The another adventure of FRONTIERPUB 22

Contributor/ねずみのママさん
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赤い悪魔と神の加護(前編)


 ひとりの男が店に入ってきた。そしてカウンターからそう遠くない、けれども近くもない席に着いた。
 客に気がついて、テムズが近づいていった。
「いらっしゃいませ……珍しいわね」
 彼女は親しげに話しかけ、客は笑顔を見せた。
「やあ……食事がしたいんだが……店主のお薦めを適当にみつくろって持ってきてくれないか」
「わかったわ。でも、どうした風の吹き回し? 看護婦さんは?」
「二人とも同時に休暇を取ったんだ。それで、たまには外で食事をしようかと思ってね……」
「そう――飲み物はなににする? ジェフ」
「ああ、スタウトを頼む」
 テムズは行ってしまった。客は小さく溜息をついた。
 彼の名はジェフリー・ハリスン。読者諸氏には“なじみの医師”として知られる人物である。話の進行の都合上、とうとうありがちな名前をつけられたらしい――しかし本名かどうかは疑問の余地があることをお断りしておく。彼は中肉中背、髪の色は落ち着いた茶色で、眼鏡の奥の鳶色の瞳は、穏和で知的な印象を与えていた。白衣でいないときにはいつも趣味の良い茶系の服を着ていた。
 毎日の食事当番から解放され、満足のいく食事を終えた彼は、しばらく店でくつろいでいたが、夜も更けてきたので帰ることにした。
「おいしかったよ、テムズ。それじゃまた」
「おやすみなさい、ジェフリー」
 医師のいたテーブルを片づけようとしたテムズは、椅子の下に何か落ちているのに気がついた。拾い上げてみると、それは黒い表紙の手帳だった。ジェフリーの落とし物らしい。すぐに追いかければ渡せるかもしれないと思った彼女は、急いで店から飛び出した。しかし通りにはもう彼の姿はなかった。横道に駆け込みながら、彼女は思った。
――病院まで行かなきゃだめかしら?
 そのとき聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ジェーンなのか……? どうしてここに……」
 彼は、次の角を曲がったところにいるらしい。追いつくことができて良かった。そう思いながらテムズが角を曲がって目にしたのは、暗闇の中、振りかざした手に何かを持った人物のシルエットだった。次の瞬間、それが光り、彼女は異変に気がついた。光ったのは血の付いたナイフ。そしてその人物の手前にうずくまっているのは――
 テムズは叫び声を上げた。ナイフを持った人物は、テムズがいるのと反対方向に走っていった。遅い時間のためか駆けつけてくる人はいなかったので、通り魔はすぐに闇の中に消えていった。
「ジェフ! ジェフ! 大丈夫?」
 テムズは医師に駆け寄る。ジェフリーは右の胸を押さえて呻いていたが、テムズの声に顔を上げた。
「テムズ……なぜここに……?」
「早くお医者に行かなきゃ。……一番近いのはどこ?」
「決まっている、うちだ」
「いえ、そうじゃなくてね……」
「この程度なら自分で手当てできる」
 ジェフリーはそう言うとゆっくり立ち上がり、
「君が叫んでくれたおかげで助かったよ。ありがとう」
と言うと、よろよろと歩き出した。テムズは慌てて彼の横につき、身体を支えた。
「一緒に行くわ」
「いや、そんなに迷惑をかけては――」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと歩いて。こんなに血が流れてるじゃない。どうしてそんなに落ち着いていられるのよ!」
 実際、傷口を押さえている左手はすでに真っ赤になっていた。
「……すまない……」
 ジェフリーは申し訳なさそうに呟いた。


