The another adventure of FRONTIERPUB 37

contributor/柳猫さん
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レドウェイト巡査長の日常 〜時の前に立つ〜


 街を歩いていると、様々な異変に出くわす。目立ったものには近づいて観察し、放っておいてもいいものかどうか思案する。それが彼の仕事の一つである。
 馴染みの通りの一角に、ベッド&ブレックファストがあった。上の階が客室、下の階がパブになっている然程珍しくない類だ。入ったことはないが、昔からそこにある。ひょっとすれば、自分が生まれる前からだろうか。レドウェイトのように所帯を持ち、街から出ることもない人間にとっては縁がないもので、彼にとっては飽くまで日常の風景の一部に過ぎなかった。西日の強いこの時間は赤茶けたレンガ壁が一層赤く、まるで燃えているように見える。いつものように通り過ぎるところだったが、その店の窓枠にしがみ付いて、中を覗き込んでいる子供たちがいた。眩しくてよく見えないが、妙にそわそわしている。彼は小さな異変に目を細めた。
 近づいてみれば長身の彼にとっては胸の高さほどの背丈もない、二人の少女だった。歳は恐らく十四、五。このくらいの歳の子にしては落ち着きが足りないかもしれない。レドウェイトは老女だろうが少女だろうが、とにかく歳や性別に関係なく、騒がしい人間は好きではないのだ。が、彼女たちの様子からして只ならぬ何かが起こったのは確かなようだった。もし、いつも静かな女が騒がしいのなら、それは事件だ。そして事件ならば、自分を必要とする。
 歳に不相応な………………派手な服を着た栗色の髪の少女と、黒髪の少女。時々見合わせるが、二人とも青い顔をしている。彼は妙にそれが気にかかって、背後からガラスの向こうを見た。中には丸テーブルと椅子が幾つか、L字のカウンター。大きな柱時計。うさぎ。瓶に挿してある枯れた花。花。花。
 レドウェイト巡査長は思い出していた。忘れもしない、例の事件だ。被害者は宿泊店を経営していた中年の夫婦。彼らには忘れ形見の、一人娘がいた。地下の安置所で遺体を見た彼には当たりがつく、母親譲りの赤い髪の少女がそれなのではないかと。店内にはその娘と―――――見覚えのある髯面。向こうが知らなくてもこちらは知っている。妖しげな風体の三人組みの、椅子に踏ん反り返っている紳士気取り。顎を上げて髯をしごき、吸い付くような視線を少女に向けている。この街で最も悪辣な金貸しの一人だ、名はゴールバック。ファーストネームは知らないし、知る必要もない。
 話し合いは余り進んでいるようには見えなかった。テーブルの上に置いたバッグはジッパーが開かれていて、何処から持って来たのか、そこから札束が ―――こういうことは波止場か何処かでやって欲しいものだ――― 覗いている。女の子はそれを指して、何事か叫んでいるが、ここからではよく聴こえない。
 頬髯からネクタイまで黒ずくめの借金取り、ゴールバックは多少じれてきているようだ。奴は、狩りをする。弱肉強食を象徴する裏社会の獣(けだもの)。獲物を決めればどうにかしてその債権を手に入れ、不当な利子をつけて請求する。考え得るあらゆる卑劣な手段を用い、力でねじ伏せ、債務者が払えないと言えば、ここぞとばかりにお望みのものを攫って行く。最初めからそれが目当てだと、言えなくもないか。しかし金を見せてしまったのだから両方だ。このままでは彼女はバッグの中の札束と共に夜の街に消えていくことだろう。紛れもなく、それが悪というものなのである。
 見下ろせば、二人の少女がこちらを見ていた。片方が必死な形相で飛びついて、口々に捲くし立ててくる。社会の仕組みを何も理解していない、子供たち。どうしようもないことは、どうしようもないというのに。スーツの裾を引っ張られるが、彼の体はそのくらいで揺るがない。
「お願いです! 友だちを助けてください!」
「悪い奴らに連れてかれちゃう!」
「…………………」
 冷淡な大人の一人に見えるだろうか。レドウェイトは何も言わなかった。ただ、窓の向こうを見つめている。喚きたてていた少女たちは急に黙り込み、それから涙目になって「ばか野郎!」と彼を罵った。こんなことを、今までにも何度か繰り返したのだろうか。
 希望を絶たれて、
「私、お父さん呼んでくる!」
「―――――待て!」
 レドウェイトは店内を注視したまま、黒髪の少女を制した。子供だろうが大人だろうが、一般市民がどうこう言ったところで、奴らを説得できるわけがない。道理など通用しないのだ。なら、巻き込むべきではない。できるなら、最初からやっている―――――他の誰もが彼女を見捨てているのだ。
「何よ! なんにもできないくせに!」
 恐らく、その言葉はレドウェイトよりも、自分自身に向けている。少女は彼の、腰の辺りを強く拳で叩いた。何度も。しかし動じない。痛みはあったが、耐えねばならないものだった。
 迷いなど―――――あるわけがない、最初から。既に決断は済ませている。決して、そう、誰に乱されることもない。つまり、やり方が我流ということ。
 元より格闘家でもないのだ、闘いを楽しむような悪趣味はない。いつやって来るかは知らないが……闘うことが必要なときにだけ、それをする。そのためには常に強くあらねばならないという、ただそれだけのシンプルな理屈だった。そしてその“時”を、誰でもない自分が決める。
 音を立てない程度に窓を軽く叩いて、厚みを確かめる。ゴールバックが何か指示を出した。部下の男が少女に手をかけようとするが、彼女は手を振り解こうとする。仕方なく、男はナイフを取り出し、ちらつかせる…時間がなくなってきた。
「下がってろ」
「きゃっ!?」
 二人の少女を多少、手荒く退け―――――風を切る速度で脚を振り上げて、レドウェイトは窓に衝撃を放つ。一瞬遅れて、ガラスが粉々に砕け散った。こちらに注意を引きつける必要があるのだ、なら精々、派手にやらかせばいい。
 跳躍すれば景色が一瞬で流れる。飛び込んだ先に、吃驚して佇む四人の男女。そのうち雑魚二人は身構える。ガラスを払って、彼は膝立ちから身を起こした。
 たちまち、ゴールバックが凄味を利かせた声で吐き棄てる。
「てめぇ…何処の一家のもんだ」
 心外だ、同類だと思われたらしい。さて、なら何処か…………警察? 違う、市警の人間は地方自治のヤクザとみだりに争うような、そんな不文律を犯したりはしない。犯すことができないのだ。果たして大戦が終れば、それも変わるのだろうか。数歩詰める。自分が何者なのかなど―――――
「俺にも分からんよ」
 笑いもせずに。




