議なものを見た。
 タキシードを身にまとい、直立歩行する黒ウサギだった。しかも――
「こっちを見て、笑った……」
 アクワイは思わず黒ウサギの後を追いかけていた。路地裏、表通り、下水道、屋根の上……どれだけ追いかけたのか。何時の間にかアクワイの視界から黒ウサギは消えていた。
「見失った? ……いや、幻覚だったのだろうな」
 自分の追跡が失敗する筈がない。そんな自負と共に、結論を出した。幻覚を見たことにちょっぴり落ち込む。
 そのまま歩を進め――すばやく身を隠した。
 路地の先の小さな広場。そこに黒ウサギの姿を発見した。その黒ウサギの側に人の姿を認め、様子を見ることにする。追跡を失敗したことにちょっぴり落ち込みながら。
「つまり、その宝物のかけらを集めろと?」
(宝?)
 その単語にアクワイの耳がピクピクと動いた。
 少女が小さく頭を傾げながら訊くと、黒ウサギはうねうねと耳を動かしながら答える。
「そうそう。七つくらい集めてハッピーにならないかい?」
(ウサギが喋っている?)
 返事をする黒ウサギに、アクワイは少女を見た。腹話術を使っている様子もなく、周囲に他の人間がいる様子もない。やはり黒ウサギが喋っているのだろうか?
「七つもあるってこと?」
「さぁ? 5つくらいで良いんじゃない?」
「質問してるのはこっち」
 むんず、と黒ウサギの耳を鷲掴みにして持ち上げる少女。
「ごもっとも。まあ、そんなことを気にしていたら話が進まないと苦情が来るのさ」
「どこから?」
 ジト目で睨む少女の様子を気にすることなく、黒ウサギは天を指差した。
「伝説の勇者は二人のお供を連れていざ旅立たん!」
「……お供って、誰よ?」
 あたりを見回す少女に、黒ウサギは何を考えているのか良くわからない表情を見せてからポツリと言った。
「目撃者はどう処理すべきだろう?」
(気付かれた!?)
 黒ウサギの言葉に、アクワイは咄嗟に退路を確認した。だが、宝という言葉がその行動にためらいを与えた。
 黒ウサギの突拍子もない言葉に、少女は律儀に悩んでから答える。
「ん〜……海に沈めるとかがセオリー?」
「教育に悪そうなのは悪いから今日のところはこうしよう」
「こう?」
 黒ウサギはペチリ、と指を鳴らした。
「まきこむ」

 その場にいた者すべての目に映る景色が歪む――

 アクワイは気がつくと宙いた。飛ばしたのは物理的な力ではなかった。自分を放り投げるほどの生物が近付いていたのなら流石に気付く。
(原因よりも現状だ)
 落下する中、アクワイは混乱する感情を押さえつけると周囲に視線を走らせた。陽と潮に焼けた黒髪の男が飛んでいる以外に掴まる所はない。次に下を見る。ガラス玉のような瞳で虚ろに見上げる黒ウサギとこちらに気付いていないらしい少女。地面までの距離はそれほどでもない。
 自由落下しながら、アクワイは体勢を整えた。そして、衝撃を逃がしながら着地する。少女をはさんだ位置に黒髪の男も着地していた。
 言いたい事がある。訊きたい事もある。だが、何よりも優先して訊かなければならないことがあった。
「「宝について聞かせてもらおうか」」
 なぜか黒髪の男と声が重なった。


 そして物語は紡がれる――



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