And others 25(Part 2)

Contributor/しゃんぐさん
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P a r t : 2



 割と広い廊下を、メイドさんに連れられていく。ちなみに、怪盗姉妹ではない。
ポニーテールというのだろうか、そう言う髪型で肌の色素の薄い少女だった。
 途中で、最初に招かれた部屋をちらっと見たが、誰もいなかった。いや。
最初から倒れていた男は倒れたままだった。
死んではいないと思うのだが、生き返る様子もない。
 メイドが掛けたのだろうか、毛布が乗っている。何処か哀愁が漂っていた。
 まあ、関係のないことだ。
「奥様がお待ちです」
「はあ…」
「ご帰宅される場合、もしくはコールロイ様に返答をされたい場合は、私か、近くの者に言ってくださいませ」
 そこは数十人は収容できるであろう広間だった。
待合室だろうか、ソファとテーブルが何組も点在し、四方の壁を絵や彫像などが飾られている。
 調度品はどれも絢爛豪華な値打ちものだった。
古代遺跡の発掘品、名のありそうな画家の絵、モダン彫刻、コールロイ直筆のポエム、
果ては伊万里焼きに豚の皮袋で作ったいかだなどなどバラエティに富んだ品々 が、見るものを飽きさせない。
……多分に節操はないが。
 待合室には三人の女性だけがいた。他の客はパーティー会場にいるらしい。
 三人とも、自分が入ってきた入り口近くのテーブルで、仲良く紅茶をしばいている。
 と、女性のうちの一人が、メイドに案内された自分を見つけた。
「終わったようね。怪盗しょげ宇宙」
「しょげ宇宙って……そっちこそ、まだいたのか、夕方と夜明けDOWN DAWN
「あ、それいいですね」 と銀髪ノッポのメイド服。
「そぉお?」 と、これは灰髪の小さい方。
「韻を踏んでいますね」
これは、三人目の女性から。コロコロと鈴を転がしたようなかわいらしい声。
 三人目の女性は腰まで伸びた金髪の貴婦人だった。
 年はやはり自分と同じぐらい。薄い顔立ちで幼く見えるのに、ここにいる誰よりも落ち着いた雰囲気を醸している。
流石、既婚者と言うところだろうか。
「お連れしました」
 機先をすかされて出遅れたメイドが、ここで挨拶をした。
「ご苦労様。それと、こちらの方と私たちに新しいお茶をお願いできるかしら」
「かしこまりました」
 会釈をしてメイドはテーブルの上のティーセットを片付ける。
 それをよそ目に金髪の女性は、
「こちらへどうぞ」 と微笑む。
 振る舞いは上品だが、微笑み方にどこか愛嬌のある素朴な女性だ。
 あの人なら、「好みのタイプだ」 とでも言うだろうか。
「いえ、お気づかい無く……」
「毒なんて入ってないわよ」
「お、お姉ちゃん! 失礼よ」
 誰に対してだろうか。
 おろおろとする妹君には悪いが、姉の言葉は正しかった。
 この状況では、睡眠薬ぐらいは盛られてもおかしくない。

 時間は少し前に戻る。


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「どうだね、我等がPTAの偉力の一端に触れた感想は」
「いや……あれ毎日練習してんのか?」
「無論だ」
「ひとりトチってた奴いたよな」
「あいつはクビだ」
「……」
 どれだけ人生がどん底に転がっていても、んな理由で解雇にされるのだけはイヤだな、と思った。
「つまり、あんたらは怪盗の同業組合だと」
「その通りだ」
「で、組合に断りを入れずに泥棒をするモグリの怪盗に制裁を与えようと」
 流石に北の国は違う。犯罪にすら既得権が存在するらしい。
「勘違いされては困るな」
 と、コールロイが渋い顔で責めた。
「君、怪盗は美と人を愛す者、ただのコソ泥とは違うのだよ」
「まあ怪しい盗っ人だしな」
「……PTAは、特定のパトロンもいなければ、マフィアお抱えの組織でもない」
 コールロイは机をこつこつと、「縄張りもないしな」 聞かれてもいないことをのたまっている。
「あくまでも怪盗の怪盗による怪盗のための互助組合。
同じ志を持つ者同士、仲良くしようじゃないかと結成された組織だ。
独占権や縄張りを主張するためではないのだ。
――かく言う私自身も組合の長と言う立場であると同時、ただの怪盗でもある」
「嘘だな」
 断言すると、コールロイは少し面食らった様子で眉を上げた。
 言葉の意味を探るようにこちらを睨み、不敵に笑う。
「良く見抜いたな。左様、私は長ではない」
「イヤ、そうじゃなくて……てかそんなのはどうでもいいから」
「……なんだね」
「さっき、あんたは首だって言った。組合の癖に上下関係があるって事だろ?
少なくとも、“仲良く”なんてのはおかしいよな」
 と、そこまで言ったとたんコールロイが怪訝そうに、
「いや、いかんせんさっきの奴らはただのアルバイトなのだが。
……なぜそこで頭を抱えるのだ?」
「バイトかよ! 雇うなよそんなもん!!」
 アクワイは、こめかみを押さえて「あのなあ」 子供によく言い聞かせるかのように。
「……じゃあ何か、ただの一般人集めて珍妙な衣装を着させてあんな糞たわけた口上垂れさせたってのか?」
「名実共にその通りだが……何か気に病むことでも?」
「病んでのはあんたの頭だっ! あ〜もう、最初のオチで帰ればよかった。
引き際を間違えると最初のギャグにまでケチがついてくる」
「君はどこの芸人かね」
「るさいっ、とにかく帰るからな。
制裁くわえたりパテント料せしめる気もないってんなら、それこそここに残る意味なんて無いだろ?」
 帰りたい、いっそ故郷に帰りたい、こんな島国のことなど何もかも忘れて一日中当たらない天気予報でもしていたい。
「君は何かを忘れてはいないかね」
 机をさらにこつこつと叩く。
 その机の引き出しには――
「――貰っておいてそれだけでいいというのなら、構わんが……
はて、君のおつかいは私にガラス玉を献上することだったのかね?」
「回りくどい」
 計画が失敗している以上、最も重視されるのは自己の安全である。
資本的損失、機密の保持を天秤に絡めるまでもなく、だ。
 既に思考は「いかにして、この館から逃げ切るか」 に切り替わっていた。
「逃げるのであれば、くれぐれもパーティーは荒らさないでくれたまえ。
 彼らは、いわゆるカタギの者たちなのでな」
 くつくつと笑いながら、コールロイはケースを取り出した。
「何なら、この石に見合った報酬を払っても良い」
「本物の値段をか?」
「今では、これが本物だよ」
 ケースを撫でる。手つきがねちっこい。
 確かに本物がない以上、誰も本物を知ることはないが、それではまるっきり悪党の台詞だ。
腹の裡で呆れ果ていると、またもやケースを引き出しに戻した。
 何がしたいのだかサッパリわからない。
「何がしたいんだあんた」
「単刀直入に言おう、PTAに入らないか」
「断る」
「……もう少し考えてみてはくれんかね」
 数秒考えた。
「断る」
「君、面白いなぁ」
 コールロイは感心したそぶりで、首を小刻みに振る。
「一応説明するが、我等が組合に入れば怪盗同士、横のつながりを持てる。
街の財宝や美術品に至るまで絶えず最新の情報を入手できるし、
同時にどの怪盗がどのお宝を狙っているのかも知ることができる」
「なるほど、怪盗同士のダブルブッキングが防げるってわけだ」
「左様、さらに情報の売買も可能だ。
名のある貴族、商人であれば、資産、屋敷の見取り図、警備状況や、タバコの銘柄からパンツの柄まで売買している。
無論、直接その屋敷に入った者にコンタクトをとることも可能だ」
「また、割安ではあるが、盗品の買い取りも行っているし、慰安旅行もある」
「至れり尽くせりだな、」 呆れる。「ってか慰安旅行?」
「この前は温泉旅行だったな。火山島だ」 言った息の続きで「まあ」 と呟き、
「それ故PTAに入りたいという怪盗諸氏は後を絶たなくてね。先ほどの彼女たちもその類だ」
 自慢げに、顎をさする。
……なるほどね。
「なにか、条件があるのか」
「入会金は無料だ。怪盗に必要なのはただ二つ、」
 一息おいた。どうでもいいが、いちいち余計な演出が多い。
「矜持と実力だ。君“たち”はそれらの点でスカウトに値するほどの逸材なのだよ
――孤独な大宇宙ロンリー・マクロコズム