 自分を凍らせていた切っ先があらぬ方を向いて、ようやくテムズは我に返ることができた。決して、あのときのように死を覚悟してはいなかった。救われたこの命をまだ、失うわけにはいかない。
 唐突に修羅場へ乱入してきた青年は、ちらりとこちらを藪睨みで見る―――――静寂にこそ燃えるような、そんな瞳だった。
「おい、畳んじまえ」
 椅子に座ったままのゴールバックに顎で命令されて、残りの二人が威圧するように青年の方へ歩み寄っていく。片方は懐に手を入れ、もう片方はナイフを振りかざした。
 ―――――ほんの、一瞬だ。刃物を持っていれば安心だと思ったのだろうか。実際、それだけで青年はもうやられてしまうとテムズも思っていた。男が一歩踏み出したところで、充分過ぎるはずの間合いの、その外から脚がぐん! と伸びてきて、残像が見えたと思った瞬間、ナイフは弾き飛ばされて回転しながら宙を舞う。カッと音を立てて、奥のカウンターに突き刺さった。瞬時に一歩を踏み込まれたのだ。
「は?」
 と、思わず声に出して、男が手元に目をやった次の瞬間に、槌を打ったような音がして、首が千切れそうなくらいに弾け飛ぶ。よろけて膝を折り、立とうとするが、やはり力なく前のめりに崩れ落ちた。
 まただ。自分の目で見る、その光景が信じられない。
 テムズがとても一人で運べないほどの重いテーブルを、青年は軽く一撃で蹴り上げる。離れ業だったが、意図は直ぐに分かった。何かがそれに弾かれて、あらぬ方へと飛んで行ったからだ。見たのは初めてだが、悪漢の片割れが懐から取り出したのは――拳銃だ! それを読んでいたのか。再び銃口を向けようとするが、死角が広がって狙撃手が戸惑っているうちに、青年がそのまま縦になったテーブルを踏み台にして大きく跳び、敵の頭上から舞い降りるときには顔面に快音と膝蹴りを浴びせていた。そいつはそれきり沈黙する。
 一味の中で一番強いのは、やはり親分格のゴールバックのようだった。悠然と構えていたのに、部下が倒れ、敵を侮りがたしと見るや立ち上がって黒いスーツの裾を翻し、彼は青年の前に立ちはだかった。
 暫らく睨み合いが続き、じれたゴールバックが自分から仕掛ける。あらゆる角度からしなるように絶え間なく放たれるパンチは、テムズの目がまったく追いつかない速さで無数の軌道を描いた。それを青年は巧みに距離を取り、屈み、上体を反らし、身体を左右に振っては紙一重でかわしていく。当たりもしないが、防戦一方だ。際限なく緊張を増し、闘いは瞬きも許さないほど、どんどんスピードを上げていく。青年はただの一撃も放てない。
 そして思考さえ追いつかなくなり始めたそのとき―――――終った、と他人事のようにテムズは思ってしまった。強烈な一発を腹に受けて、眼前で青年が身体をくの字に折ったからだ。しかし、よく見れば彼は伸びきったゴールバックの腕を掴んでいた。直前のバックステップがリーチを半分殺していたのだ。どちらも体勢を崩してはいるが、敵が態勢を立て直そうとする間に、青年は滑り込んだ片脚を軸にぎりぎりで身を反転させ、背後に回った。同時に腕を捩じ上げている。ゴールバックはこの後に及んで逆らう気配を見せたが、軽く脚払いをかけると完全に身を崩し、跪くような姿勢で床に顔を押し付けられた。
「みんなお前には貸しがある。返してもらおう」
 青年が言う。鈍い音がして、ゴールバックの絶叫が店内に響き渡った。痛みを誤魔化そうと、血が滲むほど、自分から何度も額を床に打ち付けている。青年が離すと、腕は不気味な角度からだらりと垂れ下がった。
「…………ま……参った、私の………私の負けだ!」
 ゴールバックが髯を床板に擦りつけ、身を捩って苦しげに叫ぶ。彼女を脅しつけていた声が、獣のように自分を見ていた目が、今は完全に死んでいる。負け犬のように震え、喘ぎ、怯えている。青年はにこりともせずに、
「親父さんが借りたのは幾らだ」
 振り返らずに言ったその言葉は、恐らく自分に向けられていた。
 テムズはとにかく、必死に金額を叫んだ。
 ゴールバックは襟元を掴まれ、がくがくと頼りない膝でまた立ち上がらざるを得ない。苦しそうにもがくが、振り払うことはできないらしい。別段、匕首を喉元に突きつけられているというわけではない。なのに恐怖で引き攣っている。恐らく、青年の気迫がそうさせているのだろう。言葉にはできないが、この二人の間では絶対的に何かが違う。恐らく、この哀れな男の方は意思のある目などしていなかった。生きているが、初めから死んでいた。テムズはようやくそれに気付いて、いつのまにか緊張に止めていた息を激しくついた。自分はどちらだろうか。
「確かに返したぞ」
 青年はバッグから札束を一つ取り出して、ゴールバックの胸元のポケットに一つ押し込み、手を離した。テーブルの上に置いてあった証文を遠慮なく破り捨てる。紙片が散り散りになるのを見て、テムズは忌まわしい呪縛から解き放たれるのを感じた。遂に。
 ふらついて折れた片腕を抑えている男に、
「行けっ!」
 最後に青年が吼えると、ゴールバック一味は完全に戦意を喪失し、先を争うようにほうほうの体で表へ這い出していった。


