And others 28(Side A)

Contributor/蒼龍さん
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《Pre story
SIDE:B》


朧月と朱紅い月
S I D E : A



 
 夢を見ていた。それは、今更思い出したくも無い、陰惨な過去。まだ自分が『朧月』と言う名であった時の話。
「……朧月よ」
 柔和な、しかし拒否を許さぬ笑みを浮かべた白髪の首領。その隣には、一人の男が立っている。束ねられていない長い黒髪、業物の刀、そして東洋人とは思えぬ異様な真紅の瞳。その全てが、幼き少年など歯牙にも掛けぬ圧倒的な『気』を放っており、少年は身じろぎ一つとて出来ない。
「この男が、お主に暗殺術の基礎を教授する者だ。『神無月』と人は呼ぶな」
 神無月と呼ばれた男はつまらなさそうに煙草を喫っている。首領はちらりと横目で見たが、特に咎め立てる事もしようとしない。
「お主の事についてはこの男に一任してある。この稼業だ。『師弟』などと言う生易しい関係では無いぞ。お前はこの男を『主』と思え。拒否権は認めていない。そう言う権限をこの男には与えている。良く覚えておくのだな」
 言葉を終えると共に、首領の眼が変わる。それを見て少年は思わず身体をぞくりと震わせた。そこに在るのは、人畜無害な好々爺などでは断じて無く、一箇の性酷薄な暗殺者だった。
「基礎訓練と言っても、暗殺者のそれだ。力の足りぬ者は訓練の時点で死ぬ。折角拾ってやったのだ。無様に死んでくれるなよ……?」
 表面上は穏やかな、しかし獲物を射殺す魔眼に、少年が逆らえる筈も無かった。



 それから数ヶ月の時が経った。
(変わった人だ)
 物陰に潜みながら、少年はちらりと目標――神無月の方を見る。自分から一本取ってみろと言う彼の命令で、先程からずっと機を窺っているのだ。彼はと言うと、太平楽に眠っていた。まるで自分以外誰も居ないかの如き態度である。
 一見すれば、襲撃する好機と呼べる。
 しかし、少年は知っていた。実際には隙などまるで無いのだと言う事を。もう何回も試して痛い目に遭っているのだ。
 全く無防備に眠りこけている様に見えて、実はそうでは無い。頭はしっかりいつでも立てる様に壁に寄せて、右手は常に刀を握っている。抜討ちの構えだった。しかも左手は懐に入れられている。銃や小刀などの類の武器を瞬時に出せる構えだ。恐るべき用心深さと言うべきだった。これでは接近戦の場合一撃を入れる暇も無く相手の攻撃を受けてしまう。銃を持っていれば話は別だが、少年はそれを持っていない。
(本当に、変わった人だ)
 神無月と言う男は、少年が考えていた暗殺者像とはまるで違った男だった。一言で言えば非常に気紛れな男で、前日に言った訓練の内容と当日の内容が全然違うのは日常茶飯事である。そしてひどく面倒見の良い明るい男だった。初対面とは真逆の態度だが、
「あの日はじじいに無理矢理捕まえられたからな。忙しいって言ってるのに『もう決めた事だ』の一点張りだ。だから機嫌が悪かったんだよ」
 と本人は言っている。首領は『師弟では無く主従関係と思え』と言っていたが、実際にはそんな事は無く、彼等の感覚は殆ど『師弟』のそれだった。これも彼が望んだ事だ。つくづく暗殺者らしからぬ男である。
(でも……)
 彼もまた、暗殺者である事に変わりは無い。彼は急に訓練を休む事がある。それは即ち、仕事をする事と同義だ。そして暗殺者の仕事は殺人以外にあり得なかった。あの気さくな人物の中には、初対面で自分が見た様な恐ろしい暗殺者としての、人殺しとしての顔が、確かに存在するのだ。
(俺もいつか、ああなるんだろうか)
 少年は、自分の掌を見つめた。未だに血に染めた事の無い、自分の掌を。知らず、身体が震える。
 怖い。今の自分にはこんな生き方しか無いのだとわかっていても、怖い。人を殺すのが。或いは殺されるのが。そして、その経験を積み重ねて行く内に、その恐怖が無くなって行くであろう未来の自分が怖かった。人間が人間で無くなる様な、そんな恐怖だった。
「なーに考え込んでるんだ? 少年」
 不意に後ろから響いた声に少年は振り向く事が出来ない。彼は既に背後に立っていたのだ。咽喉には小刀が突きつけられている。
「ガキの癖にあれこれ考えてんじゃねえよ。ったく。まだまだ甘いな」