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「矜持もへったくれもあったもんじゃないわよ」
 小さい方の姉妹怪盗が、両脇の髪を揺らしてタンドリーチキンを頬張る。
 “奥方様”がメイドに一声かけて、パーティー会場の料理を持ってこさせたのだ。
「よく食べるなぁ」
「毒なんて入っちゃいないわよ」
「まあ、そりゃそうなんだろうけどな」
 だからといって、食欲が湧くわけでもない。
「こんな臆病者のひょろくてみすぼらしい男に負けるなんてっ、くぬっくぬっ」
 と、チキンに八つ当たりするかのように、むさぼり喰らう。
「お姉ちゃん、行儀悪い〜」
 そう言いながらも、妹は姉の食事を止めることはない。
飯を元気よく食べる子犬を見るかのような目で、見守るというか観察している。
「いいのよ、せめて食べないとやってられないわっ。
こんなごちそう、いつ食べられるか分ったもんじゃないんだから」
 チキンは別にごちそうでも無かろうが。
「もうあきらめるのか、会員入り」
「うるさいわね。ぐねった(捻挫のこと)足が痛くて動けないの」
 確かに、怪盗(姉) は足が痛いのか、先ほどから椅子を立ち上がろうともしない。
メイド服のスカートから覗く細い足首に、包帯が巻いてあり痛々しい。
 チキンのかけらが飛んだ。
「あんたこそどうなのよ。
あんたらが辞退してくれたらこっちは繰り上がりで入会できるんだからね」
「繰り上がり、ねぇ……」
 独自にPTAの存在をつきとめ入会を申し出た怪盗姉妹。しかしコールロイは彼女たちを資格不十分と判定した。
矜持はさておき実力――実績が規定の水準に達していないのだそうな。
 ならば実力を証明すると彼女はコールロイに審査を挑んだのだが……
「なんでもですねぇ」 と、答えたのはノッポの妹の方。
「毎年スカウト枠というのがありまして、今期はあなた方が選ばれたていたんですよね〜」
 間延びした喋り口調が、いかにもとろい印象を植え付けてくる。
 秘密結社の性質を持つPTAは、公に組合員を募集していない。
誰かの推薦、あるいは組合が候補者を選定してスカウトをするのが主だという。
 スカウトの基準は世間の認知度や実力と矜持だそうで、
幸か不幸か今期最も輝いていた怪盗は、怪盗ロンリネス大宇宙なのだった。
「今年は怪盗の当たり年でして〜」
「腹壊しそうだな」
「その下が私たちなんですよね〜」
「んで、あんた達二人が俺を倒して実力を示せばスカウト枠が繰り上がると」
「違いますですよ」 やんわり否定する妹。
「この場合の私は、お姉ちゃんと自分の二人のことを指します。ですから私たちというのは、」
 ……なるほど。
「他のルーキーも狙っているのか、俺を」
「そういうことです〜。ちなみに、早い者勝ちでアナタを屈服させるのがスカウト枠の変更の条件です」
「……もしかして、部屋で延びていたのもそいつか?」
「ああ、【大吟醸】ね」
 怪盗(姉)がフォークをぴこぴこさせた。
「待ち伏せの場所譲らないから、したんだけど。
てんで弱いんでやんの。多分ここに来た中で一番弱かったんじゃない?」
「……まて、いったい何人、と言うか何組来てるんだ?」
「説明しましょうか?」
「頼む」 と、頷くと。怪盗(妹) も頷いて胸からメモ帳を取り出した。お日様の形のメモ帳だった。
開いて、読み上げようとして、こちらの視線に気づいた。
「ランキング表です」
「左様で」
「まず、一位が怪盗【ロンリネス大宇宙】 です。その下が……えっと、【私たち】 です」
 さすがに【好き好き〜】 は言いたくないらしい。
「その次が、【パンドラ】【渇食色イート・イート・イート】【アンビリカブル・ストレート】【黒い翼アラノクス】【ノーリスク・ハイリターン】【万手観音アール・アール・アーム一首観音エンド・プレイヤー双子観音ダブルドアーズ】【ソニア俺が悪かった帰ってきておくれ仮面】【L・グレイ】【怪盗記念日。】【斬新】【ブルー・スカーレット】【神曲地獄コキュートス】【トレンドマイケル】【大吟醸バカシーズ】……」
「ま、待て待て。それ全部来てるのか?」
 何個か聞いたことある名が出たが、大半が初耳だった。
「んなわけないっしょ。馬鹿じゃないの」
 なぜかふんぞり返って罵る怪盗(姉)。それを軽快に無視して、
「来てるやつだけ頼む」
「こちらに見えているのは、五組だけですね。【私たち】 と、【大吟醸】。そして、【双子観音】【パンドラ】【コキュートス】 です」
 あと、三組か。多すぎる。
「何かアドバイスあるか?」
「な、何であたしがあんたを助けないといけないのよ」
 怪盗(姉) がツーテールを振り乱してがなる。
「俺がやられたら困るだろ?」
「う……」 それはそうだけどと、小さく呟く声。
「お姉ちゃん?」
「言ってあげて」 がっくりとうなだれて、姉は椅子に座り込んだ。
「勘違いするんじゃないわよ。私があんたに勝つまで生きていて貰わないと困るから……」
「いやいや、計算の高さに恐れ入ってるさ」
 少々以外だったが、と腹の裡で呟く。
見た目に反してプライドよりも実利を選ぶらしい。
 妹が、それを見て難しげに顔を歪めた。
「……パンドラは戦闘面の実力はないそうなので気を付ける必要がありません。
彼女は、別名“悪趣味な怪盗” と呼ばれていて」
「ああ、いや。そいつは知っている。他の頼む」
 なんだ、やっぱり知ってるんじゃないのとか言う怪盗(姉) のヤジが飛んだ。
「気を付けなければ行けないのは残りの二人ですね」
【ダブルドアーズ】 と【コキュートス】 か。
「彼らは二組とも武闘派の怪盗です。【ダブルドアーズ】 は、ご兄弟のような名前ですが、赤の他人同士のコンビです。
昔からよく“つるんで”いたそうでして、ファミリーネームが一緒なせいか兄弟ですかって聞かれることが多く、
ならいっそ兄弟にしてしまえみたいなノリだったそうです」
「そうですか」 としか言いようがない。
「彼らは、私たちと違って頭脳メインと労働メインにきっちり分担していて、
労働担当の方、【万手】さんは元とび職のナイフと柔術の使い手です」
 これで二人減ったなと、イメージの人影に×を付けるアクワイ。
ナイフの使い手ぐらいなら、なんとかできそうだった。
「ですが、まあこれも気にしないで良いかと思われます」
 その皮算用をご破算にするかのように、怪盗(妹) は続けた。
「問題は、【神曲地獄コキュートス】 です」
 一際重い声がのしかかる。
「彼は、別名【暗殺怪盗】 とも呼ばれています。その実、暗殺者だそうですが」
「暗殺者……だって?」
「はい、地獄の最下層コキュートスの異名通り、獲物がどれだけ奥に潜もうとも、必ず辿り着いて仕留める
――本物の殺し屋です」
「なんでそれが」 怪盗なんだ。と聞こうとしたが、その質問は予想済みだったらしい。
「殺すついでに、物を盗むのですよ」
「首でも盗むって言うのか?」 冗談めかして尋ねる。
「いえ……そこは普通に金品ですけど。まあ、だから下位に属しているわけでもありますです。
戦闘能力的には私たちよりもよっぽど上のはずなのですが、矜持が足りないとかで、」
――そういうものなのだろう。
「で、そいつらが揃いも揃って俺をなぶり殺しに来ると」
 なんてくだらない。
「矜持ってのが足りない言われているやつが実力で俺を殺しても……意味ないだろうに」
「でも、コールロイさんは、そうは考えていないみたいですよ」
 アクワイが、怪盗(妹) にふと疑問を感じて振り向く。とたん、
「なぁにが、矜持と実力よ〜!!」
 黙って聞いていた怪盗(姉) が雄叫びを上げた。どうやら、「矜持と実力」 と言う言葉が物凄く不快らしい。
「同感だな」
 と、

