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Fortune 1

Contributor/哲学さん

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 カラカラと馬車の音が響く。その硬質な音は都市へ来たのだと彼を自覚させる。
「無理を言って誘った甲斐があったよ。やはり君は天性の音楽家だ」
「どういたしまして」
 親友の言葉に彼は肩を竦める。
「しかし、本当に戻らないのかい? 女王陛下も、王女も、君の帰りを待っている」
「がらじゃないさ。ウィーンに行ったのは借り返しただけさ。……興味もあったけどね」
 あくまで彼は取り合わない。
「アリスト。僕は本当に、君に戻っ――」
「…………例えば」
 アリストは親友の言葉を断ち、話し出す。
「虹という綺麗なものが世界には存在する。でも、それは午後にしか見れない。朝見ることは出来ない。
 そして何より、仕事に追われた君達なんかじゃ虹を見ることすら思いつかない」
「休日にでも見ればいい」
「だが、虹はいつ訪れるか分からない」
 アリストの言葉に親友はため息をつく。馬鹿馬鹿しいのだろう。
「虹など大したものでもないだろう? 死ぬ訳じゃない」
「僕の音楽もまた、大したものでもないだろう? 死ぬ訳じゃない」
 その言葉に親友は言葉を詰まらせる。
「人間は食べないと生きていけない。けど、音楽は――」
「君は仲間を否定するのかい?」
「とんでもない。だけど……大切なのは心だ。人じゃない。僕が居なくとも、素晴らしい心が宮廷にはあるよ」
 再び、二人の間にカラカラという車輪の音が響く。
「そう言えばピエールは元気かい?」
「ああ、またブクブクと太ってるよ。食糧問題について色々と働いてるけど……あの体型じゃあな」
 此処にいない友を思い浮かべ、二人は笑う。
 国に納める分を減らし、民に回す食糧の増加を申し出ておきながら、自分が一番食べているのだから説得力がない。
 ピエールが農務省にいる限り改革は先送りとなるだろう。
 本人は至って真面目なのだが、滑稽としか言いようがなく、幼なじみとしても弁護のしようがない。
「さてと、そろそろお別れだね」
 そう言って彼はギターケースに手をかける。
「あっと……餞別だ。貰ってくれ」
 そう言って親友は大きめの紙袋を渡してくる。その中身は――。
「……相変わらず部下に任せっきりかい?」
「バレたか。正直何を渡せばいいのか分からなくてね。何が入ってた?」
「あぁ中身は――」
 と、そこでちょうど馬車が止まる。そこでアリストは考え直した。
「――秘密と言うことにしておくよ。どうしてもっていうなら部下に聞くといい」
キィィィ
 従者が馬車の扉を開ける。
「じゃあ、また機会があれば」
 差し出された手をアリストは握り返す。ごつごつとした軍人の手だ。彼がいる限りこの国も安泰だろう。
「ピエールにもよろしく」
 そう言って彼は馬車を降りた。
 陽光が彼を優しく照らし出す。
 目の前には古ぼけた看板がある。
 そこには安っぽくこうかかれている。

