The another adventure of FRONTIERPUB 49

Contributor/哲学さん
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 その日青年は迷っていた。
 初めての英国に戸惑っているうちにあれよあれよといつの間にか袋小路に迷い込み――気が付けば刺青をしたゴロツキ三人に囲まれていた。
「さぁ、坊や。ちょっとそこまで……」
 笑っていない目でゴロツキは語る。青年は自分の人生が終わったと確信した。が――どうやら神は彼を見捨てていなかった。
「ちょっと待ったー!」
 救いの主は黄色い二つのおさげの似合う少女だった。年の頃なら16歳前後だろうか。くりくりとした大きい目の上からさらに大きめな眼鏡をし、体のサイズよりやや大きめなコートを着ている。どちらかといえば探検家、と言った服装だ。
 その少女は大男三人を前にしてびしっいと人差し指を突きつけ、大見得を切った。
「お前達の悪事はすべてお見通しです! その人を離しなさい!」
 あまりにも自信たっぷりな物言いに思わず全員が言葉を失う。
 だが、所詮少女一人が助けに加わったとてものの数ではない。タトゥーのごろつきは気を取り直し、少女に向き直った。
「なんだてめぇは? まあいい、ついでに売り飛ばしてやる!」
 と、勢いづいて少女の胸ぐらをつかもうとした瞬間――かちり、と言う音とともに冷たい感触がタトゥ男のこめかみを撫でた。
「おいおい、お見通しも何も現行犯だろう? それに俺たちは警察じゃないだろ?」
 やや疲れ気味の男の声。実際に疲れていると言うよりは、どちらかといえば怠け者の印象が強い。
 ごろつきが声の主を求めて目をやるとそこにはやや青みがかった黒髪の青年が銃を片手に立っている。むろん、銃口は彼のこめかみへとピタリとつけられている。
「い、いつの間に!」
「おっと。少しでも動いたら……解るよな?」
 突然の乱入者の言葉に青年を捕まえている二人は動揺する。
「……安心しろ、彼を解放したら見逃してやるよ」
「えー」
 ガンマンの言葉に探検家の少女は不満の声を上げる。
「バーカ、こういうのは見逃す方がいいんだよ」
「ぶぅ」
 少女は頬をふくらませたが、それ以上反論はしてこなかった。
 刺青の男はしばらく黙っていたが、やがて部下達に目配せをすると、異邦の青年を解放し、刺青男も解放される。すぐさまごろつき達は路地裏に姿を消した。
「ふう、助かった。……ありがとうございます」
 青年はそういってガンマンに頭を下げる。
「ふふん、当然のことをしたまでですよ」
 少女はさも自分の手柄の様に胸を張る。ガンマンはそれをたしなめたが、青年は正直に少女にも頭を下げた。
「あら、中国の人ですか?」
 頭を下げるというのはどちらかといえば仏教の浸透したアジアの風習だ。もっとも、小柄で肌の黄色い青年をみれば誰だってそう思うだろう。
「いいえ、日本人です。日本からきたケン・タキと言います」
 そういってまたケンは頭を下げる。見慣れない風習にややガンマンの方は困惑してる様だった。
 ぽりぽりと首の裏筋を書きながら聞いてくる。
「あーそういえばあんたは泊まるところ決めたのかい?」
「いえ、……まだですけど」
「それじゃ、うちに来いよ。って言っても宿屋なんで金取るけど……」
 言われてケンはこれが手の込んだ勧誘の様に思えてきた。
「そうそう、テムズさんもきっと喜ぶので是非来てください!」
 だが、目の前には屈託のない少女の笑顔。それに逆らうことも出来ず……
「……はい」
 ケンは頷いた。
「決まりです! じゃあさっそく行きましょう!」
「あ、おい待てよ」
 直ぐさまケンの手を掴み、走り出す少女。ケンは対抗することも出来ず彼女に引きずられる様にして裏路地を駆けていく。
 彼女はまるで猫の様に細い道を迷い無く、ただ真っ直ぐに駆けていく。果たして自分にもこんな時期があったのだろうか。何の迷いもなく、前に進めた時期が ――。
 ふと、そこで彼は気付く。
「あ、ちょ、ちょっ、ちょっと待って下さい」
 その言葉にきょとんとして少女は立ち止まる。
 その後を息を切らせたガンマンが追いついてくる。それを待ってケンは口を開いた。
「あなた達の名前は?」
 言うと少女とガンマンは顔を見合わせる。まだ名乗ってないことに気付いてなかったのだろう。
「あー俺は……」
「私は超名探偵サリサタ・ノンテュライト! サリーでいいですよ♪」
「は、はあ……よろしくサリーさん」
 ケンは少女――サリーと握手を交わしつつ、後ろで憮然としているガンマンに目をやった。
 彼は不満げに首の後ろ筋を掻きながら言う。
「俺はウェッソン・ブラウニング。一応コイツの保護者だ」
 そう言ってウェッソンはサリーの頭をつんつんと人差し指でつく。
 また子供扱いして! とサリーは彼の手を振り払い、ケンに向き直る。
「そしてここが……」
 彼女は腕を掲げ、道をあける様に脇へと退く。
 そこには一つの表札。そして古ぼけた、何処か懐かしい雰囲気のある人気のない宿。
 彼女はそれを誇りであるかの様に胸を張って言う。
「フロンティア・パブです!」




