The another adventure of FRONTIERPUB 52

contributor/ペペドンさん
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  路地裏。
 既に日は天頂に在るというのに尚薄暗く、聞こえるのは建物を風が撫ぜる音と、表通りの喧騒、そして住人のため息だけ……そんな世界。
 一言で言うと陰気な、けれど概ね平和な所である。
 家々に切り取られた青い空に浮かぶ白い雲。
 どこからか聞こえてくる小鳥の囀り。
 子供たちは朗らかに笑い、塀の上で猫がにゃあと鳴く。
 そんなある日の昼下がり。
「待ぁ〜ち〜な〜さぁ〜いですぅ!」
 平和をぶち壊す声が、こだました。







愚者と探偵






「ハァ……ハァッ……」
 路地裏を、大事そうに小さな鞄を抱えて物凄いスピードで駆け抜ける男が一人。
 息は乱れ、服も乱れ、髪も乱れている。
 だが止まれない。止まるわけにはいかなかった。
 彼は焦っていた。
 獲物は仕留めたというのに。
 あれだけ都合のいい環境と、何より自分の腕に自信があったのだ。
 全てが自分に味方していた。
 だというのに、彼女は気づいたのである。
 あの黄色い少女。
 仕事を終え、立ち去ろうとした自分の目の前に、彼女は颯爽と現れこう言ったのだ。
『御用ですぅ!』
 それからはもう散々だった。
 条件反射で逃げ出してしまい、やはりというかなんと言うか彼女も自分を(大声で何やら色々叫びながら)追ってきて、たまたま近くにいた警官らしき男までもが何故かそれに加わっているのだ。
 それだけではない。
 十字路を曲がって隠れてやり過ごしたと思ったら、何故か正面の道から追っ手が来たり…
 よくわからない毛布の塊に足を取られたり…
 何故か地面に尖った鉄の塊がばら撒かれていたり…
 蹴飛ばしたゴムボールが跳ね返って顔面を直撃したりもした。
 とにかくもう、散々だったのである。
 いい加減、彼はもう(精神的にも)疲れきっていた。
 いっそのこと捕まってしまおうかと何度も思い、その度になけなしの気力を振り絞って走り続けたのだ。
「あぁ……くそッ! なんでこんなことに……!」
 忌々しそうにそう毒づく。
 だがそうしたところで、現状はかわらない。今は逃げねばならないのだ。
 もう何度目かもわからなくなったが、それでも曲がり角を曲がる。
 すると男の視界に、何か黒いモノが入りこんだ。
 前方の道のど真ん中。避けることなど考えない。
「じゃっ……邪魔だぁぁぁ! どけぇぇえ!」
 そう叫びながら突っ込んだ男の意識は、

「……断る」

 世界が大きく回って、そこでブラックアウトした。


「待ぁちなさぁ〜いで……す……ぅ?」
 男を追い脇道に飛び込んだサリーは、理解する間もなくそれを目にする事になる。
 叫びながら突っ込む男。
 揺らぐ黒い――マントを纏った、誰か。
 宙を舞い、そして落ちる男。
 男は地面に叩きつけられそして、動かなくなった。


