And others 27

Contributor/ねずみのママさん
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夢の名残のバラ



 夜霧の街を、ひとりの男が走っていく。つい数分前に、一瞬の隙をついて護送用の馬車から逃げだした囚人だった。うまいこと雑踏の中にまぎれ込むことができ、すくなくとも今のところは、追っ手の視界から逃れている。
 人通りが少ない場所まで行くと、目立たないよう、走る速度を落とした。しかし誰かとすれ違ったりしないように、聞こえてくる他人の足音に注意を払いながら、彼は逃げ続けた。この霧の中でも、近くに寄れば囚人服が目に留まってしまうだろう。人に見られないようにしなければならない。
 しかし、これからどうすればいいのか。先の見通しは全くなかった。さしあたっての危機は過ぎたが、つぎのことを考えなくてはならない。
 この服さえなんとかなれば……。どこかに浮浪者の死体でもころがっていないだろうか。いや、死んでいなくてもいい。とにかく服が手に入ればいいのだ。めだたない格好で明日の朝までやり過ごし、港に行って、新大陸行きの船に潜り込む――あまりにも大まかすぎるが、今の彼にはせいいっぱいの逃走計画だった。
 そこで、まず公園に行ってみることにした。浮浪者が一人や二人、うろついているかもしれないと思ったのだ。しかし霧の中を夢中で逃げ続けたため、すっかり方向がわからなくなっていた。なにか目印になるような建物でも見えないかと、ゆっくり走りながらまわりを見回すが、霧の中にぼうっと浮かぶ街灯の明かりしか見えない。
 景色に気を取られ、前方からの軽快な足音に気づくのが遅れた。あっと思った瞬間、目の前に人影が出現した。どん、とぶつかり、彼はバランスを崩して数歩よろけたあと膝をついた。相手も「きゃっ」と叫んでひっくりかえったようだ。
 姿を見られたかもしれない。すぐに逃げださなければと急いで立ち上がったときだ。
「いたた……ごめんなさーい、大丈夫ですか?」
と、若い女性の妙に間延びした声。それに聞き覚えがあった。彼は心臓が止まるほど驚き、一瞬硬直した。駆け出すはずの足が、動かなくなった。
「あれ……ブラックスミスさん?……ですよね」
 女性はしりもちをついた格好のまま、彼を見上げている。顔がはっきり見えた。まちがいなく、あの看護婦だ。アリスという名前も瞬間で思い出した。よりによって、こんなときに彼女に出くわすとは。
「こ、こんばんは……」
と、彼は思わず挨拶し、手を差し伸べてしまった。知らんぷりをして、さっさと行ってしまうべきだったのに。
「あ、すみませーん。……そういえばここしばらくお会いしてませんでしたねー。あっ、いいことなんですよね、けがも病気もしてないっていうことだから」
 彼の手につかまって立ち上がりながら、看護婦はにこやかな笑顔を見せた。
 ……まさか、なにも知らないのだろうか? そうでなければ、殺人犯として逮捕されたはずの男にこんなところで出会って、愛想良くできるわけがない。まったく知らないか、すっかり忘れているかのどちらかだ。そして囚人服というのは、意外に一般人には知られていないものなのだろうか、彼女は気づいていないようだ。しかしそれなら、この場はうまく取り繕って……。
 そのとき、遠くから足音が聞こえた。しかも複数。ブラックスミスはあわてた。おしゃべりしそうな看護婦の口を手で塞ぎ、そのまま街路樹の陰にひっぱっていった。そして耳元で囁く。
「すみません、お願いですから少しだけ黙ってじっとしていてください。追われてるんです……その、借金取りに」
 目をぱちくりさせながら、口を塞がれたままこくこくと頷くアリス。
 足音は、立ち止まることもなく通り過ぎていった。それがかなり遠ざかってから、彼はやっと手を離した。アリスは大きく息をして、それからブラックスミスの顔をまじまじと見つめた。
「なんだか、大変そうですねえ。鍛冶屋さんのお仕事、うまくいってないんですか? もしかしておうちにも帰れないんですか?」
 同情にあふれた大きな瞳で見られ、彼はまたどきっとする。
「そ、そうなんです。もう……ながいこと帰っていません」
「あ、それじゃ」
とアリスはなにかを思いついたように、元気な声を出した。
「これから私といっしょに行きませんか? 孤児院。あそこならきっと借金取りのひとにも見つからないですよ。ほとぼりがさめるまで、かくまってもらうといいですよー。私もいつだったかジェフリー先生におこられたとき……」
「え? こ、孤児院?」