Happy Lucky Entrance

Lesson0 温故知新

〜 忘 却 の 道 標 〜




 中に入ればがらんとした広い空間。
 酒場を兼用しているのか数々のテーブルと椅子がそこかしこに並び、入り口近くの壁に隣接する様にカウンターがある。
 そして、奥には二階へと続く階段。天井は吹き抜けになっており、二階からこちらを見下ろすことが出来る様になっている。
 そこまで見てからケンは気付く。
 カウンター席には赤い何かが横たわっていた。いや、何かと言うのは失礼だろう。それは年頃の女性だった。
 燃える様に紅い長髪と意志の強そうな太いマユゲが特徴的なエプロンの似合う女性だ。
 深紅に染まった長髪をカウンター席に広げ、ヨダレをタラしながらぐっすりと眠っている。
 サリーは悪戯っぽい顔をしてその女性に近づいていくと、気配を察知したのか紅い女性はすぐに顔を起こした。
「あら、お帰りなさい。こんな時間までどこいってたのよ?」
 顔を擦りながらこの店の主は言う。その様にサリーは残念がったものの、すぐに答えた。
「お客さんを連れてきましたよ!」
「え?」
 ヨダレをたらし、頬に手の跡をつけたまま彼女はゆっくりとケンの方へと顔を巡らせる。
「あ、その、い、いらっしゃい!」
 慌ててヨダレを拭きエプロンの皺を伸ばしながら彼女は立ち上がる。その横でサリーは何故か「いてっ」と右足を押さえながら飛び跳ねた。
「私はこの宿の主、テムズよ。よろしく!」
「ケン・タキです。よろしく」
「ケンタキーさんね。もしかしてチキンが好き?」
「え?」
「い、いえいえ、何でもないです。こちらに記帳してくださいな」
 こうして、ケンの長い様で短いロンドンの滞在が始まったのだった。