 そう言って、彼は小刀を引っ込めた。少年が見ると、その顔はにっと笑っている。
「修行が足りん。精進しろよ。実戦ではこうなりゃ『死』あるのみなんだからな」
「……はい」
 少年はしっかりと神無月の顔を見て頷く。すると珍しく神無月は真剣な眼差しをして、いきなり言った。
「お前、人を殺すのが怖いんだろ?」
 核心を衝かれ、一瞬、少年はどきりとさせられた。何故この人はこうも、自分の心をあっさり見透かしてしまうのだろうか。
「これでも俺は闇稼業の人間だからな。人の心を読み切らなければとてもやって行けないのさ。お前如きの若造の心を見抜くなんて事は、朝飯前って奴だ」
 神無月が少年を見据える。真紅の瞳に吸い込まれそうな錯覚を少年は覚えた。
「俺は別にお前を責めるつもりは無い。当たり前の感情だ。誰が好き好んで人を殺すよ? 俺も、お前と同じ様に最初は人を殺すのが怖くて怖くて仕方が無かった」
 神無月は煙管を取り出した。煙が、天上へと昇って行く。
「あのじじいは、『人殺しなど直ぐに慣れる』なんて抜かしやがった。……実際、そうだった。最初に人を殺した時など震えが全然止まってくれなかったってのに、いつの間にかそれも無くなってたからな。それに気付いた時、俺は別の意味で震えたよ。丁度、お前が今恐れている事と同じ意味で、な」
 何もかも見抜かれていた。人を殺すのが怖い事。そして、殺しに慣れてしまい、人を殺す事に何の感情も抱かなくなってしまう事が怖い事を。少年は改めて彼の恐ろしさを痛感し――心の何処かで、安堵していた。彼もまた、嘗て同じ思いをしていたのだと。しかし、その感慨も神無月の放った言葉で困惑に変わる。
「……ついて来い」
「え?」
 いきなりの言葉に、少年はぽかんと口を開いた。それが少年をより幼く見せる。
「お前の悩みは、言葉で言ったって仕様が無い事だ。俺について来い」
 煙管を収め、『立て』と手で指示する。訳もわからぬまま、少年は即座に立ち上がった。この俊敏な動きは、暗殺者に欠かせぬ動きとして徹底的に叩き込まれたものである。
「四の五の言うな。これは『命令』だ。良いな、『朧月』」
 神無月の表情が、既に暗殺者のそれ――自分に命令する立場のそれ――に変わっていた。余程の事が無い限り、彼は少年の前ではこんな態度は取らない。少年としては、彼に従うしか無かった。



 既に夜の帳が降りて久しい。夜空に月が煌々と輝き、世界は静寂に包まれている。特にこの『都』は、近年に於けるこの国での激しい内部抗争の煽りを受け、『天誅』と呼ばれるテロや暗殺が横行しており、今や『都』の住民に夜出歩く者は居ない。出歩く者と言えば、内部抗争の当事者、治安部隊、そして――闇稼業の人間だけだ。
「……此処だ」
 訳もわからず神無月について来た少年は、眼前の宿を見上げた。『榎木屋』と大書された看板が暗がりでも見える。三階の一部屋に僅かに明かりが灯っている。
「さ、行くぞ。くれぐれも俺の傍を離れるなよ。それと」
 じろりと、少年を見据えた。少年は身じろぎ一つ出来ない。神無月の真紅の瞳が、煌々と光って彼を金縛りにしていた。それ程の凝視だった。
「俺が良いと言うまで一切言葉を発するな。何も訊くな。黙ってろ。良いな」
 少年は頷いた。無言で宿屋に入る。入り口に、いかつい顔をした大男が立っている。見知らぬ二人を見て、みるみるその表情が険しくなった。
「何者だ、貴様等。宿に泊まるつもりならば他を――」
 それ以上の言葉は無かった。少年が見たのは、咽喉を掻き切られ、鮮血と共にけしとぶ大男と――総ての生あるものに等しく死を与える一箇の『死神』の姿であった。異変を感じ取ったか、慌しく階段を駆け下りる複数の音が聴こえる。
 死神は呆然としている少年に眼もくれず、悠然と階段に向けて歩みを進める。
 それは、戦いなどでは無かった。殆ど殺戮だった。剣が交わる事すら無い。幾重の囲みも死神相手には全く意味を為さず、少年が目視出来ぬ剣閃で死体の山が築かれるのみだった。そこかしこに生温い血が流れていて、少年は死神を追うのに何度か転び掛けてしまう。無我夢中で追い縋り、気が付くと――気絶している男と、それを見下ろす血染めの死神の姿が、眼前に展開されていた。
「……朧」
 その声に、少年は訳も無くびくりと震えた。今まで聞いた事も無い様な、恐ろしく冷酷な声。あの老人ですら、これ程の『気』を発してはいなかったのに。