くすくすと笑い声がした。

 隣のテーブルで、奥方と呼ばれていた人が微かに笑っていた。
忘れていたが、さっきからいたのだ。
 小馬鹿にされているような、でも全然不快ではない子供っぽい笑い方で、それがアクワイにはこそばゆい。
「奥方様――ですよね」
 なぜか、自信なさげに怪盗(妹)。
「一緒に居たんじゃないのか?」
「そうですけど」
 怪盗姉妹は、何故かそこで顔を見合わせた。アクワイをじっと見て。
「なんだその反応」
「別に」「特に」


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 怪盗姉妹が調度品を見て、あぁこの飾ってる豚革のイカダすごいわねぇ中国奥地で川を渡るのに使われてるのエアボートだそうよお姉ちゃんへぇそうなの北京ダックみたいでおいしそうよねお姉ちゃん食べれないよぉとかそんなことを言い合っている間、アクワイは奥方の向かいに座っていた。
 奥方はアクワイに解るほど美人で、でもどこか可愛いらしくて、だから居心地が悪い。
彼の好みのタイプに近いのだ。
「果物なら食べるかしら?」
「いえ、おかまいなく……」
 断りを入れる横で既に奥方はリンゴにナイフを傾けていた。
 三人が、珍しいものを見るようにそれを観察していると、奥方は視線に気づいて、
「あら、私みたいなのがリンゴを剥いたら駄目?」
「い、いえ」 あわてて怪盗(妹)。
「これでも昔は自分で料理をしていましたのよ」
 奥方は、また微笑んで、視線を落とす。
「それって……」 怪盗(姉)が言いよどむ。
「お構いなく。たしかに、私は王族の血こそ流れていますが、貴族の出ではありません。
家政婦の方々と生活するにはほど遠い身分の生まれでした」
 王族か。あまりいい響きじゃないなあと思うアクワイ。
「いいなあ、玉の輿」
 失礼な怪盗(姉)の発言に、奥方は曖昧な笑みを零して。
「当人はいろいろ窮屈な思いをしていますのよ。これだって……」
 そう言ってナイフの刃に親指に添え、リンゴを回した。
 慣れた手つきだった、薄いリンゴの皮が均一の長さと幅で向けていく。
「覚えているモノね。普段は皮を剥いて切り揃えられたのしか出ませんのよ。ね、どう思われます?」
「楽でいいじゃないですか」
 正直に、思いついたままを言った。
「私にはなんだか身分不相応な気はするんだけど」
 そう言う間にも、リンゴの皮がスルスルと帯をほどくようにむけていく。
「身分なんて慣れと覚悟です」
 リンゴを剥く手が止まる。視線を上げると、彼女は「どういうこと?」 といった顔でこちらを見つめていた。
 聞き返されるとは思っても見なかったので、焦る。
 なんとなく言ってはみたものの、続きの言葉を用意していなかった。
「あ〜、えっと。自分は見たまんま異国の者で、だから言えるんだけど。
身分の違いなんてのは、文化の違いとさして変わりゃしません。
必要なのは相応不相応とかじゃなくて、その生き方を日常と思いこむ純粋さと決意だと俺は思います、よ」
「まあ」 彼女はリンゴをおいて、手を合わせ、
――なぜか、笑われた。
 声はあくまで奥ゆかしいが、いままでの彼女の振る舞いから察するに「爆笑」 のクラスと言っても良いだろう。
「え、そんなにおかしかったか?」
 気分を害すると言うよりも、気恥ずかしくなって尋ねる。
「ごめんなさい。馬鹿みたいに笑っちゃって……」
 よく見ると、目に涙を溜めていた。
「アナタに、そんな風に言っていただけるなんて……思ってもみませんでしたわ」
 そこまでおかしかっただろうか。


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 八分割して角取り去れたリンゴを凝視する。
「せっかく励ましていただいたことですし、今度は私が相談を承りますわ」
 なにがせっかくなのだか知らないが、そう言う彼女の言葉には有無を言わせぬ迫力が感じられた。
「そうだなぁ……」 リンゴをフォークで刺して、口に入れる。
「決めかねて?」
「いや、正直な話……どうにも胡散臭くて」
 えらく甘いリンゴだった。貴族の食べ物は一般的な物まで品が良いらしい。
「PTAに不信があると?」
「矜持と実力でしたっけ。あいにく、俺はそんなもの信じていませんから」
「……ふ、弱い犬ほどすぐ吠える」
と、怪盗(姉)。スパゲティを頬張りながら器用に笑った。
「うるせ。だいたい悪党に矜持もへったくれもあったもんじゃないだろうが」
 その言葉に、怪盗(姉)がテーブルを叩いた。
「怪盗を悪党呼ばわりしないで!」
 アクワイは動じなかった。
「法に触れるような迷惑行為をする輩らは、すべからく悪党ってんだよ。
美学や人気があろうと、やってることはただの不法侵入と窃盗だろうが」
「あ、あんただって、その悪党でしょうが」
「そうだよ、悪かったな」
「そうよ、あんたが悪……いややや、だから悪くないのっ……ああもーなにがなんだか」
 頭を抱える怪盗(姉)。
 ややあって考えるのを諦め、パスタをがっつく怪盗(姉)。
 喉を詰まらせムせる怪盗(姉)。慌てて水をつぐ怪盗(妹)。
「でも」
 不意に奥方が口を挟んだ。
「少なくともアナタが盗みを働いたことで救われた方がいたのではないですか?」
 気が抜けた絶妙のタイミングだったからか、その言葉は心の芯にまで響いた。
「……不幸になった人間もいますけどね」
 そもそも、自分がやった仕事は怪盗の領分と言えるのだろうか。
 金にならない物を盗み、金目の物を盗んでもあっさりと手放し灰にしたり。
 あの人のやり口には毎度感心させられるが、いささか派手で手段を選ばないところが玉に瑕だ。
「……あんな義賊まがいのことばかりやるなら、確かに笑えた組織ではありますけど」
「けど?」
 立ちあがる。結局一口しか食わなかったが、リンゴはとても美味しかった。
 苦笑する。
(まあ、ここで言うコトでもないんだろうな)
 しばらく悩んでから、結局、別の言葉を選んだ。
「あいにく、怪盗も矜持もこっちが本業じゃありませんから」
 肩をすくめる。