 黒マントの誰かが、こちらに歩んでくる。
 ボロボロの、フード付きのマント。
 全身を覆うそれが、彼に「黒い」というイメージをもたらしている。
 即座に彼女の灰色の脳細胞が働く。
 この迷探偵にかかれば、この程度の状況を把握するのに時間など必要ないのだ。
「えーとぉ…ご協力感謝しますぅ!」
 今回はまともな回答が出たようだ。
 言ってサリーは頭を下げる。
 それに対し黒マントの誰かは、フードを取りながら、
「……気にするな。たまたまだ」
 低くも高くもない男の声で、淡々とそう答えた。
 フードの下から出てきたのは、薄く青みがかった白髪。
 そしてその下から覗くのは、やや精悍な顔立ち。やはり男だったらしい。
 ただその目だけが、やけに気怠そうに見える。
 彼はすたすたとその場を立ち去ろうとする……が、サリーにぐいと袖を掴まれた。
「それでもですぅ! このご時世に貴方みたいな善良な市民は珍しいんですよぉ!? 最近は親が子を手にかけ、子が親を手にかけるような殺伐とした……」
 声高らかに熱弁を振るうノンテュライト女史。聴衆は野良猫とゴミ箱か。
 その知識の大半は、彼女が公園で買うゴシップ紙から仕入れたものなのだが。
 そうしていると、彼女と一緒に男を追いかけていた(はずの)警官(らしき男)が、よろよろと追いついてきた。
「ぜー……はー……な、なんでそんなに速く走れるんだ……」
 ふらふらになりつつも、なんとか声を絞り出す。
 それに気付いたサリーは、不満を顔中に浮かべて警官に詰め寄った。
「遅いですぅギャバンさん!」
 警官が崩れ落ちる。
「ギャラハンですッ!……影薄いのかなぁ、俺……」
 訂正しつつ起き上がる。
 この調子では、彼が上司に名前を覚えられるのもまだまだ先になりそうだ。
「ふぅ……えーっと、君は?」
 そうしてギャラハンがマントの彼に問いかける。
「……気に、しなくていい」
「この人が捜査に協力してくれたんですぅ!」
 すかさずサリーが口を挟む。
 マントの彼はというと、興味なさそうに二人の様を眺めている。
「それは……ご協力、感謝します。それでこの男が……あー……なんだっけ」
 とりあえず礼を言い、そして記憶の糸を辿り始めるギャラハン。
 彼は休日を謳歌しようと街に繰り出していたところを、サリー――現場で何度か話したことがあった為、面識があった――に呼び止められ、さっきの男を一緒に追う羽目になったのだった。
 簡単に状況を説明された時に、その名前を聞いていたはずなのだが…
「極悪非道の殺人鬼、その名もネイルクリッパーですぅ! 今朝のまるまるタイムズに指名手配の記事が載ってましたぁ!」
 自信満々に言うサリー。
 だがそれに対してギャラハンは、
「うーん……そんな指名手配犯いたっけかなぁ」
 と、どうにも歯切れが悪い。
 そうやって二人があーだこーだ言い続けている横で、ローブの彼がつまらなさそうに何かを拾い上げた。
「……おい」
 それに気付いたギャラハンに、放ってよこす。
「「ん?」」
 二人とも話すのをやめて、それの観察に専念する。
 それは財布だった。
 どピンクの。
「これは……ネイルクリッパーはそういう趣味の人だったんでしょうか?」
「いや、んな訳ないだろ……これはこいつのじゃないな、多分」
「……他にもあるみたいだな」
 黒マントの彼が男の持っていた鞄をひっくり返すと、中から大量の財布が雪崩れ落ちてきた。
「こりゃあもしかして……こいつ、スリの常習犯か何かか?」
「えぇっ!? 人を殺めるだけでは飽き足らず、人様の金にまで手をつける最凶最悪の犯罪者だったんですかぁ!?」
 場が静まる。
「…まぁ、それは置いといて」
「あれぇー」
 必死にネイル(以下略)の恐ろしさについて語るサリーをさて置き、ギャラハンは頭の中で考えをまとめていく。
「サリーちゃん、君とこの男、最初はどこにいたんだい?」
「え? えぇと……確か、繁華街の方だったと思いますぅ。いつもより人が多くて、捜査が難航してましたから」
 それを聞いて、満足そうに頷くギャラハン。
 サリーはというと、話の展開について行けないようで、少々混乱気味だ。
 黒マントの彼は黙って話を聞いている。
「うん……多分、だけど。こいつ、まさに仕事の真っ最中だったんじゃないかな」
「お仕事、ですかぁ?」
 聞き返すサリー。
 またも頷いて、ギャラハンは続ける。
「そう、まさにスリを決行してたんだろうね。そこでサリーちゃんが急に大声を上げたから、焦って逃げ出しちゃったんだろ、多分。……女の子一人相手に逃げ出すあたり、こいつの器が知れるけど、ね」
「えーと……つまり」
 またも場が静まる。
 そしてサリーは、くわっと目を見開き、
「この名探偵がまたも巨悪の種を潰したということですねぇ!?」
「……うん、まぁ、それでいいよ」
 ギャラハンが疲れ気味に答える。
「とりあえずこいつは、現行犯逮捕だな。その財布も、あとで持ち主に返すとかしないとなぁ」
 そうぼやきながら、ギャラハンが男(まだ目を覚まさない)に手錠をかける。
 そうして男を抱えあげようとするが、大の大人を署まで背負っていくのは、なかなか骨が折れそうだった。
「こりゃ……きついかもなぁ。そこの君、よかったら手伝ってくれないか?」
 と、そう言って黒マントの彼に向き直るのだが、
「「あれ?」」
 その時には、彼の姿はどこにもないのだった。

 結局、男を運ぶのはサリーが手伝い、目を覚まさなかったのもあってか無事に署まで連行することができた。
 その夜フロンティアパブでは、サリーが武勇伝を得意そうに語るのだが、テムズに「危ないことするんじゃないの」と一蹴されて、サリーの探偵ぶりは評価されることなく終わる。
 こうして、小さな事件は幕を閉じたのだった。



――数日後

 その日、サリーはいつものように索敵モードで街を散歩していた。
 犯罪の種はどこに潜んでいるのかわからないのである。
 そうして街を抜け、川の近くまで来たときだった。
「ん? んんんん? あれは……」
 川に架かる橋の下、そこに、見覚えのある黒マントの姿を見つけた。