「ここまで来れば、俺がお前に何をさせようとしているかはわかる筈だ」
 そう言って彼は懐から小刀を取り出し、放った。
「この男はお前の手で殺せ」
 どくん。
 少年の心が、早鐘を打ち鳴らす。どうする術も無く、身体が震え出した。背から、汗が流れ落ちて行く。
「いずれはやらなけりゃならん事だ。だったら、今やってしまった方が良い。違うか」
 その声音は、死神のそれでは無い。幼い少年を気遣う、一人の青年のそれだった。
「……さあ、やれ」
 そう言うと、神無月はくるりと背を向けた。尚も震えながら、少年は倒れ伏す男を呆然と見つめる。何処かで見た事のある顔だ。いずれ反体制派の説客に相違無かった。しかし、今の少年にそんな事を考える余裕は無い。彼が考えていられる事は只一つ、これから自分が人を殺すのだと言う事実だけだ。
 小刀を引き抜こうとするが、手が震えて上手く引き抜けない。息が荒くなっているのを自覚する。やっとの思いで小刀を抜き放ち、ゆっくりと男の所に歩み寄った。そして、男の咽喉に刃を向ける。
「……っ」
 手が震えて、狙いを定める事が出来ない。苦しい程に胸が締め付けられ、息がますます荒くなる。額には脂汗が浮かんでいた。しかし、いつまでも躊躇している訳には行かない。少年は歯を食いしばり、睨む様に目標を見据え、小刀を持つ手にぐっと力を込める。
 咆哮と共に、刃を振り下ろした。鮮血が自らを襲う。しかしそれに飽き足らず、生温い血がどくどくと、男の首から溢れ出る。少年は暫し、呆然とその光景を見つめていたが……。
「――ッ!!」
 反動が、来た。理性も何も全て消し飛んだ。吐き出すものが無くなっても、全く吐き気が収まってくれなかった。全てが想像を遥かに超えていた。
「……朧」
 青年の声が落ちて来る。
「気持ち悪いだろ。それが人を殺す感触、他人の血の感触だよ」
 苦しさと気持ち悪さに必死に抗い、少年は青年の顔を見上げる。
「朧。お前の悩みに対して俺から言える事は殆ど無い。どれだけ打ち解けても、どれだけ親しくなったとしても、俺とお前は他人なんだ。考え方も違う。今まで積んで来た経験の量も質も違う。俺にとっての常識がお前にとっての非常識かも知れないし、その逆だってあるだろう。だから俺が何か言ったとして、それは参考にはなっても本質的な解答には絶対にならない。結局は、自分が手探りで見つけなければならない事なんだ」
 今や声音のみならず、青年の顔が『死神』のそれから、幼い少年を気遣う青年のそれへとはっきり変わっている。
「只、一つだけどうしても言っておきたい事はある。――今感じた事だけは、絶対に忘れるな」
 青年の瞳がふと、悲しみに彩られた気がした。
「俺の知り合いに、血に狂っちまった奴が居る。そいつは人殺しに何の感情も抱かぬどころか、快楽まで感じる様になり、任務でも無いのに人を殺す様になった。挙句、『死線』とやらを求めて海の向こうに渡っちまった。生きてるのか死んでるのかもわかりゃしねえ」
 煙草の煙が夜空に昇る。神無月の眼が一瞬細められた。
「……お前は、そんな奴になってくれるな」
「……」
「今こうして、人を殺すと言う行為に恐怖と気持ち悪さと嫌悪感を覚えているその感情を忘れるなよ。それさえ忘れなければ、この先どんなに場数を踏んで、どれだけ人間を殺す事になったとしても――少なくとも、血に飢えた殺人鬼にはならずに済む。俺は――」
 神無月は唇を噛んだ。こんな苦渋の表情を、少年は見た事が無い。
「俺はもう、親しい人間相手に刃を向けるのは真っ平なんだ」
 漸く冷静さを幾分か取り戻した少年は、眼前で初めて苦しみを吐露した師の事を思った。彼の言った『知り合い』以外にも、恐らく狂ってしまった友人、知人が何人も居て、そしてその多くを自分の手で殺す事になったのだろう。それを遂行しなければならなくなった時の彼の心情を思い、少年はぞっとした。どんなにか堪えがたい苦しみだろうと思う。
 もう二度と、そんな想いを抱かせたくない。自分は無力だけれど、せめて――。
「……大丈夫、です」
 不意の言葉に、青年の眼が瞬いた。少年は蒼白い顔で、笑みを浮かべていたのだ。
「俺は、そんな風にはならないですから。師匠に殺される様な奴には、ならないですから」
 ふらりと、立ち上がる。まだ身体は震えているし、気持ち悪さが無くなった訳でも無い。しかし、それでも少年は立ち上がった。師を、安心させる為に。