『FRONTIER PUB』

 ――と。
「あ、あ、あ、アリスト? アリストなの?」
 店に入ると店主が驚きの声を上げる。
 鮮烈な紅い長髪と、温かな瞳が特徴的な魅力的な女性。なによりも、顔についた肘の跡がとても魅力的だ。名を、テムズと言う。アリストが今恋している女性だ。
 ――そして、最後の思い人となるだろう。
「やあ、元気そうでなにより」
「そちらこそ。
 いらっしゃい。よく来てくれたわね。
 ええっと……その格好は?」
 言われて初めて気付く。
 今日のアリストはいつものような薄汚い一張羅ではない。友人から貰った貴族の正装だ。
「……ああ、これは、友人の頼みでウィーンに行った時に貰ったものだよ」
「う、ウィーン?!」
「んーと、まあ、色々あってね。それはともかくお土産だよ」
 そう言って彼は紙袋をカウンターに置く。心の中で親友に謝罪しながら。
 そして、中から目的のものをとりだした。
「あら、それはなに?」
 紙で出来た薄っぺらな容器を見てテムズは不思議そうに訊ねる。
「なぁに……ちょっとしたツテさ。君にあげるよ」
 容器の中からは黒い円盤が現れ、ますますテムズは困惑する。
「……コレはなに?」
 その言葉に彼はやや意表をつかれる。
「レコードさ。あそこにある再生機で音楽を流せるんだよ。知らなかったの?」
 店の隅にあるラッパの化け物とまな板が間違ったコラボレーションをしてしまったような台を指差す。それは相当の年季が入っており、昔から店にあることが伺い知れる。
「あはは……父さんが買ってきたらしいんだけど、使い方も分からないままほっとき放しよ」
 恥ずかしそうに彼女は笑う。
「それは勿体ない。じゃあ是非この機会に聞いてみなくては、ね」
 そう言って再生機の埃を丁寧にふき取り、彼女にレコードを渡す。
「入れてごらん」
 彼女は彼の言われるままに、レコードを所定の台に乗せる。
「後はそこにあるネジを巻いてくれればいい」
「……何の曲が入ってるの?」
 有名な曲ではあるが、彼女は知っていない可能性がある。
 では、端的に説明するにはどんな言葉が相応しいか。
「今際の際に『喜劇は終わりだ』と言って死を迎えた偉大なる音楽家が作った曲さ」
 持って回った前置きが終わると共に、彼女は手を離す。
 ゆっくりと黒い円盤は回転を始めた。
「その曲の名は――」
 瞬間、小さな宿に盛大なる音の祝福が満ちる。
 その苛烈にして壮大なるその曲の名は――。