  慣れた手つきで傷の手当てを終えたジェフリーだったが、2階の寝室まで上がっていく気力はさすがになかったようだ。診察室の隣にある応接間のソファに倒れこんだ。テムズは毛布を運んできて掛けてやった。
「ジェフリー……警察に連絡を……」
「待ってくれ、テムズ。……わけがあって、警察沙汰にはしたくない。黙っていてくれないか」
 医師は懇願するような目でテムズを見た。
「……やっぱりあの人、知り合いなのね」
「聞こえていたんだね……」
「でももしまた襲われたらどうするの? ろくに動けないのに」
「……彼女は誤解しているんだ。話せばわかってくれる」
 どんな誤解で彼が刺されなければならないのか、詳しく聞きたかったが、彼は話したくなさそうだった。他人のプライバシーにあまり立ち入るわけにもいかないので、テムズはただ、
「そう……ならいいけど」
と言うにとどまった。
「こんな遅い時間に、すっかり迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない……」
「ご近所だもの、助け合いはお互いさまでしょ」
「いや……私には、君にこんなに親切にしてもらう資格はないんだ。あの時、何の力にもなれなかったのに……」
 ジェフリーは目をそらし、沈んだ声でそう言った。
「あの時? なんのこと?」
 きょとんとしてテムズが尋ねると、彼は答えた。
「君が飛び込み自殺を図ったとき……そこまで思い詰めていたなんて、全然気がつかなかった。すぐ近くにいたというのに……私は医師として、人間として、情けなく思ったよ」
「そんな……そんなこと気にしてたの? あなたは何も悪くないのに。だいたいあの時は思い詰めたというよりは衝動的にとびこんだわけだし……」
「しかし私は……」
 ジェフリーの言葉は途中でとぎれた。裏口の方から、何か物音が聞こえたのだ。
「誰……?」
 テムズは呼びかけたが、返事はなかった。
「風の音かしら?たしか、鍵をかけていなかったわよね」
 そう言いながらテムズは裏口のほうに向かった。裏口のドアは開いていて、そこに黒い服を着た背の高い男が立っていた。


 ウェッソンは通りを歩いていた。テムズが店から出ていったきり帰ってこないので、捜しに来たのだ。店に来ていた鍛冶屋の青年が、テムズはハリスン医師の落とし物を持って飛び出していった、と教えてくれた。おそらく彼は、ずっとテムズばかりを見つめていたのだろう……それはともかく、病院まで行ったとしても時間がかかりすぎだ。ウェッソンも心配になって、様子を見に出てきたのだった。
 十メートルほど先にある横道から、何かを担いで飛び出してきた男がいた。男は通りに停まっている馬車に乗り込もうとしたが、その時ウェッソンは見覚えのある赤い髪と青いスカートを見た。
「――テムズ?」
 男はぎょっとしたようにウェッソンを見た。次の瞬間彼は馬車に飛び乗り、馬車は急発進した。
「おい、待てっ!」
 ウェッソンは馬車を追いかけた。男が身を乗り出すのと同時に、2,3発の銃声が響いた。ウェッソンは反射的に身をかわしていた。すぐにウェブリーを抜き、馬車の車輪を狙ったが、猛スピードの馬車は通りの角を曲がって行ってしまった。
「確かにテムズだった……」
 しかしなぜ、と思ったとき、背後に足音を聞いて、ウェッソンは振り返った。ハリスン医師が息を切らしながらのろのろと駆けてくる。
「先生! 今のはテムズだろう? 何があったんだ?」
 駆け寄ったウェッソンはジェフリーの様子を見て、ますます驚いた。
「その怪我はいったい――」
「連れていかれた……あいつに――」
 医師は呆然と暗闇を見つめながら呟いた。