「……ふん、ガキが一丁前の口を利きやがって」
 青年は不敵な笑みを浮かべた。
「ま、そんな口が利けるんなら、もう大丈夫だな。行くぞ、こんな所長居は無用だ」
「はい」
 青年に従って歩み出す。震えと吐き気は、漸く収まりつつあった。朧気な月の光が二人を優しく照らしている気がした。



「なぁ、朧」
「何ですか?」
 それから更に年月が過ぎ去る。神無月の言葉に応える少年の顔は幾らか大人びていて、神無月程では無いが身長も大きく伸びている。既に大人の男としての階段を上り始める年頃だった。
「……?」
 質問に答えずにやにやと笑う師に、怪訝な顔をしながら少年は茶を飲む。しかし――。
「お前、女が出来ただろ?」
 悪戯っぽい笑顔を浮かべた青年の言葉に、その全てを吹き出してしまった。むせて咳き込む少年を見て、神無月はおかしそうにくつくつと笑う。
「ゲホッ、ゴホッ……い、いきなり何言ってるんですか!」
「何だよ、別に驚く事でも無いだろう? 俺相手に隠し事なんて出来るかよ、お前が」
「か、隠し事だなんて……俺は、別にそんな……」
「ふ〜ん、そうかい」
 まだ何か隠し玉があるらしく、神無月の悪魔の笑みが絶やされる事は無い。少年の背筋を冷や汗が流れ落ちる。果たして、神無月はとんでもない事を言ってのける。
「何なら、昨日その娘と交わした睦言をぜ〜んぶ暗唱してやっても良いんだぜ?」
 少年の顔が、一瞬で紅潮した。幾ら暗殺者と言う閉塞した環境に在るとは言え、少年も既に年頃である。『睦言』の意味がわからぬ程子供では無かった。
「な、何言ってるんですか! 俺と桜は、別にそんな事……!」
「何だ、やっぱり居るんじゃねえか」
 しまったと言う表情をするが、もう遅い。少年の顔は一層赤くなり、神無月は遂に堪えきれず腹を抱えて笑った。あんまり笑いすぎて、涙まで流している。泣きたいのはこっちだ。その非難の意味を込めて少年は叫んだ。
「もう……勘弁して下さいよ!」
「あはははは、悪い悪い。しかし、なぁ……くくくくくく」
 尚も笑いを止めない師の事を、少年は久し振りに恨めしく思った。気の良い人だが、偶にこうやって人をからかう事がある。その度に自分は彼の思いのまま翻弄されてしまう。長年の付き合いで悪気が無いのはわかっているが、それでも翻弄される側にしてみればたまったものでは無い。
「はぁ……はぁ……しかし、お前に彼女が出来るとはね。どうだ? その娘とは何処まで行ったんだ? キスぐらいはもうしたんだろ? どうだった? その味」
 容赦の無い追撃に、少年の顔は何処までも赤くなる。殆ど返答不可能な問いに、言葉を紡げない。少年のその態度に、青年は再びくつくつと笑う。
「ふふふ、お子様にはちょっと刺激が強すぎる質問だったかな?」
「……本当に怒りますよ」
 尚も真っ赤な顔で睨む少年に、神無月は『悪かった』とばかりに小さく手を振る。
「ごめんごめん。ちょっとからかってみたかっただけだよ。本当、悪かった。お前の事を年端も行かぬガキの頃から見ているだけに、ちょっと感慨なんか覚えちゃってな」
 漸く笑い収め、青年はふと真剣な眼差しを少年に向けた。それを見て少年はどきりとする。一瞬で顔の紅潮は無くなった。
「――で、何処まで本気なんだ?」
 その言葉に、今までのふざけた雰囲気は一切無い。背筋が伸びる思いがした。神無月の瞳は、いい加減な返事を許さぬと言う光を帯びている。
「俺の言っている意味、わかるか? 俺達は暗殺者だ。常民とは訳が違う。一瞬の気の緩みで、全てが終わっちまう稼業なんだ。生半可な気持ちで女に手を出せば、待ってるのは破滅だけだぞ。さりとて本気でその娘を愛していて、妻にしようとしたとしても、今度は妻や、場合によっては育んだ子供の事を思って死ぬ事への恐怖が増大する。その結果却って死んじまった奴を、俺は何人も知ってる。だから暗殺者に限らず、闇稼業の人間は余程の覚悟か事情でも無い限り妻なんか娶らないんだ」
 青年はそう言うと、ふっと瞳を曇らせた。いつか少年に『人殺し』について身を以って教えさせた時の様に。
「お前は、どうなんだ? どんな事があってもその娘を護る覚悟があるか。その娘、或いはその娘との間に出来た子供を遺して死ぬ恐怖を克服出来るのか」
 互いに、覗き込む様な眼で見据える。それはさながら、兵法者同士の死合の如く。昔の少年なら、青年のこの凄まじいまでの眼光に、只怯むだけだっただろう。だが、今の彼は違った。