運命

− First day : この空の下に −



 運命とはそもそも何なのか。
 それは往々にして、偶然と言うには出来過ぎた幸運と、不運であろう。
 かの偉人がこの曲を作った時も、それは人生に置ける挫折に出会った時だったという。
 人は幸福よりも不幸の方がより強く残りやすい。
 故に、運命と呼ばれるものの大半は過酷で、辛いものだ。
 彼――アリストが背負ってきたものもまた、そんなものが多かった。
 彼の愛した世界は露の如く終わりを告げ、次々と消えていこうとしている。
 確かに必要のないものかも知れない。だが、だからと言って失われるべき世界ではない。
 彼はずっとそう思い続けてきた。
 しかし、運命は揺るがない。
 彼の世界は終わりを告げ、後に残るのはどこかさび付いた、雑多な世界のみだ。
 そんな世界に彼は失望をしていた。その終わりを覚悟した。
 けれど、彼は終わりの寸前で世界の希望を見た。
 それは誰にでもある恋なのかも知れない。
 どこにでもいる女性なのかも知れない。
 だが、そんなただの女性に、彼は真眩い輝きを見た。
「――何よ、そんなじっと見て」
 彼女――テムズは恥ずかしそうに呟く。
 それに対し、アリストはやんわりと、笑顔を返す。
「別に」
 がらんとした酒場に彼女と二人きり。
 レコードも持ってきた別のものに変え、静かな音楽を聴きながら、ただ二人は語り合う。
 ただそれだけのことが――かけがえのない幸せだと彼は感じた。
 ウィーンに行ってきたことや、レコードの話など、大した話はしていない。
 それでも、そんな下らない話がとても楽しくて、彼はついついそれに酔う。
 やがて、曲が途切れる。
 彼はネジを巻き、もう一度曲を流す。
 そして、軽やかなステップを踏むと、彼女にそっと腕を差し出した。
 彼女はきょとん、とその手を見つめている。
「一曲お願いできますか、フロイライン(お嬢さん)?」
 その一言に彼女は戸惑い、目を逸らす。
「……えっと」
 そんな初々しい彼女に笑みを浮かべながら、彼はそっと彼女の手を引いた。
「……あ」
 驚きつつも、彼女は逆らうことなく彼の胸の中へとやってくる。
「ちょっと、……アリスト!」
「難しいことはないよ、簡単なステップだけさ。君は真似をすればいい」
 そう言って彼女をゆっくりとリードする。
 単純なステップを丁寧に、丁寧に。
 彼女が慣れた頃を見計らい、彼は囁く。
「顔を上げてごらん」
 ステップを踏むことに夢中になっていたテムズが顔を上げる。
 そこには驚くほど接近した二人の顔。
 思わず足が止まりかけるテムズ。
「そのまま」
 彼の言葉に従い、彼女はダンスを続ける。
 広い店内の中を二人は軽やかに踊る。
 ややぎこちないながらも、それは彼にとって最高のダンスだった。
 曲が終わり、キィィィィと言う甲高い音が聞こえてくる。
 ――針がレコードからはみ出たらしい。
 だが、二人には関係なかった。二人の顔はゆっくりと近づき――。
ガタンッ
 突然の事態に彼女はびくりっ、と肩を振るわせる。思わず体ごと彼から離れてしまう。
「あ、……その、ごめんなさい」
「いや、……いいんだよ」
 そう言って彼は肩を竦めた。そして、背後を振りかえる。
 そこには倒れたギターケース。カウンターにしっかりと立てかけていたはずだ。大切な相棒なのでいつも扱いには気を付けている。今回もきちっとストッパーを引っかけておいたので、倒れるはずないのだが。
「…………」
 ため息が漏れそうなのを我慢しつつ、アリストはちらりと時計を見る。
「……と、僕もそろそろ出かけないと」
 心の中で小さく謝りながら、彼は呟く。
「もう出ていくの?」
 突然の事に彼女は戸惑う。無理もない。アリスト自身も戸惑っているのだから。
「用事があってね。倫敦(ロンドン)には後数日いるから。また後でね」
 彼は倒れたギターケースを掴む。困った相棒を持ったものだ。
 ――もしかして彼女に嫉妬しているのだろうか。
 だが、そんなあり得ない仮定に肩を竦め、彼は店を出る。
「あ、レコード!」
「あげるって言ったろ?」
 そう言って、彼はフロンティア・パブを後にした。



「やれやれ、彼女の何が気に入らないんだい?」
 アリストは通りを歩きながら呟く。
 彼には誰も随行者が居らず、彼の問いかけに応える者はいないはずだ。
 しかし、それでも答えは返って来た。
「……あの店に立ち寄るのは気が進まぬ」
 渋々、と言った感じで女性の声。だが、その姿はどこにもない。
「どう足掻いたって終わりを止められないさ」
 それに対し、アリストは穏やかに切り返す。
「……我には分からぬ」
「何が?」
 戸惑う女性の声に対し、意外と言った風に彼は返す。
「汝の目指す道、その先……」
「…………」
 彼は何も言わず、歩く。
 結局の所、彼自身どうするべきか迷っているところもある。
 何よりも――。
「――おや、これも……偶然?」
 ふと、彼は足を止め、軽口を叩く。
 目線の先には長く艶やかな黒髪をたなびかせた黒衣の美女。
 厳しい表情でその美女は彼に近づいて来た。
「久しぶり。君も倫敦に来てたのかい?」
「この街は私の故郷よ」
 そう言って彼の前に立ちふさがる。アリストも、つられて足を止めた。
 その美女とは僅かな面識がある。確か名前は……ヘレナと言っただろうか。西洋人にはない漆黒の髪と力強い黄色い肌。それらはアリストが見てきた貴族の女性にはない、力強さを感じさせる。
 無論、彼女を強く見せるのはそれだけではない。彼女は魔法使いであり、折れない心の強さを持っている。
 彼女はちらりとアリストの背後を睨み、問いかける。
「あの店に何の用?」
「別に。ちょっとした行きつけだけど……君に関係あるのかい?」
 相手の意図が掴めず、アリストは曖昧な答えを返す。
「そうね、あなたの解答次第かしら?」
「無粋だね。こんな街中で」
「分別はあるわよ。でも、ちょっとした騒ぎなら握りつぶせるわよ」
 彼女は不敵な笑みを浮かべ、挑発する。ただならぬ様子に彼は眉を寄せる。
 ――自分は何かしたのだろうか。
 彼女を怒らせる何か。あるいは彼女を追いつめる何かを。
「……あの時一緒にいた彼はどうしたんだい?」
 どうすることも出来ず、彼は話題を変える。
 その言葉に彼女は幾らか自制を取り戻したのか顔を逸らし、言った。
「場所を変えましょ」
 と、背後で巨大な物音がする。
 振りかえるとフロンティア・パブから暴れ馬が出てくる。そして、その後を大勢の警官が通り過ぎていった。
「……なんだ?」
 突然のことにアリストは驚く。
 しかし、周りの人々は慌てて道をあけるものの、警官や馬が去った後は何事もなかったように通り過ぎていく。
 ――ともかく、この辺りでちょっとやそっとの騒動は当たり前らしい。
 アリストは変に納得する。
 なんにせよ、アリストはヘレナの後についていき、その場から離れた。