「この前は、ありがとうございましたぁ!」
 サリーが勢いよく頭を下げる。
 彼を見つけたサリーは、全力疾走で彼の下まで駆け寄り、開口一番にそう言ったのだった。
 マントの彼(今日はフードを脱いでいる)は座ったままちらりとサリーを見て、
「……気にするなと、言ったはずだが」
 そう、返した。
「それでも感謝の気持ちは大切だって、お婆ちゃんもテムズさんも言ってましたぁ!」
「……そうか」
 どうやら彼はそれで納得したようで、それ以上「気にするな」とは言わなかった。
 そうして沈黙。
 空を見つめる彼の青灰色の瞳は、今日も気怠そうだった。

「ここで何してたんですかぁ? えぇーと……」
 そこで初めて、サリーは彼の名前を聞いていなかったことに気づいた。
 彼はしかし、空を見つめたまま黙っている。
「あ! 私はサリーっていいますぅ! サリサタ・ノンテュライト。サリーって呼んでください!」
 彼もサリーが何を求めているのか理解したらしく、
「……フゥルだ。そう、名乗ることにしている」
 やはり空を見つめたまま、答えた。
 それを聞いて、サリーは嬉しそうに笑い、言った。
「はい! よろしくです、フゥル!」
「……」
「それで、さっきの質問なんですけど……」
 そう言いながら、サリーはフゥルの横に座る。
 近くで見て気づいたが、どうやら彼はずいぶん若いようだ。
 自分と同じか、もう少し上くらい。
 さっき呼び捨てにしてしまったのも、無意識のうちにそれを感じ取ったからかもしれない。
「……何をしていたか、か?」
「はいですぅ」
 そうしてフゥルはしばらく考える。
「……そうだな。さっきは……夢を見ていた」
「夢、ですかぁ?…あ! もしかして私、起こしちゃいましたかぁ…?」
「……気にするな。いつも見る夢だ。……どんなものかも、終わりも判っている」
 つまらなさそうに答える。
 それでもサリーは納得いかないようだったが、
「……………」
 黙られてしまったので、とりあえず納得することにした。
 そうして尋ねる。
「それで……まったく同じなんですかぁ?」
「……ああ、そうだ。……最初は赤と白の景色。次に真っ赤に変わり……やがて黒くなり、終わる。それだけの夢だ」
「ふぅん……」
 沈黙。
 フゥルは空を見つめ、サリーもまた同じように視線を上げる。
 ふと、サリーが呟く。
「昔、お婆ちゃんがよく言ってたんですけど……」
「……?」
 微かに、フゥルが首をサリーへ向ける。
「夢には意味があるって。私も、たまにそんな意味のある夢を見るんです。フゥルの夢が何を示しているのかはわからないけど……でも! きっと意味があると思いますぅ」
「……意味、か」
 彼が再び視線を上げる。
「……確かに、そうかもしれないな……」

「さて、と。じゃあ、私はもう行きますね」
「……そうか」
 立ち上がりながらそう言ったサリーに対し、フゥルはその一言だけ返した。
「えぇーと……フゥルは、いつもここにいるんですかぁ?」
「……? 大体は……な」
 それを聞いて、サリーは満足そうに微笑み、
「それじゃ、また明日ですぅ!」
 そう言って、駆けていった。
 残されたフゥルはというと、
「………」
 完全に、呆気に取られていた。
 今まで話しかけられたことは何度もあったが、
 ――また明日。
 そう言ったのは、彼女が初めてだったのだ。



 それからというもの、捜査(少なくとも彼女はそう思っていた)の合間に橋下でフゥルに会うのがサリーの日課となった。
 相変わらず彼は黙って空を見ていることが多かったが、サリーは時に語り、時に同じように空を見上げて、夕方まで時間を過ごすのだった。
 端から見れば、それはサリーが一方的に喋っているだけに見えただろう。
 だが彼らの間には和やかな……そう、まるで十年来の友人同士のような空気があったのだ。
 楽しそうに語るサリー。
 それを静かに聴き、時折相槌を打つフゥル。
 そんな関係が出来つつあった。



「それじゃあ言ってくるぜ! ですぅ!」
 そう言って、サリーがパブを出て行く。
 店内の掃除をしながら見送るテムズは、
「あまり遅くならないようにね!」
 と去り行く背中に声をかけるが、果たして聞こえたのかどうか。
 小さく笑みをこぼし、再び机を拭こうと向き直ったテムズの前に、
「また例の友達に会いに行ったのか?」
「うひゃあ!」
 壊れた人形が、机に顎を乗せていた。