「……正直、護りきれる自信は無いです」
 少年の言葉に澱みは無い。
「でも、出来るだけの事はしたいと思ってる。俺は弱いし、未熟だから、護りきるとか、幸せにするとか、そう言う事は断言出来ないけど……それでも、出来る事は精一杯するつもりです」
 無言。二人の男は、尚も睨む様に互いを見据えている。どれだけ時間が経っただろう。先に睨むのを止めたのは神無月の方だった。ふう、と息をついて煙管を取り出す。
「……ま、お前にしちゃ上出来な答えだ」
 煙が輪の形になってふわりと宙を舞う。青年は暫し考え込んだ様な顔になり、やがて言った。
「今言った事、絶対忘れるなよ。力の限り嬢ちゃんを守ってやれ。それが男の責務だ。わかるな」
「……勿論です」
「よっし!!」
 いきなりバンと肩を思い切り叩いた。その衝撃に、思わず少年は咳き込んでしまう。
「じゃあ今日は祝いの宴をやらなくっちゃな。その娘も、連れて来いよ。お前の彼女の顔を見てみたい」
 そう言って、青年はにっと笑い掛ける。自然と、少年からも笑みが零れた。そして神無月は実際に少女を見た時、
「何だ、お前には勿体無い良い女じゃないか。どうだ? 俺に乗り換えないか」
 そう言って本気で口説き始めたものである。少年は慌ててその邪魔に躍起になり、少女はあんまり大人気ない二人の様子がおかしくて笑った。それは正しく、咲き誇る桜の如く。そうした楽しい光景が、いつまでも続けば良いと、この場の誰もが思っていた。
 全てが、打ち砕かれるまでは。









「……ニキ、アニキ」
 不意に、現実に引き戻される。瞼を開くと、そこに居るのは自分の弟分であるテリーだ。朧月……アニキは、素早く辺りを見廻す。自分の師も、想い人も、何処にも居はしない。
「どうしたっスか? アニキ。そんなに慌てて」
「……いや、別に」
 訝しがるテリーの問いに、アニキは適当にはぐらかす。しかし、テリーは納得しない。
「初めて聞いたっス」
「……?」
 今度はアニキが怪訝な顔になる。
「アニキが寝言でサクラさん以外の人を口にするなんて」
 しまった、とアニキは感じた。しかしこればかりはどうする術もありはしない。アニキは遂に観念する。
「ああ……その人は、ガキの頃の師匠だった人だ」
 そう言って、アニキは一通りの事をテリーに喋った。暗殺者らしからぬ気持ちの良い人だったと言う事。いつも自分の事を真剣に考え、助けてくれた事。そして、『あの日』以来、一度も逢っていないと言う事を。
「……しかし、何で今頃あの人の夢を見るんだろう……」
 アニキは考え込む。いつかテリーに言われた様に、自分が寝言で呟くのはいつも想い人だけであり、師の事は一度も出て来なかった。忘れたからでは無い。消息が全く掴めなかったからだ。
 外に出て暫くして、師の消息を調べる中でアニキ――朧月は初めて、自分の師がどれだけ凄い暗殺者なのかを知った。
 嘗ては『真紅の狼』なる二つ名で、自分の祖国のみならず東洋全域にその名は轟き、その道の人間で知らぬ者の居ない程だったと言う。
 しかし、彼についての名声を聞く事は出来ても、肝心の消息は全く掴めなかった。遥か西域の『大戦』で死んだとも、青髪の暗殺者に敗れて殺されたとも聞いたが、いずれも根拠と呼べるものは何も無かった。
「……大丈夫っスか?」
 テリーが覗き込む様にしてアニキを見る。アニキは軽く手を振った。それを境に、いつもの彼に戻っている。
「気にすんな。さ、行くぞ。今日こそ『キャプテン・スパーッツァ』の財宝の確かな情報を手に入れなきゃならねえんだからな」
「わかったっス。しかしそれにしても……」
「何だ?」
「何かその名前を聞くと妙に眠くなって来るんスよね……」
「……確かに」
 二人はこれまで調べた事が書かれている紙を見る。その海賊の渾名であるスパーッツァとは茸の名前らしいが、それ以外は一切不明である。伝説では、食い意地の張った『蛇』の名を冠するエージェントが食べたとも言われているが、全ては謎だ。その事を思い浮かべて、二人は欠伸を漏らした。



「はぁ……やっぱり、簡単には見つからないっスねぇ」
 既に黄昏が迫っている。だのに何の情報も手に入らない。もうかれこれ二週間はこんな状況だ。さしもの二人も、がっくりと来ていた。
「元々、実在するか否かの論争すらあった海賊だからな。だが、そうした考証の結果から考えて、実在したってのは確かなんだ。情報が無い訳はねぇんだがな……」