「で、結局なんであの宿に近づいたの?」
「……宿に泊まるのに特別な理由が必要なのかい?」
 相変わらず突っかかってくるヘレナに対し、彼は肩を竦める。
 二人は今フロンティア・パブから離れた有名な大衆酒場にいた。
 当然――と言えば失礼だろうが、かの宿よりも昼間から客が多く、皆思い思いに酒を飲んでいる。
 故に、ちょっとやそっと危なかしい発言をしても誰も気に留めないので密会や酒に任せた熱論にはもってこいかも知れない。
 現に、彼等の後ろでは近年の警察内部に置ける職務怠慢の陰口や、某外相のスキャンダルや、麻薬の取引など様々な罵声が聞こえてくる。魔法がどうとか話そうとも誰も気に留めないだろう。
 ――なんにしても。
「あの宿は君にとって特別なのかい?」
 彼女はアリストをしばらく睨み、逡巡の後、はっきりと頷いた。
「ええ、特別よ。大事な親友の店。あの店の店主とはハイスクールからの知り合いで、あの店はこの街でもっとも大事な場所の一つだわ」
 そう言って彼女はぐいっと酒を煽る。意外と酒豪なのか、二本目だというのに全然酔った様子が見当たらない。
「彼女に近づいてどうするつもり? もし、テムズに何かあったら――」
 じろり、と睨んでくるヘレナを見て、我知らず背筋を凍らせるアリスト。だが、それと同時にこんなに思ってくれる親友のいるテムズを羨ましいと思った。
 本当に彼女の事を大切に思い、互いに信頼しているのだろう。
 それに対して自分は――。
「僕は――」
 果たして彼女ほどテムズを考えているだろうか。
 彼女ほどテムズに信頼されているだろうか。
 アリストは――。
「幸運の女神に会いに来てるだけさ」
 そう言って酒をあおった。
 彼女はこの答えをどう受け取っただろうか。
 ヘレナは眉をひそめ、じっとこちらを睨んでくる。なんとも居心地の悪いものだ。
 だが、結局何も分からず、彼女も酒をあおる。
 無理もない。
 ――自分も、どうしたいのか分からないのだから。
 間の悪さに耐えられなくなったのか、ヘレナは質問の矛先を変えてくる。
「――今でも精霊解放を行っているの?」
「ああ、使命だからね」
 そっけなくアリストは言う。
「あなたは使命に縛られてるのかしら?」
「いいや、そんなつもりはないさ」
 アリストは肩を竦め、彼女に向き直る。
「精霊達を封じることによってバランスを保とうとするのはやはり間違っていると思う。そのスタンスは変わらない。
 人が山を切り開くのは自分達の力だ。それによって自然が改変されるのは仕方のないことだと思う。
 けれど、自然を切り開くには洪水などの自然の抵抗がある。それすら奪うのは――」
「でも――」
 反論しようとする彼女をアリストは手で制す。
「分かってるさ。精霊達ももう疲弊し、諦めている。文明という波に飲まれ、行き場を無くしている。彼等の居場所は――」
 彼は本当に数々の土地をまわった。
 どの山にも、どの林にも、人の手は及び、人のゴミが山を汚す。
 誰もが畏れ敬う自然の姿というものが崩れていた。
 友人に誘われ、大陸に行っても同じ。
 閑静な山奥には蒸気の煙が漂い、油臭い鉄の匂いが鼻を刺激する。
 人の時代が足音を立て、凱歌を歌い上げながら自然と言う名の過去を蹂躙していく。
 それは進歩であり、新しい時代の幕開けだ。決して悪いことではない。
 けれど――。
「機械の時代――大いに結構。けれど、何もかも捨てて、過去を顧みない今はどうかと思う。
 なにかもっと――他に何かがあったはずだ」
「けれど、それはあなたも同じでしょ?」
 言われて、アリストは黙り込む。
「それも……そうだね」
 結局の所――自分も勝手であることは変わりない。
「それでも、僕は慣れ親しんだ、美しい世界を惜しいと思う」
「じゃあなんで、あなたはテムズに近づくの?」
 問われて――彼は酒を飲む手を止める。
「何故だろうね。人の世界に戻ろうとしてるのかも知れないし……逃げているのかも知れないし……」
 アリストは自信なさげに呟く。
「何もかも素晴らしすぎて、でも、それらは共存できなくて――けれど」
 彼は一拍の時を置き、考える。
 脳裏に浮かぶ様々な風景。
 ――様々な出来事。
 ――様々な想い。
 その全てを願うのは欲張りというものだろう。
 けれど。
「僕は足掻いてみたいと思う。――最期まで」



