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Contributor/辺境紳士
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揺らぐ黙祷と彼女達


 始まりを求めることは出来なかったのだが、それでも彼には時間に沿って存在していた期間があった。
 彼女が側にいたときだけが。

 気付いたときには、宿の片隅にいた。
 呑気な気配を双眸にたたえた赤毛の女性が、視界に入る。

「きみは――」
 それを聞いて浮かんだのは、単純な疑問だった。
 きみ?
「どこの子?」
 『どこ』……?
「迷子かな……。うちは無いの?」
 疑問はとめどなく続いた。
 彼女は……何を聞いているのか。
 誰に尋ねているのか……。
 疑問を浮かべる自分の姿を、思い浮かべる。
 自分……?
 呑気な声は続けた。
「んー。そうだね。じゃ、ここで暮らすといいわ」

 言わば、その一言が端緒だったと思う。そこから彼は、存在を始めた。


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 街の天井は晴れ渡った青空で覆われ、さわやかな風が吹き渡っている。
 誰もが微笑みを浮かべる素晴らしい昼下がり。
 フロンティア・パブには客が居なかった。
 カウンター席に腰掛けたテムズはあえて微笑もうともせず、話をだらだらと聞いていた。
「知覚しようとしても、知覚できない。見ようとするときにはすでに目の前には居ない。いや。君がそれを見ると同時、見ていないことに『なる』存在と言うべきか。そういうものがある」
 それがなんだか皮肉にも聞こえてくる。
 わたしには来てるはずの客が見えてないってことかしら。
「……お客もサリーたちも居ないから暇だ、って言ったのは確かにわたしだけど」
「なにかね?」
 フォートルは鼻眼鏡の奥の目をしばたたかせて、こちらを見てきた。その鼻面に告げてやる。
「フィロソフィには興味ないわよ」
「ああ、人間の中にも同じ説を唱える者はいるな。だが哲学ではないよ。現象として話している……我々はね」
 テムズは首を傾げた。
「なによそれ。マジカルなんたら、とかなにか?」
「魔法でもない。我々は場に依存して力を使うが、彼の存在……この存在というのも便宜的な呼称だが、存在は極にすら依存しない。言うなれば"存在しない存在"。異質なのだ」
「あんた、解るように話できないの?」
 いまいちわからない。この話し相手の態度を見ると――うんちくを語る人間の放つ気配と同様の――真剣に聞く気も起こらなかった。
「解らないのか? 程度は合わせてやっているつもりだが――つ、つもりですが、至らない点があるのならば最大の誠意を以て応えようと思います――ともかく彼は、私が追い求めるものではあるな。本業は無論『君の方』だが」
「ふうん。……意外」
(あんたが『求める』ことなんて言うの初めてじゃない?)
 ふと思ったが、何となく口に出すのはよしておいた。
 問いただされる前に、話題を元に戻しておく。
「そんなのがいるんだったらいっぺん見てみたい気もするけど」
「まあ……な。しかし、それほど見た目が珍しいものではない」
 タキシードを着込んだ黒ウサギは自分を指した。
「噂によれば、それは『知覚できないウサギ』と言うそうだ」
「……またえらく、話のグレードが落ちたわね」
 テムズは肩をがっくりとさせて、食堂の隅に視線をやった。


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 それから彼はしばらく宿で暮らした。
 彼女と彼女の夫が経営するその宿は、それなりに繁盛していた。彼は彼女の環境を取り巻く、多くの人間を眺めながら、食堂の片隅に座っていた。
 しかし、結局――彼を見続けていられたのは彼女だけだった。
 夫と彼女の幼い娘、宿を訪れる全ての客は彼を見ながらにして、窺わずに――
 それでも、彼は構わなかった。満足していた。一人でも、自分を見ていてくれる人間がいたことに。
 彼女の側にいるときだけ、彼は確かに在ることができたのだ。


