Schrodinger Folks
follow the day light lines
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[3-2] さかまわりの夜



 森。
 マコとノノモリは走っている。
 すね辺りまで延びた下草にはどこからか立ちのぼった露がびっしりと張り付いていて、蹴たてる靴の表面は真っ黒に滲みつつあった。その表面に閃く、不透明な白い光沢。
(何の光だろうか)
 足下は暗いが見通しが付かないほどではない。真上に白っぽい光源がある。マコは走る足が草茎の固まりに引っかけないように内心激しく不安に思いながら、
 空を睨みつけた。
 太い刀身のような三日月だ。
(でも、月のはずはない)
 内心で否定したって、何の気休めにもならない。
「王女! あれ、月じゃないですよね!?」
「私には月に見える」
 そりゃそうだ。自分にだってそう見える。でも、
「今、夜じゃないですよね!? そろそろ午後のティータイムですよね!? お腹空きません!?」
「私には夜空に見えるしあまりお腹空いてない。マコ、よく食べ物のこと考えられるわね。すごい」
 なにを平然と言ってるのだこの猫耳娘。
 内心で罵り声を上げたが、それを口先に出力する時間は全くなかった。
「マコ、追いついてきた!」
 ノノモリの鋭い警告に、
「ええいもうっ」
 剣の柄を握りしめて反射的に出てきたのは呪いの長口上ではなく、嘆息一つ分の呻き声だったからだ。
 抜剣。
 月明かり……らしき白い反射光をランダムな拍子にきらつかせながら、手になじんだ片手剣が、夜の空気……らしき薄暗い森の光景に出現する。
 立ち止まり、振り返った。翻るスカートの黒色に混じるような、真っ黒い猫耳眼鏡娘がたどたどしい挙動で走ってくる。空いた左腕でその少女、ノノモリを背中側に無理矢理かばう。
 マコにできた準備はそのくらいだった。
 間髪入れずに森の黒色の部分から四足の生き物が飛び出してきた。
 狼。のような、体毛の束に肉を隠したフォルム。
 見る間に牙を見せる面積が増している。
 こちらに向かっている。
 一瞬で見えたのはそれだけ――(十分だ!)マコは恐怖心とか暴力への躊躇とかいろいろなものをねじ伏せて無視する心地で、自分の喉元を狙い飛び込んでくる獣に向けて、左足を一歩強く踏み込んだ。
 ざしゃりぃぃ、と、濡れた草と苔が土の粒子に擦り潰される音。
 足と連動しない背中と右腕のねじれをそのままに、
 光量の足りない中、相手の瞳の色がわかる、
 空気に触れて黒ずんだ血の色だ、
 それは認識したスピードよりも、
 速く、
 ぐっと広がり、
 角度を変え、
 むき出しのマコの喉元に、

 引きつけた。

「――やぁっ!」
 剣を振り抜く。軌道上に、重い果物を砕き割ったような手応えを残し、獣の頭部が夜闇に紛れて飛んだ。飛びかかる胴体は慣性以外の力を失った毛の塊として、マコが半身を引けば飛沫を残し雑な放物線を描き落下し、やはり黒色の下草に紛れて形がわからなくなった。
「うう……」
 光を反射させて白く浮き上がる刀身、その中頃にべったりと黒い血がこびりついている。
 それは一秒後にはがれて、ひと塊の滴になり、空中、それこそ月の方向へ上って消えた。
 脂曇りの一つもなくなった自分の剣をマコはぞっとしながら一瞥して、鞘に収める。
 止めていた息を吐いたら思いの外大きい音量になった。
「ごめんなさい、マコ」
 こちらの表情を見ていたのか、ノノモリがしょげた声音で詫びてきた。
「大丈夫、慣れてます」
「そうじゃなくて」
 ノノモリの方へ振り返ると、普段から表情薄めな眼鏡の視線をいつもより悲しげに細めて、彼女はこちらのかかと辺りを見ている。弓なりに歪めた唇を開いて「私の呪いに巻き込んでしまった。マコを……」
「気にしないでってば」
 もう何度も反復したやりとりだ。
 愛とか、ぱくついたケーキの美味しさをささやくならともかく、こういうたぐいの言葉は繰り返してもろくなことにならない。
「謝り沼にはまっちゃうぞ。底なしなんだぞ」
「え?」
「とにかく、早く道に戻ろう。まだ群れで襲われるかも」
「……うん」
 マコの手招きに、のろのろと王女は応じた。
 早足で森の中を歩き出す。
 濡れた草の音を聞きながら、マコは、昼間は乾いてたっけな、と思い出す。
 微細な飛沫が足下わずかに覗いた素肌を濡らす。
 虫の声と、草枝を踏みつけるランダムな足音と。
 それとは似て異なる森を歩いていた、昼下がりのことを、マコは思い出す。