 時間というものはあっと言う間に過ぎていく。
 その流れは歳を経るごとに加速度的に勢いを増していき、気が付けば人は老いている。
 終末の足音と、過ぎゆく死神の囁きを耳にしながら人はただ空を見る。
 いつか見た空と変わりなく、それはそこにある。
 だが、変わらぬものなどない。何も変わらぬようでいて、かの星空ですら時の流れに逆らえず、変化していく。
 例えば、黄道を司る十二の星座へと蛇使い座が迫り、今にもその地位を脅かそうとしている。
 例えば、ある星はその色を変え、それは消滅の徴候であるとか。
 星々の動きは世の吉兆を司るとも言われている。
 だとすればこれらは何を示すのか。
 星詠みの人々は変わりゆくこの星空に何を見ているのか。
「……何を見ているの?」
 傍らを歩くヘレナが聞く。
 いつの間にか夜まで飲んでいた。
 彼女からは沢山のことを聞いた。
 ――親のこと。
 ――姉妹のこと。
 ――渡り歩いた土地のこと。
 ――最後に、大切な親友達のことを。
「僕の祖母は、ジプシーの中でも優秀な星詠み<フォーチュン・テラー>だったらしい。
 彼女は星を詠み様々な事柄を予言したらしい」
「――占い、ね。私はあんまり信じないのだけれど」
 彼女は冷めた調子で言う。
「人生って、結局闇夜を行く、終わりのない船旅なのよ」
 つらつらと、気怠げに、どこか達観したようなヘレナ。
「いつ沈むかも分からず、
 何が襲ってくるかも分からず、
 誰と出会うかも知れず……
 ただ自己満足に作り上げた航海予定表を握りしめて、
 馬鹿みたいにふらふらと海を行く。
 ろくなもんじゃないわ」
 さすがの酒豪も酒の力に負けたのか、いやに饒舌だ。
 この場に、いつもの彼がいないせいもあるかもしれない。
 自分が、テムズのような親友でもなく、どこにでもいる他人に近いからかも知れない。
 ただ、彼女は美しいその唇から世の理を歌い上げていく。
「誰も彼も中途半端な航海地図とコンパスを頼りに、ずっと予定表を書き換えてる。
 叶うはずもない昔の予定を消すことも出来ず、その隣りにただ新しい予定を書いていく。
 いつのまにかそんな昔の予定も忘れて、叶いそうな目先の予定に安心して――。
 つまらない航海日誌に絶望する。
 ――何故、あの日自分は予定を諦めたのか。
 でも、結局昔の予定を消せるわけでもなく――航海日誌は溜まっていく。
 船が沈むまで、ずっとつまらない航海日誌が増えていく」
 紡がれる言葉は安穏とした闇の中へと落ちていく。
 暖かい、諦観と言う名の温もりに包まれていく。
 それは決して悪いことではない。
 けれど――。
「だとしても、星空を見上げることに代わりはないさ」
 アリストは確信を込めて呟く。
「船が前に進むには星を見なければならない。
 それに、同じ航路を取る船や、立ち寄る港は僕等に進むべき航路を教えてくれる」
「……そうかも知れないわね」
 彼女は空を見上げ、目を細める。
 気が付けばフロンティア・パブの前に来ていた。
「……どうするの?」
 ――問われて。
「……僕は野宿の方が似合うらしい」
 そう言って店に背を向けた。
 怖じ気づいたわけではない。
 ただ。
 ――少なくとも、今は彼女に会ってはいけない気がした。
「――そう言えば」
 思い出したようにヘレナ。
「私には一緒に星を見上げる人がいる。あなたはどうなのかしら?」
 思わず振り向けば、彼女はフロンティア・パブの中へと入っていった。
――共に星空を見上げるというのならば。――
 彼の脳裏には浮かぶのは赤髪の女性。
 やわらかく、それでいて力強い、どこにでもいる女性。
 けれど。
 星空を眺める人は――。
 隣にいるべき人は――。