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 バルコニーの手すりは夜露に濡れている。
 外は霧雨の幕が降りていた。
 夜風に吹き付けられる雨霞が頬のほてりに染みる。
 この手すりを飛び越えて、二階の高さから庭へと落下すれば容易に外へ通じる塀へとたどり着く。
 こんなところにいても、誰も何も言って来ない。
 どうやら本当に逃げたとしても不問にするつもりらしい。
 外は虫の音もなく、静かだった。
 廊下まで響く音楽の喧噪が、冷気に混じる熱のように夜の静寂へと放射されていく。
 今日の晩ご飯は抜きだなと、丘の方を見上げて苦笑する。
 日が落ちるまでに帰らないと飯抜き、と言うのが寝泊まりさせて貰っている教会のルールだった。
「姉はいいのか?」
「はい〜食いつぶれていますわ〜」
 怪盗(妹)が窓を抜けてくる。
見事な抜き足で忍び寄って来ていたが、建物から伸びた影だけは誤魔化しようもなかった。
「ここは静かですね〜」
「そうだな」
「ディナ様のご趣味はどれもこれも素晴らしいですけど、これだけは悪癖なのですよね」
 くすりと、ささやかな笑い声。
 どこか大人びている様で、やはり幼い。
 湿気を帯びてか、腰まで伸びた銀髪もどこか重たげだ。
「メイド……ずいぶん、堂に入っていたみたいだが」
「もともと私たち姉妹はメイドでしたから〜。変装にはよく使うのですよ」
 また笑う。今度は苦笑だった。
「何の用だ? あんたも、俺に断って欲しいのか?」
「わたしはそれほど、気にしていませんけど〜。どうせ実績を積めばそのうち入れるわけですし」
 それは、そうか。
「姉は急いでいるみたいだな」
「お姉ちゃんは、不安なのですよ」
「不安」
「私たち姉妹は怪盗って言う道を選んでしまいましたから〜。こんなところで蹴躓けつまずいてなんていられないのですよ」
「なんでそんな道……ってのは野暮なんだろうな」
 自分も褒められた生まれではない。
 名も無き部落で、生まれながらに暗殺者として育った自分が、曲がりなりにも望んだ職に就けていたのは、
……僥倖と言うしかない。
「そう言わずに、聞いてくださいよ〜」
「いいけど、相槌は打たないぞ」
「構いませんわ〜」
 そうまで言われては、仕方がない。黙って聞くことにする。
 幸い、ひどい話には慣れていた。

 やがて、彼女はゆっくりと身の上を語った。
 ただ事実だけを淡々と。だけど、それが故に生々しい。
 レコードの騒音を背に霧雨のスクリーンに映しだされた物語は、
ありきたりで、つまらないものだった。

「……それで奴隷から一転、マフィアまがいの貴族に飼われることとなった私達姉妹は、
その貴族の没落に至るまで戦うメイドさんとして働くことになったというわけですよ〜」
 戦うメイドさんと言う単語はなんとも滑稽だが、その実を想像すればなんら場の空気を和らげてはくれない。
「わたしは、物心が付いたころには既に“そう言う生活”でしたから、それほど大変じゃなかったんですけどぉ、
今思うと酷い話だなあって思いますね〜」
 それは自分にもよく分る。普通の人間は、子供のころから死を伴うような戦闘訓練はしないのだ。
 それが異常だと知っているのも、逆に日常だと思えてしまえるのも、どちらともが絶望的につらい。
 良く知っていた。
 同情は禁じ得ない。が、お互いにそれを求めているわけではないことは良く知っている。
身の上を話す人間が、理解して貰いたいモノ。
 それは、覚悟だ。
 あのとき不幸だったからこれからは絶対に幸福になってやる、その覚悟を宣言したいのだ。
――と、アクワイの師匠は言っていた。


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「話は終わったようだな」
「はい」
 ならまあいいやと外を向く。雨は少し激しさを増してきていた。
 屋根の問いを伝う水が、限界を越えたのかそこかしこから漏れている。
「まだ何か用か?」
「え、ええ。はい。これ以上お姉ちゃんを困らせないで欲しいのです」
「PTAに入るなってことか」
「いえ、そういうわけはありませんけど」
 屋根の上から人が転げ落ちてきた。そのまま庭に落ちて動かない。
 しばらくして。
 庭から男が転がるように飛び出してきた。落ちた男を引きずって館へ引き込む。
「あれが、双子観音か。大したこと無かったな」
「私たちよりランクが下ですしね」
 にべも無い口調で、言い放つ(妹)。
「お姉ちゃんは、私を守るためだけに人生の全てを費やしてしまったのです。
けど私は……そのことに気づけなかったのですよ」
 正直。その結論があっているのか間違っているのかは推測できない。
 だが、自分が見た怪盗(姉) は、確かにその手の意志の強さ、
――何が何でも妹を守り抜き、姉妹二人で幸せに生きてやると言った決意が見えた。
 彼女の強さは、その決意に寄るところが多い。
 だが妹は、そんな姉の心労・決意を充分に解れてなくて、罪悪感を持っている様子だった。
 プライドを捨ててまで、実利、
――たとえば漁夫の利を得るためにアクワイに怪盗の情報をリークする。
怪盗(姉) がそれを選択したときに(妹)が見せていた気むずかしい表情を思い出す。
 また苦しい思いをさせてしまっている。
 また力になれない。
 そう言う表情。
「で、それがなんで怪盗なんてやってるんだ?」
「……本当に悪の巣窟だったんですよ。何かが盗まれてもおおっぴらに被害届も出せないような。
ですから泥棒さんも詐欺師さんもほうぼうから危険を承知でやってきましたし、
時には御主――元主人の悪行を白日の下にさらしてやる、なんて正義のヒトも来たりしました」
 そのことごとくを、彼女ら姉妹が撃退し、闇に葬ったわけである。
 それがどれほどに罪深いことコトなのか……姉は理解していて、妹は気付きもしなかったのかもしれない。
「馬鹿みたいな話なんですけど……元主人が失墜して、その騒ぎに紛れるように逃げた私達に残ったのは、
メイドの仕事と、戦い方の知識と、どうすれば詐欺や泥棒が捕まえられるかと言う知識だけでした」
 どうすれば捕まるかという知識は、逆に何に気を付ければ盗みが成功するかと言う知識でもある。
 確かに馬鹿みたいな話だ。
ミイラ取りがミイラならぬ、ミイラがミイラ取りになったわけである。
 うつむいた彼女の表情は逆光のためか、暗く読み取りにくい。
 自嘲的にさらりと言っているが、その実どんな感情が渦巻いているのだろうか。
「……女中の仕事をすれば良かったんじゃないのか」
「それじゃ意味がありませんからね〜」
 嫌悪めいた言い方。同じ仕事はもう嫌だと言うことだろうか。
「すまん、どうも俺はその辺のデリカシーに欠けているらしい」
「いえいえ。それに、素性の知れないメイドを雇ってくれる人も、登録してくれる組合もありませんからね」
 なるほど……ね。
「怪盗と言う生き方を選んだのは、お姉ちゃんです。私も最初はとまどいましたけど、」
「そりゃまあ、とまどうだろうなぁ」
 なんとなく同情する。
「……けど、お姉ちゃんがその生き方を望むのなら、私はそれを信じたいと思っています。
信じて、ついていきたい。叶うなら助けて支えて護ってあげたい」
 正面を向いたので表情が読み取れる。微笑んでいた。
「ですから、私はお姉ちゃんを困らせる存在を許しません」
 但し、その目は雨よりも冷たい。