「ゆ……誘拐された? テムズさんが?」
 若い鍛冶屋は驚いて椅子から立ち上がった。
 夜中のフロンティア・パブ。明かりを落とした店内のカウンター席に、彼はまだ残っていた。
「ああ……どうもそうらしい。あの医者を落ち着かせて話を聞かないことには、詳しいことはわからないが」
と、ウェッソンは言った。
「そんな……ど、どうしたらいいんでしょう?」
「そうだな……心配してくれるのはありがたいが、いまはなにもできないし、君も仕事にさしつかえるだろうから――」
「こんな状況で、仕事なんて手につきませんよ!」
「あまったれるな! それでも職人かっ?」
 ウェッソンの大声に、鍛冶屋は思わず姿勢を正し、
「すっすみません!」
と大声で返した。
「……怒鳴って悪かった……だが――」
「いま一瞬、親方に怒鳴られたのかと思いました。ウェッソンさんのいうとおりです。帰って仕事をかたづけてきます。だから、そのあと僕にも何か手伝わせてください」
 彼に手伝ってもらうことがあるとは思えなかったが、ウェッソンは、
「ああ、よろしく頼む」
と答えておいた。鍛冶屋は大急ぎで返っていった。
 ウェッソンが階段を上っていくと、一番近い客室からサリーが出てきた。
「あ、ウェッソン。包帯はどこにあるかわかる?」
「包帯?」
「先生の怪我……いっぱい血が出て、包帯がぐしょぐしょなの。かえてあげなくちゃかわいそう……」
と、サリーは泣きそうな顔で言った。
「居間の棚に救急箱があったと思うが……」
 ウェッソンはそう答えながら、こんなときテムズがいれば、すぐに出してくれるんだがな、と思った。
「でなきゃ、以前おまえが使ってた残りはないのか?」
「あ、そうね。残ってたと思うわ」
 サリーはぱたぱたと駆けていった。
 ウェッソンは客室に入っていった。医師を休ませるために勝手に使っているが、あとでわけを話せばテムズも怒らないだろう。いや……実はちょっぴり心配だが。
 ジェフリーはベッドに腰かけ、両手で頭を抱え込んでいたが、ウェッソンに気づいて顔を上げた。サリーの言うとおり、胸の包帯は真っ赤になって、シャツにまで血が浸みだしていた。

「大丈夫か?――何があったのか話してもらえるか?」
 医師はふたたび下を向き、低い声で話し始めた。
「……彼女を連れて行ったのは、ある秘密組織の幹部だ……目的を果たすまでは、テムズに手荒なことはしないと思う……だがそのあとは……」
「秘密組織だと?」
「そうだ……それ以上詳しいことは知らないほうがいい。かつて私はそこである研究に携わっていた。そして同僚の一人とともに、研究資料を持って逃げ出した。やつらはそれを取り返したいんだ。テムズと交換というわけだ」
 この医師――ただ者ではないと思っていたが、怪しげな組織の研究員、しかも「裏切り者」か。ウェッソンは妙に納得しながら、次の質問をした。
「いったい何の研究だ?」
 ジェフリーの表情が険しくなった。
「――あれは……悪魔の発明だ。この世に存在してはならないものだ……。手っ取り早く言うと、生物兵器だが……」
「生物……兵器?」
「裏で軍が絡んでいることはまちがいない。私達は目的を知らされずに研究をしてきた。責任者の突然の死で、私がそれを引き継いだとき、はじめて事の重大さに気づいたのだ……そして、親友だった同僚と一緒に、研究所を破壊し資料を持ち出した。彼はその時負った傷がもとで……死んだ。私だけがこうして――」
そこで彼の言葉はとぎれた。話すのに疲れたというよりは、何か思いに耽っているようだった。ウェッソンは待った。
 少しの間があって、ジェフリーは思い出したように、口を開いた。
「たぶん明日の朝あたり、連絡をよこすだろう。資料を持ってこいと場所を指定して……」
「渡すつもりか?」
「――じつはよそに預けてあるんだ。引き取りに行くまで待っていてはくれないだろうと思う……だから、今から帰って偽物を用意する。やつは素人だが、たとえ専門知識があってもちょっと見ただけでは偽物だとわからないように作る自信はある。それを持っていく――ただ、やつが紳士的に取引してくれるという保証はない……それが心配だ」
「警察は頼りになると思うか?」
 ウェッソンは尋ねた。医師は少し驚いたような目でウェッソンを見た。
「――いや、通報して逆にテムズの身が危険になるということはないのかと思っただけだ」
「君はあまり警察を信用していないようだな」
と、ジェフリーは苦笑した。
「まあ、私もだがね」
「……で、どうしたらいい?」
「テムズさえ無事に戻ってくれれば、あとはどうなろうと私はかまわない――だから……」
「そうか……」
 ウェッソンは静かに頷いた。
「ひとつ聞いてもいいか。そんな物騒な研究、どうしていまだに保管してあるんだ? 俺ならさっさと燃やしてしまうが」
「それは……私もそうするべきだと思っていた。だが、死んだ親友はそれに反対していた。彼は、この研究が不治の病で苦しむ人々の救世主になるかもしれないと考えていたんだ――たしかにその可能性は否定できない。だから、私はある信頼できる医師にそれを託した。組織が簡単に手を出せないところにいる大物だ」
「なるほど」
 そうしておいて自分は組織に追われる役をずっと引き受けているのか。この男がそんなにお人好しだとは知らなかった――ウェッソンはなかば呆れ、なかば感心した。
「他に質問は?」
「いや、いまのところは別に」
「君たちまで巻き込んでしまって、すまないと思っている。だが必ずテムズは――」
 そのとき、ぱたぱたとサリーの足音が聞こえてきた。彼女は包帯を持って部屋に入ってきた。
「やっと見つけたわ」
「そうか、よかったな。それじゃ先生、サリーに包帯の正しい巻き方を教えてやってくれ」
 ウェッソンはそう言って立ち上がり、
「俺は目覚ましの飲み物でも用意してこよう」
と、部屋から出ていった。こんな時にテムズがいれば、と思いながら。