 ――間違いなく、彼女だけだ。

 刹那の決意が彼に力を与え、宿へと足を伸ばさせる。
「ひさしぶり、テムズ」
 中からヘレナの声が聞こえてくる。
 それに応え、かの赤髪の女性は優しく迎える。


「あら、おかえりなさい


 その一言に、彼の足は動かなくなってしまった。
「相変わらず突然ね」
「まあ、私にも色々あってね」
 旧友達は再会を喜びあい、楽しげに会話する。
 だが、彼にそれを聞き取る余裕はなかった。
 ただ、薄暗い寂寥な路地の側でその言葉の価値を問う。
 果たして自分にその言葉を受け入れる資格があるだろうか。
――「いらっしゃい、よく来てくれたわね」――
 思い出される今朝の言葉。
「すまん、遅くなった」
「おかえりなさい。忙しいんだから手伝ってよね!」
 再び交わされる言葉。
 あれはウェッソンの声だろう。
 彼もまた、彼女に受け入れられ、そこにいる。
 彼にとって彼女がかけがえのない存在に代わりはない。
 ――しかし、彼女にとって自分はどうなのだろうか。
 彼はどうすることも出来ず、踵を返した。



「――残り時間は少ない」
「本当に死神を彼に?」
「君は、彼に同情してるのかね?」
「…………」
「まあ、無理もない。君はずっと人間の世界にいる。彼等に同情の念を抱いとしてもなんら不思議ではない」
「……刻限はいつだい?」
「後二日」
「……もうそんなに」
「誰にでも終わりはある。それが早いか、遅いか、それだけのことだ」
「…………」
「何者にも変えられぬ運命と言うものは確かに存在するのだ。人はそれに従うしかない」
「でも……」
「君は見守るだけでいい。後二日の辛抱だ」



 そして、刻は動いていく。
 ゆっくりと。
 だが、人にとってそれは余りにも短く――。




それが喜劇かどうかすら知りえない。

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