 短い年月が過ぎ、彼女が世を去ったときに、彼も再び生きることと死ぬことを止めた。


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 大地を覆う天蓋はどこまでも青黒く澄み渡り、鮮烈な光だけが辺りを包みこむ。
 一切の想像を許さない完璧な地。そこを渡る旅人達は、ただ沈黙を守るのみ。
 ……つまり、有意義な話題は無かった。
「不確定という定義自体が不確定なんだけどね。そういう存在があるんだ。彼らは依存するものがないから、どこにも居なくて、どこにでも居る。僕らにとっては、長い間探している究極でもある。魔法の根元というのと、大体の所で同じだからね」
 無意味なことは嫌いではなかったので、ヘレナはまんざらではなかった。フードの下の表情が笑いを含む。
「ふぅん。あまりないじゃない。そんなこと話すわけ」
「そう?」
 片眼鏡の青年もまたフードの下で、きょとんとする。
 ヘレナは歩きながら、続けた。
「ヒマだから? ここじゃ、他にやることもないしね」
「まあ……砂漠だし。もっと気の利いた話題があったら良かったけど」
「そーねー……」
 砂漠には砂と空の他に見るものはなかった。砂塵一つ揚げない熱く凝固した空気の中で、ヘレナはふと日よけのフードを払いのけた。前方を見据える。
「あら?」
 なんだか、見慣れた物が見えたような気がした。
「……ウサギがいる」
「え?」
「あなた、兄弟っているの?」
「え? ああ、いるというかいなくもないね。厳密には違うけど……どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 夢から醒めたように、ヘレナは呆然と答えた。実際、垣間見えたものは白昼夢と同じくもう居なくなっていた。
「次の話題かい? そうだね、家族の話でもしようか。三兄弟がいるとして、弟思いと兄思いを一人ずつ含むとする。社会論的にもう一人がどんな奴かというと、大抵は――」
「あなたの兄弟って、白かったっけ?」
「へ?」
 その辺りで話題を打ち切っておいて、ヘレナはもう一度目を凝らした。砂丘の彼方に見えたと思った一点には、もう何も映っていない。熱気に空気が揺らいでいるだけで。
(蜃気楼かな……)
「じゃあ、有意義な話でもしようか。そろそろ違う手を使わないと、僕ら街に着く前に行き倒れるよ」
「なんでも魔法でばびゅーんってのは、ポリシーに反するのよね」
「……歩くの?」
「ん」
 しばらく、ざくざくという単調な足音だけが鳴る。
「でも、オード。プライドってつまらないわよね?」
「……。」


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 次に気付いたとき、彼は同じ所にいた。かつて安らぎを覚えていた、懐かしい石畳の上。
 彼女によく似た赤毛の少女がこちらを見つめている。
 少女は振り返って、もう一人店内にいた客に声を掛けた。

「そこにいるウサギって、いつからいたのかしら?」
「初めて気が付きましたぁ」

 その一瞬、心に昔日の光が灯るのを感じた。
 見えているのか。
 意識と、意志が浮上する。
 しかし。
 彼女の娘であるその少女は、彼を本当に見ることは出来なかった。
 やがて、彼の姿は断続的にかすれていく。

 誰かに見られたときだけに彼はその場に居始め、見ることのできない者にもその姿を現す――
 見える者に依存して初めて、彼は存在できるはずだった。
 再び単純な疑問が浮かぶ。
 だとしたら、誰に?
 彼は存在を朦朧とさせながら、自問し続けた。
 自分はなぜ、またここに居るのか?
 彼女はもう、この宿には居ないというのに。


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 親と一緒に住むのが嫌だったのでアパートを借りたのだが、一人暮らしを始めてみると意外に気楽で面白いものだったりする。
 これが二人となると……少々うっとうしいものに変わってくるのだが。
 それにも、今はもう慣れている。食卓兼勉強机に夕食を満載して、アリサは何となくその話を聞いていた。
「三兄弟のもう一人がどんな奴かとゆーと、自分が一番なのさ。愛さずにはいられないだろう? 自分を愛せる人間がどれだけいると思う?」
 目の前でだらだらとしゃべり続ける黒ウサギが、何かを食べているところを目にしたことを無かった……食事の付き合いとしては、あまり良い同居人ではない。
「あんた、自分は好き?」
 アリサはフォークでサラダを貫通して、口一杯にほおばった。
「好きだよ嫌いじゃない。悪くなくもなくもないね。明日の俺はものすごいとエールを送りたくなるくらい」
「つまり、あんたがその一人ってことだよね」
「うんにゃ」
 パスタに標的を移したところで、フランクが答えてきた。
「僕より上の連中だって、見りゃキリはないよ」
「?」
 その口調になにか違和感を感じて、アリサは視線を持ち上げた。パスタをぐるぐるさせる手の動きに遅滞はない。
「自分が一番。依存しないことで存在するっていう、ヤングソウルな奴がいるのさ。誰だって何かに頼らずにゃいられないのに。僕も君も」
「……ふむ(もぐもぐ)」
「僕ァね、そいつを捜してるわけだ。人生の指針ってゆーか? マジそれやばいじゃん、と言われても気にしないさ。君は見たかッ?」
 パスタを飲み込んで、ちょっと考えてみる。
「あんたみたいなの? 幸い、そんな知り合いは一人しかいないけど」
「いつどこ?」
「今ここ。んなの、あんたしかいない――」
 と、アリサはフォークを止めた。
 テーブルの下にもう一匹、白いうさぎが居る。
(いつの間に?)
 疑問に思いながらも、何となく小動物好きな彼女は添え物のパセリを押し付けた(嫌いだったのだ)。白いうさぎはそれを一口で飲み込む。
「ひょっとしたらこの子かもね」
「どの子?」
 黒い方のウサギの問いに、アリサは再び視線を戻した。感情がどうも薄っぺらいガラスの瞳がこちらを見据えている。
「何か居た?」
「えーと――」
 再び感じた違和感にしばし黙る。床を見ると、うさぎは姿を消していた。
「……ううん、なんもいない」
「ほへーん」
 それきり部屋を沈黙が包んだが、そもそもこの話し相手は脈絡が無い。構わずアリサはパスタの回転を再開させた。
 黒ウサギは脈絡無く、また口を開いた。
「奴は人一倍ヤングソウルだけどね、ロンリーハートなのさ。いつも、誰かが見てやらないといけない。これが世間ってわけだ。ままならないものだね」
 やがてパスタを平らげて、アリサは席を立った。皿を流し台に運ぼうとして……ふと、違和感の正体に気付く。
 彼女は振り返って、フランクを見た。
「珍しいね。真面目に話してたんだ……」
「衝撃の事実。実は真面目だよん。本当だ信じてくれ」
「……と、思ったのがバカだったってことね」
 黒ウサギはもうこちらを見ず、虚空に視線をふらつかせている。