「へぇ、ケンタキーさんは画家なんですか」
 テムズ達は遅い夕食を四人で囲みつつ、改めて互いの自己紹介をしていた。
「ははは、ケンでいいですよ。なんとか大学の奨学金を貰って巴里(パリ)留学までこぎつけたんですけど、いかんせんレベルが高くて……」
 そう言いながらケンは2つめのフライドチキンに手をつける。
 今夜はたまたま仕入れてあった鶏肉を使ってフライドチキンをテムズが仕立てたのである。
 久しぶりの客なのでかなり気合いを入れて作った、と言うだけあってなかなかの味だった。
「ほぅ、絵を描くのも大変だな」
 脂っこいチキンが余り気にくわなかったのか、ウェッソンはちびちびと酒を飲んでいる。
「こっちへは休暇ですか?」
 こちらは5つめのチキンを頬張るサリー。
「あ……ええまあ、そんな感じです」
 やや暗い表情になってケン。その様子を見て、ウェッソンはわずかにため息をつく。
「まあ、ゆっくり休んでけ。時間はあるんだろ?」
「ええ、えーと、その……一応一週間くらいをメドに」
 それを聞いてテムズがやや眉をひそめる。
「えらく無計画な休日ね?」
「ははは……苦学生ですから、休みはあっても計算したらお金が一週間くらいしか持ちそうにないってことですよ。それ以上いると帰れなくなってしまう」
「そうなると私達と同じですね」
 サリーの言葉にテムズはやや顔をしかめたが、直ぐさま笑顔で行った。
「ま、宿代を払ってくれれば私はそれでいいわよ。払ってくれればね」
 笑顔の裏にある怒気を察知し、ウェッソンとサリーはうっと唸る。
「ま、まあともかく休日楽しめよ」
「そうそう、ゆっくりしてって下さい」
 ゴゴゴゴ、と背後から効果音が聞こえてきそうな店主を尻目にサリーとウェッソンは必死でケンの肩をバンバン叩く。
「かほ、い、痛いですよ」
「ちょっと、あんた達お客さんになにやってんのよっ!」
「ここここ、コミュニケーションですよ! ボディーランゲージから国際交流は始まるんです!」
 そうして夜は更けていく。


 次の日の朝食後、ケンはロンドンの地図を広げながらじっと目的の場所を探していた。
「どこに観光に行くの?」
 三十分経っても動かないケンを見かねてモップを持ったテムズが聞いてくる。
「ええっと……実は、今回の目的は観光じゃないんですよ」
 ケンは言いにくそうに口を開く。
「二年前に初めて巴里に来た時に描いた絵を路上で売ってたんですが、英国から旅行に来ていた老夫婦が大層僕の絵を気に入ってくれて……」
 そこまで言うと、突如二階の扉ががちゃりと開き、ドタドタと機関車の様な勢いでサリーが降りてくる。
「事件ですね! 探偵の出番ですね!」
 茫然としているケンを尻目にサリーはケンの両手をがっしりと握りしめる。
「分かりました。私がその老人を探しましょう! いえいえお代は結構です! これくらいの依頼難なくこなしてみせますよ!」
 ブンブンと握りしめた両手を上下動させながら矢継ぎ早にサリーはまくし立てる。
 そんな少女探偵にテムズはモップの柄を無言で突き出した。
「あうっ!」
 更にテムズは続ける。
「だーれーもー 事 件 って言っーてーなーいーでーしーょーうーがー」
ツンツンツンツンツンツンツンツンツツツンツンツンツツツン
「あうあうあうあうあう、あう、あうーん、あうあうあうーん!」
 よく分からない奇声を発してサリーは床に倒れる。それを見かねたのかケンは慌ててテムズを止める。
「ま、まあまあ、土地勘のない僕が探すよりは地元のサリーさんの方が……」
「そそそそうですよ! ここは大船に乗った気分で任せてください!」
「……なにか使い方違う気がするが」
 となりで新聞を読んでいたウェッソンが呆れた顔をして言う。
「ノープロブレム! ……で誰を捜せばいいんですか?」
「えーと、喫茶『スタディ・オブ・スカーレット』を経営している『ハドスン夫妻』です。買ったのは奥方の方で『メアリー・ハドスン』さんです」
 その言葉をサリーは秘密――何が秘密なのかが秘密――の探偵手帳に書き込むと直ぐさま店の外に飛び出ていった。
 その場にいた者達は何も出来ず、キイキイと揺れるドアを茫然と見つめるだけだ。
 なんにしても、こうして物語は動き始める。