 そう、ほんのちょっと前のこと。
 カフェを出たふたりは、真昼の眩しい日なたを避けながら、タンスの隙間のような路地裏を歩いていた。
「仕事ってなんなの? 泥さらい?」
 斜め後ろから、ノノモリがこちらの手元に握られた依頼票を覗き込もうとしている。
「肉体労働だけがお金になるとは限りませんよ」
 マコは言い返した。
「マコを見たら肉体を動かしてほしいってみんな思うかもしれないわね」
「美しいからですか? やった」
「ああ……いえ……」
 ノノモリが黙したあたりで、マコは足を止め、周囲の建物と左手の中のしわくちゃの紙片を見比べた。今朝方家政ギルドでちぎりとってきた新しいカードだったが、もはや元々の折り目がどこかわからなくなっていた。
 だがそれでも、ペン書きされた黒文字は消えていない。
 それこそがこの依頼に託された願いの強固さだというように。
 マコは読み上げた。
「区画3番地15。ノルタリ砦F号室。依頼人ハックラストベリ博士。森林での採集依頼。詳細は本人より口頭で説明――で、ここに来たってわけです」
「砦? 集合住宅に見えるけど」
 ノノモリは不思議そうな顔で、黴びたようなまだら灰色の塗り壁を見上げていた。
 煉瓦でできた四階立ての四角い建物。裏通りで手を振り回せば届きそうな反対側の建物も似たような面構えで、あれだけ目に眩しかった日差しは完全に壁と屋根に遮られている。
 日向だろうが日陰だろうが、ノノモリの言うとおりどこにでもあるアパートメントだ。
 なんで鎧戸にみんな緑色のペンキを使いたがるのだろう、とマコはどうでもいい疑問を口にして、落ち着くからじゃない、と、隣の少女からどうでもよさげな回答を受け取った。
 見れば今日のノノモリの衣装は薄桃色を帯びた膝上丈のワンピースで、本人はその色に落ち着きを奪われているようである。
 ふたりは壁に開いた殺風景な入り口に踏み込んで、湿気た階段を上り、三階の廊下に入って、薄緑に塗られた壁の中にお目当ての表札を探す。
 やがて見つけたプレートの文字を、マコとノノモリは一緒に読み上げた。
「ハックラストベリ研究室。権威の門」
 表札には本当にそう書かれていたのだ。
「ねえマコ……」
 ノノモリの声からそこはかとなく不安げな(うんざりした)気配を感じるまでもなく、マコだってちょっとした予感の働きを自覚していたところである。
 正体も知れぬ染みに覆われた扉には覗き窓もなく、部屋の様子はまったくわからない。
 ただ、なぜか沼のような泡音が聞こえる。
 プレートから滴り落ちる奇妙に鮮やかな赤錆。のたくった手書き文字。それすらもうっすらと赤く見えてきた。
(まともな依頼主なのかなあ……)
 脱脂や漂白を行うバケツ入りの劇薬を連想する、ちくちくした臭いが鼻をくすぐり始めたところで、
「笑顔です王女」マコは鼻をつまんで口の両端をねじ上げた。
「生きるためには笑顔です。相手が大鍋で大きな骨付き具材を煮るのが趣味な鉤鼻の老婆でも、愛想が良ければ生かして返してくれます。体に何かを埋め込まれてるかもしれないけど、余生は心穏やかに過ごせます。笑顔一生ふれあい家族! さあ復唱!」
「脳を十グラムくらい切除されるかもしれないわ」
「王女…………」マコは想像力豊かな方である。
「まさかね」ノノモリはこのタイミングで微笑し、「早く聞いてしまって、依頼と倫理を秤に掛けましょう」そう言って扉に設えられた鉄輪を二度軽く鳴らした。