 アリスに連れられてきたのは、町はずれにある孤児院だった。ここまでの道もほとんど人に出会わなかった。今夜は霧が濃すぎるので、みんな外出を控えているのだろうか。
 アリスは玄関をノックした。ブラックスミスは彼女から少し離れて後ろに立った。そしてぼんやり思った。どうして、のこのこと彼女についてきてしまったのだろう。あそこですぐ別れるべきだったのに。ドアの向こうから出てくる相手は、この姿を見て不審に思うかもしれない。そうしたら、また急いで逃げださなければならないのだ。それなのになぜ、彼女の言葉にさからえなかったのか……。
 ドアが開いて、温和そうな中年女性の顔があらわれた。
「アリス、待ってたわ。元気にしていた?」
「おひさしぶりでーす、キャロル先生」
 アリスは女性に連れの事情を話している。女性はちらとブラックスミスの方を見て、はっとした表情を一瞬見せたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「こんばんは。アリスのお友達なら大歓迎ですよ。どうぞお入りください」
 気づかれた、とブラックスミスは思った。しかし入れと言う。どういうつもりだろう? 彼は情況判断に迷った。
 アリスが、
「ブラックスミスさん、遠慮しないでいいんですよぉ」
と、彼を促す。
「アリス、子供たちは大きな部屋のほうにいますよ。みんな、待ちくたびれてるから、早く行ってあげて。このかたは私が案内しますから……」
「あっ、ほんと遅くなっちゃってごめんなさい。私、挨拶してきますねー」
 アリスがばたばたと建物の中に消えていった。キャロル先生はもう一度、
「さあ、あなたもお入りなさい」
とブラックスミスに呼びかけた。
「狭いし、こどもたちはにぎやかすぎますけど……あそこにいるよりはいくらかましでしょう」
 その言い方に何かを感じて、ブラックスミスは相手を見つめた。
「あんたは知ってるのか? あそこのことを」
「昔のことですけどね……」
 静かに微笑み、キャロル先生は低い声で続けた。
「あなたの目を見ればわかりますわ。本当は真面目でまっすぐなかたです。なにがあったのか知りませんが……とにかくあの子があなたをここにお連れしたのですから、私たちは歓迎します」
 ブラックスミスはその言葉を聞いて決心した。どうせほかにあてもないのだ、ここに世話になろう。そうすれば、少なくとも公園で浮浪者を脅したりしなくてすむのだ。
 彼はキャロル先生に続いて、建物の中に入っていった。
「でも、お願いですから、アリスに黙って消えたりしないでくださいね」
「僕は……いえ、そんなつもりは……」
「着替えを用意します。こちらの部屋で少しお待ちになって。アリスのお友達として、子供たちに紹介します。それ以上のことはなにもお話しにならないほうが、お互いのためですわね――」
「本当にいいんですか? もし通報などされたら、僕は何をするかわかりません」
「あなたが紳士でいらしてくだされば、なにも心配するようなことは起こりません。ご安心なさい」


 子供たちから開放されたアリスが、ブラックスミスのそばにきて座った。
「ふー。やっとみんな寝ました。少し疲れちゃった」
 彼ははじめて明るいところでアリスの顔を見た。大きく丸い瞳、血色のいい頬、そしてよく動く唇。
「あした、お誕生会があるんですよ。去年来た女の子がいて、その子のはじめての――あ、生まれた日がわからない子は、ここに来た日が誕生日になるんです。それで、うふっ、じつは私もあしたが誕生日だから、いっしょにお祝いしようって先生が呼んでくれて……」
「それじゃ、君も小さいときからここに?」
「赤ちゃんの時、ここに来たんですって。だから、先生たちが私のおかあさんなんです」
 親が誰なのかも、自分の本当の誕生日がいつなのかもわからないなんて、悲しすぎる。それでもこんなに明るく、楽しそうに話している。まったく不思議だ。
 彼女はどこか昔の自分と似ている、とブラックスミスは思った。そうだ、正直で純真なまま大きくなったような娘だ。だから、初めて会ったときから気になっていたのかもしれない。
 だが彼女は……自分のように人の道をはずすことはないだろう。ないように願う。平凡でも幸せに暮らしていってほしい。自分の分まで。
 アリスがふと、彼の顔を覗き込んできた。驚いたように目をみはり、それから心配そうな表情になる。彼の目の前に、ハンカチを差し出した。 「なにか、悲しいことがあったんですか? 借金取りだけじゃないんですか?」
 言われて気がついた。彼はいつのまにか、涙を流していたのだ。
 彼は無言でハンカチを受け取り、目を押さえた。それから、やっとのことでこう答える。
「いえ……うれしいんです。親切にしてもらって」
 祖国を裏切り、男を殺し、女の子を殺し損なって刑務所に入り、そこからまた逃げだすという罪を重ねた自分が、こんなにやさしくしてもらえる資格などないはずなのに。彼女の親切な心に対してひどい裏切りをはたらいているような気がした。