 三日経っても、サリーは何も掴めなかった。
 ケンはと言えば全てをサリーに任せたのか、朝、画材を持っては外に出かけ、夕方に帰ってくると言う毎日を繰り返すだけだ。
 そうして四日目、ケンは外に出ず、宿の中でぼーっとお茶を飲みながら過ごしていた。
「今日は絵を描きにいかないのか?」
 新聞を読むのに飽きたか、ウェッソンが訊ねてくる。テムズは買い出しに出かけておらず、今は男二人きりだ。
「……ええ」
 そう言ってケンはお茶を啜る。
 なんとなく気まずい空気が漂った。
「……ウェッソンさんは昔のことは好きですか?」
 おもむろに、ケンが口を開く。
 ウェッソンはしばらく考えたあと、ため息を漏らした。
「あんまり昔のことは好きじゃない」
 その言葉にケンはそうですか、と肩を落とした。
「僕は、昔のことが好きです。
 昔はただ絵を描くのが好きで、絵を描く度にみんなに誉められて……何より絵を描くのが楽しかったんです」
 ぽつりぽつり、とケンは語り出す。
 その目は遠き過去を見ているのだろうか。
「だから、もっと上手くなろうとして、沢山勉強して、ついには故郷を飛び出してこんな遠い場所まで来てしまいました。ほとんど地球の裏側です」
 ウェッソンは新聞を閉じた。
「……不満なのか?」
「いえ、そう言う訳じゃないんです。でも、最近スランプなんです。昔はあんなに描けたのに……」
 ケンはそう言って毎日持ち歩いていたスケッチブックと画板をテーブルの上に広げる。
 ウェッソンはそれを手に取り、中を開いた。
 中には驚くほど真っ白だった。
 ページを破った後も見受けられず、どのページも新品同様にその白さを放っている。
「二年前、あの時も僕は希望を抱いて巴里に来た。そして思いのたけを絵に打ち込んだ。そして、その絵をあの夫婦がとても嬉しそうに買ってくれたんです」
「…………」
 画板に掛けられた布をはずすとそこにはやはり真っ白な紙面。
 ウェッソンは何かを言おうとして……結局辞めた。
 黙って布をかぶせ、スケッチブックを返す。
 少し首の後ろあたりを掻いた後、めんどくさそうに口を開いた。
「俺は昔の事は嫌いだ。あの頃に戻りたいなんて思わない。少なくとも、こんな居候の身だが今の方がずっといい暮らしをしてると思っている」
 ケンは何も言わず、テーブルに目を落としている。
「……取り敢えずそうだな。追われる様な真似はやめておけ」
 そう言ってウェッソンは立ち上がった。
 ケンは驚いた表情でこちらを見ている。
「カウンターに隠れてろ」
 そう言ってウェッソンは店の入り口の方へ歩き出した。
 それと同時にガラの悪い連中が店の前に姿を現す。
 先頭にいるのは仏蘭西(フランス)人だろうか。髭モジャの顔で如何にも軍隊崩れってオーラを匂わせる。おおかた大戦の後に食いっぱぐれたクチだろう。
 その髭モジャ仏蘭西人が下手な英語で聞いてくる。
「ここにケンタッキーっとか言う日本人のガキが来なかったか?」
 後ろのゴロツキの中に数日前に追い返した刺青の男の姿があった。
「さぁ? そんな奴は知らないな。悪いが俺は今店番で忙しいんだ。とっとと帰ってくれないか?」
「う、うそだ! 数日前お前が!」
 刺青の男がこちらを指差しながら叫ぶ。
「黙れ。次は頭に風穴が開いても俺は知らないぞ」
 ウェッソンが睨むと刺青男はひぃっと悲鳴を上げる。
「隠し立てしても為にならんぞ? お前がかくまってる贋作絵師は美大を裏切っただけでなく、学長の汚職の証拠を持ち逃げした。でも、あの学長はただの教師じゃない。マフィアと……」
「……成る程、馬鹿が相手だと分かりやすくて楽だな」
 ウェッソンが呟くと同時に二人は動いた。
 次の瞬間、彫像の様に二人の動きはピタリと止まっている。
 ウェブリーと言う名の銃が相手の額を、黒光りする大口径の銃がウェッソンの肩へと突き付けられている。
「分かりやすくていいだろう? 先に死ぬのはどっちだと思う?」
 瞬間、周りのゴロツキ達が動いた。