 依頼主から話を聞いてしまえば、それは特に違法でも奇矯な依頼というわけでもなかった。
「ヘスペリデス。諸君らに採取を依頼するのはヘスペリデスである」
「へすぺり?」ノノモリの横ではマコが平坦な発声で繰り返している。
「しかり。竜座実である」
 目の前のハックラストベリ助教授は、こちらも見ずに言った。四十がらみのトーガをまとった男だ。
 訛りがきつい、とノノモリは思う。自分の耳に入った固有名詞だって正しく認識できているかどうか。
 マコも似たようなことを頭の中で考えているらしい。
「えーと、確認しますけど、森の奥にあるっていう、そのろ……へすぺりのりゅーざみを採ってくるんですよね。できれるだけたくさん」
「一個でも実測の用は足りるが、安全をとって状態の良いものを三個以上である」
「森にはまれに魔獣がいるから、家政ギルドに人手を頼んだんですよね」
「さよう」
「なんで家政ギルドに?」
「花実を摘むのに傭兵どもの不学な手を頼むわけにはいかぬ」
「ええと……、ありがとうございます」
 マコは突っ立ったままお辞儀した。さっき手渡された、目的地がペン描きされた手書きの地図ががさがさ、と鳴る。
 不自然なタイミングで部屋にいる三人ともが黙った。
 助教授の話は終わったのだろうか?
 マコは見るからに(やりづらそう)という目をしていたが、ノノモリは半心面白がりながら部屋と、部屋の主を観察していた。
 助教授と名乗った男は一刻も角度を変えない前傾姿勢で木机に向かい、真鍮の計測台で試料の寸法を測っている……ように窺えた。終始ノノモリ達に向けっぱなしになっている痩せた背中に遮られて、彼の研究(だかなんだか)ははっきり見ることはできない。
 手狭な部屋は重厚な革張りの書籍と合板のファイルと壁際に打ちつけられたフラスコ(ゴム管と液体が組み合わさり、ごぽごぽと音を立てている。今部屋の中で聞こえるのはこの気味悪い泡音だけだ)で薄暗い山が形成されていて、紙束の稜線からわずかに覗く窓の光でかろうじて部屋は橙色に照らされていた。
 木床からの照り返しを受けたマコの顔はすっかりなにかを諦めた色に染められている。橙色から土色に。目元には壁紙を映した緑青色。
(肌の色って不定だな)とノノモリが感心したときに、武装女中の少女は口を開いてうめいた。
「ええと、お給金を教えていただいてもいいでしょうか? 詳しくは対面で、と、依頼票にあったんで……」
 いや、うめきっぽい仕事の話だった。
「5アルズ銀貨は最低保証し、収穫の数量品質に応じて最大3アルズ銀貨の追加を支払うものとする」
 真鍮の歯車を指先で微細に調整しながら、助教授は呟いてきた。
「わぁ」マコが露骨な耳打ちの体勢でこちらに口を寄せて、「一日働いたら一ヶ月ごはん食べられるって感じですよ」とほがらかに笑った。
 この部屋にはわかりやすい人間ばかりいる、と、ノノモリはなんとなく思う。
 いいことだ。
(自分がなにで動いているのか分かっているっていうこと)
「わかりました! がんばらせていただきます! それじゃ」はきはきときびすを返したマコの動きを
「ひとつ、聞いて良いですか」ノノモリが呟いて止めた。
「善い質問なら」助教授が答える。
「ここはなぜ砦なんですか?」
「なに聞いてんの」マコの呆れたような声が聞こえる。
 ハックラストベリはしばらく質問を無視していたように見えたが、不意に、
「詳しくは知らん。この一帯は過去戦地であったと聞く。名残かなにか……」そう呟いて顔をこちらに向けてきた。この部屋に入って初めて彼の目を見る。
 想像していたよりも綺麗な金色をしていた。
「砦とは戦争のための構造である。倉でも壕でもない。
 加えて名前とは記憶の構造である。風化に耐えるための構造である。住人である私もまた、崩れゆく石壁を無理矢理に支える梁の一本であるのだ」