「まったく……いきなり現れるの、やめてよね」
 そう言うテムズの手にはモップ。
 その後ろには、今度こそ本当に壊れた人形になったウェッソンが転がっていた。
「……だからと言って、いきなり突きをかますのもどうかと思うが」
「これに懲りたら店内で気配を消すのは止めることね」
 本当に気をつけよう……と、そう思いながらウェッソンは体を起こす。
 そうしてもう一度卓につく。
「それで、どうなんだ?」
「何が?……ああ、そうなんじゃない? いいじゃないの、友達が出来るのはいいことだし」
「それはそうんなんだが……むう」
 そう言って唸るウェッソン。
 テムズは、意地悪そうににやりと笑い、
「なに? あんた、寂しいの?」
 言ってのけた。
 だがそれに対し彼は、
「そんなんじゃないさ」
 と冷静だ。
「なんて言うか、いやな予感……というわけでもないんだが……むう」
 やはりウェッソンははっきりしない。
 彼なりに何かを感じているのだが、上手く言葉にできないのだ。
「ま、やっぱりあんたはあの子の保護者ってことね。けど、過保護なのはいただけないわよ」
 そう言って彼女は再び掃除に戻る。
 ウェッソンは何かを言おうとして……止めた。
 彼もあながち否定できないのだ。
 確かに、交友関係にまで口を出すのはどうだろうかと、そうも思う。
 部屋に戻って昼寝でもするか、と思い立ち上がったところに、
「ああ、暇なら表の掃除頼むわね」
 と、テムズにそう言われ、仕方なく箒と塵取りを手に表へ出るのであった。
 そうして表へ出て、空を見上げる。
 思えば、こうしてゆっくり眺めるのは久しぶりな気がした。
 昔……そう、昔はよくこんな風に見ていたような気がする。
「明日は……雨だな」
 そう呟いて彼は、のろのろと掃除を始めるのだった。


「そういえば、フゥルはどこに住んでるんですかぁ?」
 ふと、サリーは今まで聞くのを忘れていたことを尋ねた。
 彼女が一方的に話をすることはあれど、フゥルに何かを尋ねるということは珍しい。
 それが必要ない空気であったのもあるのだが。
「……大体は、ここで寝泊りしている。たまに、公園の木の上でも眠るが……」
 そこまで言ったところで、サリーに遮られた。
「何で言ってくれなかったんですかぁ! 言ってくれれば、テムズさんに頼んで――ぶるるっ――あ、いや…と、とにかくっ、泊まる場所探すの手伝いましたよぉ!?」
「……気にするな。自然が近くにあると、俺も落ち着く」
「む、ならいいですけど……いやよくないですけど……」
 結局納得してしまうサリーであった。
「……じゃあ、家は? 家族はどうしてるんですかぁ?」
「……家は多分、この街にはない。……家族も」
「多分……? じゃあ、フゥルはどこか別のところから来たんですかぁ?」
 ないというのだから、普通はそうなるだろう。
 しかし彼はこう答えた。
「……わからない。……俺は、俺がどこから来たのか、俺が誰なのか……全て、わからないんだ」
「え……それって、つまり……」
「……記憶がな、ないんだ」
 はっとするサリー。
「ご、ごめんなさい! 私、余計なこと聞いちゃって……!」
 慌てて謝るが、しかし彼は、
「……? 気にするな。別に話して困るようなことじゃない」
 と、いつものように淡々と言うのだった。
 そうして、空を見上げる。

「あの……よかったら、私に詳しく話してみてくれませんかぁ?」
「……?」
 フゥルはちらりと視線を向ける。
「ほら、話したじゃないですかぁ。私こう見えて探偵なんですよぉ! 宝探しから怪盗事件まで、一家に一台サリーちゃんって言われてるんですから! だから、何か役に立てればいいなぁ、と思って……」
 最後は少し自信がなさそうだったが、それでもその目は真剣だった。
 彼女は彼女なりに、本気で力になろうとしているのだ。