 この街には世界中の情報が集まる。だからこそ二人は此処を拠点にしている訳なのだが、この街で情報が殆ど手に入らないとなると、事は随分と厄介になる。しかし――。
「だがまぁ、簡単に手に入る様な宝なんて欲しくねぇ。簡単に手に入らないから宝ってのにはロマンがあるんだ」
 アニキの眼は、却って輝いていた。事は難しければ難しい程やり甲斐がある。
「そうっスよね。よっし、もっと張り切って調べなきゃっス!」
 テリーも今までの疲労感が吹き飛んだ様に気合を入れる。この二人の辞書に、『諦める』などと言う文字は存在しない。
「……ま、今日はもうこれまでにしとくか。明日は、俺の昔の伝手でも当たってみよう。あんまり使いたくないんだが」
 そう言って、二人は寝床である倉庫に帰るべく踵を返す。もう黄昏だと言うのに、相変わらずこの街は雑然としていた。夕餉の買い物を済ませる女性、労働を終えて酒場に繰り出す男達、道を行き交う馬車、街を警備する警察官……何もかも、いつも通りの光景だった。
 眼鏡の奥に真紅の瞳を宿した、一人の東洋人とすれ違うまでは。
「……!」
 アニキが足を止め、後ろを振り向いた。その男は既に居ない。しかし、確かにその男の面影は――。
「アニキ? どうしたっスか?」
 急に足を止めたアニキに、テリーが問い掛けるが、その時にはもうアニキは駆け出していた。テリーが後ろから尚も何かを叫ぶが、もうアニキ――朧月には、何も聴こえてはいなかった。頭が、空っぽになっていた。









 満月が煌々と光る夜だった。船が来る時間はとうに過ぎており、港は一種不気味なまでの静寂に包まれている。音があるとすれば、波が波止場を打つ音だけである。いつか少女と共に、海を見た時と同じ様な音。
「不思議なもんだよな、人間ってのは」
 すらりと伸びた黒髪が、風にたなびく。紙巻煙草の煙が夜空に昇った。
「探している時には手掛かりすらも得られないってのに、探してもいない時にはあっさり見つかるんだから。全く、馬鹿げた話だよ」
 そして、男が振り向いた。チロリアンハットを被り、度の入っていない伊達眼鏡、首にぶら下げた十字架(クルス)、黒のコートに灰色のスーツと、随分と服装は様変わりしていたが、真紅の瞳と腰まで届く程の黒髪、そして何よりもその悪戯っぽい笑顔が、この男の素性を証明していた。
「暫く見ねえ間に随分変わったなあ、朧」
「……師匠」
 弟子の言葉に、男――神無月はにっと笑い掛けた。
「しかし、俺も腕が鈍ったかね。本気で気配を殺していたのに、まさか見つかるなんてさ。それとも、お前の方が成長したのかな」
 そう言って彼は肩を竦めたが、その様子は何処か嬉しそうだ。しかし、青年に笑顔は無かった。唇を噛んで俯き、拳を震わせていた。護れなかった約束があるから。
「師匠……俺……」
「知ってるよ」
 思いもかけぬ師の返事に、思わず青年は顔を上げた。師は眼を閉じている。激情を堪えている様にも見えるし、全てを達観している様にも見える。
「お前は、彼女を幸せにしようと本気で思ってたんだろ? 彼女の事を護ろうと本気で覚悟を決めてたんだろ? だったらもう、俺から言う事は何も無いさ。ましてお前を責めるつもりなんてこれっぽっちも無い」
 そう言って師は煙草を放る。放物線を描き、波紋を描いて海に沈んだ。
「ま、彼女の事を吹っ切ってなかったらぶん殴ってる所だが、その心配も無いみたいだ。一緒に居た奴と話をしている時の顔は、凄く生き生きしていたからな」
 そう言って、師は再びにっと笑った。もう十年以上も経っているのに、その気持ちの良い笑顔は全く変わっていない。
「……なあ、そろそろ出て来いよ。居るんだろ、そこに」
 笑みを浮かべたまま、穏やかな、しかし良く通る声で神無月が呼び掛けた。その声に従い、影が姿を現す。そこには、鋭い表情で神無月を睨む青年……テリーの姿があった。
「大丈夫。何にもしやしねえよ。こいつとは昔馴染みなんだ。俺にとっては弟みたいなもんさ」
 年輪を重ねたせいか、彼の笑顔は昔よりひどく穏やかなものだった。朧月に向けられた眼差しは、本当の家族に対して向けられる眼差しと何等変わらない。テリーもそれを認めた様で、忽ち警戒を解く。
「……疑って、悪かったっス」
 テリーの謝罪に、神無月はぶんぶんと手を振った。もう話題は別の事に移る。