「変な人でしたね」
 太陽は昼の頂点をわずかに越えたかと思われた。最小限の面積に押し縮められた木陰を辿って、ノノモリとマコは森に刻まれた道を進んでいる。
「うん」四歩先で伸びた草を踏みつぶしているマコに向かって返事をする。
 街と森とは外壁が隔てていて、街を構成する石組みの区画を抜けると、たった十歩で視界が新緑の眩しい木立に埋め尽くされた。
 二人は殺風景な地図に殺風景に記された目印を目指している。
 ×印が重なった滝壺の記号、その上に描かれた低木のスケッチ。
 無彩色な紙と、目の前に展開された極彩色な枝葉の重なりは、頭の中でイメージを合致させるのは難しい。
「木の実がなんで研究になるんだろ?」
「さあ。ヘスペリデスは《竜の庭》を意味するはずだけれど」
「竜? おとぎ話の、でかいとかげ?」
「そう。その木はヘスペリデスの固有種で、年に一度紫色の果実をつける。竜たちの間では神様のお目こぼしとも言われる。神様に呪われたヘスペリデスの竜は、甘味の食べ物を口にすることはできない。胃が爛れ腐ってしまうの。
 だけどその実だけは、なぜか例外だった。……一時でも呪いを忘れるために、竜達は常にその木の回りに住み、果実が実るのを待っている。ゆえに竜座実とも呼ばれる」
「へええ……よく知ってますね」
 マコが素直に感心する声を上げた。
「私が知ってるわけじゃない。知識の境界線がないだけ。これは誰かが世界に残した知識なの。たぶん口伝てで」
「知識の境界線?」マコはそこで半分だけ振り返って、こちらの顔を横目で見てきた。
 遅れて、ふわふわした金髪が木漏れ日を受けながら明るく流れる。その髪はたまたま地面からまっすぐ伸びた細枝に引っかかって「――んぎゃ!」悲鳴で鳥が何匹か飛び立った。
「くそう、このっ」目を白黒させて頭を振ろうとしたマコを、あわててノノモリは手を伸ばして制止した。
「無理矢理引っ張らないの! じっとしてて」
 若枝のささくれから一房ずつ柔らかい髪束をはずして、こびりついた枝葉のかけらをはたき落としてやる。
 言われたとおりじっとしていたマコは(奇妙な角度の腕もそのまま空気に固定している)、赤くなって「めんぼくないです」と言った。
(子供)マコの真後ろでノノモリはすこし笑った。
 そのまま慎重に髪を外していく。
「知識の境界線がないとどうなるか、わかる?」
「ムダな知識か、使える知識か、わかんなくなったりするとか?」
「わりとそういう感じ」
「え、当たり? ほんと!? 大変だ」こういうときのマコは皮肉げな声をあげない。この素直さは貴重だ、とノノモリは思った。
「大変かどうかは知らない」彼女はマコの髪を梳きながら続ける。
「知識も人の輪郭をかたどる。何を知っているのか、何を知らないのか。何を知りたいのか、そして何を知りたくないのか……。衣服が人間の品位を定めるみたいに。
 不確定の呪いにより知識の境界線がぼかされると、知らなかったはずのことを知ることになる。それは、他の誰かがかつて、知っていたこと。世界に傷みたいに残されてる知識……口伝でも、書籍でも、石版に刻まれた楔文字でも、言語が司る個人の知識の範囲がどこまでも不定になる。私の言うことは全部、それらを参照してる」
「ふーん……?」と言っていたマコが、不意に、びっくりしたように振り向いて横目でこちらを見た。
「それってなんでも知ってるってこと? すごい、呪いも役に立つじゃん」まるで、そのへんの枝で高いところにあるものが取れました、みたいな声音で言ってくる。
 もうだいたい、髪は森から引きはがされていた。
 ノノモリは最後の一束に取りかかりながら、「そのかわり」話を続ける。
