Super short 5(Part 5)

Contributor/柳猫さん
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笑わない檻の閉開
The prisoner in the drowsing


 低い…空が余りにも低い!
 ここは恐らく、自分が知っている世界ではない。夢だ。それも悪夢。どうしようもなく不幸なのは、彼にとって明晰夢を見ることが珍しくないということだった。そして何より、理解しているところで直ぐに覚めはしないということだ。理性とは感覚を、絶望とは一片の希望を塗り潰す存在でしかない。
 空どころか地面さえも確かではない。そもそも今、立っているのか? 歪みうねり軋み澱み崩し貪り吐き出し―――――彼の心と身体を引き裂き押し潰そうとする。灰色の世界で自分の色を保っていられるはずがないのだ。彼は走った。いや、走っているはずだと信じて。焦燥を殺すにはどうすればいいのか。
(早く目覚めてくれぇええ!!!!)
 渇ききった鉛色の喉には苦鳴だけが張りつく。叫びさえままならない世界―――――



 夜の中で優雅に、だが迅速に初動する影を、彼女は見た。厚い布地が豊かな胸元から波打ってこぼれ落ちる。月灯りに呼応するブロンド、薄闇よりも光を吸い込んでしまう黒の下着を身にまとい、毛布を払ってすくっと立ち上がったシルエットは…なんだかもう小説に出てくる女スパイの様相を呈していた。
「ま…待ってよセリーヌ〜」
 見とれていたためにベッドから転げ落ちて、しかも強かに鼻柱を打ちつけたりはしたが、そんなことで彼女は負けない。しばらく這ったが、効率が悪そうなので、アリスは立ち上がって同僚を追いかけた。

(古いタイプ…5秒ってとこかしら)
 鍵穴を覗いてざっと機工を確かめると、折り曲げていたヘアピンを差し込む。小さな金属音がすると、セリーヌは間髪入れずにドアノブを捻った。壁に寄りながら身を引くように戸を開く―――――と、そこへ後ろで控えていたアリスが、つんのめって転がり込んだ。待ちきれずに蹴破ろうと足を振り上げていたからだ。実際にはできもしないというのに。
「いったぁい…」
 転がってる同僚を冷めた目でちらりと見てから中の様子を窺う。覗けば部屋はただの四角い箱のままで、気が抜けてしまった。賊もない。いつものようにべそをかいている彼女を尻目に、セリーヌは灰色の味気ないカーペットの上へ足を踏み入れた。ある意味で予測通り、室内にとりたてて異変と言う異変は見当たらない。それは安心するべきことだったはずだ。長身の彼女よりも頭二つ分高い、天井に近いほどの背丈の本棚に、専門書が疎らに収まっている。
「先生、ねぇ先生〜!」
 寝間着のアリスはどたどたと医師の枕元に近寄っていった。うなされる彼の耳元に行って何度も呼びかける。脈も取った。肩を掴んで強く揺するが、荒く息をついてうめくだけで、医師は一向に起きる気配がなかった。



 ――――――誰もいない。
何もない。
自分が分からない。
ここが何処で今がいつなのか。
 必ずこの世界の外側に、ベットで眠っている自分がいるはずなのだ。薄皮一枚か、絶壁の彼方か、だがそれは元より不透明な何かに覆われていて、決して目通ることは叶わず、自分の存在を自覚するだけでは苦しみを知る手助けにしかなりはしない。
 そして急速に…表情も無く重い空が押し寄せてくる。慄然と仰ぐ。このままでは潰されると分かっているが、どうしようもない。遂に彼は呼吸をすることも許されなく ――今の今まで許されていたことが奇跡だ―― なり、限界を超えた閉塞に正気を保つことを諦めてしまった。何かと何かに挟まれ、額から頬から、肩から腹から背中から、腰から膝から爪先まで逃すことなく――――――



「私たちにはどうしようもないわ」
 そう切って捨てるセリーヌが踵を返そうとしたとき、何を思ったかアリスはテーブルの上に畳んであった花柄の刺繍のハンカチーフを摘み上げて、それを医師の口元に押し付け………………次いで鼻を摘んでみせた。彼女は思わず凝視してしまう。
「………………………………」
 暫らく静寂が続いて―――――
「ぶはっ!」
 と、悪戯な腕を凄まじい勢いで押しのけ、汗を雫に散らして医師が跳ね起きた。死んでいたわけでもないが、それでも息を吹き返したのだ。アリスは「あははは!」と大音声で腹を抱えて笑いながら身を引いた。セリーヌは吃驚し、
(真似…できないわね)
 愉快そうなアリスを一瞥して素直に ――無論、胸中だけで―― 認めた。
 医師は喘ぐ息を整えると、アリスを細めた目で確認してから再び目蓋を下ろして首を横に振り、落ち着きを取り戻したかのように見えた。しかしやはり動揺を残しているのか、小さなテーブルの上を何度も引っ掻き回してから眼鏡を探り当てる。それを若干急いたように身につけてから、いつもの口調で言った。静かに。
「私を殺す気か…」
 生気のない顔つきで半身を起こした姿は、まるで病人のようだった。医者の不養生と言う奴だ。苛立ちよりは幾分、戸惑いに囚われたままで、
「何をやってるんだ君たちは」
 それは寧ろこちらが訊きたかったが、一応の無断入室は謝罪するしかない。
「ノックはしましたわ」
 と、言っておこう。
「先生がうなされているのが外まで聞こえてきたも――」
「殺人鬼に追われてるような悲鳴を上げてましたよ!」
「…そうか、すまないが朝は気分が悪いんだ、一人にしてくれ」
 元より期待していたわけではないが、謝罪も感謝の言葉もなく―――――髪の間に指を数本差し入れて、息をつきながらそのまま後頭部を撫でると、医師は毛布をひっ被った。それからまた直ぐに「早く出て行ってくれないか」とくぐもった声。
 ………………髪も梳かない下着姿の自分に、気づきもしないとは。気配だけで判別されたのか。急いでやってきたというのに、まったく馬鹿馬鹿しくなってきた。反応もへったくれもありはしない。
「二時間後には朝食ですので」
 かなりの自信作だ。朝からは少し胃に厳しいかもしれないが、意地でも食べさせなければ気がすまない。
「昨日の昼から煮込んでたよね」
(余計なことを…)
 セリーヌが冷笑しながら睨むのに、あっけらかんとして一切気にした風でもない。相手が慣れてきたのか、それとも知らぬ間に妥協しているのか、とにかく最近、眼光が足りないのだろう。
 素足で廊下を歩きながら考える。それにしても………医師はどんな悪夢を見ていたのだろうか。彼女はそれを、柄にもなく気に掛けていた。再びドアノブを捻りながら胸中で呟く。
(つくづく幸の薄い男……――――?)
 ふと見ると、アリスがこちらの様子をちらちら窺っていた。
「ねぇ、寒くない?」
「…………………………………」
「な、なんでもな〜い」
 少し目が合っただけで、アリスは廊下の向こうへ先んじて駆けて行った。
(このくらいでいいかしら?)
 確かにまだ冷気が辺りを支配している。だが、夜明けまではもう少しだ。



end

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