――わからない

「……詳しくも何もないんだがな」
 どうやら彼も話す気になったようで、ぽつぽつと語り始めた。
「……気がつくと、この格好でここにいた。……この橋の下に。持っていたのは、こいつだけだ」
 そう言って、彼は一丁のリヴォルヴァーを取り出した。
 装飾の無い、質素な拳銃。
 見覚えの無いそれに、だがサリーは、
「あれ……? これ……」
 妙な既視感を覚えたが……
「……? どうかしたか?」
 次の瞬間には、ぼやけてよくわからなくなってしまっていた。
 何度か目を擦り、確認しようとするが、どうやってもそこだけぼやけて見えるのだった。
「……いえ、勘違いだったみたいですぅ」
 にへへ、とごまかすように笑い、サリーは頭を掻く。
 フゥルもそれで納得したようで、
「……そうか」
 とだけ言った。
「……む? じゃあ、フゥルって名前は覚えてたんですか?」
 話題を変えるように、サリーが尋ねた。
 彼は一瞬、答えるのを躊躇ったように見えたが、
「……いや、これは……自分で、つけた」
 そう、小さな声で答えた。
「……名前について思い出そうとした時、真っ先に浮かんだのがこれだった。……それ以降、そう、名乗ることにしている」
「なるほどぉ……うーん。何か意味ありげですねぇ……」
 腕を組んでうーん、と考えるサリー。
 だが、考えても答えは出なかったようで。
「うん、やっぱりここは、お隣のお爺さんを頼りましょう! 銃のことも、鍛冶屋くんやウェッソンに聞けば何かわかると思いますぅ!」

――やはり、わからない

 そう言いながら、元気よく立ち上がるのだった。
 しかしその横で、フゥルは空を見ることなく、怪訝な顔を向けているのだった。
「どうしたんですかぁ?」
「……何故だ」
 ゆっくり、しかしはっきりと口にする。
「……何故お前は、俺なんかの為にそこまで……俺みたいな、どこの誰だかもわからないような奴に、何故そこまで出来るんだ……!?」
 思わず語調が強くなる。
 そう、彼はそれが不思議でならなかった。
 自分に声をかけ、それどころか何度も会いにくるだけではなく、自分の記憶を探す手伝いまでするというのだ。
 それは、記憶の有無に関わらず彼自身が理解できないことだった。
 だが、それをサリーは、

「だって、友達じゃないですか」

 笑顔で言ってのけたのだ。
「……とも、だち……」
 思わず、繰り返してしまう。
「友達が困っているのを助けるのは、探偵じゃなくても当然のことですぅ! おや、お呼びでない? いやいやいや、天が地が、人が呼んでいるのさぁ、ですぅっ!」
 彼が呆気に取られたのは、これで二度目だった。
 理解できなかった。
 この少女が何を言っているのか、彼には理解できなかった。
「本当は今から向かいたいところなんですけど……そろそろ帰らないとまたテムズさんに怒られてしまいますぅ」
 だがそれでも、自分がどうするべきなのか…
 何を言うべきなのかは、自然と理解できた。
 そして。
 フゥルはわからないように、本当にわからないように、
「……りがとう」
 そう、小さく言うのだった。
「ん? なんですか?」
「……いや、なんでもない」
 サリーが見た時には、既にいつもの淡々とした彼だった。
 少し怪訝そうな顔をしたサリーだったが、すぐにいつも通りの顔になり、
「とりあえず、また明日来るですぅ。そしたら、一緒にお爺さんのところへ行きましょう!」
 と、言うのだった。
 それを聞いてフゥルは、しばらく空を見つめ、こう言った。
「……明日は止めた方がいい。おそらく雨になる」
「む? 天気予報ですかぁ?」
「……似たような物だ。空の色と雲を読んでいる。……あまり当てにはならんがな」
 そう言って、小さく微笑んで見せた。
「それじゃ、晴れたらまた明日、ですぅ!」
「……ああ、そうだな」
 なんてことない、普通の挨拶。
 そうして、彼らは別れるのだった。  

 

 翌日。

「ホントに降りましたねぇ」
 昨夜から振り出した雨は、昼になっても勢いを弱めることなくこの街を濡らし続けていた。
「今日は出かけないんだろ?」
「うーん……そうするしかなさそうですねぇ」
 2階から降りてきた(今起きたらしい)ウェッソンが尋ねて、サリーが残念そうに答えた。
 それほどまでに激しい雨だったのだ。
 おそらく、外に出れば数歩先が良く見えないであろう程に。
「確かに珍しいわよね、こんな雨。しかもこんな季節に」
 テムズも掃除の手を止めて、窓の外に見入っている。
「でもまぁ、こんな天気じゃお客さんも来ないでしょうし。今日は休業――」
 休業にしましょう、と、まさにそう言いかけた時、
ばたんぶぉぉぉおおおお
 物凄い暴風雨と共に扉が開かれた。
 硬直する3人。
 その視線の先には一人の男。
 しばしの沈黙。
「きゃ……キャメロンさん!」
 サリーがそう叫び、
「ギャラハン……です……」
 男がそう訂正して、倒れた。