「世界に残されなかった知識は、私は何も知らない。たとえば手すりの傷。たとえば雨がいつ降ったのか。洗濯物をどこに干したのか。母親の得意な料理がなんだったのか。お茶の匂い。私が好きな場所がどういう光景だったのか……個人を規定する知識」
「思い出?」
「そう。そうね。思い出がないのか」
(それを寂しがるにも、個人的な記憶がなければ、当て推量だけが宙に浮いているようなものだ)
 ノノモリはそう思って、いつのまにか強ばっていた頬の緊張を抜いた。
 マコが一瞬唇を開いたのが見えたが、
「…………」
 探した言葉を見つけそこねたのか、そのまま黙ってこちらの足下に視線を落とした。
 尻尾を見ているな、とノノモリは思った。
 枝から最後の一房がはずれる。
「すいません」まだちょっと耳を赤くしながら、マコが頭を下げる礼をした。
 枝のそばで五分くらいとどまっていたことになる。二人はまた森の奥へ進み始めた。
 草葉を蹴る音と、どこからか延びて密集した細い根を踏みしめる音と、ときおり微細な砂利がこすれる音。
 かろうじて道らしきスペースが確保されているが、夏草の生命力が人跡を覆い尽くしかけている道を、二人は歩く。
「あ、そだ、王女」
 しばらくしてマコが聞いてきた。
「私が子供の時、日記に何書いてたか、とか知ってます?」
「え?」
「茶色い表紙で、押し花挟んでるやつなんですけど」
「いえ……んー……」
 考えたこともなかった。
 唸りながら考えてはみたが、能動的に「知識」に触れることはできないみたいで、何も思い浮かばないし、なにも思い出せない。
 そう答えると、先を歩いていたマコはほーっと息をついて、
「たすかった……。歌詞書いてたんだ、あれ見られたら破滅だ」とうめいた。
「どんな歌詞?」
「あ……、いや! 忘れて! 口滑っちゃったよ」
 ぶんぶん手まで振り回してマコが制止してきたので、ノノモリは素直に引き下がった。そのかわり、
(どんな日記だったんだろう)
 慌てたように、獣道を踏み分けて先へ急ぎだした、武装した女中姿の女の子が一人で日記を書いている様子を想像する。子供の時から同じ格好だったということはあるまいが。
「何の話だったかしら。研究の話題だった気がするけど」
「そんなことより、ちょっと急ぎましょう、王女」
 マコがずいぶん先で剣を振り回して、細道を塞いでいた手首ほどある太さの草を切り倒しながら言ってきた。
「日が傾く前に仕事しなきゃ、熊とか魔獣が出ます」
 ノノモリは「うん」うなずいた。
「この辺りに分布している夜行肉食獣は血飲み狼とノールストリック茸蟹。どちらも群れて狩りをするから出くわしたら逃げにくいわね。春頃だったらハマカゲスの胎卵期で親個体が徘徊していたかもしれないけど、今は大丈夫」
「……。ほんとに変なこと知ってるなあ」
「知りたいことに限って知れないのだけどね」
 自分が反射的に口をついたフレーズに、少し考え込んでしまう。
(知りたいこと)
 眼鏡のレンズに小さい羽虫が止まったことに気づく。
 焦点がずれて一瞬視界がかすむ。
(知りたいこと……って、なんだ)
 それこそ知りようがない。
 世界に刻まれたことのない知識は、いかに自身の枠が揺らごうが、得る術がない。
 ノノモリは軽く首を振って、虫を払い落とした。虫はたちまち濃い緑色に溶けて消える。
「わかったわ、急ぐ」
 口を閉ざし話を切り上げて(背の高い草むらに風が遮られて、蒸した暑さに疲労していたこともある)、ノノモリはマコに近づこうと小走りになった。
 マコが体半分振り向いて、「王女」声をかけてくる。
「足下危ないとこは言いますから、注意して付いてきてくだわっ!?」

