《Return pre-section




――そんな声を聞きながら、
「星の数なんてどうでもいい、か。最初からそう思っててくれればな……」
と、カウンターに座るウェッソンはため息をついた。
「あはは、そういうものですよ」
 カウンターの向かいから同意の声がする。
 ウェッソンは顔をしかめてグラスを磨いた。まだこめかみが痛い。
「ったく、少なくとも、無意味に殴られずにすんだはずだ」
「大変でしたねぇ」
 きゅっと、グラスの音が鳴る。グラスが同情して悲鳴を上げてくれたかのように思えた。
 ウェッソンは再度ため息をついてから、のんびりと尋ねた。
「……それで」 片目を細めて、カウンター越しに青年を睨む。「星の数は決まったのか? インスペクター」
「そうですね……」
 いつもシックの座る指定席に腰掛ける青年が、穏やかに答えた。



「三つ、と言いたいところですが、二つにしておきましょう」 指を三本立てて、人差し指を曲げて見せる。
「あ、これでも最高の評価なんですよ。三つは実質大店舗にしか付けませんし。掲載されれば行列だって出来るんですから」
 何も言ってないのに、若い鍛冶屋とうり二つの青年はシックの声でそう弁明する。
「……しかし、よくわかりましたね」
「あのとき後ろにいた人間は、テムズとサリーを除けばお前だけだからな」
「ああ、あのときは……どうも」
 青年が窯に焼けた赤い顔で謝罪した。
「謝罪するなら自分が何者か名乗るんだな。まさかパブの調査だけにそんな変装を覚えたわけでもないだろう?」
 睨むように、その実、銃ならいつでも抜けるような体勢で訊ねる。
「ご心配なく、あなたの敵では在りませんよ“死神”さん」 不適にシックの顔で笑う青年。
「ミシラン・ボーガード。――旅するルポライターですよ。……パブのガイドは、いわゆる趣味です」
「取材に変装がいるのか?」
「『秘密を得るなら身内になれ』 ってね。――現地取材の鉄則です」
 と、おどけた表情で頬の辺りを引っ張って見せる。肌に似せたその皮膜は、人間の皮膚では在り得ないほど延びた。
「ちなみに本物のブレイムス氏は、今も工房で槌を打っていますよ。今日はいっぺんに急ぎの依頼が入って、てんやわんやなんだそうで」
手を離す。伸びた皮膚は縮まずにダランとたれた。
「ああ、そうか。彼は余所のパブには滅多に行かないんでしたね。失言しちゃったな」
 思い出した様に言い、伸びた皮膚をこちょこちょといじりパンと叩く。
 伸び切った皮膚が元の場所に復元する。良く見れば少し伸びた跡が残っていて、それがなんとも不気味だった。
「……で、わざわざ俺を当て馬にしてまで、何を見ていたんだ?」
 そう、ウェッソンは銃を抜こうと思えば抜けたが、このインスペクターのすることが気になって、少し様子を見ていたのだ。
「採点に関係あるんだろ」
 青年は紅茶を飲んでしばし間を取った。
 ウェッソンも、のんびりとグラスを磨いて相手の出方を待つ。
「そうですね、殴られてくれたお詫びとして一つだけお教えしましょうか……最後ですし」
 紅茶を置いて手を組む青年。
 テムズたちの声が良く聞こえる。彼は耳を澄ますように目を閉じて、ただ時間が過ぎるのを待って入るようにも見えた。
 やがて、言葉を選ぶようにして口を開く。
「パブって、何の略かわかります?」
「パブリック・ハウス――公共の家だ」
「そう、公共の家。顔なじみの客たちがビールを手に、その日の仕事をねぎらい、語り明かす……パブとはそのための社交場」
 目を閉じたまま、一句一句言葉を漏らす。
 いつか誰かにしようと決めていた話を、ようやく話すことができる。
――そんな喜びを感じている語り口だった。
「それで?」
「……わからない人ですね。ですから、僕がいつも見ていたのは、料理でも酒の種類でも調度品でも音楽でもなく――お客さんです。それさえ見れば、パブの良し悪しの大半はわかる」 と、再び紅茶に口を近づける。
「その点で行けば、このパブは満点です」
「残りの半分は?」
「客観評価です。良くあるガイドマップの選定基準と大して変わりありませんよ――幸い、行ったパブの量なら世界一を自負してますからね」
 指を立ててキザに笑う。
 それはシックにはできない種類の笑顔で、思わずウェッソンはそれに笑った。
 テーブルの声が止んだ。サリーとテムズが立ち上がっている。
 ティーブレイクも、これにてお開き。
 あとはそれぞれが、それぞれに寝床に付くのみだ。
 シックではない青年は紅茶を飲み干してから「ごちそう様でした」 とテムズに挨拶した。
「今日は楽しかったです。この店は本当に最高のお店ですね」 と、シックの姿で握手を求める。
「は、はあ……ありがとうございます」 シックの顔の青年に、自分の両手を握りしめてそう言われ、テムズは当惑した顔で答えた。
「また、いつかこの店に来たいです」
「シックさん、毎日来てますぅ」
 食器をカウンターに置くサリーが、怪訝そうな顔をする。
 置かれた食器を片付けながら、ウェッソンはふと気づいて彼に尋ねた。
「またくるのか?」
「ええ、また仕事が空いたら」
「そうか」
 と、言ってから、ウェッソンはふとある事を思い出した。
 仕事が空いたら。最後。そして、
「掲載されればとか言ったな?」
「ええ実は僕の一存で廃刊が決まってまして」 と、その青年は破顔した。一笑してこう一言。「あのガイドは良くない、なにしろ僕が好きなパブが行列で入れなくなってしまうのだから」



おしまい


《return to H-L-Entrance