「いやぁー助かりましたよ! ほら、こんな天気じゃないですか。外歩いてたらバケツやら角材やら看板やら何やら飛んで来ちゃって……え? よく生きてたって? いや昔っから体だけは丈夫ではっはっは!」
 そう言いながらテムズの手当てを受けるギャラハン。
 本当に、よく生きていたもんである。
「それで……えーと、ギャラハンさん? なんでまたこんな天気の中を……」
 包帯を巻きながら、テムズが遠慮がちに聞く。
「事件ですか? 事件ですか!? 事件ですかぁ!?」
 サリーも身を乗り出して興味津々である。
「いやそれが、ここだけの話なんですけど……署で取調べをしてた犯罪者に逃げられちゃって……」
「そ……それは……かなり、まずいんじゃないですか?」
 テムズが引きつった笑いを浮かべながら聞く。
 ウェッソンは「やれやれ」と肩をすくめ、サリーに至っては「やっぱり事件ですぅ!」と燃え始めてしまう始末である。
「いえその、逃げたのはそんなに危険じゃない種類の奴で……ほら、サリーちゃん。この前捕まえたスリいただろ?……あいつなんだよ」
「あぁー……」
 理解したのか理解していないのか、サリーの中途半端な返事。
 おそらく、彼女にとって今一番大事なのは事件か事件でないか、なのだろう。
「それで捕まえたの俺だからって、他の部署なのに俺まで借り出されて……この雨の中、ずっと歩いてたんですよ?」
 後半は半泣きになりながら話すギャラハン。
 確かに気の毒ではあるので、同情の眼差しを向ける3人。
 しかし誰も彼を労う事はない。
「えぇーと……じゃあ、そんなわけで私も手伝いま……」
「ダメよ、こんな天気なのに。そーいうことは、ちゃんと警察に任せときなさい。ね、ギャラハンさん?」
「え、ええ。そうですね」
 控えめにサリーが切り出すが、テムズが一蹴する。
 そして振られたギャラハンは、猫の手も借りたいとは言えず頷くのだった。
「さ、温かい紅茶でも頼んで、もうひと頑張りしてください!」
 決しておごりじゃない所が彼女らしいと言うかなんというか。
 そうしてまた、それぞれの時間に戻ろうとし、

「それにしても、ホント凄い雨ですよね。俺来る時に川の方にも行ったんですけど、あんな勢いで、しかもあんな量の水が流れてるの初めて見ましたよ」

 その一言で、場の空気が凍りついた。
「川……凄い、水……?」
 みるみる内に、サリーの顔が青ざめていく。
 だが、ギャラハンはそれに気づかずに続ける。
「ええ、橋が流されるんじゃないかって冷や冷やしながら渡りましたよ。あんなのに飲まれたらひとたまりもないだろうなぁ」
だんっ
 それを聞いて、サリーが駆け出した。
「待て、サリーっ!」
 そう言って引き止めようとするウェッソンの手をすり抜けて、彼女はパブから飛び出した。
 そうして、未だ雨の降る街へ消えて行く。
「くそッ……テムズ!」
「わかってる、早く追いかけて!」
 頷きを返して、ウェッソンも駆け出す。
 そうして二人が去った後、一人紅茶をすすっていたギャラハンは、
「……へ?」
 一人状況がつかめずに、呆然とするのだった。


「どうして……どうして俺はいつも……!」
 そう呟きながら、ウェッソンは雨の街を全力疾走していた。
 また守れないのではないか。
 そういう不安が、彼の中に渦巻いていた。
 あの時、もう少し手を伸ばしていれば。
 そしてもし、サリーの身に何かあったら。
 そう考えると、この雨も風もどうという事はなかった。
「さっさと追いついて、連れ戻さないと……」
 ずぶ濡れになりながら、彼は橋へと向かう。


「フゥールー! いたら返事してくださーい!」
 橋に着いたサリーは、全力疾走で息があがっているにも関わらず、大声で叫び続けた。
 だが、それに応える声はない。
「どうしよう……本当に水に飲まれちゃったんじゃ……」
 以前サリーが聞いた時、彼は多くをこの橋の下で寝泊りしていると答えたのだ。
 探して見つからない以上、違う場所にいたことを祈るしかないのだが…
「それでも探すことに意味があるんですぅ!」
 彼女は、納得できるまで探し続けるつもりらしい。
「とりあえず、橋の下がどうなってるか確認しないと…」
 そうして、橋から身を乗り出したその時、

「え?」

 彼女の体は、宙を舞っていた。



 その日彼は、雨の中街を彷徨っていた。
 失くした記憶を求めて。
 彼の中の何かが、“この街にある”と告げていたのだ。
 何があるのかはわからない。
 ただ彼にとっては――何もない彼にとっては、“それ”が何であれ良かったのだ。
 パズルは、ピースがなければ組み上げられない。

 だがそんな空っぽの彼の中に、最近何かが芽生え始めていた。
 度々彼を訪て来る、彼女。
 彼女は自分を友と呼んだ。
 だが自分は?
 果たして彼女をそう思っているのだろうか?
 何を持ってそれを判断すればいいのか。
 それすらも、彼にはわからなかったのだ。
 だが。
 自分が彼女の友でいられるのなら、それは素晴らしいことだと。
 そう、思うのだった。