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「もし傷つけたら、屋根から落とすか? さっきの奴みたいに」
「ええ」
 今のデモンストレーションで勘付いたわけではないが、
――怪盗(妹) が姉以上に一筋縄ではいかない相手だと言うことは、ある程度予想ができていた。
(妹だけ、あの後も走り回っていたしな)
 捻挫をしていないのではなく、捻挫に対する耐性が強いのだろう。
 嫌々訓練を積む者と、それが当然と思って訓練を積む者とではその習熟度に大きな差が出る。
 天才は環境がつくる。地獄の沙汰の様な厳しい訓練も、まるで日常茶飯事のようにこなせば、
――その世界が平凡で当たり前で全てなのだと思いこめてしまえれば、
その人間こそがいつか天才と呼ばれる。
 物心が付いた頃には「戦うメイド」 だった彼女が、姉以上に優れていたとしても、なんら不思議ではないのだろう。
 純粋であることは、ただそれだけで強さだ。
逆に姉の方は常識を知っている分、強くなるのに何らかの意志と無理が必要だった。
「……それだけの強さがあるのに、姉の幸せだけを願っているわけだな」
「どれだけの強さがあっても、お姉ちゃんを守るには全然足りませんから」
 言うだけ言って、怪盗(妹) は館の中へと去っていった。
 残されたアクワイは、することもなくボンヤリと口を開いている。
 霧雨に濡れそぼった髪をなんとなく後ろへく。
 去り際の踵をかえした彼女の一瞬の横顔――
――灯明のオレンジの輪郭が縁取った顔はどこまでも無表情だった。
 無表情で、無感情。まるで機械仕掛けの人形で、
笑顔さえ無理して覚えたかのような、
「やれやれ……」
 アクワイは、なんだかめんどくさくなって、苦笑する。
 クラッシックだったレコードの喧噪は、いつの間にかオペラの騒々しさに切り変わっていた。


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「まあ、ずぶ濡れではありませんか!」
「はあ、まあ」
 奥方が両手を合わせて驚くもんだから、恐縮してしまう。
 あれからずいぶんと雨に降られ、気づいたときには前髪が全部額に張り付いていた。
「奥様、こちらを」
 と、メイドがふわふわとしたタオルを差し出す。
 奥方がそのタオルを奪い取って頭にかぶせた。
 そのまま、アクワイの頭をわしわしと拭いて。
「あの……いったいどうして、こんなになるまで居られたのですの?」
 優しい手つきだった。
 思わず目を閉じながら、
「ええっと、途中から本降りになってきまして……」
「雨の中ずっといましたの?」
「いや、こんな濡れ鼠で建物に戻るのもどうかなって悩んでたら、メイドさんが血相変えて早く入れって……」
「まあ」 と聞こえたきり、奥方の呼吸が止まった。
 呆れているのだろうか。
 笑いをこらえているようにも思えるが。
「あらいやだ。驚いている場合ではございませんわ。すぐにお着替えを用意させませんと」
 気配が遠ざかる。
「ああ、着替えならメイドさんが自分の鞄から私服を取ってきてくれるって……」
「――私服って、君、こんなところにまでいつものボロきれライクな負け犬装束を持ってきたのかね」
 呆れ果てたと言った印象の声。
「はい?」
 良く通るアルトは、揶揄するように、
「まったく、君は何を着ても負け犬色に染みてくれるね。この衣装とてタダではないというのに……」
 突然の声にビックリしながらも、アクワイは慌てて顔を上げた。
――と言っても、タオルで何も見えなかったが。
 しかし声の主が誰なのかは解りすぎていた。
と言うか、いきなりこんな悪態をついてくる人など、この人ぐらいしかいない。
「濡れ鼠だねぇ。いや、濡れ犬かな?」
 タオルがまた動く。先ほどと同じく優しい手つきだった。
「すみません、せっかく買っていただいた衣装を。とんだ間抜けで」
「間抜けというか馬鹿だね」
「……はい」
「気に病むことでもあったのかい?」
「…いいえ」
「雨に打たれると、何もかもが、ばかばかしくなるよね」
「……そうですね」
「さぼるな。もう少し喋りたまえ」
「では、おそれながら言わせて頂きますが。
どうしたんですか、いままで傍観決め込んでいたクセに、いきなりこんなところで登場して御っ……いたっ」
わし――と、突如として心地の良かった手つきが荒くなってくる。
 わしわしと、まるで銅像でも磨くかのような手つきだ。
「いた、ちょ痛いですよ。てか、熱っ熱い?」
「大げさだねえ。君は毎回毎回」
「貴方がおおざっぱすぎるんですよ」
「おお、言うねえ」
「熱っ! 燃える、燃えますって!!」


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一通り拭き終わったらしく、タオル越しに主人は一息をついた。
「さて、僕が出てきたと言うことは分かっているね」
「幕引き、ですか」
 この人は、結局のところ転機にしか現われない。
「そういうことだね。
 物語の結末を呼び覚まし、二つ三つ金言を残して跡を晦む。
思えば、これこそが僕と呼ぶ星のあり方なのだろう。最近、富に思うよ」
「美味しいですねぇ、その役所」
 肝心なときに高みの見物なのが特に。
「答えは決まったのかい?」
「というか、貴方はPTAになんて言ったんですか? 最初に勧誘を受けたのでしょう」
 接触を図ったと言うべきかもしれないが。
「おや、僕の答えは知っているのだろう?」
「俺に任せるですか。でも結局それって」
 どのみち、ひとつの回答しか用意されていないのと変わりがない。
 この人なら、自分がどんな選択をするのか予測は付いていただろう。
 自分よりも先に。
 まったく、悩み損である。
「お戯れも結構ですが、そろそろ俺にとって身のある仕事が欲しいモノです」
「趣味が高じることもある。この都市はすべからく霧で繋がっているのさ」
 こんなのが巡り巡ってあの人を護ることに繋がって欲しくはないなあ、と思いつつ、苦笑した。
 気配だけだが、目の前の人物もくすりと笑った様子だった。
「さて、では答えを聞こうか?」
「……俺に答えなんて偉ぶったのは用意できませんが。そうっすね」
 自分がない人間でも。
 いつも最善の答えは、そこに用意されている。
「――昔、あるところに三人の旅人がいました……」