 そこでマコが消えた。
 目を見開く。
 下に飲み込まれた。
 羽虫のような速度で森の緑色に消えた。

「――マコ!?」





 落ちている。
 足下を滑らせて、そこからまっさかさまに落ちている。
 低木と草がはびこる泥の急斜面を滑落している。
「うっわわわわわわああぁっ――っ」
 反射的に絞り出された悲鳴を飲み込んで(落ち着け少しでも落ち着けっ)マコは状況を把握しようと首を回しかけたが、
「んぎゃっ!」側頭からしたたかに、枝か何かが激突してきたので、マコの視界には星しか見えなくなった。いや星じゃない。光とめまぐるしい影のフォルム。泥の飛沫。
 こらえようと地面に押しつけた足はあえなく滑る泥と濡れた木の根にはじかれる。手を伸ばして地面近くに延びる枝をつかんでも、速度を増して滑落する人間一人の重量を保持することはできず、掴んだそばからちぎれ飛んでいく。葉っぱが爆発するように四散して口の中に入ってくる。気持ち悪い。
(止まんない)マコは認めた。
 そこまでが一瞬だった。びっくりするくらい一瞬で、マコの体は移動し、
「マコ!」
 一瞬の終わりを第三者の声が告げる。
 時間の早さが元に戻った。
 はるか遠くからノノモリの声が聞こえた。
 どうして、森のど真ん中に、こんな坂が……
(そうだ)
 落ち続ける頭でぞっとする。そうだ。マコたちは滝を目指していた。
(この森には沢がある)
 脳裏でマコがそう言ったのと同時に視界が真っ白に塗りつぶされる。耳をつんざく爆音が擦過音が、手品のように優しい風音にすり替わる。
 茂みを突破した。目の前には、微細な鋸模様に彩られた緑色の山々。
(山々だって?)
 近くには木も枝も草も、斜面も見えない。遮蔽物もなにもなく、唐突に一キロ先の遠景が目に飛び込んだ。
「――マジでっ」
 言ってからすぐ、自分は悟ったのだ、とわかった。
 何を悟ったのかわかってもない。
 わかってもないはずだ。
 何かいろいろ突起した地面の感触が、お尻の下から、ぶつりと失せる。
 金髪が風をはらむ。
 さっきノノモリに梳いてもらった長めの巻き毛。
 マコは空中に投げ出されていた。

 足の間には麻紐のようにささくれた細い激流。冗談みたいに細かい岩石の粒。その一つ一つが、近くで見ればマコよりも大きいはず。
 数十メートルの上空に体が投げ出されれば、あとは落下して、クルミみたいに全部の骨が砕き割れるだけだ。
(冗談でしょ)
 何の冗談だというのだ。
 ノノモリの声が聞こえる。
 何事かを叫んでいる。
 体の平衡が崩れる。
 一瞬で天地が溶ける。
 空が青色のタイル地に見える。
 岩粒の銀河に吸い込まれる。
 マコの体が落ちる。
「冗談で死ぬかっ――!」
 言い終わる前に死んでるな、と悟ったのは自覚できた。