「お前、名前は何て言うんだ?」
「テリーっス」
「そうか。俺は……」
「カンナヅキさんっスよね? アニキから聞いたっス」
「アニキィ?」
 その言葉を聞いて、神無月は忽ちおかしそうにくつくつと笑い始める。
「こいつは傑作だ。あのガキだったお前が、『アニキ』とか呼ばれる様になるなんてよ。はははは……」
「あ、あれから何年経ってると思ってるんですか。いつまでもガキ扱いしないで下さいよ!」
「へえ、そんな事言っちゃって良いのかなぁ? このテリーって奴に、色々とお前の恥ずかしい話をしてやっても……」
「ちょ、ちょっと! 何勝手な事言ってるんですか!」
「何だよ。別に良いじゃねえか。なぁ、お前だってこいつの過去の話とか色々聞いてみたいだろ? そうそう、こいつが昔付き合ってた桜ちゃんとの事とか……」
「だぁーっ! もうっ! 本当、勘弁して下さいよ!!」
 いつも豪快なアニキが相手の思いのままに翻弄される様を見て、テリーはぽかんと口を開けずにはいられない。こんなアニキの姿を見るのは初めてだった。しかしその困惑も直ぐに無くなり、ひどく楽しい気分になって来る。終いには堪えきれず、吹き出してしまった。
「お、おいテリー! 手前、笑ってんじゃねえ!」
「ほうら、こいつもお前についての話を聞きたいってよ。そうだな、やっぱり最初はあの嬢ちゃんとの馴れ初め……」
「だ・か・ら! 止めて下さいってそれは! 師匠が話をすると、話が無茶苦茶大袈裟になっちまうじゃないですか!!」
「その方が面白いじゃねえか。それで良いだろ」
「良くないですよ!!」
 二人の争いはその後も暫く続いたが、結局テリーが間に入って、取り敢えず二人のねぐらに案内する事になった。無論、神無月は諦めた訳ではない。テリーの言葉をあっさり受け入れはしたが、その眼の奥には悪魔の光が灯っていた。




「へえ。船乗り兼トレジャーハンターね。そいつはまた随分風変わりな仕事だな」
 むしゃむしゃと出された品を食べながら、神無月は二人の話に耳を傾ける。
「そうっスね。でも楽しいっスよ。外れとかも多いっスけど。やっぱり苦労して宝を手に入れた時なんかが、一番嬉しいっスね。今探してる奴はかなりてこずりそうっスけど。ああ、カンナヅキさんも世界中を旅して来たんスよね? 知らないっスか? 『キャプテン・スパーッツァ』の財宝についての情報」
「キャプテン・スパーッツァ? ああ、どっかで聞いた事あるな。でも、そいつ実在するのかしねえのかわからねえんじゃなかったっけか?」
 伊達に世界を旅している訳では無いらしい。テリーはその博識に内心感心した。
「いや、色々と調査した結果、取り敢えず実在したってのは確からしいっス。アニキがそう言ってました」
 神無月はゆっくりと杯を干す。そして、にやりと笑ってみせた。その笑みにアニキは嫌な予感がする。
「確実とは言い切れねえが知ってる事はあるぜ」
「本当っスか!?」
 思いもかけぬ情報に、テリーは思わず大声を出して喜んだ。しかし、アニキは素直に喜べない。師は露骨に悪魔の笑みを浮かべていたから。果たして、
「ああ。但し、情報と引き換えにお前の恥ずかしい話を一つ語らせて貰うけどな」
「う゛……」
 やっぱり。アニキはがっくりと肩を落とした。酒が入っているせいでいつもより更にしつこくなっている。
「……他の条件じゃ……」
「だ〜め」
 悪魔は子供っぽく舌まで出す始末だ。これでは話にならない。テリーに眼を向ければ、これまた眼をきらきらと輝かせている。多分彼は、情報の有無に関わらず昔話をねだるに違いない。アニキは自らの不運を呪い、諦めの境地で酒をぐいっと飲み干した。さっさと酔っ払わなければ、やってられなかった。



 払暁。アニキは二日酔いに苦しみながらもふらりと起き上がる。昨夜の宴で倉庫は散らかったままで、テリーも大分酔っ払ったせいで爆睡していた。しかし、師の姿が見えない。頭がガンガンするのを堪え、アニキはふらふらと倉庫を出た。
 師を見つけるのに時間は掛からなかった。朝日の光できらきらと輝く海に向かって、師は静かに手を合わせていた。胸の十字架が風にたなびく。やがて自分の存在に気付いたのか、振り向いてにっと笑い掛ける。二日酔いしている様子は全く無い。
「よう、朧。二日酔いか? 全く、図体はでかくなっても酒に弱いのは相変わらずだな」