 テムズ自身は怯えるままで、そこまで一言以外には身じろぎもできなかった。青年がおもむろに向き直る。何がなんだか分からなくて、言葉も思い浮かばず、間が持たなかった。
「…………………あの」
 どうすればいいのか分からなかったが、テムズはようやく状況を飲み込んだ。しかし「ありがとう」を言おうとした彼女を制して、彼は―――――バッグに手をかけた。意図が掴めない。
 一瞬だけ緊張が抜けていたのか。間の抜けた声が漏れる。
「え?」
「仲介料さ、当然だろう?」
 テムズは慌ててバッグを精一杯に掴んだ。
「ダ、ダメ! これは、このお金は―――――」
 あの人がくれたものだ。そんなに簡単に渡せるわけがない。
 しかし僅かな沈黙の後―――――ぱんっ、と乾いた音がして、頬から伝わる衝撃と痛みでテムズの身体はよろめいた。真っ暗になった目の前で、乱暴に振り払われる。口の中が切れたのか、咽るような匂い。血の苦い味がいっぱいに広がっていく………。
 それは加減のない本気の一撃のように思えた。しかし彼女は咄嗟に踏ん張って倒れなかった。寄りかかるものが何もなかったからだ。この男も同じように獣だった。ただゴールバックより強いという、それだけのことだったのか。どうしようもない怒りをそのままに湛え、自分を見下ろしている相手を睨みつけて、そして―――――今度はこちらが叩き返す。思い切り。恐怖はあったはずなのに、無意識にそれをやっていた。
 派手な音がする。ところが青年は、テムズの大振りな反撃を避けも受けもしなかった。あれだけの身のこなしなのだから、かわそうと思えば造作もなかったはずなのに。それどころか目すらも瞑っていない―――――濃い青みがかった灰色の瞳が、強く、しっかりと自分を見据えている。それを見て、ようやくテムズは彼の真意に気付いた。振り抜いた手が…指先が震える。なんということを。一瞬でもこの人を疑ってしまった。
「ご、ごめんなさい……」
「いや」
 ゆっくりとポケットから取り出したよれよれの煙草にマッチで火を点けて、
「――――― それでいい。君ならやっていけそうだ」
 彼は切れた唇に挟んだままで、器用にそれだけを言った。どこか遠くを見ながら。
「誰だって相手に関係なく、どうしても“闘うべき時”がやってくる。遅かれ早かれ。武器は……その気になれば、なんでもあるさ」
 青年は店内を見渡して言う。横になったテーブルをもう一度蹴り上げると、静まり返った我が家に、一瞬だけ、喧騒が戻ってくる。それは暫らく、がたごとと揺らめいて、当然のように元の位置で止まった。銃痕で僅かに欠けた以外には、何事もなかったかのように。まだまだ頑丈なのだ。
 それでも………………テムズは呟く。
「私はあなたみたいに強くないから…」
 それを聞くと、彼は両の拳を上げてから……開いてみせた。青年の掌は滴るくらいに、汗びっしょりだった。表情は変わらず、平然としているのに。ほんの少しの震えもないのに。あんなに強いのに……。
 何かを確認するように、汗ばんだ掌を見つめてから、また拳を作る。
「誰だって怖いさ、怖いから闘う。君に守るものはあるか? 俺には―――ある」
 勿論だ。自分にだって、ある。生まれ育った、祖父や、父さんと母さんがずっと守り続けてきたこのフロンティアパブだ…………もうこれ以上失いたくはない。