トントントントン
 壊れた店の入り口を修理するためにウェッソンはただ釘を打つ。
 時刻はもう夕方。みんな仕事を終えて帰る時間だというのに、自分は何故か必死で壊れた壁面を修理している。
 そんな世の中に理不尽さを覚えているとウェッソンは背後から殺気を感じた。
「う・ぇ・っ・そ・ん♪」
 それはとても軽快な声。
 ――分かりやすくていい。
 ウェッソンが覚悟した瞬間、彼は死んだファミリー達と一時の邂逅を得た。


「お、お帰りなさい」
 壁にめり込んだウェッソンを見つめ、ケンは顔を引きつらせつつ、店主を迎えた。
「あの、留守中に――」
「ああーいいのよ。こんなことしょっちゅうだから。おかげでお客さんも寄りつかないし」
 テムズはパタパタと手を振りつつ買い物の荷物をテーブルの上に置く。
「いや、その――」
「だから気にしなくていいって。それより、今日も鶏肉が安かったんだけど――」
「う゛――いや、またフライドチキンでも僕は構いませんけど」
 と、そこでテムズは思い出したかの様に手を叩く。
「あぁそう言えば! 実は知り合いの子に聞いたんだけどね。あの喫茶店の話だけど――」
「見付かったんですか!」
 思わず身を乗り出してケンは聞く。
「ええでも、その言いにくいんだけど……」
 テムズはやや口ごもりつつも語り出す。
「去年焼けちゃったらしいのよ」
「……え?」
 訳が分からず、ケンは聞き返す。
「去年の冬、暖炉の火の消し忘れでハドスン夫妻ごと一夜で焼けてしまったらしいわ。残念ね、せっかく英国まできたのに」
「…………」
 ケンは何も言えず、その場にすとん、と腰を下ろした。
「……そうですか。そう……ですか」
 その場に沈黙が漂う。
 余りにも、突然の結末に彼は何も言えない。
 と、そこに乱雑な足音が近づいてくる。
「だ・だ・だ・大ニュースですっ!!」
 がたんっ、と勢いよくサリーが扉を開く。そのまま入り口でつんのめりながらもサリーはなんとか店の中に入って来た。
「分かってるわよ。店は焼けてたんでしょ」
「うっ」
 一瞬サリーは硬直する。が、直ぐさまあとずさって叫んだ。
「……はっ! 一体何処でその情報を!!」
 それはいかに彼女の情報網が宛にならないかを示していた。
 かに見えたが……。
「でも、これは知らないでしょ」
 そう言って後ろに隠していた白い布にくるまれた板をばばんっ、と取り出す。
「…………?」
「じゃん、ケンタキーさんが描いた絵です! たまたま絵の修繕に出していたので残ってたんです!」
 その言葉にケンは顔を上げる。
「……え?」
 何も言えない彼にサリーははいっ、と満面の笑みで渡す。
「この絵を見るために来たんでしょ?」
 果たしてそんな事言っただろうか。
 だが、目の前には全てを見透かした様なサリーの目。
 けれど、彼は頷き、絵を受け取る。
 そして、ゆっくりと布を取った。