 冗談だろう、と青年は思う。これでも自分は酒には強い方だ。彼の強さが異常なのだ。それに、こんな二日酔いにさせたのは一体何処の誰だと文句を言いたくなった。あんな暴露をされたら兄貴分の威厳もへったくれも無い。酔っ払いたくもなる道理だった。
「でも……昔よりずっと生き生きしてるし、力強くもなった。お前も、一人前の男になったんだな」
 神無月の笑顔には、嬉しさと寂しさが同居している様に感じられる。
「俺の眼の黒い内……って、俺の眼の色は真紅だったな。まぁ良いや。ともかく、俺が元気な内にお前の子供でも見てみたいものなんだがな。そいつはまだ無理なのかねぇ」
 そう言って彼は大袈裟に肩を竦めた。しかし、『俺の眼の黒い内』『俺が元気な内』と言う単語に不安を覚えた青年が、恐る恐る神無月に尋ねる。
「師匠は今、何をしてるんですか? もう、暗殺稼業からは……」
「足を洗った、と言いたい所だが……」
 ふっと、神無月の瞳が曇った。
「まだ決着をつけなきゃならん事が幾つか残っててね。この街に来たのも、その『決着』をつける上で情報収集の役に立つだろうと思ったからなのさ。……ま、そこでお前に逢うとは思いもしなかったけどな」
「……全て終わったら、どうするつもりなんですか?」
 青年の問いに、神無月は暫し考え込む。やがて、
「お前の言うトレジャーハンターになるってのも悪くないかも知れねえな。いっそ、お前達とどっかの物語みたいに桃の花ならぬ桜の花を肴に義兄弟の契りを結ぶのも乙かも知れねえ」
 と冗談っぽく笑う。
「ま、事が全部終わってから考えてみるさ」
 そう言って煙草を吹かしながら、神無月はゆっくりと歩み出す。
「じゃな。テリーって奴には宜しく言っといてくれや。縁あらば、また逢おう」
 青年の返事も待たず、神無月は軽く手を振り上げながら歩き去って行った。忽ち、その姿が見えなくなる。その早業は闇稼業特有のものである。青年は神無月の姿が見えなくなっても、暫し立ち尽くしたままだった。
「ふぁ……あ、おはようっス、アニキ。カンナヅキさんはどうしたっスか?」
 寝ぼけ眼のテリーの問いに、漸くアニキは我に帰る。
「ああ……今さっきどっかに行っちまったよ。何でも用事があるんだとさ……痛てて」
 再び頭痛に襲われ、思わず呻いた。テリーには二日酔いの症状が無い様で、妙に腹立たしい。
「面白い人だったっスね。いつもあんな感じだったんスか?」
「ああ、そうだ。いっつも手玉に乗せられてた」
「あんなに慌てるアニキは初めて見たっス。……あははは」
「わ、笑ってんじゃねえよ!」
 昨日の悪夢を思い出して、ますます頭が痛くなる思いがする。それでも、悪い気はしないのだから不思議だった。
「でも、ちょっとだけ羨ましかったっス。あの時のアニキとカンナヅキさん、本当の兄弟みたいに見えたっスから」
「へっ、何しおらしい事言ってやがる。羨ましがる事なんてねぇだろ。俺達は世界一の義兄弟じゃねえか」
 そう言ってアニキはテリーを軽く小突き、暫し二人はひしと抱き合って自分達の世界に入り込んだ。滝の様な涙が噴水の様に海に注がれて行く。
「よっし、それじゃぼちぼち行くぞ。キャプテン・スパーッツァの財宝の有力な手掛かりも貰えた事だしな」
 テリーと共に街に向かいながら、青年はいつしかあの時の事を思い浮かべていた。自分と師、そして愛しい人の三人だけで開いた宴の事を。永遠に続けば良いと思う程、幸せな時間だった。その時に帰る事は、もう出来ない。
 でも。
「そうっスね。アニキの昔話と引き換えの奴っスけど」
「その話はすんな!」
「い、痛いっス! わ、悪かったっスから勘弁して下さいっス〜!」
 テリーの頭をぐりぐりとやりながら、青年は『幸せだ』と感じていた。今の環境も、悪くない。想い人はもう居ないが、自分には愛すべき義弟が居る。そして思いがけず、もう逢えないと思っていた嘗ての師とまで再会する事が出来た。
これでまた、彼女の下に行った時の土産話が増える。あの人の話をしたら、あいつはどんな顔をするんだろうか。
「……アニキ? どうしたんスか? ニヤニヤしちゃって」
「何でもねぇよ。ほら、さっさと行くぞ」
 青年はそう言った後、微かな気配と視線とを感じ取ったが、その方向に振り向く事はしなかった。そのいずれもが穏やかで、優しいものだったから。





おしまい

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