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「旅人たちは、心の優しい少女と、少女のお姉さんと、一人の愚か者でした。
彼女らは旅人だから旅をします。目的地は遠く西に渡ったというキャラバンでした。
 旅人たちは群れからはぐれた漂い人だったのです……」
 それは、暗殺者がただの負け犬になる物語。
 思い出は書物のように、陽の光を浴びては色褪せていくもので、
正直、アクワイはその昔話の大部分を忘れているが、
「それは、そんな旅人たちの物語。その、ひとかけら」
 その10日にも及ばない冒険の数々は、今もなお、アクワイの選択肢の礎となっている。
「ある夕日、旅人たちはとても貧しい集落で羽を休め、一夜を過ごすことになりました。
 旅人たちはご飯も出ないと言う宿を一晩借りてから、夕飯を買うために市場いちばへと出かけます。
 貧しい集落に市場なんて場所はありませんでしたが、ようやく一件、質素なパンを売る屋台を見つけました。
 旅人達は急ぎ足でその屋台へと向かいます。すると、そこに――」
「そこに?」
 声音がいつの間にか違う。
 物語に没頭していたアクワイは、タオルを肩にかけ直して、続きを聞きた気な顔の奥方に苦い笑みを見せる。
「そこにひとりの乞食があらわれ、しわがれた弱々しい声で、旅人達にこう言いました」

『旅人よ、頼むからあの店でパンを買わないでおくれ』

「まあ、食中毒でもあったのでしょうか?」
「……と、心優しくもどこか間の抜けている少女も尋ねました」
 そういえば、奥方はなんとなく雰囲気が似ているな。
「で、老人は違うそうではないと首を振って、少しためらってから事情を説明しました」

『あのパン屋は、パンが売れ残ると余りを恵んでくれるのだ。
 他の店は、この貧しい時勢のおかげで、余り物はおろか傷んで売り物にならない物ですら恵んでくれない。
 あの店だけなのだ。頼む、頼むから……』

「なぜ他のお店は恵んであげませんの?」
 それは当然の疑問であったが、
「経営のことは貴方の方が詳しいかもしれませんが…
恵んだり安く売ったりするよりも、廃棄する方が将来的に儲けになるんです。
家に持って帰って食べても良いですし。
 商品を安く売ったり恵んだりするということは、それだけ定価で商品を売る可能性を潰すと言うことですから」
 どこかで得た知識を適当に披露する。
「パンはどれだけあったのかしら」 
「貧しい所でしたから、それほどは売っていません。
 というか、旅人目当てに一日数個を高値で売っているだけだったんです。
 その日、旅人達がパン屋の屋台の前に立ったときには、パンは三つだけしかありませんでした」
「それで、三人の旅人はパンを買いましたの?」
 お利口な聞き手さんよろしく、話を促してくれる奥方。
 気をよくして、アクワイは続きをとうとうと語る。
「まず、はじめにパンを手に取ったのは少女の姉でした。
 彼女は店先に立つなり、迷いもせずにパンを買いました」
「それは何故かしら」
「さあ。正直解りかねます」 苦笑。
 案の定、奥方は「もぉ」 と頬をふくらませた。
「それではお話になりませんですわ」
「そうですね。だから、話として創造で語るのなら……
少女の姉はどこまでも公平な目で見ることが出来る人間だった、と言うところでしょうか。
 彼女には、老人が一日パンを食べられなかったぐらいで飢え死ぬようには見えなかったし、
なにより老人が嘘をついているのも気づいていた」
「嘘……ですの?」
「嘘、と言うか事実を全部語らなかったというか。
 老人はそのとき、まだお金を持っていたし、パン屋の売れ残り以外にも食料を得る方法をいくつか知っていた。
 老人は自分を哀れに思わせるために、それを隠していた」
「まあ、でもそれは……」
「褒められたことではありませんが、当たり前の行動でしょうね」
 自分を一生懸命に見せて、なるべく同情を誘うのは悪いことではない。
 人間が生きのびるためには必須の知恵だろう。
 だけど、
「まあ本当は、パン屋の売り子に同情したんでしょうね。
 売り子――幸の薄そうなご婦人だったんですが、
彼女は老人が旅人にパンを買わないように頼んでいることに、薄々気づいていた。
 そして少女の姉は、その事実に気づいていた。
 だからあの人は、恩を仇で返すような老人の振る舞いに憤り、
健気にパンを売っていた売り子の不器用さを哀れんだのかもしれない」
 あの人は、いつもそうだ。
 誰が救われないのか、誰が報われていないのか。
 どれほど天秤が傾いていようと、常に公平な目でそれを見極めてしまう。
「その方は、自分の正義を歩んでおられるのですね」
「だからすぐ孤立しちゃうんですよ。言えばみんな納得するのに、器用で、でも不器用だから、
――自分さえ解っていればそれでなんでもできてしまうから、説明も弁解もしない。
たまにはね。ちょっとぐらい言い争えばいいんですよ」
 ため息をついて、笑いかける。
「あなたは、結局その方を信用しているのかしら?」
 不意に、なぜかどこか拗ねた様子で彼女は尋ねてきた。
 その様子が思いの外かわいらしかったので、少し目を丸くして上を向いた。
「……疑って疑って、疑い抜いたあげく、信頼しちゃうんですけどね。最後には」
 奥方は「まあ」 となにが嬉しいのやら手を叩いて喜んだ。

 と、ポニーテールのメイドが鞄を持ってきた。
「ありがとう。えっと、そっちの仕事はいいのか?」
 聞かれたメイドは、目を軽く開いてちょっと驚いた様子で、横を向いた。
調度品を見ながら。
「ええ、本当は今日のお仕事はおしまいです」
「帰る途中だったか。重ね重ねすまんな」
 礼を言ってボストンバッグを開き……少々迷ったあげく、外套だけ取り出す。
「ずいぶん年季が入ってますのね」
 と、これは奥方。
「ボロ雑巾とか、ボロ毛布とか言われますけどね」
 外套を羽織る。ずっしりと重い感覚が、酷く懐かしかった。
「まあ」 と、奥方は再び手を叩く。
「怪盗っぽいですか?」 
外套を払って、おどけた風に聞いてみる。
「さっきは負け犬なんて言われたんですけど」
「いえ……」
 奥方は首を振って、
「私には、なんだか魔法使いから姫を救う騎士様のように見えましたわ」
「どっちですか」
 アクワイはなんとなく、苦笑した。


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「んで、愚かでぼろぼろのマントをまとった負け犬さんは、パンを買ったわけ?」
「聞いていたのかよ……」
 ひときわ豪華な廊下に出たところで声が掛かった。
 アクワイは、外套に腕を入れて、間合いを計ってから、鼻で笑った。
「愚か者は愚かだから、普通にパンを買いました。
彼には老人に同情するほどの優しさなど、最初から持ち合わせていませんでした」
「それがあんたの答え?」
 怪盗(姉) の声が低いモノに変わる。
 背は小さいが、その姿はすばしっこい猫科の獣を連想させる。
 この廊下に出たと言うことは、すなわちこの館の主人に会いに再び応接間に戻ると言うことで、
そこにこの怪盗(姉) がいると言うことは。
「昔話だって。最後まで聞け」
 ぼやく。
「愚か者は、むしろパンが高すぎるので買わないでおこうかとさえ思っていました。
しかし、これ以上時間をかけてもろくな食料にありつけないと判断したため、結局、パンを買いました」
 ん? と、予想通り怪盗(姉) の表情が複雑そうなモノになる。
「何が言いたいのよ」
「別に。言っただろ、昔話だって」
 歩き出そうとする寸前で、怪盗(姉) は廊下に立ちはだかった。
「来年でもいいじゃないか。有望なんだろ」
「こんなところで蹴躓けつまずいていられないのよ!」
 叫んで、跳んだ。 灰髪のツーテールが水平に浮かぶ。
 なかなか堂に入った跳び蹴りだったが、アクワイも後ろに跳んでいたので、二人の距離は変わらない。
「実力も、矜持も知るもんか。わたしは何が何でもあんたをブチのめして、PTAに入ってやる!!」