 
 朝が来た。まだ霧は晴れてこない。
 孤児院の庭にバラが咲いていた。ブラックスミスはそれを見ながら、自宅の庭のバラを思いだした。あのバラたちは、家に主がいてもいなくても関係なく、去年と同じように今年もまたのんびり咲いているのだろうか。
 無意識のうちに、彼は花をひとつ手折っていた。それをじっと見つめる。そうだ、あのときもこうしてバラを見ながら、どうやって逃げようかと考えていたのだった。
 ふいにうしろから声をかけられた。
「おはようございまーす」
 振り向くと、アリスが元気な笑顔を見せている。ブラックスミスは一瞬ためらったのち、バラを彼女に差し出した。少しびっくりしたような表情をするアリス。
「すみません、とてもきれいだったからつい、これ……その、誕生日のお祝いに……」
「わ、ありがとうございますー」
 受け取って恥ずかしそうに頬を染め、微笑む彼女。
「あ……あれ……なんだか」
 アリスは首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「まえにも似たようなことがあったような。えーと、ああ、そういえば……何ヶ月前かな……もう一年近く前に、病院の玄関にバラが置いてあったんですよ。そう、ちょうどこんな色合いの」
 アリスはやさしいまなざしでバラの花を見つめながら話を続ける。
「誰が置いていったんだろうって思ったんです。あれって、もしかしたら――」
 そのときキャロル先生の声が聞こえた。
「アリス、朝ごはんのしたく手伝ってちょうだーい」
「はあーい」
 アリスはバラを持ったまま、建物の中に消えた。ひとり庭に残ったブラックスミスは、もう一度色とりどりのバラを眺めながら、小さな幸せを感じていた。彼女は、あの日もバラを受け取ってくれた。そして、一年近く経つのにそのことを覚えていてくれたのだ。ただそれだけのことだったが、でも……。
 日が高く昇らないうちに出かけよう。ここに長くいると、決心が鈍ってしまいそうだ。
 朝食の後、彼はアリスに言った。
「新大陸に行きます。借金取りもそこまでは追いかけてこない」
「そうですか……遠くですね。そしたらもう、うちの病院にくることもないんですねえ」
 彼女が少し残念そうな顔をしているように見えたのは、気のせいだろうか。彼は思わずこう聞いた。
「……手紙を書いてもいいですか? 住所を教えてください」
「私、住み込みで働いてますから、病院宛で届きますよ」
 そのことを忘れていた。すると、手紙を出すのは危険な行為になるかもしれない。あの医師や、頭の回転の良さそうなもうひとりの看護婦に気づかれたら命取りだ。でも、それでもアリスに手紙を書きたいと彼は思った。
「それじゃ……もう出かけます。お世話になりました」
「気をつけて行ってくださいね。お手紙待ってますー。お元気で」
 最後まで、彼女の笑顔は彼にはまぶしすぎた。


 港で目的の船を見つけ、こっそり潜り込もうとしたブラックスミスは、結局、もう少しのところで乗船を果たせなかった。乗船待ちの人の列に並んでいたところ、列の傍を通ったひとりの男とふと目が合ってしまった。不運なことに、それは、彼が王立警察にとらえられ取り調べを受けたときに、何度となく見かけた顔だったのだ。
 たしか、レドなんとかという名前だった、と思い出したくもないことを思い出しながら、ブラックスミスは駆けだした。行列から離れ、歩行者の人混みの中に逃げ込もうとしたその時、追っ手の警官の非情な声が聞こえてきた。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ」
 しかし車も人も急には止まれない。銃声が響いた。そして人々の悲鳴も。


「別件で張り込んでいたらたまたま出くわすなんて、ラッキーでしたね、警部」
「そんなくだらんことを考える暇があったら一分一秒でも早く送り届けてこい、ホイットニー巡査部長。だがすぐ帰ってくるんだぞ。こっちの件も忙しいんだからな。二十分以内に戻れ」
「二十分では無理です。囚人の足のけがを考慮に入れてください」
「しかたがない、三十分にまけといてやる」
「ありがとうございます。では行ってきます」
 ブラックスミスは右足に包帯代わりのネクタイをきつく巻かれ、手錠で両手の自由を奪われた状態で、このやりとりを聞いていた。もはや、新大陸への希望は完全に消えた。巡査部長に促され、足を引きずりながら、待っている馬車までなんとか歩いて行く。
 馬車はゆっくり動き出した。
「足は痛むか?」
「あたりまえの事を聞くな」
「ああ、悪かった。まあ、そうだろうな、うん。けど、かすり傷だし、もちろんちゃんと医者に診せるから、もうしばらく我慢しててくれ」
 巡査部長は申し訳なさそうに言った。あの警部と違って、多少は感じのいいやつだ、とブラックスミスは思った。それとも単に話好きなのだろうか。
「しかしおまえさんにとっては、もう少しのところで、残念だったな。運が悪いというかなんというか」
「いや、そうでもないさ……」
 ブラックスミスはなぜか、あまり残念だとも思わなかった。自分にとってはすばらしい一晩を過ごせたのだ。自然に口元に笑みが浮かぶ。
 それを見て、巡査部長は不思議そうな顔をしたが、それきりなにも言わなかった。
 明るくなった町を、馬車は軽快に駆け抜けて行った。





おしまい

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