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 *試合開始から5時間経過

「サリー、起きろー。」
「もう…たべりゃれまひぇ…。……!! ちぃえぇすとぉ〜〜〜っ!!」
 ドスッ。
 目覚めざま振り向きつつ放った拳には、確かな重い手ごたえがあった。
「よぉし、いっぽぉん! ですぅ。…あれ? ウェッソンじゃないですか。そんなところでみぞおち押さえて何やってるですかぁ?」
「…お…ご……、な…ない…す…ぱん……ち…。」
 両膝をついて崩れこむウェッソン。そうとう”いいところ”に拳が入ったらしい。その右手の親指は本人とは逆にしっかりと立てており、パンチのよさをアピールしている。
「あ! 私はまだテムズさんとの勝負の途中でしたぁ! テムズさんはどこですかっ!?」
 ウェッソンは何も言わずに、いや、何も言える状態ではないから今度は人差し指で上を指した。
「なるほど! ボスは最上階で(二階までしかないが)待ち構えているというやつですねぇ! 燃える展開です! じゃ、行くですよぉぉっ! ん? ウェッソンそんなとこで寝てたら風邪ひきますよぉ。毛布かけてあげときますねぇ。」
 もはやくずおれて冷たい床にうつぶせになっているウェッソンに、先ほどまで自分にかけられていた毛布を優しくかけてあげるサリー。ウェッソンは、なすがままに放置された。
 パブの階段を慎重に昇るサリー。軋み一つでテムズさんが起きてくるかもしれない。その恐怖がなおいっそう歩を鈍らせていた(15分経過)。フロンティアパブ最高峰に辿りついた時には冷汗で背中がびっしょりである。そのまま探偵流抜き足差し足忍び足で寝室へと近づく(5分経過)。ドアを開けるのに逡巡するのに5分、ドアノブに手をかけた後5分、開けるのに10分かける。部屋の中ではテムズが幸せそうに眠っていた。しかし油断は禁物だ。いつその双眸をかっと見開き必殺の一撃を繰り出してくるのか分からないのだから。分速5センチでテムズに近づくサリー。おかげでベッドの脇に立つのに悠々1時間かかる始末。
 生唾を飲み込む音すら大きく響く錯覚。相対するテムズはベッドの中で寝息を立てているというのに、プレッシャーにサリーは押し潰されそうになる。しかも寝返りを打ったり、時々、
「…えへっ。」「おう…じ…さまぁ…。」
とかなんとかサリーの心臓に悪い単語までが漏れ聞こえるのでなおさら緊張感は最高にまで高まるというもの。
『このままあとずさって、この夜をやり過ごそうかなぁ。あ、それがいいですぅ。きっとテムズさんもこの戦略的撤退をいい…判断…と……。…撤退?! それは逃げるという事ですぅ! 逃げるという事はすなわち負け。負けるのはイヤですぅ。ここは一念発起して、テムズさんの脳天に天誅…を…。…いや、やっぱりあとが怖いからやめとこうかなぁ。…でもしかし』
 いまだかつてない人生最大の苦悩にサリーは20分は費やした。と、おもむろに手刀を振り上げる。いまだ行け行けサリー嬢! と応援したい所だが、最大限に振りかぶったところでまた固まった。振り上げてまた悩むのに10分を使う。いい加減手がしびれてくるだろうという時に、サリーはようやく、覚悟を決めた。
『えーい! あとは野となれ山となれ、ですぅ!』
 何となく使いかたが違っている覚悟の手刀は、気合の声と共にテムズの額めがけて振り下ろされた。
「ちぃぇすとぉ〜〜〜っ!!」
 ゴツッ。

こうしてテムズは安眠を妨害されたわけである

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