 もう一つ、ぽつりと呟きが耳にはいった。
「奴にとって一番良いのは、拠り所を見つけることだろうね。
でもそいつぁもう、僕の捜すもんじゃない」


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 自問だけは途切れることなく続き、若干の時が流れる。
 なぜか、今の彼はその流れを感じることができた。
 次に彼が醒めた時、そこは――


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 フロンティア・パブからほど近い場所にある小さな診療所。
 裏返ったままだった開業札を急いでひっくり返しに行った看護婦のアリスは、それを見て安堵の溜息をもらした。
「良かったぁ……。ちゃんと開業中になってるわね」
 先日札を裏返すのを忘れていたからだが、安心した彼女はきびすを返しかけた。
「?」
 足が止まる。足下に、うさぎがうずくまっていた。
 アリスはかがみ込んだ。
 見覚えがあるような無いような、奇妙な既視感を感じる。
「きみ……どこの子?」
 うさぎは赤い目をまたたかせて、こちらを見た。そもそも静かな動物なのだが、こちらを見据えるその表情からは、何かを窺うことができた。
(びっくりさせちゃったかな)
 アリスはうさぎを抱き上げてみた。
「迷子かなぁ……。飼ってる人とかいないの?」
 うさぎはこちらを凝視している。何だか照れたが、自分もしっかりと見つめてみる。
「うーん……あ、そうだ」
 ふと思い至って、話しかけた。
「良かったら、うちに住む? 愛想の悪い人しか居ないけど、きっと歓迎してくれると思うよ」
 うさぎが何かの反応を返す間もなく――
「歓迎しないわ」
「あ。セリーヌ」
 同僚の看護婦が背後に立っていた。うさぎを抱き上げたまま、振り返る。
 動物程にも感情を窺えないその顔からは、やっぱり何の意志も伝わってこない。いや、ちょっと難色を示しているか。
「診療所で動物を飼えないことは想像できるでしょう。先生の愛想が悪いこととは関係がないわ」
「いや、愛想が悪いのはむしろセリーヌ――」
「とにかく、戻してきなさい」
「え?」
 セリーヌはうさぎを示して、続けた。
「フロンティア・パブに居る兎よ。見たことがなかった?」
「……ああ! 思い出した。確かに、テムズさんがごはんあげてたわね」
 手元を見下ろすと、うさぎはまだこちらを見据えていた。
 なんだか真剣な表情に、自然と微笑みが浮かんでくる。
「ちゃんと居る家があるんじゃない。勝手に出てったりしちゃ駄目よ」
「……」
 もちろん返事はない。しかし、沈黙する気配は何故か判った。
 しばらくして。
「あっ」
 うさぎは腕の中を飛び出して、裏路地に消えていった。


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 彼は宿に向かって『歩いて』いた。
 舗装の返す堅い質感と共に、時間に沿って流れている意識を今は自覚することが出来た。
 あの頃と同じ、自分の実存を。
(そうか)
 彼を見ようとする人間は、いた。
 しかし、問の答えはそういうことでは無かったことを、何となく理解していた。
 彼女の代わりを、いずれ違う人間に見ることもできるだろう。
 だが、それともまた違う。

 彼女が、あの場所で、彼を見た時に、彼自身がそこに在ろうと決めていたのだ。
 彼女が居なくなった後も、浮かび上がることが出来たほどに。
 これが、拠か……
 喪失の中、場所だけは残っていたのだ。
 すでに居ない彼女の残滓が匂いとなり、姿を映し、記憶を残しているあの宿が。

 彼は歩きながら、信じた――あの宿なら。
 自分は、これからも居ることができるだろう。昔日の安らぎと共に。


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 食堂の隅に目をやったテムズは、いつものうさぎを見つけた。
 振り返って、フォートルに聞いてみる。
「あれは? 違うの?」
「話を聞いていたか、マジカル☆ガール? 見えるウサギが知覚できないとは、脳を診て貰ったほうがいいんじゃないか――いたたた! や、やめっ、ち、ちぎれるぅ!」
「……おねえさんが誠意を叩き込んであげるわ……!」



 いつもといえば、いつもの喧噪が客の居ない食堂に響き渡る。
 彼女を見つめながら――
 うさぎは、なんだか諦念にも似た嘆息をもらした。


おしまい

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