「………さて、俺はもう行くとしよう」
「―――――あの」
 息を呑んで、呼び止めた。無意識に呼び止めてしまっていた。それだけ、どうしても訊きたかったのだ。彼女の気勢が少なからず伝わったのか、青年は煙に円を描かせて首半分だけ振り返った。
 テムズは僅かに戸惑いながら、
「さっきは…あなたにとって“闘うべき時”だったんですか?」
 彼は躊躇いなく答える。
「あぁ、そうだ」
「…………………ぅ」
 言葉など出てこない―――――代わりに、テムズの見開いた目から、もう涙がいっぱいに溢れ出していた。後から後から湧き出してきて一向に止まらない。どうしてだろう? きっと………無条件で、理屈を超えて自分の味方をしてくれる。信じてくれる。見返りも求めず、独りぼっちになってしまった、こんな自分のために闘ってくれる人がいる。そのことが嬉しかったのだ。訳もないことが訳もなく、嬉しくて嬉しくて堪らないのだ。それだけでどうしようもなく温かい。こんなにも胸がいっぱいになってしまう。
 テムズは胸元に両手を当てて嗚咽を抑えようとした。抑えきれない。
 とても優しい眼差しだった。
「大丈夫、君には―――――」
 そこまで無表情だった青年が遂に相好を崩し、両手を上げた。降参のポーズをとるように。
「本気で心配してくれる友だちもいるしな」
 気配に、はっと振り向くと、見慣れた二人がにじり寄ってきていた。アリサはバケツを被って大鍋の蓋を構えているし、ヘレナは麺棒を両手に握っている。どちらも真剣な表情だった。さっきのテムズのように、青年を睨みつけている。視界が滲んでいてよく分からないが、きっとそうだ。
「テムズにそれ以上何かしてごらんなさい、許さないんだから!」
 アリサが泣きそうな声で、天井を仰いで叫んだ。違う。違うのに。二人の勘違いを正さなければ………。
 だが当の青年は言い訳などしなかった。両手を降ろさずに、煙草をくわえた口の端から煙を小さく吐き出すと、そのまま、震えるヘレナとアリサの間を堂々とすり抜ける。とにかく片手をポケットに突っ込んで、振り返りもせずに外へ出て行った。
 アリサは床にへたれこんだ。被っていたバケツが落ちて、乾いた鉄の音を立てる。
「なんだったのあいつ……」
 気が抜けたようにヘレナが呟く。
 テムズは「えへへ」と泣き笑いして、
「へいぎのふぃふぁふぁ」
 と、呂律も回らずにぐしゃぐしゃの笑顔で言った。
「………………?」
「………………??」
 二人はきょとんとしているが、それ以上の説明は要らないとテムズは思う。彼はきっと、そういう存在だったから。



 闘うことの大切さを学んだ彼女は新装開店してから今の今まで、揉め事は極力避けてきたし、さりとて、決してならず者に臆することもなく、店を守るためにあらゆる事と闘い続けている。四年前のあの日以来、名も知れぬ青年が店に来ることは二度となかったが、実のところテムズは知っている。今でも時々、正義の味方が店の様子を少しだけ窺って――――― くわえ煙草で何気なく通り過ぎていくことを。
 そんなときはつい、窓の向こうに微笑みを浮かべてしまう。あのときの彼と同じ眼差しが、今の自分にできているはずと信じて。





おしまい


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