 ふいに、自分の名前を呼ばれた気がした。
 自分で付けた自分の名前。
 割と、気に入っている。
 気がつけばいつものねぐらの近くまで戻ってきていた。
 いつもの橋。いつもの川。……見慣れた風景。
 ただいつもと違うのは、この雨のせいで増えた水かさと……

 ……宙を舞う、見知った姿があることだった。

「サリー!」
 遠くで、知らない男の声が響く。
 彼は駆け出した。

 

「サリー!」
 ウェッソンが叫ぶ。
 橋に辿りついた彼が目にしたのは、今まさにうねる水に飲まれようとするサリーだった。
 どうやら、風に煽られたらしい。
 そうして水しぶきがあがる。
 そのまま流され――るかに思えたが、川の中ほどに突き出た木に掴まったようで、なんとか堪えている。
 彼は急いで水際まで向かうが、
「くそッ!」
 水の流れが速すぎて、これでは泳いで助けに向かう事もできない。
 だがそれでも、彼が意を決して飛び込もうとした時、
「ウェッソン、ダメです!」
 水にもまれながらも、サリーははっきりとそう言った。
「だが!」
「ダメったらダメです! それでウェッソンまで溺れちゃったら、どうするんですか!!」
 いつもと違う、切羽詰った声。
 それが、彼をその場に縛り付けていた。
「俺は……俺はどうすれば……!」
 そう呻いた彼の目に――

――宙を舞う黒い影が、映りこんだ。


 彼は駆け出した。
 最早何も考えることはできない。
 何をすべきかは、体が理解していた。
 彼女が川に落ちる。
 だが流されることなく、川の中ほどに生えていた木(今は半分程水に浸かっているが)に掴まったようだ。
 これで暫くは――彼女が力尽きない限り、流される心配はない。
 橋の中央へたどり着く。
 彼は手すりへ足をかけ、迷うことなく激流へと飛び込んだ。


「嘘だろ……?」
 そうしてウェッソンが目にしたのは、水の上を飛び跳ねる黒い人影だった。
 本当に飛び跳ねているわけではない。
 実際は、足場を見つけて飛び移っているだけなのだ。
 だが、普通の川の中にそれほどまでの足場があるのだろうか?
 ……そう、彼が使っていたのは、次々と流れてくる浮流物。
 多くは流木、中には風で飛ばされたのか、看板なども混じっていた。
 浮流物から浮流物へ、それが沈む前に跳躍し、次の足場へと飛び移る。
 説明するのは簡単だが……そもそも、実際にやってのけることができるのだろうかと、それが信じられなかった。 
 そうして見ている間に、今度は流木をサーフボード代わりにし始めた。
 上手くバランスを取りながら、一気にサリーへと近づいて行く。
 そして手を――掴んだ!
 そのままサリーを抱きかかえ、彼はまた同じように、足場を使いこちら側へと飛んでくるのだった。

 そうしてフゥルがサリーを横たえると、ウェッソンが駆け寄ってきた。
「サリー、おいサリー! しっかりしろ!」
「……けほっけほっ……ウェ……ッソン?」
「……あんたが、保護者か」
 何度か、サリーからその名は聞いていた。
 どうしてか話のオチに使われることが多かったが。
「……かなり水を飲んでいる。吐き出させた後、病院なりに連れて行ったほうがいいだろう」
 それだけ言うと、彼は立ち去ろうとする。
 だが、
「待って!」
 その一言で、歩みを止めた。
「フゥルが……無事でよかっ……た。……それと、助けてくれ……て、ありがとう」
「……気にするな」
 そう言って、再び歩き始めた彼に
「待てよ」
 今度は、ウェッソンが声をかけた。
「……何だ」
 振り返らずに応える。
「こいつがなんでこんな所にいたかわかるか?」
「……わからんな」
「お前を……お前の無事を確かめる為だよ」
「!?」
 フゥルの表情が凍りつく。
 今まで見せた事のないような動揺。
――では、全ては自分のせいで? 自分がここに寝泊りしていると、彼女に話したから……?
「別にお前を責めるつもりはない」
 汗が噴出し、喉がからからになる。
「だが……だがな」
 認めたくない事実。
 知りたくない真実。
 ……見たくない、現実。
「こいつが……サリーがお前のことを、そこまで心配してたという事だけは……わかっておいてくれ」
 ようやく、ようやく分かったというのに。
 ようやく理解できたというのに。
 頭で考えられなくなって、ようやくそう思うことができたのに。
 ……彼女が、友人であると。