 空は薄明るくなっていた。店の外に出たウェッソンは、
「たいした距離じゃないが、送っていこう。今にもぶっ倒れそうな、青い顔をしているからな……」
と、ジェフリーに言った。しかし医師が黙り込んで下を向いているので心配になり、こう尋ねた。
「気分でも悪いのか? もう少し休んでいくか?」
「いや――ちょっと……何か引っかかるものがあるんだ……なにか忘れているような……」
と医師は答えた。彼は額に手を当て、考え込んでいるようだった。
「ウェッソン……あいつが持っていたのは自動式の拳銃ではなかったか? それとも私の記憶違いだろうか……」
「え?」
 いきなりそんな話をはじめられたので、ウェッソンは面食らってしまった。
「それがどうかしたのか? 暗くてよく見えなかったからなあ……いや、待てよ。やつは3発撃ってきた……あれは――」
 ウェッソンは懸命に記憶を引き出そうとした。
「そうだ。自動式だ――しかしそれが何か?」
「やつはいつも古いコルトを愛用していたんだ。祖父の形見だとか言って……なぜ夕べに限って自動式を使っていたのか……そのことにいったい何の意味があるのかと――」
 なにやら、サリーの探偵ごっこの時の台詞みたいだ、とウェッソンは思った。たしかに少し不自然だが、べつに何の拳銃を使おうが本人の勝手だ。たぶん自動式を使いたい気分だったのだろう。あるいはコルトが壊れたとか。それほど重要な意味があるとは思えなかった。
 そのとき、遠くから叫ぶ声が聞こえた。
「ウェッソンさぁーん」
 ウェッソンは驚いて目を凝らした。間違いない。走ってくるのは鍛冶屋の青年だ。
「どうした? 忘れ物か」
「いっ……いえ、そうじゃなくて」
 鍛冶屋は息を弾ませながら答えた。
「今日の仕事、終わらせてきました」
「……なに?」
 ウェッソンは目を丸くした。
「考えてみると、今日やらなくちゃならない分は昨日のうちにほとんど済んでいて、残っていたのは最後の点検だけでした。特注の大鍋と、骨董品みたいな古い型のコルト銃の修理と……」
「コルト銃?」
 ウェッソンとジェフリーが声を揃えて聞き返したので、鍛冶屋は驚いた。
「え、ええ、そうですよ。それがなにか?」
「修理を依頼してきたのは、背の高い黒ずくめの服の男だったか?」
と、医師はせきこんで質問した。
「……いいえ、女の人でした」
 話の見えない鍛冶屋はとまどいながら答えた。
「女――もしかして、テムズに負けないくらい赤い髪の……」
「あ、そうです。真っ赤な髪の若い女の人でした。お知り合いですか?」
「ジェフリー、当たりか?」
 ウェッソンの問いに医師は頷いた。
「やはりやつと行動を共にしていたのか……」
「連絡先なんかは聞いていないか?もしかしたら、そこにテムズがいるかもしれない」
と、ウェッソンは鍛冶屋に尋ねた。
「え……ええ――っ?」
 今度は鍛冶屋が大声を出す番だった。


つづく


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