 …………

 頬を小石が叩いた。
「あいてっ」
 小石はマコの腿の横を通り過ぎて落ちていく。
 マコのはるか下、青いタイル地の床に吸い込まれて、小石はすぐに大気色にかすんで消えた。自分もすぐ、そっちに……
「あれ?」
 マコは首をぐるりと回して辺りを見た。
 斜面から投げ出されたみっともない体勢のままで、マコの体は空中にとどまっている。
(止まってる?)
 さらに目を動かすと、はるか眼下に岩だらけの渓流が遠い水音を響かせて、マコはぞっとした……(あれ? なんか変じゃない?)
 変と言えば一番変な自身のことはいったん忘れて、水流へと目を凝らす。視力の良さには自信があった。
 水面を流れる黄緑の木の葉が動いている。上流へと動いている。産卵期の河魚のように遡上している。
(なんだ?)
 まるで水自体が、岩の斜面をむりやりさかのぼっているような……
 と思ったところで、身体が引き上げられた。
 腰を剣帯ごと大きな手で持ち上げられた、と錯覚したが、
「うわわわわっわわわわっ!?」錯覚かどうかの確証もない。マコは悲鳴をあげて四肢をばたつかせた。
 落ちたときよりもさらにみっともない、逆さ吊りのような体勢で(不安定なスカートの裾を本能的に左手で押さえた)、マコはなすすべもなく来た方向へ向けて吹き飛んでいく。来たときと同じ落下速度で。
「んぎゃ!」
 斜面に肩胛骨が激突した。そのまま、がりがりと身体が坂の上に引き上げられていく。背中の方向へ。マコの身体は低木の茂みを強引な角度で粉砕して、さっきと同じく泥と葉っぱの破片が口の中に入ってくる。苦い。
 わけのわからないまま、このあたりでマコは理解しがたい現状を無理矢理頭でかみ砕いた。
(上に落ちてる)それも(落ちたのと全く逆方向に落ちてるんだ)
 マコは一度まばたきした。妙に橙色を帯びた木漏れ日が瞳に残像を焼き付けた。
(このままだとどうなる?)
 来たところに戻るのはいい。
 だけど、もしそのまま落ち続けたとしたら。
 速度は茂みの抵抗でゆるまる気配がなかった。むしろ加速している。落ちているのだから当然。
(斜め上の空に落っこちるかも!)
 これこそ、まさに、
「冗談!」
 叫んだ。マコは背中を斜面にすり付け続けられながらも、身体を無理矢理ひねって左の踵を地面に押しつけた。わずかに落下の軌道を逸らすため。
 そして、背中に回された剣帯と鞘と柄に少しでも空隙を作るためだ。
 脇目に、茂みの出口が見えた。実際はろくに見えてもいない。予感しただけ。
 さっきまでマコが立っていた森。
 ノノモリの黒い耳も見えた気がする。
 マコは思い出していた。確か、滑落の直前、
(私、でっかい木にもたれようとした……!)
 その木は確認できない。もう、光景が把握できないくらいの高速で、マコの身体は滑り登り続けている。
 背中の下からわずかに剣の柄がのぞいた(これは見なくてもわかる)。マコは力ずくに剣を抜きはなった。柄を握る右手に低木がぶつかり、骨がしびれを伝播する。それでも離さない。折れていない、と自分の脳に言い聞かせる。
「マコ!」
 ノノモリの悲鳴が聞こえる。
 斜面が途切れ、茂みがなくなる。
 地面から身体が一センチ浮く。
 マコは抵抗のない空中で激しく身体をひねった。
「――りゃあっ!」
 ねじった力を逆に爆発させて、手に握った剣を身体の反対側に振り回す。
(当たれっ)と念じたと同時、刃先は爆音を立てて堅いものに突き立った。
 大木の幹に、深く。
 身体が落下軌道のまま、橙色の太陽が輝く斜めの空へと引き込まれる。身体が一直線に伸びる。全力で剣を握った手のひらと、上腕と肩と腰骨に衝撃が走る。続いて首もとにがくんと衝撃と痛み。流れる視界が急激に止まった。
 マコ自身の目から見ると、大木に突き立った自分の剣一本にぶら下がっているようで……
「マコ! そのまま!」
 ノノモリだ。びっくりするほど顔が近い。ちょうど、斜め上にぶら下がっている自分(コウモリみたいだ)の顔の高さが、猫耳少女がかぶっている王冠と一緒だった。
「今下ろすから」
 ノノモリは腕を回して慎重にこちらの上半身を抱きかかえて、「手を離して」と言った。
「だだだ大丈夫ですか?」口を開いたマコはろれつが回っていなかった。葉っぱと砂利を吹き出しながら「落ちない? わたし王女より重いですよ1トンくらい重いですよ今たぶん」と言う。
「大丈夫……」
(震えながら言うことないのに)とマコは思った。
 肩越しに触れるノノモリの胸から微細な振動が伝わってくる。
(なんで不安?)
 その振動で、マコは逆に落ち着いた。「……剣、離しますよ」柄から手を離すと、羽毛のような不自然な柔らかさでマコの身体は――ちゃんと地面に向かって――落ちた。
「うわわ」手をばたばたさせて着地する。
 地面に足を着けると、普段通りの自分の身体の重みを感じた。(案外重かったんだな)1トンということはないだろうが。マコは、長い長い息を付いた。
「…………助かった??? なんなんだったんだろ。私、どうしたんでしょう?」
「ごめんなさい」
 いつの間にか三歩離れていたノノモリがつぶやいた。
 そちらを見ると、彼女は足下に視線を固定したまま、
「呪いが……。不定の呪いが時間の境界を壊してしまった」
 そのときマコは、ノノモリが見ていたものがなにかを探ろうとして、同じ地面を見ていた。
 木漏れ日を切り取る足下の影。土になりかけた落ち葉を塗りつぶす橙色の西日。
 西日?
「さっきまで真昼だったのに」
「光の角度が違う。それは朝日」
「へ?」
 マコが顔を上げると、ノノモリは血の気の引いた顔でこちらを見ている。
「私達は今、逆回りの時間に巻き込まれてる」
 まるでなにもわからない。
 けれど……
 足下の光がいつのまにか消え、のっぺりとした青灰色の影に置き変わっていたのに気づき、マコの頭の中にろくでもない予感はつのっていく。