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 不味いなと思った。
(この廊下じゃあれは使えないし、戦闘経験は多分どっこいどっこいだし)
 廊下は広すぎた。横幅は応接室より狭いが、いかんせん縦が長すぎる。
 先ほど勝てたのは、「狭い場所で相手の取り得る戦術を限定することで、相手の次の行動を予測をする」、
と言うアクワイの特技ゆえである。
 先読みが出来ないのであれば、屋敷の戦闘になれているであろう彼女に勝てる可能性は少ない。
(まともに勝てないなら、搦め手か……)
 外套に腕を入れる。が、その動作を彼女は待ってはくれなかった。
 吸った息を体内で破裂させたかのように、弾丸のような勢いで踏み込んでくる。
 伸ばした細い足をさらに踏み込み、跳んだ。
(って、速すぎっ)
 驚いた次の瞬間、跳び蹴りがアクワイの肺に突き刺さった。
「――っぐ」
 息が吐き出せない。だが、蹴り飛ばされた勢いを利用して後ろに跳ぶことには成功した。
間合いが再び開く。
 大きく息を吐き出し見上げると、相手は廊下の空を飛んでいた。
 滞空。メイド服がひらひらをはためかせて近づいて……
――タイミングを合わせて身を捻る。
 だが、彼女の方が一枚上手だった。
 見はからったように体を捻ったのが見える。
体が交差する瞬間を遅らせ、回し蹴りに切り替えたのだ。
 強烈な衝突力が肩に掛かって、体ごと壁へと持って行かれた。


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 左手を壁にたたきつけ、受け身をとる。
 激突の勢いを殺しきれぬまま、右腕を振るった。
 袖から飛び出た隠し武器――飛刀は、彼女の太股を掠めて、向かいの壁に突き刺さる。
「この――」 怪盗(姉) の目が血走る。
 焦りで出た蹴りを、アクワイは側転して避けた。
 再び間合いを取る。
「せ、攻め急いだな。飛び道具にでも驚いたか?」
 息苦しい。壁に激突したせいか、そこかしこが痛い。
肩を動かす度に激痛がする。
「良く喋れるわね。……別に驚きゃしないわよ。それぐらい」
 卑怯な敵には慣れているらしい。
 たたかうメイドの敵は、ずいぶんとダーティな奴らだったようだ。
「で、これは何よ?」
 彼女は、半眼で自分の胸元あたりを指さした。
 一見そこには何もないかのように見える。
 だが、彼女が言うからには見えているのだろう。
――廊下の壁と壁を渡された極細の糸が。
「……しまったぞ。背の低さを計算に入れてなかった」
「し、失礼ね! こんな高い所にかけたら妹だってひっかからないわよ!」
 それでも、糸をすぐに視認できたのは彼女の背が低いからである。
 一度気づけば簡単に見えるが、本来ならまず気づかないだろう。
 あの一瞬、受け身に紛れて糸の先端を廊下に打付け、
返す手で、もう一方の先端をくくりつけた飛刀を投げ、糸を張った。
 まあ、彼女の言うとおり転ばせる意図にしては飛刀を投げるポイントが高かったわけだが。
「あんたいったい何者よ。あのときは理不尽なぐらいに強かったし、今の暗器だって完璧。でも作戦はへっぽこ」
 糸の下をくぐりながらケチをつける怪盗(姉)。
 飛び越えるには高すぎるのだろう。
「……今、やっぱり背が低いなと思ってるでしょ」
「どんまい」
「やかましい!」
 叫ぶ怪盗(姉) が再度足を踏み込む。
捻挫は完全とは行かずとも、この戦いを左右しない程度には治っているらしい。
 アクワイはと言うと、彼女が糸をくぐり抜ける間に、二本、飛刀を抜き放っていた。
 その二本はやはり視認しがたい糸で結ばれている。
「タネがバレたのに、まだやるつもり?」
「ネタはここからだ。さっき、俺が理不尽に強かったって言ったよな」
 会話をすることだ。師匠――サックスと聖書を手に持ったおっさんが脳裏に登場した。
会話をすれば、呼吸が合う。呼吸が合えば、意表が突ける。
「実を言うと、あの強さはいろいろと条件があってだ――」
 こちらの話を聞くつもりがあるのか、彼女は糸を背中にしたまま動かない。
「一番わかりやすい条件は、狭い空間であると言うことだ。
ボクシングは見たことあるか? 某名探偵もやってるとか言う」
「それはベアナックル・ファイト」
 似たようなもんだ。
「まあ、どっちでも同じだ。両方とも、リングで試合をしてるだろ。
で、だ。俺の“強さ”とやらには、どうやらリングみたいに“移動できる場所が制限された空間”とかが必要みたいなんだよ」
「リング――って……え、まさか、それって」
 敵が前にいるというのに、彼女は目を見開いて背中の糸をちらと見た。
「どんなに広い場所でも、区切ることは出来る」
 飛刀を両手で背中からなげ打つ。
 糸は、アクワイの後ろで、
――ピン、と張られた。
「こんな風にな」


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 予測と言うモノは難しい。
 たとえば、紙飛行機を投げた。
 この紙飛行機は1の力を加えれば二回転回って南へ、2の力を加えればロールを撒いて東へ飛んだ。
 このときの飛び方の法則を難しい計測、算式を用いて表すことは可能だ。
 だが、それに意味はない。
 なぜなら、この紙飛行機は、1,1の力を加えれば北へ向いた瞬間にストンと墜落すると出るし、
1,05の力を加えれば西風に仰がれてどこまでも飛んでいくのだから。
 最初に加える力、与えられた情報の僅かな誤差で、飛ぶ方向が東西南北お構いなしに変化する。
 そんな紙飛行機の行き先を予測することは、無意味に等しい。
 「だいたいこのぐらいの力で投げれば、だいたいここら辺に飛ぶ」
そう言ったことが解らなければ予測に価値はないからだ。
 目分量の誤差でさえ結果が違うのでは、実生活においては何の役にもたたない。
 そして、実に世の中というモノは、紙飛行機のようだった。
どこに跳んでいくのかなど、当の紙飛行機すら解っていないだろう。
 世の中を形作る法則は複雑で乱雑で、誰のどんな行為がどこの誰に影響するかなんてわかったものではない。
 もう少し簡単に……ビリヤードの球ぐらいに簡単な物理法則だけで動いてくれないモノかと、常々思う。

 観察眼と、行動予測。この二つを利用した先読み――捕捉眼。
 この先読みが100%発動する条件はかなり限られている。
 だが、70%程度ならそう難しくない。
影響が多すぎて予測が複雑になるのなら、影響するものを区切って少なくすればいいのだ。
 3割で外れる予測に、たいした意味はないが、形勢五分ならそれに賭けてみるのは、
そう悪い賭ではない。


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 なんなの……
 彼女は戦慄していた。
 動きが読まれて……いいえ、そんな生半可なモノじゃない。
 動きが、アイツの一挙手一投足に引きずられるように……創られてしまう。
 まるで、詰みが確定したチェスのように……
 狭い場所での戦闘は、得意なはずだった。
 なのに、なによこれは……
 アイツが右に動く……と見せかけ左へ跳ぶ。
 右に……移動できない、壁がある、前へ。
 前へ、前には……糸!
 くぐるか、跳ぶか、ダメだ、向かい打て!
 立ち止まり、反転して、アイツを一瞥しようとして、
 ……いない!
 狭い場所では、視界が狭い。
 視界が狭くなると……死角が増える。
 知り尽くしている?
 狭い場所での戦闘を?
 ……違う、そうではない。
 未来を、現象を――わたしと言う事象を知りつくしているのだ。