 それは、確かに彼の絵だった。
 ゆっくりと彼の頬を涙が伝う。
「……違いましたか?」
「いいえ、確かに僕の絵です」
 どうしようもなく未熟で、描き直さなければならないところが沢山ある。
「ああ……なんてへたくそな絵なんだろう」
 おまけに、線は歪んでるし、塗り方も雑だ。
 こんなんで巴里の絵師なんてなのるなんておこがましい。
 今の自分ならもっとマシな絵が描けるだろう。
 だが、それでも……。
「でも、いい絵ですね」
 ぽつりと、サリー。
「ああ、とても素直で――」
「活き活きとした絵ね」
 ウェッソンの言葉を継ぐ様にテムズ。
 彼らの言うとおりだった。
 まったくもって……言い訳も出来ない。
 どんなに今の方が技量が上で、経験をつんで、センスがあったとしても……。
「ええ、その通りです。
 でも、今の僕じゃ、この絵よりも素晴らしい絵は描けない」
 模倣ばかりして、自分の絵を無くしていた自分には。
 貧乏に負けて汚い絵しか描かなくなった自分には。
 いつしか、絵を描くことが何なのかを忘れた自分には。
「描けない。もう僕には描くことが出来ない」
 こんなに活き活きとした、純粋な絵なんて描けるわけがない。
 どうしようもない想いが涙となってあふれ出し、ただ彼の体を震わせる。
 それは絶望。
 最初から自分は気づいていたはずだった。
 でも、それをどうしても認められなかった。
 自分が何故描けないのか、自分には何が足りないのか。
 なんのことはない、もっとも、単純な答えから逃げていただけなのだ。
「僕は描きたかったのに。あんなに絵が上手くなりたかったのに……どうして」
 探し求めていた答えは、彼の全てを奪っていた。
 もう、どうすることも出来ない。この真っ白な世界でなにをすればいいと言うのか?
 そんな彼の肩に、砂埃の被った手が載せられる。
「なにいってんだ、この馬鹿野郎」
 振り向けば木の板の刺さったウェッソンが微笑を浮かべ、彼の肩にそっと手を載せている。
「自分に足りないモノが分かったならそれを補えばいい。過去を越えるなんて訳無いさ」
「……ウェッソンさん」
「そうそう、まだまだ若いんですから! 何度でもやり直せますよ!」
 そんな彼等を見て、テムズは置いてけぼり感を感じつつも……。
「ま、取り敢えずチキンでも食べて元気出して」
「ケンタキーさんの新しい門出を祝いましょう!」
 そうして、忘れられない夜が彼を更けていく。


「これからどうするんだ?」
 荷物を纏めたケンにウェッソンが言う。
 二日後の朝、チェックアウトを済ませたケンを見送るために宿の皆全員が店の前にいた。
「まずは罪を償ってから、また絵を描き直したいと思います」
「そうか、まあ頑張れよ」
「ええ、僕もまだ27歳ですから」
ピシっ
 瞬間、時が固まる。
『に、にじゅぅぅぅななぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
「おいおい、東洋人が若く見えるからって俺より年上だったのか」
「どうしよう、あたしったら後半タメ口聞いちゃってたわよ」
「日本人怖いです! 化け物?」
 輪を作って口々に失礼なことを言うテムズ達。
「え、ええっと……」
「ああ、ともかくまだわ……若い(?)から大丈夫……ですよ! 立派になったらまた来てね……来てくださいね!」
 しっかりタメ口が癖になり、苦労しつつ、テムズは言う。
「ええ、必ず来ますよ」
 そう言ってケンは宿を旅立っていった。


 そしてフロンティア・パブの壁には一枚の絵が加わることとなる。
 後に有名な画家となる「滝 健」の作品である。
 そこには彼が宿で過ごした日々を感謝し、宿の人々を丁寧に描いている。
 それは初期「滝作品」の中では傑作の一つとして上げられる素晴らしい絵だ。
 タイトルは「不思議な安らぎ」。
 フロンティア・パブ……それは不思議な場所。
 ――それは奇跡の起こる不思議な宿。




おしまい


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