 虫が鳴き始めた。
「日が沈んじゃった……」
 さっき突き刺した剣が思ったよりもしっかり木に食い込んでいて、マコがうんうん言いながら引き抜こうと悪戦苦闘していると、
「朝より前に巻き戻されたのね」ノノモリが現実感のないことを言い出した。
「どーいうことなんですか!?」
「マコ、時間の境界について話したわよね」
「……しましたっけ」
「時間はそれぞれの視点から観測するしかない一本の物差し。鉱石にとってみれば物差しには無限の刻みがあり、鼠にとっては飛び石のようなまばらな目盛りしかない。でも、必ず一直線に、固定された方向に進む。この目盛りはいろいろな形を取る。老いも天候も落下も水流も時間を規定している。それが存在を取り巻く時間の境界。――不定の呪いが時間に干渉すると、物差しが裏返ってしまう。観測される時間の方向がすべて逆に流れ出す」
「えーと……つまりだ……」マコはようやく抜けかけた剣を左右に動かしながら、頭の中で単語をつまみ食いしていた。
「とりあえず、私、王女の呪いのおかげで死なずにすんだってことか」
「え」
 さっきまで淡々と言葉を紡いでいたノノモリの口が、つまづくようにもごもごした。
「そうかもしれないけど……でも……」
 彼女が自責しているのはマコには分かっていたが、分かっているだけに、
(この子に付き合うなら、責めるのはなしだ)
 私のお人好しめ。マコは少し苦笑して「ありがと」と礼を言った。
 剣が抜けた。刃先に欠けがないことを確認して、鞘に納める。
「マコ……」
 ノノモリが一歩近づく、朽ちた松葉を踏みしめる音。

 狼が鳴いた。

「え」「え?」二人同時に聞きとがめた。
「狼?」「狼」二人は最小限の動きでうなずきを交わした。
 気づくと、定期的な速いリズムで地面を叩く足音が聞こえている。虫の音が止まっている。暗い森の音が獣の息遣いに入れ替わっている。
(気づくんじゃなかった)マコは剣の柄から手を離すかどうか躊躇する。
「ろくでもないことがどうしようもないくらい溜まってから、気が付くんだ。決まって……」
 右手を柄から離す。
「マコ、私さっき、この森に狼が出るって言った?」
 肝心な所では決まって自信なさげなのだ、この子は。
「言った」マコは返事する。
「そう……」申し訳なさげにつぶやくノノモリの手を無理矢理左手で引っ張り、マコは道を駆け出す。
 獣の足音は道の垂直方向、森の木々の奥からだ。
 ノノモリだって分かってないということはないだろうが、マコは叫ぶ。
「とにかく逃げよう!」
 わずかに青白い木漏れ日が、走る速度に合わせて激しく溶ける。
 半分振り返ると、必死な無表情でついてくるノノモリの頭上で、ティアラが同じ色のハイライトを散らしている。
 光源の正体をマコは考えないようにした。ろくでもないことを自覚してもしなくても、溜まるのは一緒だ。それならせめて気付かない方がいい。


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