 たたらを踏む足の下に、何かが差し入れられた。
 足……?
 すぐ下にいたのか? 見えなかった。
 体が勝手にとんぼを切った。

 微かな浮遊感に思考が揺らぐ、何も考えてはいけないはずなのに、何かしなければならないはずなのに。
 心が、目の前の絶望から逃避していく。
 わたしは何故、こんな男と戦っているの?
 馬鹿みたい、もうこんな思いしたくなかったのに。
 死と隣り合わせの日々から逃げたかったはずなのに。

妹を――

 突然、目が覚める。
 気付けば、くるんと、宙を舞っていた。
 だが、すぐに落下の衝撃が訪れるだろう。
 否。それを待ってはいけない。待つべきではない。
――待ってはいけない。
 身を捻れ、体勢を入れ替えろ、この一瞬だけ猫になれ。
 イメージは出来た。だから、床が、見えた。
 そこにあの男は……いない。
 予測されているのだ。全身に電気が走る。既に、わたしがそこを向くことを知っているのだ。
 どうする、どうなる。否、違う! 動け!
 この瞬間で出し抜け!!

 無我夢中で壁を蹴った。


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 空中で体勢を立て直すところまでは読めたが、
(っ! くそ、そこまで来るかっ!)
 糸ではなく壁ならば、壁蹴りの方向も特定できるが、所詮、今空間を区切っているのは糸だ。
飛び越えられる可能性もある。
 予測では、それが限界だった。その先は読みではない。
(あとは勘だ)
 でたらめに蹴った足でどこに跳ぶのか、おそらく彼女すら解っていないだろう。
 追撃を回避するためにはただ一つ、こちらに向かって跳ぶか、飛び越すかしかない。
 身を捻り壁を蹴った無理な方向転換で、彼女は横に回り込んでいた自分と正対する形になった。
 地面と、空中で、目線が合う。 その猫のような鋭く蒼い瞳が、己の勝利を確信していた。
 賭けは、彼女の勝ちだった。
「ぁあっ!」
「っ――」
 拳と拳の交錯。


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 先に立ち上がったのは、怪盗(姉)だった。
 アクワイは、ゆっくりと立ち上がり、手をだらんとたらした。
 カラン、と床に鉄製の握り爪――バグナグが落ちる。
 バグナグの爪の数本には、ぬらりとした黒い液体が付着していた。
「ほんと、暗器だけは完璧ね、アンタ。いったいその外套にどれだけ武器を仕込んでるのよ」
 実のところ、これで最後だった。まあ、言わない方が良いだろう。
 確かに暗器は山ほど持っているが、全部をいっぺんに持てるわけでもない。
 メイドの黒いストッキングの脛あたりがひきつれて、そこから白い肌と赤い血の筋が露わになっている。
「このぐらいじゃへこたれないわよ。あともう少しなんだから……」
 更に強い決意で、構える。どっちが悪役か分かりやしない。
 確かに、こちらはもう満身創痍、腕も肩から下に力が入らない。
 こちらが一度ひっかく間に、あの女はあばらと右腕を破壊していた。
 正直、動くのも辛い。と言うか、これ以上無理に動くと死ぬ。
「そんな力があれば、怪盗以外でもやっていけるだろう」
「拳闘士にでもなれって? 馬鹿言わないでよ、それじゃ、意味がないのよ!
これ以上、こんな力の世話になって生きるなんてまっぴらなのよ!」
「怪盗が出来るのは、その力のお陰だろうが」
「分かってないわね……だから怪盗なんじゃないの。
悪党から得た力で、悪党達に痛い目を見せる。そうでもしないと、やりきれないのよ」
「復讐か」
「そんな気の利いた話じゃないわ。私たちの力を正当化するにはそれしかないってだけよ」
(振う力の正当化か)
 彼女たちが半生をかけて得た力は、ただの暴力と泥棒とメイドの才能。
 しかもそれは、自分が最も忌み嫌う存在によって得た力。
 今を生きるにはその力を使うしかない。
だが、その力で生きると言うことは自分が最も忌み嫌う存在のお陰で生きていると言うことになってしまう。
 彼女はその二律背反を、忌み嫌う存在の同類――悪徳な貴族や商人と戦うことで解消する道を選んだのだろう。
「……いいじゃねえか。どんないきさつで得た力であろうと。
俺なんか、暗殺者で得た力で護衛になって、護衛で得た力で今や怪盗見習いだぞ?」
「誰もアンタのデコボコ人生なんて聞いちゃいないわよっ」
「けどなんだ。“それしかない”って言うのはその程度の意味なんだな」
 安心して、息を吐く。
 その動作にむっと来て、怪盗(姉)が吠えた。
「その程度って……必要充分じゃないのよ!」
「いいや、甘いな。甘すぎる。言っちゃ悪いがお前は結局のとこ箱入りなのさ。
世間の常識とか荒波とかを知らねえから、妥協点って奴が果てしなく高い。
 だからこんなPTAなんて、福利厚生を謳う怪盗集団なんて怪しさ過積載の集団の口車に乗るし、
こうして長話になんてつきあって、とどめを刺すのがどんどん遅れる。もう何秒話した? そろそろ余裕がないぞ」
 バグナグをけっ飛ばす。
 彼女はそれを手で払おうとして、
――目を見開いて、首を振って躱した。
 そして、ガラン――と、壁に阻まれて落ちたバグナグを凝視した。
 バグナグには、黒いぬめり気を帯びた液体。血、ではない。
「毒……」 怪盗(姉)が恐ろしいものを見たかのように呟いた。
「悪いが、先に仕掛けてきたのはアンタだ」
「な、なにを」 と言おうとして、
――ふらっと、怪盗(姉)は足の力が抜けて床に倒れこんだ。
 愕然として、彼女はバグナグの掠った足を見た。
 ストッキングが破れた足は、紫に変色し、細かな痙攣を始めていた。
 短い悲鳴が上がった。
「な、なによこれ! あ足が全然、ぜんぜんっ!」
「一族特性の神経毒だ。掠っただけでも患部が熱を持ち、神経が焼き切れ、痺れて動かなくなる」
「そんな……ね、ねえこれって」
「死にはしない。痺れ自体も半年ほどで戻るだろう」
 平坦な口調でそう説明すると、彼女は目に見えてほっとしたようだった。
 少しだけ、それを言うのに気が引けた。
 所詮、少しだけだったが。
「……だが、一度焼き切れた神経は戻らない。
 たぶん、右の足が昔のように動かせることはないだろうな。
普通に歩くことはできるが、走ったり、跳んだり跳ねたり、まして蹴ったりなんてことは二度と出来ない」
 一息で言った。
「まあ、俺の知ったことじゃないがな」
 言い放って、廊下を歩き出す。
 廊下には、靴音と雨音だけがいやに生々しく響いていた。
 ややあって。
 慟哭か何か分からない声が響いたが、遠すぎてアクワイには聞き取れない。
 ドアをノックする。
「鍵は開いている。入りたまえ」
 アクワイはコールロイの待つ部屋のドアを開けた。



[つづく]



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