「さて、と。俺が言いたいのはそれだけだ」
 そう言って、ウェッソンはサリーを背負う。
 水もだいぶ吐き出したようで、これから病院なりへ連れて行くだろう。
 しかしフゥルは、何も言う事ができないまま立ち尽くしていた。
 最早彼の耳には、ウェッソンの声も、雨音も、流れる水の音も何も……聞こえていなかった。
 無音の世界。
 だがそこに、
「フゥル!」
 彼女の声が響いた。
「………」
 彼は応えない。
「フゥル! また……また、明日」
「……何故だ」
「明日は……明日雨が止んだら、今度こそお爺さんの所へ行きましょう……ね?」
「……何故なんだ!」
 叫ぶ。
「何故お前は! 俺のせいだぞ!? 俺のせいで、死にそうな目にあったっていうのに……! ……どうして、どうして笑っていられるんだ!」
 ただ叫ぶ。
 己の中にある全ての疑問を吐き出すように。
 納得がいかない全てに叩きつけるように。
 ……その、苦しみを堪えた笑顔に向かって。
 再度かけられた問い。
 だがやはり彼女は、

「だって、友達じゃないですか」

 そう、笑顔で言うのだった。
「……どうして……お前は……」
 叫びは、やがて涙へと変わっていた。
「それに、フゥルは助けてくれたですぅ。だから、こうなったのがフゥルのせいだったとしても、おあいこです」
 彼の記憶、始まってからまだ長くない記憶の中で、初めて流す涙。
 そうして浮かび上がった疑問。
 純粋な、疑問。
「……俺は、お前の友達で……いいのか……?」
 それに、
「もちろんですぅ!」
 ウェッソンの背中で、彼女は元気よく答えた。
 笑顔で。
 そうして彼は言葉を紡ぐ。
 今度は、はっきりと。

「……ありがとう」

 そう、笑顔で。



 それからまた、数日が経った。
 結局サリーは、その後暫く入院することになり、“また明日”の約束が守られる事はなかった。
 それでも、二人でネルソン氏を訪ねる事は叶ったのだが。
 …彼の記憶の手がかりが掴めなかったのは、また別の話。
 だがその後も、サリーの日課は変わることはなかった。
 そう、変わったのは――


「……サリー、遅いぞ。既に10分も経っている」
「あわわわわわ! わかってるですぅ!」
 慌しく階段を駆け下りるサリー。
 そしてパブの入り口には、黒いマントの少年。
――そう、変わったのは、彼の方から会いに来るようになったということ。
「それじゃあテムズさん、行って来るですぅ!」
「あまり遅くならないようにね!」
 そうしてテムズは遠くなる影を見送る。
 彼らが見えなくなった頃、
「さぁて、今日も頑張りますか!」
 と、振り返った彼女の前に、
「いい友達、もとい助手を持ったもんだな」
「うひゃあ!」
 またも壊れた人形が、顎を乗せていた。

「だからいきなり現れないでって何度も……」
「……善処する」
 またもモップを構えたテムズと、床に転がったウェッソン。
 ああデジャヴ。
「まぁ、それは置いといて……なに? どうしたの? あんた前と言ってる事違うじゃない」
 そうして、素直な疑問を口にする。
 確か前は……
「そんな事はないさ。俺は見たままを言ったまでだよ」
 そうして、床に転がったグラスを拾い上げて磨きだす。
 どうやら磨いている途中だったらしい。
「……まぁ、確かにいい子よね。口数は少ないけど」
「いい男ってのは、あまり多くを語らないもんさ」
 満足そうに頷くウェッソン。
 それにテムズは「あ、そう」と返し、再び掃除に戻る。
「そういえば。彼、この前バルダーさんの所で見たわね。バルダーさん、前からバイト雇いたいって言ってたし……」
「ああ、どうも住み込みで働いてるらしい。ま、あいつにも思うところがあったんだろう」
 やはり一人頷くウェッソン。
 だがテムズはその頭をぐわしっと掴み、
「そうねぇ……どこかの誰かさんも、あの子を見習ってしっかり働いて欲しいものねぇ……」
 と、こめかみを引きつらせながら言うのだった。
「…善処する」
「善処で済むかしらぁぁぁ?」


「……今日はどうするんだ?」
「とりあえず、まだ捕まってないネイルクリッパーを探しましょう! 今度こそこの名探偵が、引導を渡してやるのさぁですぅ!」
「……危険だと判断したら止める。そうしないと、お前の保護者に合わせる顔がない」
「フゥルまで何言ってるんですかぁ! いいですかぁ? 探偵というのは……」



そうして、彼らの日常が始まる。

永遠でも一瞬でもない時間を、彼らは歩んでいく。

いつか来る、終わりに向かって。



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